和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

漢文科。

2010-11-27 | 古典
一海知義著「史記」(平凡社ライブラリー)を読みました。
読了後、その文章運びに豊かな気分を味わったのでした。
さて、私に史記を語る教養もないし、
この本の紹介に、ふさわしいとも思えないのですが、
ここはひとつ、内容には触れずに、からめ手から、
その気分を紹介してみたいと思うのでした。

原田種成著「漢文のすすめ」(新潮選書)に明治44年生れの原田氏が学んだ頃の話があり印象にのこります。そこにこんな箇所がありました。

「私の教員免許状が旧制中等教員も旧制高等教員も『漢文科』の免許であることについて、高師出身の鎌田正氏は自分のが『国語漢文科』の免許であるので、漢文だけの免許状があるのは知らなかったと驚いていた。」(p77)
ちなみに原田種成氏は大東文化の学生でした。
その原田氏は「当時二十歳前後だった漢学専攻の大東文化学院の高等科生や出身者の学力は今から思うとすばらしいものであった。大東文化は『大漢和辞典』をこしらえるために設立された学校ともいえるような面があった。」
このあとに、高等師範について触れております。
「・・・高師は国漢科であるから、国語と漢文の両方を学習し、しかも就職に有利だからと修身や習字の免許を取るための学習もしていたから、漢文の力はあまり伸びなかったのである。大東文化の学生は、旧制中学時代から漢文が好きで、白文が読める力を持って進学し、さらに高度の漢文を専攻したのであるから『大漢和』に引用する原文を読解することができたのである。」


それではと、私など思うわけです、旧制・中高校の漢文科の先生が絶えてしまったあとに、漢文への興味から、それを学ぼうとする人は、いったいどのようにしてよい先生をみつければよいのか?
先生を捜すのはたいへんでも、よい本ならみつけだせそうです(笑)。

たとえば「狐の読書快然」(洋泉社)で、
岩波ジュニア新書の1冊・一海知義著「漢詩入門」をとりあげておりました。そこで「狐」さんこと山村修氏は、「無知を恥じつつ書けば・・」という書き出しで、一海氏の本を取り上げて、心底驚かされた一文を紹介しておりました。こうです。

「驚いたのは、・・1冊に忍び込まされた『漢文は本当に面白いか?』と題する短文である。そこに『三字の漢語はない』『漢文は、二字と一字の言葉だけからできている』と書かれていることに新鮮なショックを受けたのだ。なるほど、著者の挙げる例を見てみると、漢詩も漢文もすべてが二字と一字に分解でき、それができると意味はおのずから分かってくる(ような気がする)のだ。そんなことはかつて習わなかった!
そこに生れる『一種のスリルと楽しみ』(著者)を拡大し、さらに詳しく豊かにまとめたのが本書『漢詩入門』であるといってよい。」

そして狐さんは、最後にこうしめくくっておりました。

「こうした驚きに満ちた本こそ、漢詩入門書のスタンダードになってほしい。」


お待ちどうさまでした。今回紹介する一海知義著「史記」(平凡社ライブラリー)についてです。
こちらは、さらりといきましょう。
「はじめに」ではこうあります。

「さて、司馬遷のもっともきらう抽象論はこれくらいにして、『史記』そのものを具体的に見てゆくことにしよう。といっても、あの厖大な書物を、この小冊子につづめ押しこめることは、能力の範囲をこえる。できるだけ原文を多くとり入れつつ、幾篇かを紹介できるにすぎない・・・」

これは1972年に書かれておりました。あとがきは『A君へ』となっており、そのはじまりとおわりを引用。

「この夏に書きあげた『史記』の抄訳をお送りします。
何だか『怨念の書』のような印象がつよく出てしまって、不満なのですが、君たち若い世代の人が、これを契機に『史記』全体を読み通してみようという気持を起してくれれば、と思っています。司馬遷という人は、いろいろな意味で、ほんとうに強い男だと思います。その意志、執念、正義感、抵抗精神、観察力、批判力、構想力、さらには文体など、さまざまな面で硬質な、強さを持った男だったと思います。・・・・・大きな書物にとりくむこと、それは若い世代の特権でもあります。いつもの君の貪欲さに期待しています。」

このあとに、関連年譜があり、そして次には一海氏による「小説 李陵」(1998年)も掲載されております。うん読みやすく。私はつづけて中島敦著「李陵」へと食指が動きました。

