漢文科。
2010-11-27 | 古典
一海知義著「史記」(平凡社ライブラリー)を読みました。
読了後、その文章運びに豊かな気分を味わったのでした。
さて、私に史記を語る教養もないし、
この本の紹介に、ふさわしいとも思えないのですが、
ここはひとつ、内容には触れずに、からめ手から、
その気分を紹介してみたいと思うのでした。
原田種成著「漢文のすすめ」(新潮選書)に明治44年生れの原田氏が学んだ頃の話があり印象にのこります。そこにこんな箇所がありました。
「私の教員免許状が旧制中等教員も旧制高等教員も『漢文科』の免許であることについて、高師出身の鎌田正氏は自分のが『国語漢文科』の免許であるので、漢文だけの免許状があるのは知らなかったと驚いていた。」(p77)
ちなみに原田種成氏は大東文化の学生でした。
その原田氏は「当時二十歳前後だった漢学専攻の大東文化学院の高等科生や出身者の学力は今から思うとすばらしいものであった。大東文化は『大漢和辞典』をこしらえるために設立された学校ともいえるような面があった。」
このあとに、高等師範について触れております。
「・・・高師は国漢科であるから、国語と漢文の両方を学習し、しかも就職に有利だからと修身や習字の免許を取るための学習もしていたから、漢文の力はあまり伸びなかったのである。大東文化の学生は、旧制中学時代から漢文が好きで、白文が読める力を持って進学し、さらに高度の漢文を専攻したのであるから『大漢和』に引用する原文を読解することができたのである。」
それではと、私など思うわけです、旧制・中高校の漢文科の先生が絶えてしまったあとに、漢文への興味から、それを学ぼうとする人は、いったいどのようにしてよい先生をみつければよいのか?
先生を捜すのはたいへんでも、よい本ならみつけだせそうです(笑)。
たとえば「狐の読書快然」(洋泉社)で、
岩波ジュニア新書の1冊・一海知義著「漢詩入門」をとりあげておりました。そこで「狐」さんこと山村修氏は、「無知を恥じつつ書けば・・」という書き出しで、一海氏の本を取り上げて、心底驚かされた一文を紹介しておりました。こうです。
「驚いたのは、・・1冊に忍び込まされた『漢文は本当に面白いか?』と題する短文である。そこに『三字の漢語はない』『漢文は、二字と一字の言葉だけからできている』と書かれていることに新鮮なショックを受けたのだ。なるほど、著者の挙げる例を見てみると、漢詩も漢文もすべてが二字と一字に分解でき、それができると意味はおのずから分かってくる(ような気がする)のだ。そんなことはかつて習わなかった!
そこに生れる『一種のスリルと楽しみ』(著者)を拡大し、さらに詳しく豊かにまとめたのが本書『漢詩入門』であるといってよい。」
そして狐さんは、最後にこうしめくくっておりました。
「こうした驚きに満ちた本こそ、漢詩入門書のスタンダードになってほしい。」
お待ちどうさまでした。今回紹介する一海知義著「史記」(平凡社ライブラリー)についてです。
こちらは、さらりといきましょう。
「はじめに」ではこうあります。
「さて、司馬遷のもっともきらう抽象論はこれくらいにして、『史記』そのものを具体的に見てゆくことにしよう。といっても、あの厖大な書物を、この小冊子につづめ押しこめることは、能力の範囲をこえる。できるだけ原文を多くとり入れつつ、幾篇かを紹介できるにすぎない・・・」
これは1972年に書かれておりました。あとがきは『A君へ』となっており、そのはじまりとおわりを引用。
「この夏に書きあげた『史記』の抄訳をお送りします。
何だか『怨念の書』のような印象がつよく出てしまって、不満なのですが、君たち若い世代の人が、これを契機に『史記』全体を読み通してみようという気持を起してくれれば、と思っています。司馬遷という人は、いろいろな意味で、ほんとうに強い男だと思います。その意志、執念、正義感、抵抗精神、観察力、批判力、構想力、さらには文体など、さまざまな面で硬質な、強さを持った男だったと思います。・・・・・大きな書物にとりくむこと、それは若い世代の特権でもあります。いつもの君の貪欲さに期待しています。」
このあとに、関連年譜があり、そして次には一海氏による「小説 李陵」(1998年)も掲載されております。うん読みやすく。私はつづけて中島敦著「李陵」へと食指が動きました。
ここには、一海知義氏による「平凡社ライブラリー版 あとがき」(2010年夏)も11ページほどありました。
そのはじまりを最後に引用しておきましょう。
「司馬遷の『史記』に初めて出逢ったのは、中学二年生の時だった。
中学校入学の前年、1941(昭和16)年12月、太平洋戦争が始まり、世間は軍国主義一色に塗りつぶされて行く。中学校の制服は、陸軍軍服の色にまねたカーキ色、脚には同じ色のゲートルを巻き、戦闘帽をかぶって通学した。
しかし、授業の内容は新鮮だった。小学校にはなかった科目、たとえば『代数』『幾何』、そして『物理』『化学』、さらに『英語』などを習い始めたからである。『漢文』もその一つだった。漢文の教科書に載っていた『鴻門(こうもん)の会』(「史記」項羽本紀)は、特に刺激的で、今も鮮やかに憶えている。・・・・」
ちなみに一海知義氏は1929年奈良市生まれ。
