和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

はじめての宮澤賢治童話

2023-06-30 | 他生の縁
はい。漫画とテレビで育ったせいで、
とんと童話など読まずに育ちました。

ですから、宮沢賢治といえば、ますむら・ひろしの漫画で
猫たちの宮沢賢治童話集はパラパラとひらきましたが、
それでも、直接に賢治の童話集は読まずに、この年となりました。

アニメ映画『銀河鉄道の夜』は、細野晴臣の音楽が印象深かった。
宮澤賢治の詩『永訣の朝』は、国語の教科書で知りました。その程度です。

はい。そんな程度の「袖触れ会うも」体験の私の宮沢賢治であります。
この年になって、宮沢賢治の童話を、読みはじめようと思うたのしみ。

宮澤賢治を山にたとえるならば、その山への水先案内人は
なんだか、大勢みつかりそうです。ということで、はじまりの宮沢賢治は、
いろいろな方の賢治体験を読めば、はじめのとっかかりがつかめそうです。

ということで、まず、ひっかかったのが梅原猛の賢治論でした。

梅原猛氏は、宮沢賢治の童話と詩とを天秤にかけておりました。

「 その意味で賢治の童話は、賢治の詩よりも一層詩的なのである。 」(p16)

「しかし、詩は童話よりはるかに難解である。正直に言えば、
 私(梅原)には賢治の『春と修羅』における詩の三分の二はよくわからない。
 童話の中にもわからないものはないわけではないけれど、
 しかしそれは主に未定稿のものであり、その意味では
 編集の段階で何か疑問があると思われるものが多い。
 一応完成したと思われる彼の童話は私にはほぼ理解できるのである。

 そして、童話を読むごとに私は改めてその童話のもっている深い意味に
 気がつくのである。賢治ほど私に言葉のもっている深い意味を教えて
 くれる詩人はいない。・・ 」
      ( p16~17 「賢治の宇宙」佼成出版社・1985年 )


はい。私などはこれで登山の入り口がはっきりした気分になります。
宮澤賢治の山脈があるのなら、賢治の詩の山をこの際、度外視して、
まずは宮沢賢治の童話の山から登頂をはじめれば展望がひらけそう。

はい。お笑いください。70歳からの手習い。
何だか、遠足の前日のソワソワ感でもって、
いまだ、賢治童話を読んでいないのでした。

ということで、まずは『注文の多い料理店』(新潮文庫)を古本で注文。
はい。これが届く前にここはもうすこし梅原猛氏の文を引用することに。

「 賢治が生前発表した唯一の童話集は『注文の多い料理店』である。
  ここに・・九つの童話が収録されている。・・・

  この賢治が生前自ら発行した唯一の童話集は、
  無視されがちであり、多くの全集ではそれがばらばらに配列されている。

  小倉豊文氏がいうように、これは賢治理解にとってまちがったことであり、
  やはり賢治が自らつくった童話集はその順で読まれ、
  ゆっくり味わわなくてはならないと私は思う。・・・ 」

 このあとに、梅原氏は、『注文の多い料理店』の序文を引用して
 そのあとに、こう語っておりました。

「 賢治の言うとおり、その童話には作りごとがないのである。
  無理な構成とか奇矯な修飾は賢治の童話にはまったくない。 」
 
 そして、『注文の多い料理店』の序文から、この箇所を引用しています。

「 それは賢治の言うとおりに、

 『 かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、
   11月の山の風のなかに、ふるへながら立って 』いたりしたときに、

  自然に浮かんできた心象風景にちがいないのである。 」(~p21)



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タケノコ飯・おでん・まんじゅう。

2023-06-21 | 他生の縁
古本で、森浩一著「食った記録」(sure・2005年)を手にしました。
「喜寿記念特別出版」とあります。

あれれ、ここにも、司馬遼太郎・須田剋太画伯がおりました。(p28∼30)

「四川省のあと雲南省に滞在し、昆明から上海へ飛んだ。
 1981年のこの回の旅は、最初に江南の各地を見てまわったので、
 旨いといってもぼつぼつ中国料理に飽きかけていた。

 それに機内では暇だったので、ぼくが
 『今、ものすごく食べたい日本食はなんですか。一点ずつ記入してください』
 のメモをまわした(口絵参照)。

 すると一番に司馬さんは青いボールペンで『タケノコ飯』と書かれた。
 ・・・・因みに、ぼくはこの時、『おでん』と書いた。

 同行の須田剋太画伯は『まんじゅう』。
 須田さんは服のポケットにエンピツやケシゴムとともに
 無造作に饅頭がほおりこまれているのに驚いたことがある。

 司馬さんはタケノコ飯がすごく好きだった。・・・・

 司馬さんは偏食とはいえ、このように好きなものをはっきり主張される。
 そのことが清張さんと違っていた。

 『街道をゆく』の『中国・蜀と雲南のみち』で、
  竹内叔雄の『竹の本』のなかの焼筍の作り方を引用している。

  そのあと『こういうものは現実に食べるのはおろか、読んで想像するほうがいい。
  想像するだけであふれるような味覚を感じてしまう』。と述べておられる。

  人間の胃袋には限りがある。
  ぼくには不可能なことだが、想像で食べて満足する。・・・

  ぼくは2001年の暮れに急に入院する破目となり、
  それから医学的には『病人』扱いである。
  強がっていても、意図的に食物の量をへらしたり・・・

  でも今もっとも食べたいもの(気分だけであっても)はある。・・・」

はい。こうして食にまつわる、ご自身のさまざまな本からの抜粋で
なりたっている一冊なのでした。本文イラストも森浩一。

ちなみに、私はこの引用した箇所だけでもう満腹(笑)。
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御存知、安野光雅画伯。