ここには、一海知義氏による「平凡社ライブラリー版 あとがき」(2010年夏)も11ページほどありました。
そのはじまりを最後に引用しておきましょう。

「司馬遷の『史記』に初めて出逢ったのは、中学二年生の時だった。
中学校入学の前年、1941(昭和16)年12月、太平洋戦争が始まり、世間は軍国主義一色に塗りつぶされて行く。中学校の制服は、陸軍軍服の色にまねたカーキ色、脚には同じ色のゲートルを巻き、戦闘帽をかぶって通学した。
しかし、授業の内容は新鮮だった。小学校にはなかった科目、たとえば『代数』『幾何』、そして『物理』『化学』、さらに『英語』などを習い始めたからである。『漢文』もその一つだった。漢文の教科書に載っていた『鴻門(こうもん)の会』(「史記」項羽本紀)は、特に刺激的で、今も鮮やかに憶えている。・・・・」


ちなみに一海知義氏は1929年奈良市生まれ。
「中国文学者。旧制高校理科から京都大学文学部中国文学科に進学」とあります。
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ブックカバー。

2010-11-26 | Weblog
適当にはじめた本の整理も、
いつのまにか適当に終っておりました。
そういえば、今回めずらしく
本のカバーを入れた段ボール箱が出て来たので、
それを単行本にあらためて、もどしておりました。
ブックカバーは、どうしても読むときにめんどくさくて
とってしまいます。けれども、綺麗なブックカバーを捨てるわけにもいかず、
とりあえず、段ボール箱へと入れこんでおいたのでした。
帯びもあるし、そういえば、函もありました。
読むときは、じゃまになる函もカバーも帯びも、
もとの本へと戻してみる。
そう、ちょくちょく読み返したりしないので、
今回はじめてのように、もとへと戻してみました。
あれ、このカバーは、よかったのになあ、
なんていうのは、案外もう紛失していたりします。

壁につくりつけの本棚には、
クモやゴキブリなどが後ろの隙間に入り込むことがありますね。
本が汚れていることがある。
それが数ミリもしみ込んでいたりする時がある。
こういう際になんで、函にいれとかなかったんだろうと、
思うときもあります。

以前は、本は汚すものだと、自分にうそぶいていたのに、
ゴキブリや虫に汚されるのは憤慨。
まあ、こうして今回の中途半端な整理も適当におしまい。
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便せん十数枚。

2010-11-20 | 手紙
古書検索をしてたら、2008年12月号「彷書月刊」が見つかりました。
特集が「わたしの先生」。
そこに黒岩比佐子さんが2ページほど書いています。
届いたので、さっそく、そこだけ読みます。
題名は「十一年前の出会い」。
ジャーナリストの、むのたけじ(本名・武野武治)が紹介されておりました。

これ古本値500円でしたので、しっかりと引用しておきましょう。
ちょうど真ん中の箇所を引用。


「・・・実際にお話をうかがってみてさらに驚嘆した。むのさんはそのとき八十二歳、私は三十九歳。ところが、話しているうちに、年齢のことなど完全に忘れてしまっていた。なぜか、強く心に感じるものがあった。帰宅後、お礼の葉書を出すと、むのさんから返事をいただき、それからずっと文通が続くことになった。
いま思えば、それは運命的な出会いだった、といえるだろう。二十代後半からフリーランスのライターとして活躍していた私は、三十代後半になって、本当に書きたいものは何か、何を書くべきか、と暗中模索を続けていた。むのさんに出会ったのは、ちょうど私がある人物の評伝を書こうと決意して、出版できるあてもなく、取材を始めたときだったのだ。
 手紙で相談すると、むのさんはそのたびに、長い人生経験から、直感から、日本の社会状況から、いろいろなアドバイスをしてくださった。便せん十数枚もの厚い手紙が届くこともあった。その重みがうれしかった。何をしてもうまくいかず、意気消沈しているようなときでさえ、それを読むと不思議に勇気がわいてきた。会社にも組織にも所属していないライターである私は、むのさんの手紙にどれほど励まされたことか。
 それから現在までに、七冊の本を出すことができた。最初の著作も含めてそのうち三冊が評伝だが、人の見方やものの見方について、むのさんには多くのことを教えていただいた。秋田と東京に離れているため、お会いしたのは六回にすぎないが、むのさんによれば、私が書いた手紙は百通以上になるという。目が悪くなったため、むのさんからは電話が多くなったが、これまでに七十通近い手紙をいただいている。私の大事な宝物だ。
 むのさんのメッセージのなかには、忘れられない強烈なものもある。たとえば、物書きとして忘れてはいけないことの一つに挙げた『死にもの狂いの努力と、その貫徹』。
 なかなかその境地に達することはできないが、怠け心が出そうになると、私はこのフレーズをつぶやいて自分を戒めている。
 そして、今年五十歳になった私に、九十三歳のむのさんが贈ってくださった言葉は『人生は六十歳から本番』。もう五十歳か、と落ち込みかけていたときに、まだこれから十年は勉強期間であり、六十歳でようやく本当の力を発揮できる、人生はそこからが本番だ、と言われてかなり気持ちが楽になった。・・・・」