「中国文学者。旧制高校理科から京都大学文学部中国文学科に進学」とあります。
読了後、その文章運びに豊かな気分を味わったのでした。
さて、私に史記を語る教養もないし、
この本の紹介に、ふさわしいとも思えないのですが、
ここはひとつ、内容には触れずに、からめ手から、
その気分を紹介してみたいと思うのでした。
原田種成著「漢文のすすめ」(新潮選書)に明治44年生れの原田氏が学んだ頃の話があり印象にのこります。そこにこんな箇所がありました。
「私の教員免許状が旧制中等教員も旧制高等教員も『漢文科』の免許であることについて、高師出身の鎌田正氏は自分のが『国語漢文科』の免許であるので、漢文だけの免許状があるのは知らなかったと驚いていた。」(p77)
ちなみに原田種成氏は大東文化の学生でした。
その原田氏は「当時二十歳前後だった漢学専攻の大東文化学院の高等科生や出身者の学力は今から思うとすばらしいものであった。大東文化は『大漢和辞典』をこしらえるために設立された学校ともいえるような面があった。」
このあとに、高等師範について触れております。
「・・・高師は国漢科であるから、国語と漢文の両方を学習し、しかも就職に有利だからと修身や習字の免許を取るための学習もしていたから、漢文の力はあまり伸びなかったのである。大東文化の学生は、旧制中学時代から漢文が好きで、白文が読める力を持って進学し、さらに高度の漢文を専攻したのであるから『大漢和』に引用する原文を読解することができたのである。」
それではと、私など思うわけです、旧制・中高校の漢文科の先生が絶えてしまったあとに、漢文への興味から、それを学ぼうとする人は、いったいどのようにしてよい先生をみつければよいのか?
先生を捜すのはたいへんでも、よい本ならみつけだせそうです(笑)。
たとえば「狐の読書快然」(洋泉社)で、
岩波ジュニア新書の1冊・一海知義著「漢詩入門」をとりあげておりました。そこで「狐」さんこと山村修氏は、「無知を恥じつつ書けば・・」という書き出しで、一海氏の本を取り上げて、心底驚かされた一文を紹介しておりました。こうです。
「驚いたのは、・・1冊に忍び込まされた『漢文は本当に面白いか?』と題する短文である。そこに『三字の漢語はない』『漢文は、二字と一字の言葉だけからできている』と書かれていることに新鮮なショックを受けたのだ。なるほど、著者の挙げる例を見てみると、漢詩も漢文もすべてが二字と一字に分解でき、それができると意味はおのずから分かってくる(ような気がする)のだ。そんなことはかつて習わなかった!
そこに生れる『一種のスリルと楽しみ』(著者)を拡大し、さらに詳しく豊かにまとめたのが本書『漢詩入門』であるといってよい。」
そして狐さんは、最後にこうしめくくっておりました。
「こうした驚きに満ちた本こそ、漢詩入門書のスタンダードになってほしい。」
お待ちどうさまでした。今回紹介する一海知義著「史記」(平凡社ライブラリー)についてです。
こちらは、さらりといきましょう。
「はじめに」ではこうあります。
「さて、司馬遷のもっともきらう抽象論はこれくらいにして、『史記』そのものを具体的に見てゆくことにしよう。といっても、あの厖大な書物を、この小冊子につづめ押しこめることは、能力の範囲をこえる。できるだけ原文を多くとり入れつつ、幾篇かを紹介できるにすぎない・・・」
これは1972年に書かれておりました。あとがきは『A君へ』となっており、そのはじまりとおわりを引用。
「この夏に書きあげた『史記』の抄訳をお送りします。
何だか『怨念の書』のような印象がつよく出てしまって、不満なのですが、君たち若い世代の人が、これを契機に『史記』全体を読み通してみようという気持を起してくれれば、と思っています。司馬遷という人は、いろいろな意味で、ほんとうに強い男だと思います。その意志、執念、正義感、抵抗精神、観察力、批判力、構想力、さらには文体など、さまざまな面で硬質な、強さを持った男だったと思います。・・・・・大きな書物にとりくむこと、それは若い世代の特権でもあります。いつもの君の貪欲さに期待しています。」
このあとに、関連年譜があり、そして次には一海氏による「小説 李陵」(1998年)も掲載されております。うん読みやすく。私はつづけて中島敦著「李陵」へと食指が動きました。
ここには、一海知義氏による「平凡社ライブラリー版 あとがき」(2010年夏)も11ページほどありました。
そのはじまりを最後に引用しておきましょう。
「司馬遷の『史記』に初めて出逢ったのは、中学二年生の時だった。
中学校入学の前年、1941(昭和16)年12月、太平洋戦争が始まり、世間は軍国主義一色に塗りつぶされて行く。中学校の制服は、陸軍軍服の色にまねたカーキ色、脚には同じ色のゲートルを巻き、戦闘帽をかぶって通学した。
しかし、授業の内容は新鮮だった。小学校にはなかった科目、たとえば『代数』『幾何』、そして『物理』『化学』、さらに『英語』などを習い始めたからである。『漢文』もその一つだった。漢文の教科書に載っていた『鴻門(こうもん)の会』(「史記」項羽本紀)は、特に刺激的で、今も鮮やかに憶えている。・・・・」
ちなみに一海知義氏は1929年奈良市生まれ。
「中国文学者。旧制高校理科から京都大学文学部中国文学科に進学」とあります。