2023-05-06 | 他生の縁
安野光雅の楽しさを知ったのは、当ブログをはじめてからでした。
それまでは、何の気なしの空気みたいなものでした。

安野さんの本を、少しづつ、古本で集める楽しみ。
最近は、高峰秀子著「にんげんのおへそ」(文芸春秋・平成10年)が
古本で200円なので買いました。そのあとがきを引用。

「・・装丁は、私が常日頃から敬愛する御存知、安野光雅画伯です。
 原稿の校正が終り、一日千秋のおもいで待ちこがれていた私のもとへ、
 ようやく、表紙絵と題字のコピーが到着しました。・・・・

 表紙の絵は、ごらんのように、こよなく愛らしいピエロの勢ぞろいです。
 その表紙絵に、老眼鏡の目玉をくっつけて、じっと見入っていた
 私の夫・ドッコイが呼びました。

 『 いたぞ、いたぞ、ここにホラ、お前さんがいる! 』

 夫が指さしたのは、最下段の、向かって左端の青い帽子のピエロでした。

 『 なんでこれが私なのよ 』

 『 ちょいと口をヒン曲げてさ、へそ曲がりのお前そっくりじゃないか 』

 ・・・そうおもって眺めまわすと、どのピエロの顔も、
 どこかで見たような気がしてくるからふしぎです。

 読者のみなさんも、このピエロたちの中に、御家族、お友だち、
 あの人、この人をみつけて楽しんでください。・・・  」(p194~195)


そして、つぎにパラリとひろげたのは
安野光雅の『皇后美智子さまのうた』(朝日新聞出版・2014年)
こちらは、新品のような古本で送料とも301円。

こちらに、高峰秀子が出てくる箇所がありました(p70)。

そのページのはじめに、美智子さまのうたがありました。

「  ことば…平成4年

  言の葉となりて我よりいでざりしあまたの思ひ今いとほしむ


    これは、もしや失語症のことではあるまいな、と思う。
    高峰秀子が病気になったとき、夫の松山善三が

   『 失語症になっちゃってさあ 』と電話をくれたことがある。
    電話をくれたくせに
   『 いま代わるから 』といってすぐ秀子女史に代わったが、
   その後の様子から判断して、秀子さんは
   よほど具合がよくなかったのかもしれない。
   でも秀子さんは話ができ、そして先に逝った。
   善三さんはいまもあまりしゃべらない。

   皇后美智子さまが失語症になられた、
   という報道を読んだことがある。
   失語症といってもいろいろあるらしいが、ひらたくいうと
   ストレスがたまるとこれにかかる場合があるらしい。

   ・・・ありすぎるのかもしれない、だから失語症になられたのだ。
   くわしいことはわからないが、わたしたちとしては、
   ご苦労をおかけしたくないと祈るだけだ。     」

はい。これが本をひらいた右側にある文で、
その左側は、安野さんの淡い「アカバナマンサク」の枝・花の絵。


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塩みたいなもの。

2023-04-29 | 他生の縁
司馬遼太郎の追悼文では、多田道太郎氏の
「司馬遼太郎の『透きとおったおかしみ』」が印象に残っていました。

そこに、わかったようなわからない箇所がありました。

「何かの名誉を受けられたとき、彼の車にたまたま同乗させてもらったら、
 こんなことがありました。梅田駅まで行く途中で風景も覚えているんですが、

 『 司馬さん、このたびはおめでとう 』と言ったら
 『 いやいや、ありがとう。ありがとう。だけど・・・ 』。

 その後が非常に印象的なんです。手の平を出して、

 『 この上に一粒か二粒ぐらいの塩みたいなものがある。
   これがなくなったときは・・・あるいは芸術家として、しまいや 』

 と、その自覚のある人でした。   」
 ( p158~159 三浦浩編「レクイエム司馬遼太郎」講談社・1996年 )

この『塩みたいなもの』というのが印象的なのですが、
なんだか、モヤモヤしていてわからなかった。

今思うのですが、それって、豆腐を固めるニガリのことじゃないのか?

いまだに、言葉にならずに、モヤモヤして空気に漂っている、
それをどのようにして固めて言葉にして出せるのか?

それを凝固させるニガリのことを『 塩みたいなもの 』と
言ったんじゃないか?