黒岩比佐子さんが聞き書きをした、むのさんの新書が、そういえば読んでいない。
さっそく注文しなくちゃ。
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その時。

2010-11-17 | Weblog
11月17日13時37分。
黒岩比佐子さんが亡くなる。
その時、私は
義父の病院検査通院の送り迎えを、
ひさびさにしておりました。
そのちょうど帰りの運転中だったか、
お蕎麦屋「助八」で、おそい昼を食べていた頃でした。
車には、堺利彦訳「野生の呼声」初版。

黒岩比佐子さんが降り立っておられた文学の裾野を、
私も眺望してみたい。
11月17日13時37分。
黒岩比佐子さんが亡くなる。
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堺のオヤジ

2010-11-14 | 古典
黒岩比佐子著「パンとペン」(講談社)に
幸徳秋水と堺利彦を比較した箇所があり、印象に残ります。
著者の黒岩さんの惹かれるポイントでもあるのでした。


「『山川均自伝』のなかに、当時の幸徳秋水と堺利彦を、とくに二人の人柄を比較した興味深い記述がある。山川によれば、若い人の間には幸徳崇拝者が多く、堺利彦は崇拝の対象とするには不向きな人だった。堺は、権威のあるものを求める傾向の強い青年たちには、物足りなさを感じさせた。つまり、秋水はカリスマとしての質素をもっていたが、堺にはそれがなかったということだろう。しかし、その先に続く文章に、私はむしろ堺の人間的な魅力を感じずにはいられなかった。」(p173)

こうして『山川均自伝』からの引用があります。そこを孫引き

「青年の多くは、幸徳さんはそういう人として、自分たちより一段上の方においていたせいか、幸徳さんにたいしてはあまり不平や不満の声を聞かなかったが、堺さんの方はむしろ同輩のように考え、堺のオヤジがどうしたのこうしたのと、よく不平をならべていた。そのくせ若い人たちの生活のことまでよく面倒をみるのは ―― これは一つには、堺さんの健康で精力的だったためでもあろうが ―― いつでも堺さんだった。私自身にしても、生活のために堺さんから金の援助をうけたことは一度もなかったが、この時期にも、またずっと後の時期になっても、ともかくなんとかして生活をしていけたのは、なにかしら堺さんが、ときどきに仕事を作ってくれたからだった。そして当時の事情では、仕事を作るということは、想像のできないほどむつかしいことだった。(中略)ともかく堺さんは、よく青年の面倒をみて、そのくせよく不平や文句を言われていた。」

こうして自伝からの引用の後に、黒岩比佐子さんはつづけます。

「『平民新聞』の廃刊後、たちまち何人かの失業者ができたが、山川もその一人だった。そこで堺は、知人がいた有楽社から『平民科学』という六冊の叢書を出す約束を取り付けてくる。・・・・吉川守圀はこの件について『困窮せる堺は有楽社に知人を訪ふて其処で得た幾何かの原稿料も仕事も後進に分与し、一切自身が総元締となつて同志の者の面倒を見た。堺は如何に困窮した場合でも我を忘れて能く後進の面倒を見、道を開いてやることを忘れなかつた』と述べている(『荊逆星霜史』)。
これは、大逆事件後に堺がやっていたこととまったく同じだといっていい。『売文社』という名称こそないものの、すでにこのころから売文社の事業は始まっていた。・・」(p174)

このあとに、黒岩比佐子さんは片山潜のことを書いておりました。
そこにある文章の箇所が気になりました。


「当時の運動の困難なことはどの社会主義にも共通だったが、各人に才覚の相違があり、インテリの社会主義者にとっては文筆で生活の資をうることがもっとも容易で、それ以外の道もなかった。そして、堺にせよ、荒畑寒村にせよ、大杉栄にせよ、それで生活できるだけの才能をもっていたが、片山は文章を書くのがまったく苦手だった、と隅谷三喜男氏は指摘している。つまり、堺らと違って、片山が売文業で生活を立てるのは不可能だったのである。・・・・山川均によれば、片山の日本流の英文はわかりやすかったが、日本文の原稿はなかなかの難物で、読みこなして別の文章に書き直し、三分の一くらいに圧縮しなければならなかったという(『山川均自伝』)。(p176~177)