たとえばです。今めくっているバーバラ・ルーシュさんの中世でいえば、

『わたくしの考えでは、日本人の国民性は室町時代の小説のなかに、
 いちばんはっきりとした形で現れていると思われる。・・』(p105~106)


こう指摘する『国民性』について、バーバラさんは語ります。

「・・日本の中世小説をアメリカの大学院の学生に読ませたときの
 反応を披露したいと思う。彼らは、物語が終わりに近づくまで、
 ときには深く感動し、結構楽しみながら読む。

 しかし、物語が終わりに近づくにつれて態度が急に変化し、
 読み終わるや否や怒り出すのである。

 なぜ、この主人公はああしなかったのか、
 あんなに苦しんで努力したのに、なぜ最後に運命に身を委ねたのか、

 なぜ最後まで自分に忠実であろうとしなかったのか、
 というような質問を発し、物語の終わり方に納得しようとしない。

 こうした反応を目の当りにするたびに、
 わたしはいつも国民性の違い・・を痛感する。・・ 」(p105)


それでは、この場合のニガリは、どこにあるのか?
うん。よくわからないけれど、たとえば、こんな箇所が思い浮かぶ。

「 結局のところ、中世文学の中心的な原動力は
  運命であり、野心ではなかった。

  つまり、室町文学の神髄は
  時代にふさわしい秩序の回復であり、
  下剋上ではなかった。        」 (p148)

( 以上は、バーバラ・ルーシュ著「もう一つの中世像」思文閣出版より )

 







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そらええなあ。そのときはぼく。

2023-01-25 | 他生の縁
「知的生産の技術」に、登場するキツネ。
ということをとりあげてみます。

まずは、『知的生産の技術』から、この箇所。

「ある作家の作品のなかに、只棹埋男(たださおうめお)翁という
 老学者がでてきて、おどろいたことがある。その老人は、

 しめきりがきても文章ができあがらないので、
 たいへんくるしむのだが、夜中になると、
 とつぜんにキツネがやってきて、とりつく、
 すると、たちまちにして文章ができあがる、というのである。

 じっさい、くるしまぎれに、キツネつきみたいな状態になって、
 無我夢中でかきあげてしまうことがおおい。・・・ 」( p199 )


はい。どのような状態なのだろうなあ、と思っていた、わたしに
思い浮かんできたのは、大村はまさんの『仏様の指』の話でした。
あらためて、とりだしてみます。

『 仏様がある時、道ばたに立っていらっしゃると、
  一人の男が荷物をいっぱい積んだ車を引いて通りかかった。

  そこはたいへんなぬかるみであった。
  車は、そのぬかるみにはまってしまって、
  男は懸命に引くけれども、車は動こうともしない。

  男は汗びっしょりになって苦しんでいる。
  いつまでたっても、どうしても車は抜けない。

  その時、仏様はしばらく男のようすを見ていらしたが、
  ちょっと指でその車におふれになった。その瞬間、

  車はすっとぬかるみから抜けて、からからと
  男はひいていってしまった。  』      

  ( p156 大村はま著「新編教えるということ」ちくま学芸文庫 )


この『仏様の指』のお話と、
キツネつきを語る梅棹忠夫。

藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」(講談社・1984年)。
その第三章「知的生産の奥義」に、具体的な場面が散りばめられてました。

そこを飛び飛びに引用してみることに。

「 新しいシステムを採用することと、
  原稿の生産性があがることとは、別の問題である。

  ・・・『遅筆の梅棹さん』の評判は、わたしなどが
  くる前から、知る人ぞ知る、有名な事実だったのである。

  先生が原稿を執筆されるのは、自宅の書斎である。
  だから、わたしは、執筆中の先生の姿を見たことはない。

  ただ、たいへん苦しい思いをなさるらしいことは、
  しめきりのぎりぎりのところにくると、
  よく脈が結滞して医者にかかられることからも、察せられた。 」(p238)


うん。こういう具体例が多い第三章なので、続けます。

「予定どおり原稿ができなくて四苦八苦しているとき、先生はよく

 『 原稿というもんはキツネがついてくれないとできんもんでな 』

 といわれる。

  『 そんなバカなこと、ウソでしょ。
    しめきりにまにあわないことを、
    キツネのせいにするなんてずるい  』

 たのまれた原稿なんてかいたことのないわたしは
 先生の言い分を否定した。それでも先生は、

 『 いや、やっぱりキツネがつくのやで。
   原稿用紙を前に、うんうんうなったって、かけんときはかけん。

   それがあるとき突然かわる。いままで苦しんでいたのが
   ウソみたいに、文章がでけてくる。かけだしたら早い。・・・

   どこでどうなってそうなるのか、自分でもわからんけど、
   とにかくできるときはすっとでけてしまう。
  
   不思議というか、なんというか、これは
   キツネがついたとしかいいようがないなあ 』

  まじめな先生が、ほんとにまじめな顔をしてキツネ説を主張される。 」

        ( p224 藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」 )

うん。ここはさらに、つづけていきます。

「 めったにないことだが、いろいろと悪条件が重なると、
  先生はきょうのようなむずかしい顔つきになる。

  たいていは、原稿の執筆が思うようにすすまない、
  疲れがたまって体の調子が悪くなる、
  
  前の仕事がすまないうちにあとの約束が追いかけてきて
  二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくなる・・・と、
  こんな悪循環がかさなってしまったときである。

  原因は、すべて自分にあるのだからどうしようもない。
  短気な人なら、まわりの者にあたりちらすところだが、
  自制心の強い先生は、内にぎゅっとおさえて、
  この窮地を脱出すべく、苦しみに耐えている。・・・・  」


これは、あの場面でしょうか?

 「 ・・・・そこはたいへんなぬかるみであった。
   車は、そのぬかるみにはまってしまって、
   男は懸命に引くけれども、車は動こうともしない。
   男は汗びっしょりになって苦しんでいる。

   いつまでたっても、どうしても車は抜けない。・・・  」


はい。最後に、こちらも引用して終わります。

「 はいってきたのは、小松左京さんだった。
  今夜の集まりのメンバーのひとりである小松さんは、
  ロンドの会員でもあり、京都で仕事があるときは、
  ちょくちょく研究室をのぞかれる。きょうも少し早目に
  きて、先生をさそって会場へいくおつもりらしい。・・・・

  小松さんがはいられると、声は一段と高くなり、
  にぎやかになった。いつのまにか、梅棹先生の
  原稿ができあがらないことが、みなさんに知れてしまった。小松さんが、

 『 いっぺん、みんなでシンポジウムせないかんなあ。
  【 「知的生産の技術について」の筆者に原稿をかかせるキツネについて 】
      といテーマはどうやろ』といいだした。

 『 そらええなあ。そのときはぼく、一番前にいてきかしてもらいます 』と先生。     
     ・・・・・・    」
             ( p231 第三章「知的生産の奥義」 )




 




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英文科と園芸科。

2023-01-07 | 他生の縁
平川祐弘の「英語塾と予備校の過去と現在」と題する文。
産経新聞のオピニオン(2022年12月27日)のなかに

気になる箇所があるのでした。

「 河井道(1877~1953)が米国留学から帰国して、
  50過ぎで創立したキリスト教主義の英語塾だが、
  後に女子農業専門学校として寮生活をさせた。 」

「 娘は神奈川県伊勢原市にあった園芸科の寮で暮らし
  ・・・・惜しいことに園芸科は廃止された。   」

ここに、英語塾と女子農業専門学校とあり、
伊勢原市にあった園芸科ともあるのでした。

ネット検索で、その園芸科の推移がうかがえます。

1943年 高等部に園芸科を増設。

1945年 恵泉女子農芸専門学校設置認可
1947年 名称を恵泉女学園専門学校と変更し、
    農芸科及び英文科設置
     ・・・
1950年 短期大学 英文科、園芸科開学
1965年 短期大学園芸生活科 伊勢原へ移転
1986年 短期大学英文科   多摩に移転

2005年 恵泉女学園園芸短期大学を廃止

 はい。これで園芸科とは縁が切れたのかと思いきや

『 2013年 大学人間社会部 社会園芸学科開設 』とあるのでした。


なんだか。英文科と園芸科という取り合わせが気になりまして、
もうすこし河井道を辿ってみたくなります。

ということで、古本で注文したのが

 河井道著「わたしのランターン」(恵泉女学園・2011年翻訳)
 河井道著「『恵泉』巻頭言集」(恵泉女学園・1999年)

英文科は度外視して、私には園芸科が気になります。
はい。英文科と園芸科との結びつきも気になります。
それに焦点があえば、輪郭がはっきりしてくるかも。
はい。なんだか楽しみ。河井道と園芸科のつながり。



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孫悟空と如来の掌(てのひら)。

2022-04-29 | 他生の縁
私にとって、今年が俳諧記念日。
うん。思いうかぶこと書きます。

ちっとも読んだこともないのに、
孫悟空と如来の掌が浮かびます。
うん。その場面を引用するのに、
小杉未醒著「新釈絵本西遊記」
(中公文庫)をひらいてみる。

『・・そうか、さらば試みに我が掌(たなぞこ)の上に来て、
 掌から外へ来てみい、出得たなら・・・』

悟空心中に嘲笑(あざわら)って、
如来の掌に跳り上り、一気に
觔斗雲(きんとうん)を放って飛び去った。
まさに十万八千里を飛ぶと、

前面に五ツの赤柱が立って居る、その真中の柱へ、
斉天大聖此処に一遊すと書いて、
又十万八千里を飛び帰って

如来の掌の上へ来た。
大威張りで見廻すと、驚く可し
(斉天大聖此処に一遊す)は、
ツイ足の下の中指に書いてある。

呆れ怕(おそ)れて逃げんとするを
逃がしもあえず、如来は掌に摑んだまま・・・」
         ( p42 )

はい。どう思いうかべようとも、そこは俳諧の掌。
ということで、寺田寅彦も夏目漱石も正岡子規も、
丸谷才一も菊池寛も柳田国男もどなたも俳諧の掌。
これならお気楽に楽しくブログ更新できそうです。