黒岩比佐子には「『食道楽』の人 村井弦斎」(岩波書店)という本があります。
その題名にも出ていますが「道楽」という言葉が、弦斎を語る際に大切なキーワードともなっておりました。この「パンとペン」にも偶然かもしれませんが、「道楽」という言葉が登場する場面がある。それは橋浦時雄が1964年に書いた「『売文社』の想い出」の回想の文中にありました。そこを引用。


「生活が安易に流れると半面に革命の殉道精神が勃動して来る、(中略)しかし堺さんはこうした高潔ぶった精神主義には冷ややかであった。『われわれの社会主義運動はインテリの道楽だよ、幸徳でも僕でも士族出で本物の社会主義ではない、本当の社会主義運動は労働者や小作人の手で進められるのだよ・・・だからといってインテリの社会主義道楽が無価値で、真摯でないとはいわんがね、道楽で命を落とす人はいくらでもある・・・。』

こうして橋浦時雄の言葉を引用したあとに、黒岩比佐子氏は、こう書いておりました。

「これは堺でなければいえない言葉だろう。自分の社会主義運動は『インテリの道楽』だと自嘲しながら、決して単なる遊びではなくそこには真摯なものがあり、道楽は道楽でも『命がけの道楽』だ、と堺は強調しているのだ。命を懸けた以上は一生かけてやり抜く、という覚悟も感じられる。
」(p270)

このあと、黒岩比佐子氏は、もうご自分の私語を語ることなく、資料に語らせております。『橋浦時雄日記』『寒村自伝』と重ねて引用していく箇所に、堺利彦が掘り起こされている重要な一場面となっております。

これが第四章「冬の時代」前夜で、つぎに第五章「大逆事件」がつづきます。そして第六章が「売文社創業」。各章ごとに持ち重りがして、私など、それぞれの章が、一冊の本として読める内容だとおもうのでした。
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伝。

2010-11-13 | 前書・後書。
注文してあった「堺利彦伝」(中公文庫)が手には入り、
文庫のうしろの解説を読もうとしたわけです。
すると、黒岩比佐子氏の解説の前に、
荒畑寒村「先師のおもかげ」という文もあるのでした。

黒岩比佐子著「パンとペン」(講談社)には

「『寒村自伝』のなかで『先生』と呼ばれているのは、堺利彦ただ一人である。生前の寒村と交友があった瀬戸内寂聴氏は『久闊多罪 ―― 荒畑寒村の手紙』の解説で、『寒村は終生、堺利彦を敬慕していた。私は寒村が涙をためて、堺利彦の人柄をほめ、追慕するのを幾度か目にしている』と述べている。・・・」(p270)

ところで、話はかわるのですが、
「高橋是清自伝」というのが、あります。
私は読んでないのですが、それの解説でおもしろい箇所がありました。
中公文庫「高橋是清自伝」下での解説は小島直記氏。そのはじまりは、

「いわゆる自叙伝も数多いが、その中からベスト・テンを選ぶとなると、福沢諭吉の『福翁自伝』、河上肇の『自叙伝』とならんで、『高橋是清自伝』が入るにちがいない、と私は信じ、そのことをひとにも語ってきた。・・・・」とあります。

おもしろいと思ったのは、
「近代日本の百冊を選ぶ」(講談社)で、
「高橋是清自伝」の解説を書いているのが、百目鬼恭三郎氏。
そのはじまりはというと、こうでした。


「日本人の自伝を1冊選ぶとなると、福沢諭吉の『福翁自伝』か、荒畑寒村の『寒村自伝』をあげるのが正統であるにちがいない。これらは伝記的な興味をもたない読者が読んでも、すこぶる面白い。一種の文学作品といってもいいだろう。・・・」

ちなみに、「近代日本の百冊を選ぶ」では、河上肇著「自叙伝」はありますが、「寒村自伝」は入っておりませんでした。「堺利彦伝」もなし。

ところで、堺利彦訳「野生の呼声」が読みたくなり、古本屋へと注文。
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いざ鎌倉。

2010-11-12 | Weblog
「芸術新潮」2010年11月号をまたひらいております。

p46とp47の見開き2ページには、
p46に鎌倉大仏(阿弥陀如来坐像)が正面から写されており、背景には低い山と青空。
p47には、金色の長谷観音(十一面観音菩薩立像)がちょうど、大仏と同じ大きさでおさまっております。左右のページに同じサイズの顔が並ぶというのは、写真集の面白さ。