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夢と古本。

2018-12-06 | 他生の縁
数がまとまると、送料無料となる
古本屋さんへと、注文を出していたのが、
昨日届く。
うん。もっている本も、
もう一冊持っていてもいいかな。
そう思う本なら、送料無料の数合わせに
つい買ってしまいます(笑)。

今回の「もう一冊」は
河合隼雄著「おはなしおはなし」(朝日新聞社)でした。
新聞連載された随筆の、はじまりの一篇の最初を引用。

「『おはなしおはなし』はアフリカの中央部に住む
フルベの人たちの昔話のはじまりの言葉である。
随筆を遠藤周作さんから受けつぐことになり、荷が重いな
と思ったが、性来の『はなし好き』なので気楽に
『おはなし』するようなつもりでお引き受けすることになった。

心理療法家として、私は心の深層を知る上で、
夢を大切にしている。
鎌倉時代の名僧明恵は、生涯にわたって
自分の夢を記録したことで有名である。
彼の残した『夢記』を読んで、
彼の自己洞察の深さと、それを実生活に生かしてゆく
倫理性の高さに私は感動し、
彼を心の師と仰ぐほどになった。
・・・・」

はい。結局、送料無料のために12冊の古本を
まとめて購入し、それがミカン箱に入って
昨日届きました。3000円以上が送料無料の古本屋です。


ちょうど、その中に、
「明恵上人没後750年 高山寺展」(主催京都国立博物館ほか。1981)
がありました。
ぱらりとひらくとはじまりに
林屋辰三郎氏が、鳥獣人物戯画から書き起しております。
そのはじまりも引用。

「高山寺と云うと、鳥獣人物戯画(鳥獣戯画)の全四巻が
まず想い起される。・・・そしてこの戯画が、
高山寺の所有となった経路は、
平安末期から鎌倉初期にかけて高野山西谷月上院の僧であった
賢観房玄証が図像の製作と集成に大いに活躍し、
その遺作が古く高野山から高山寺へ移されていた・・・」

うん。ここおもしろそうなので、もう少し引用。

「この戯画甲巻の主人公といえば、猿と蛙であり
その間に兎が介在して、絵巻を展開させている。
平安末期には、こうした動物に対して特別な関心が
よせられており、舞楽などのなかにも渾脱舞(こんだつまい)
と云って動物のぬいぐるみを被った舞があった。
相撲節会の余興に行われる舞楽などは。
『猿楽』という名の猿の渾脱舞と、
『桔カン(きつかん)』という蛙の渾脱舞が行われたもので、
そのときから猿と蛙とは番舞(つがいまい)にされていた。
そのことを考えると、鳥獣戯画はそのころの
猿楽絵(さるごうえ=滑稽画)のようなもので、
兎はさしあたり行司役にも当るのである。
平安末期は、まさに変革の時期で、社会秩序は大きく動揺し、
至るところで当世風の『今様』がよろこばれていた。
戯画の描いた風刺も、規則正しい図像の世界に対する
今様の視点からの発想にほかならなかったのであろう。」

つい、引用がながくなりました。
この次に
「高山寺の再興開山、明恵上人高弁(1172~1232)」
が語られております。
うん。ここだけを引用。

「明恵は、建久2年(1191)19歳から、入滅前年の
寛喜3年(1231)59歳頃まで、約40年間にわたって
自己の夢を記録して、『夢記(ゆめのき)』をのこしたことで、
きわめてめずらしい存在である。しかし一歩進めて考えると、
明恵の生涯は、全く無我夢中のうちに過ぎ去ったと
云えるかも知れない。・・・・」


うん。同時に購入した
法然上人誕生850年記念
「知恩院と法然上人絵伝」のはじまりも
林屋辰三郎氏が書いております。

それはそうと、今回購入した中で
一番高かったのは
「没後25年谷内六郎の軌跡」でした
こちらだけ1300円。

そういえば、谷内六郎に
「夜の公衆電話」と題した絵があります。
大きな枝ぶりの木の前に公衆電話があります。
下の方に男の子と女の子が傘をさしている上半身が
描かれています。夜なので、雨が降っているのかも
わかりません。公衆電話のなかが明るくって
その光が漏れて後ろの大木を下からボンヤリと
浮かび上がらせています。
公衆電話の中で受話器を耳にあてているのは白狐。
公衆電話の四角い窓にダイヤルと受話器と白狐が
明るく浮かび上がっておりました。


ひょっとして、この絵、谷内さん
の夢に、登場したのかもしれない。


それにしても、
舞楽に登場する、動物のぬいぐるみ。
といえば、連想は現代へと容易につながってゆきます。
そうそう、平成末期の、ご当地キャラの着ぐるみたち。





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こんな、夢を見た。

2018-12-02 | 他生の縁
この頃、ブログ更新をしていないためかもしれない(笑)。
それで、夢をみた。
こんな、夢をみた。

店じまいする画廊があったので、立ち寄る。
ある絵のまえで、立ちどまる。
その絵の何とも言えない構図を、
そばにいた画廊の女性に語りかけていると、
いつかも、そうして、その絵を語っていたような
気がしてくる。
すると、その女性が、はじめて会った時も、
あなたは、そう語っていらっしゃったと、
語りかけて来る。
えっ、とその展開に驚いていると、
いつのまにか、その絵は、その女性が着ている
Tシャツの絵模様になっていて、
他のお客さんたちが、しきりに
その女性と、そのTシャツの絵柄とを
誉めている。
それらの会話を聞きながら、
私は後ろ髪をひかれながら、画廊を後にする。

その絵柄を、はっきりと見ていたのに、
夢からさめ、こうして書いていると、
忘れている、その絵柄。


こんな、夢をみた。


そういえば前夜、テレビで、
フェルメールの絵の紹介番組を見て寝ました(笑)。
コメント (4)
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めったにないんですが。

2017-06-08 | 他生の縁
雑誌WILL7月号増刊の
「追悼・渡部昇一」に
WILL本誌発行人鈴木隆一氏の話が掲載されております。
雑誌WILL発刊について語られておりました。

鈴木】 それは当初からこれで行こうというのがあったんです。
渡部先生を軸として谷沢永一、日下公人、岡田英弘、櫻井よしこ、
黄文雄といった先生がたを軸にして行こうと。
そして、これまでの保守系論壇誌と異なり活字は大きく、
分厚くなく、紙は白く、読みやすく。
いずれの先生がたも、すでに単行本の常連執筆者でもありました。
(p124)


聞き手】 (渡部)先生のご子息のお話で
『父はたくさん本を出していますが、鈴木さんのところで
出していただいた『渡部昇一「日本の歴史」』と
『渡部昇一 青春の読書』をことのほか喜んでいて、
私にも読めと言ってくれたんですよ。めったにないんですが』
とおっしゃっていましたね。

鈴木】 そうでしたね。一昨年、瑞宝中綬章を叙勲されました。
そこで青山の料理屋にご夫婦をご招待したことがありました。
この頃、出された料理はまあまあ手を付けられておりました。
そのときも、『勲章より、あれ(「渡部昇一 青春の読書」)を出して
いただいたことの方がよっぽどうれしいですね』
これまた恐縮の極みでありました。(p127)


私は『渡部昇一 青春の読書』を購入しておりませんでした。
古本で安くなったら買おうと思っていても、
いまだに安くならなかった。
この機会に、買うことにしました。


さてっと、この鈴木隆一氏の言葉のなかに
岡田英弘氏の名前が出て来るのでした。

そういえば、2017年6月5日の
読売新聞「編集手帳」に岡田英弘氏の名前。
そこを引用。

「図書館の棚に並ぶ知識人の著作集には、
手あかにまみれたものもあれば、
ほとんどまっさらなものもある。
著者がある時期の流行の波に乗ったか否か、にもよる。
著作集読破を趣味とする古田博司筑波大教授の意見では、
むしろ後者に今日でも読むにたえる文章が多い。
歴史学者、岡田英弘さんが先月、死去した。
本紙のデータベースでその名前を検索して見つかった記事は、
この20余年で10本もない。
マスコミにひっぱりだこだったとは言えない。
一連の著書は、様々な分野の目利きにより、
書評欄で紹介されてきた。・・・」

コラム『編集手帳』の前半を引用しました。
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仏教讃歌集。

2017-02-23 | 他生の縁
講談社学術文庫の「今昔物語集 本朝世俗篇」上下は
武石彰夫氏の全現代語訳。
その文庫の武石氏ご自身の解説を読んでいたら、
武石氏の本を読んでみたくなる。
とりあえず

 武石彰夫著「精選 仏教讃歌集」(佼成出版社)
を注文。それが今日とどく。私には
わかりやすい現代詩ダイジェストをひもといているような気持になる。

もう一冊届いたのは、
これも解説で引用されていた

 筑摩書房「古典日本文学全集15 仏教文学集」

こちらも現代語訳なので楽しめそう。

さてっと、
徒然草から、今昔物語集へ、
それから仏教讃歌と仏教文学へ。
どうぞ、きちんと読めますように。
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奥様への深い愛と信頼。

2015-05-04 | 他生の縁
それは、産経新聞4月30日にありました。

ホワイトハウスで開かれた
オバマ大統領主催の公式夕食会。
そこでの安倍晋三首相のスピーチ
でのジョークが囲み記事で紹介
されておりました。

そこを引用したいのですが、
そのまえに、藤原正彦氏の
「管見妄語 大いなる暗愚」(新潮社)
の「はじめに」にある言葉の引用から。

まず、こうはじまります。

「本書は週刊新潮の写真コラムに連載
したものを集めたものである。
この欄はもともと長年にわたって山本夏彦
氏が担当していたもの・・・亡くなった後
・・・お引受けした。」