こういう仏像は、よくわからない私なので、ところどころに出てくる現代人の写真が新鮮に感じられます。たとえば、p6~7に流鏑馬(やぶさめ)行事の写真が、武者姿の服装を着て、甲冑を着ているなど20人写されておりまして。あらためて、私は見いっております。右端に、神官なのでしょうか、白の上に、空色の袴をはいて、やぶさめに使う的(まと)の板を持った数人に、右腕をあげて、置き場所を指示しています。
まるで、牛若丸のような装束の10代(小・中学生ぐらい)の若者3人が所在投げな様子で、あちらこちらに目線をおくっております。
それぞれが時代装束に身をかためておりまして、メガネをかけている方もおり、まごうかたなく現代人の顔が並びます。
その真ん中に蹲踞(そんきょ)している二人が写されているのでした。
馬場に控える二の射手と三の射手。
これは、説明にゆだねましょう。
p84にありました。

「神事としての流鏑馬は最初の三番のみ。その後に続く十数騎(今年は16騎)は平騎射といって神事とは区別されている。各射手(いて)が、長さ140間(254メートル強)の直線の馬場を疾走し、三つの的を順次に射る点では神事も平騎射も同じながら、射手の衣裳はずいぶん異なっている。もちろん、綾藺笠(あやいがさ)、鎧直垂(よろいひたたれ)、射籠手(いごて)、夏毛の鹿皮の行縢(むかばき)などからなる神事の射手の揚装束(あげしょうぞく)の方が、ずっと豪華だ。・・・」

その二の射手と三の射手が、写真では砂地の地に蹲踞(そんきょ)して順番を待っているのでした。集中しながら緊張したおももちが、周りに立つ者とは違っております。失敗ができないはりつめたおももちが二人にあり、まさに武者の顔立ちとして写っておりました。


写真といえば、鎌倉の「いい店、好きな店」の特集も、この雑誌でしております。その「活魚料理 仲の坂」さんの、定食のあじフライがおいしそうなのでした。
その下に、ご主人が調理服を着て写っておりまして、そのうしろに「本日の魚一覧」とあり、さんま・かつお・わらさ・地たこ・あじ・めじ・皮はぎと平仮名で白札にかかれた文字がならびます。ご主人の加藤さんが書いたもの、と説明にあります。紹介文は三木卓。

そのご主人の写真がいいのでした。仏像写真に生気をとりもどさせるようなその顔立ち。

ということで、まだ写真ばかりで、説明文を読んでいない私ですが、
この永久保存版特集「いざ鎌倉」はたのしめるのでした。

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いざ鎌倉大仏。

2010-11-10 | 他生の縁
朝日の古新聞をもらってきて、ひらいていたら、
芸術新潮の広告が目にはいってきました。
芸術新潮11月号。
永久保存版大特集「いざ鎌倉」。
広告には鎌倉の大仏の写真が掲載されておりました。
町の本屋へ行くと、売り切れている。
ちょっと中身を見てみたかったのですが、残念。

結局、ネットでその雑誌を注文しました。
鎌倉の大仏が、どのように写されているのか、
その興味から。

そういえば、齋藤十一氏は、鎌倉明月谷に住んでおりました。
1965年結婚「鎌倉明月谷に新築した家に転居し、終生この家に住む」とあり、2000年に86歳で亡くなっております。2001年「鎌倉・建長寺龍生殿にて葬儀、建長寺塔頭・回春院墓地に眠る」と略年譜にあります。

さて、齋藤美和編の「編集者齋藤十一」(冬花社・2006年)に、野中昭夫氏の文が掲載されており、今回あらためて読み直しております。その途中から引用してみます。

「・・・昭和36年(1961年)の新年号から『芸術新潮』が『読む雑誌から見る雑誌へ』と大判化し、写真も多く掲載することになって、松崎国俊さんと二人で写真を担当することになった。週刊誌大になった『芸術新潮』の巻頭十五ページは[芸術のある風景]という写真特集シリーズでスタートした。・・・
三・四日撮影して、二、三十本のフィルムを抱えて夜行で帰京する。早朝の暗室に飛び込み、現像、引き伸ばしを終えて渡す。四階の編集室では、齋藤さんと山崎さんが写真について検討中。・・やがて山崎さんからの呼び出しがあって編集部に行くと、齋藤さんの姿はなく、『もう一度取り直しに行く。明日出かけるよ』の一言。この雑誌に来てからは、二度ならず三度の撮り直しをしたことすらあった。『齋藤さんは何をお望みなんでしょうか』。答えは『何をじゃないよ。どう撮るかだよ』。
さらに、『齋藤さんという方はご自分を読者の一人と考えているから、当たり障りのない写真では満足しない。雑誌を開いてハッとするような写真でないと読者は買ってくれない』とも。
このシリーズを撮り出した頃は、土門拳氏と入江泰吉氏のことがいつも頭の中にあって、お二人の魅力ある写真に近づきたいと思っていた。いや、追い越してやるなんて力んだ時もあった。だがこの思いは、撮り直し、撮り増しを何とか繰り返しているうちに、間違っていると考えるようになった。
先生方の作品を意識しても、決して同じ写真は撮れない。
この[芸術のある風景]のシリーズは十二月号で終わったが、この一年間で、京の寺社、洛中、洛外、西、東、上ルに下ル、大和国原、飛鳥に三輪山等々、多くを学ぶことが出来た。
齋藤さんは、私の写真になんの批評も指示もされず、ただ『もう一度行ってきな』とおっしゃるだけだった。・・・・私が現在も写真を撮り続けていられる原点は、この貴重な一年間の試練があったからだと確信している。齋藤さんはもう七回忌を迎えられる。・・・
『もう、何度でも行ってきな』って十一さんが今も呟いて下さっているように思える。」(p105~108)


ところで、今日「芸術新潮」11月号が届いたのでした。
ひらいて、鎌倉の大仏は、どこだとぱらぱらとめくっていると、
おいおい、p8とp9の見開き二ページに、大仏の左目のアップ。
あとは、p32とp33の見開き二ページに、「東側の真横から見た高徳院の大仏さま」が写されておりました。あとは古い写真が少々。
期待していたのに、え~。これだけ。と最初は思ったのです。
なんせ、雑誌が1500円です。でもp32の大仏だけで満足と、
しばらくしてから、猫背の大仏が身を乗り出して、参拝者の声を聞いてでもくれているような一枚の写真を、もう一度見ております。
ちなみに。新聞広告に掲載された大仏の写真は、雑誌では使われておりませんでした。
うん。よしとします。
p32~33だけで1500円。

さてっと、あなたならどうでしょう。
本屋でパラパラと開いてみたらいかがでしょう。

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明日読む。

2010-11-08 | Weblog
本の整理をしてたら、
雑誌「ノーサイド」1995年5月号が出てきました。
特集「読書名人伝」。最初に
谷沢永一の「阪神大震災 わたしの書庫被災白書」がありました。
この雑誌は、大切にとっておこうと思っていたのですが、
いつのまにか、どこにあったかわからずになっておりました。
まあ、ひさしぶりにひらく新鮮はいいですね(笑)。

そういえば、「近代日本の百冊を選ぶ」(講談社)は伊東光晴・大岡信・丸谷才一・森毅・山崎正和が選ばれた百冊を語っております。こちらは、本棚にあるので、ふらりと手にとることがあります。なんせ、私は読まない癖して、選ばれた本について気になるタイプ。

あと、今回の整理していて出てきた本で
山本七平監修の「ビジネスマンのための『この一冊』」(講談社)がありました。
これ、本棚に置いておこう。

ちなみに、忘れているのに、それでも身近置いてあるのは、
山村修著「狐が選んだ入門書」(ちくま新書)。
これ、すごい本。
これ、一冊あればいいや。と思える本。
でも、私は思うだけ。
ここに紹介されている入門書を
まだ、私は7冊しか読んでいないのでした。
いちおう、ネット古本屋で、この新書に紹介されている本は
そろえられたのですが、未読本のほうが多いのでした。
いまでも、明日読む気でいるわけです(笑)
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文章速達法。

2010-11-07 | 他生の縁
たとえば、斎藤美奈子著「文章読本さん江」(筑摩書房・2002年)の最後に、
「引用文献/参考文献」として「文章読本・文章指南書関係」と「文章史・作文教育史関係」とにわけて列挙しておりました。
そこには、堺利彦著「文章速達法」(講談社学術文庫・昭和57年)は、取り上げられておりませんでした。ちなみに、谷沢永一著「大人の国語」(PHP研究所・2003年)の最後にある「附録『文章読本』類書瞥見」にも堺利彦著「文章速達法」は掲載されておらない。

別な角度から、みていきましょう。
清水幾太郎著「私の文章作法」(中公文庫)は、先の斎藤美奈子氏の本に登場しておりません。「大人の国語」の方には、中公文庫へ入るまえの清水幾太郎著「日本語の技術」という題で、入っておりました。


清水幾太郎著「私の文章作法」を、文庫へと入れるように薦めたのは、山本夏彦(どこかに自分が文庫へ入れるように薦めたと書いてあったのだけれど、それが見あたらない)。
関連する文は、山本夏彦著「愚図の大いそがし」・「完本 文語文」(どちらも文芸春秋)の両方に書かれております。たとえば、

「噺家は芸人である。芸人を芸術家より低いと思ってはならない。芸人のまねはしても芸術家のまねはするな。実は私だって文を売る芸人だと清水は言っている。」(「完本 文語文」p172)と夏彦氏は書いておりました。