中頃に、こんな箇所

「・・ネタに窮して女房の悪口を書けば
『奥様への深い愛と信頼があるから
あそこまで書けるんですね』などと
誤解されたりする。・・・
今度まとまったものを一望すると、
政治や経済で大口を叩いた後に
ユーモアを持ってきたりと、
バランスを必死でとっている・・」


さてっと、
では、産経新聞の記事を引用。


「・・スピーチに立った首相は、
米上下両院合同会議での演説に向け、
連日練習に取り組んでいる話題を
持ち出し、
『一昨日、昨日と練習を部屋でしているが、
妻は私の演説を『聞き飽きた』と言って、
昨日は別々に寝ることとなった』
と笑いを誘った。・・・・」

うん。途中ですが、引用はここまで(笑)。
ということで、
ジョーク(女房篇)でした。

うん。これで二つ。
三題噺には、あと一つ。
この二つを、拳拳服膺し、
残りは、課題問題にして、
臨むことに(笑)。

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文字之教。

2015-02-28 | 他生の縁
やはり、古いパソコンは修復せず。
ハヤブサの例が、頭をかすめたのですが。
無理かなあ(笑)。

とりあえず、二階のパソコンを使用。
ブログは、夜のみの更新になります。

伊藤正雄氏の著作は、
辞書を引くようにして、
お目当ての箇所を、
拾い読みしてます。
たとえば、

「資料集成 明治人の観た福沢諭吉」。
この本に掲載された徳富蘇峰の
「文字の教を読む」を読んで、

「福沢諭吉 警世の文学精神」。
この本にある「『文字之教』の功績」を読む。

そして、「福沢諭吉論考」。
この本にある、関連箇所を拾い読み。

今日気になったのは、
「文字之教」でした。
そこで、
ネットで一番安い古本を検索すると、
古書店は、古書現世でした。
復刻版の3冊揃いで3500円。


古書現世は
はじめての古本屋ですが、
あれ、どこかで聞いたことがある。
そういえば、雑誌WILLに
「早稲田古本劇場」と題して連載があり、
その署名が「向井透史・古書現世」。

雑誌WILLをめくると、
連載文の最後に、紹介がある

「むかいとうし
1972年生まれ。古書現世二代目。
著書に『早稲田古本屋日録』(右文書院)
・・・店の住所は東京都新宿区早稲田
2‐16‐17」とある。

紹介に出ている、出版社の右文書院といえば、
伊藤正雄著「忘れ得ぬ国文学者たち」
の新版も、右文書院から出ていました。

糸はどのように結ばれているのか?
福沢諭吉著の復刻版「文字之教」を
古書現世へ注文。
これが、いつ届くのかなあ。
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イギリス像が、ようやく。

2015-02-09 | 他生の縁
新田次郎・司馬遼太郎・山本夏彦。
この3人による、本の紹介を聞ける楽しみ。

その対象の本は、藤原正彦著の
「遥かなケンブリッジ」「若き数学者のアメリカ」。


では、まず
「浮き世のことは笑うよりほかなし」にある
山本夏彦・藤原正彦対談の箇所から

山本】 ・・・この間出版なさった
『遥かなケンブリッジ』と、その前の
『若き数学者のアメリカ』この二冊を拝見したら
実に面白い。ご当人を目の前に置いて
褒めるのは失礼ですが感心しました。
・ ・今までどうして読まなかったのかと
残念に思った位です。・・・
『若き数学者のアメリカ』が出た時
お父さんはさぞお喜びだったでしょう。

藤原】 すごく喜びましたね。
自分の小説が売れるより喜びました。
この本が出る前、父に読んでもらったんです。
そしたら『お前がこんなに書けるとは思わなかった。
でも親のひいき目もあるから俺の意見は信用するな』
って言うんです。そこで父のところに出入りしている
編集者に読んでもらおいうとしたら、皆逃げるんです。
・ ・・新潮の人が勇をふるって読んでくれた。・・

山本】 岡潔さんはずいぶん書きましたが所々
わかりません(笑)。ぼくはイギリスを夏目漱石が
書いたので知っています。それから池田成彬の子息
でケンブリッジで学んだ池田潔。
藤原】 「自由と規律」ですね。
山本】 漱石はイギリスで実にいやな思いばかり
したと書いている。池田さんのは昭和24年に出た
本で、イギリスはどんなにいい国か、自分がどんなに
いい学校生活を送ったか書いてある。いま読めば
何ともないでしょうけれど、当時はいやな感じが
した。皆が飢えかつえていた時ですからね。
今度の藤原さんのご本で、イギリス像がようやく
落着きました(笑)。
(p233~235)

以上が山本夏彦と新田次郎の本の紹介。
以下は司馬遼太郎。

以前にも紹介したので
重複となりますが、「以下、無用のことながら」
に「本の話 新田次郎のことども」があります。
その文の最後をすこし長く引用。

「枕頭で本を読んでいるうちに、
飛びあがるほどおどろいた。
著者である数学者――お茶の水女子大数学科の
教授――が、文部省の長期在外研究員として、
数学の淵叢であるイギリスのケンブリッジにゆく。
そこで一年間、著者は家族とともに滞在した。
そのことの実景と実感の文学的報告書だから、
数学のことはなまでは出て来ない。
ともかくも、上質の文章が吸盤のように
当方の気分に付着してきて眠ることを
わすれるうちに、この本の著者の藤原正彦が、
あの『赤ちゃん』ではないか、とふとおもったのである。
あわてて本の前後を繰るうちに、やはり新田次郎氏
の息であることがわかった。巻末の略歴に、
1943年のおうまれとある。・・・
新京時代の藤原家の赤ちゃんの著作を、七十を
越えた私が夜陰夢中になって読んでいたことになる。
この偶会のよろこびは、世にながくいることの
余禄の一つである。同様に、本のありがたさの
一つでもある。えらい数学者になられたあの
『赤ちゃん』のよき文章によって、つまりは
時空を超え、1987、8年のケンブリッジの町を
――文明としか言いようのない人びとの秩序
のなかを――臥せながらにして歩くことができる。
数奇というのは、読書以外にありうるかどうか。」


はい。あらためて
『遥かなるケンブリッジ――1数学者のイギリス』
お宝を取り出すように、
本棚から抜き出す二月(笑)。
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コボちゃん・2コラム。

2015-02-05 | 他生の縁
産経新聞と読売新聞を今年は購読してます。

まずは、
田原総一朗氏の言葉から
雑誌WILL3月号の「テロと朝日『第三者委員会』」
と題して、第三者委員になった田原さんは
こう指摘しております。

「日本の新聞界は、はっきりいえば
安倍政権に批判的な朝日、毎日と、
安倍政権に肯定的な読売、産経が
きそい合っている。」(p68)

はい。私は、
安倍政権に肯定的な2紙を講読しております(笑)。

ところで、
2月1日の読売新聞の4コマ漫画「コボちゃん」
2月3日の読売一面コラム「編集手帳」
2月4日の産経連載コラム「透明な歳月の光」

これが、つながりをもって読めるめでたさ。
これも、2紙を講読していた余得でした。

ここでは、二つのコラムを紹介。
2月3日の編集手帳は、こうはじまります。

「パパ耕二さんがラジオの競馬中継を聴いている。
当たった!『何か欲しい物あるか?』。上機嫌で
尋ねた。テレビのニュースを見ながら小学生の
コボちゃんが答えた。『一刻も早い世界平和だね』。
パパ、自己嫌悪にうなだれる。・・・・」


全文引用しないといけないのでしょうが、
そそくさと、つぎに行きます。
2月4日「曽野綾子の透明な歳月の光」は
こうはじまっておりました。

「2月3日付の読売新聞朝刊の『編集手帳』で、
おそらくマンガと思われる『コボちゃん』という
一家の話を教えてもらった。私はこのマンガを
見たことがないのだが、パパは競馬ファンらしい。
馬券が当たって喜ぶパパ。コボちゃんに
『何か欲しい物があるか?』と聞いた。すると
コボちゃんは『一刻も早い世界平和だね』と
答えるというのである。
コボちゃんは何歳くらいなのかにもよるけれど、
いずれにせよ、不自然な会話だ。
こういう答えをする子供がいたら、
私だったら反射的に、『要注意』と思う。
子供は抽象的な命題からものごとを考えない。
そこに発達の余地があるのだ。
虫や犬を見たらいじめてみたい、
と思ってやってみたりもするが、それが
あまり楽しくない、どころか、次第に
かわいそうになってきてしまう。そこで
初めて、幸福感とか、命の継続というものに
対して、重大な発見をするのである。
もしコボちゃんが18歳とか20歳とかだったら、
その幼さにもあたらしい危険がある。・・・」

こうはじまり、
全文引用したいのですが、
ここでは、最後を引用。

「ルネサンス期イギリスの思想家トマス・モアは
ギリシャ語で理想郷を意味する言葉『ユートピア』
を作ったとき、『ウ・トポス(どこにもない場所)』
という語をあてた。『理想郷』などというものは
どこにもないことを原著者モアが誰よりもよく
知っていたのだ。しかし現実に、紛争を『減らす』
ことはできる。持つものが持たない者に、医療手段
や食料を分けることは、多くの場合可能だ。
ただ、分けることは実はかなり辛いことなのだ。
だから修道院生活の基本精神にもなっている。
自分たちが持っているお金や労力や安全を、
深い配慮の元に現実に差し出すことのできる人が、
ほんとうの平和主義者なのだと学校で教えてほしい。」


うん。四コマ漫画も面白かったけれど、
2つのコラムが、言葉の喋る(じゃなかった)
言葉のシャベルで、掘り下げてゆくのを
筋道をたどれて、2紙講読もまんざらじゃない(笑)。

ということで、多くの方は2紙の古新聞を
辿るのはめんどうでしょうから、
すこし長く引用させてもらいました。
うん。私はというと、きっかけの
四コマ漫画を、あらためて、見直すのでした。
惹かれて、ここから物語の世界へと
入って行く表紙絵を眺めるように(笑)。
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