さてっと、中公文庫の清水幾太郎著「私の文章作法」には、最後の解説を「狐」さんが書いておりました。8ページほどの文の2ページ目に堺利彦氏が登場している。

「・・・大逆事件のとき偶然にも入獄していて連座を免れ、出獄後は『売文社』を設立して文章代作の商売を始めていた社会主義者、堺利彦の『文章速達法』である。堺は作文の要諦を『そのまま、ありのままにさらけだす』ことにあるとした。・・・ただし『文章速達法』の痛快さは、著者の強調する『そのまま、ありのまま』の文章法を、ほかならぬ著者自身がほぼ全篇にわたって裏切り、否定し、出し抜き、結局は堺利彦という書き手がすぐれて技巧的な文章家であることを平気で露呈しているところにある。・・・」(p198)


ちょいと脇道にそれますが、狐さんの解説では
「清水幾太郎が文章について霧が晴れるように平明に開かれた言葉を語る『私の文章作法』が文庫になった。私は拍手する。」

というのが最後のしめくくりでした。

斎藤美奈子著「文章読本さん江」で、参考にもされなかった『私の文章作法』であります。
まあ、読んでなかったのでしょう。しかたないのかなあ。

書誌学者たる谷沢永一氏の類書瞥見ではきちんと昭和52年清水幾太郎著「日本語の技術」と紹介されているのですが、普通の読者には、それが中公文庫の「私の文章作法」だと気づく方は、よっぽどの方しか、まあ、わからないでありましょう。いわく不親切。ちなみに文庫の「私の文章作法」には、「『私の文章作法』1971年10月潮出版社刊」と明記しておりますので、これだけだと、清水幾太郎の「日本語の技術」と「私の文章作法」とが同じものだとは(内容は書きかえがあるのですが)どなたもわからないでしょう。

ここで、堺利彦の文章の系譜というので、
うれしい記述が読めたのでした。
それが黒岩比佐子著「パンとペン」(講談社)。
ちょっと長くなりますが、おつきあいください。


「福沢諭吉がこの『文字之教 附録手紙之文』を書いたのは、まだ人々が丁髷(ちょんまげ)を切ってまもない時期で、もちろん、文例の手紙文は言文一致ではない。それでも、福沢は『難き字を用る人は文章の上手なるに非ず。内実は下手なるゆへ、ことさらに難き字を用ひ、人の目をくらまして其下手を飾らんとするか、又は文章を飾るのみならず、事柄の馬鹿らしくして見苦しき様を飾らんとする者なり』と述べている。
要するに、福沢は飾らずに平易な文章を書け、と主張したのだが、堺が『言文一致普通文』で指摘したのもまさに同じことだった。この『文字之教 附録手紙之文』を堺は読んでいたのではないか。というのも、堺は『予の半生』で『予は福沢先生より多大の感化を受けた事を明言して置く』とわざわざ断っているのである。
堺は小学校で福沢諭吉の『世界国尽(づくし)』を暗記して育った世代で、幼くして福沢の名前は頭に刻みこまれていた。しかも、福沢は豊前国の中津出身で、堺の父が十五石四人扶持だったように、中津藩士だった福沢の父は十三石二人扶持で、武士としての身分は低かった。偶然とはいえ、福沢諭吉も一時は養子になって、堺と同じ中村姓を名乗っていたことがある(『福翁自伝』)。同じ豊前人で、いまや日本を代表する偉人である福沢諭吉を、堺が意識していなかったはずはない。売文社の一員だった白柳秀湖もそれを裏づけている。秀湖は、自分が文筆人として啓発されたのは島崎藤村や堺利彦や山路愛山だったが、なお遡っては福沢諭吉の思想と文章だったと述べ、『福沢の文章と思想とを著者にすすめて呉れたのは堺利彦氏であつた。このことはあまり知られて居ぬが、堺氏は福沢の最も熱心な敬仰者の一人であつた』と回想している(『歴史と人間』)。・・・・」(p83~84)


「文章」という系譜をたどるときに、福沢諭吉から堺利彦へと続く流れを見逃しては、これからはいけない。ということに私はいたします(笑)。


おっと、「狐」さんこと山村修氏の著書「狐が選んだ入門書」(ちくま新書)にも、言及しておかなければ。

そこでの第一章「言葉の居ずまい」の最後に「切れば血とユーモアの噴き出る文章術   堺利彦『文章速読法』」と題して紹介文が掲載されております。そのさわりをすこし引用。


「読んでいておぼえるのは、大正四年に出た文章入門書が、いまなお実用書として十分に通用する(!)というおどろきです。けっして古びていません。むしろ、みずみずしいくらい。それは清水幾太郎『論文の書き方』(岩波新書)のような文章指南のロングセラーと読みくらべてもわかります。」(p46)


最後にもう一度。
谷沢永一著「大人の国語」にも
斎藤美奈子著「文章読本さん江」にも
そのどちらにも、
堺利彦著「文章速達法」は紹介されておりませんでした。
ちなみに、清水幾太郎著「論文の書き方」は、どちらも
しっかりとはいっているのでした。



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両手をひろげ。

2010-11-06 | Weblog
黒岩比佐子氏の本は2~3冊しか読んでいないのでした。
そんな私にも、わかる感じをうけるのは、
テーマを踏みはずさないということなのだと思います。
ひとりで、書かれておられる。ひとりで立っておられる。
そこから、編集という仕事への地続きの手ごたえをおもちで、
さらには、書くことへの基本のテーマを離さずにおられる。
ちょうど、磁場に、砂鉄が円を描くように資料が並びはじめ。
そんな、臨場感を読む者へ味読させていただける。
そこに、文壇を発想しない矜持でもって、立つ強さをお持ちで。
それが、文壇の視点では、うかがえない裾野に下り立つような、
いわば、第一歩を読者に共有させていただける。
そんな、共感を抱かせてくれるのでした。
たとえば、村井弦斎・国木田独歩・堺利彦と並べて、
3人の文を思うにつけ、視点の独創性が透けて見えるようです。
白い紙に、ひとり両手をひろげて佇む。そこに資料が描き始める方向を丹念になぞってゆく。そんな静かな情熱を、読む私にもたらしてくれる。ここに、あらたに掘り起こすにたる系譜を、たかだかと掲げられたのだと。そんなことを、ぼんやりと思うのでした。

自分の舌足らずな言葉を恥じるばかりですが、
備忘録として、書き込んでおきます。
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殊勝にも。

2010-11-05 | 他生の縁
本の整理をしていると、ついブログへの書き込みがおっくうになります(笑)。
段ボール箱の本を、入れ換えてみたり。本棚に見えるようにして並べてみたり。
まるで、私にとっては、文章を書きかえているような感じ。
とりあえず、
ミカン箱くらいの段ボール箱で、150箱ぐらいです。
いやになるのは、そのほとんどが未読。
あとは、本棚の本ということになります。
未読本のことを思えば、本を購入する場合じゃないのに・・・。

最近詩人の田村隆一氏の全集が刊行されるようなので、
とりあえず、田村隆一詩集やエッセイを本棚に並べてみました。
あんまり、面白いので、これじゃ田村隆一の泥沼からぬけられないと、
処分してしまったエッセイのことが思い出されたりします。
となりに、W・H・オーデンを並べてみたり。

ほかには、追悼文をテーマに本棚に前後して並べてみたりします。
雑誌の追悼文があるなあ。と思ったり。
いや、とりあえず、未読本を本棚に並べるようにしないと、
いつまでたっても、読めないなあ、と思ったり。
そんなふうにして、時間は過ぎていきます。
本を購入したのも多少の縁。
本の表紙の顔ばかりじゃなくて、
本の内容ぐらいは触れたいと、こういう整理のときだけは
殊勝にも思うわけです。
けれども、本をひらいてしまうと、整理はそこで止まります(笑)。

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千と千尋。

2010-11-01 | 古典
ときどき、宮崎駿の「千と千尋の神隠し」の場面を思い浮かべることがあります。
集中豪雨のテレビ映像など、水に関係する映像をみると、思ったり。

最近は、古新聞を見ていて思い浮かべました。
産経新聞の探訪という写真のページでした。
熊本県宇土市「長部田海床路(ながべたかいしょうろ)」。
満潮時に水没する道。
説明書きは、こうはじまっておりました。

「夜明け前の闇の中、水面に反射する街灯が沖まで続いている。干潮時、車や人が普通に行き来していた道路は姿を消し、代わりに広がっているのは不思議な景観だ。・・・」

写真は、海の先へ電柱が並んでいる風景。電柱には街灯が一本ずつについており、夜、満潮の海が電柱の下を満たしていて、街灯が水に反射している不思議。


映画「千と千尋の神隠し」では、水なし川を渡って湯屋へ近づくところから、オクサレさまの川の神。よく思い浮かぶのは、後半の電車に乗る場面。海の上に顔を出しているプラットホーム。そこへと波をかきわけて電車がやってきて千尋を乗せて走りだす。あの場面。


本がはいったダンボール箱を整理していたら、その「千と千尋の神隠し」が入った箱がありました。さてっと、あとで読みたいときに簡単にひらける(笑)。とりあえず、スーザン・J・ネイピア著「現代日本のアニメ」(中公叢書)の最後にある「千と千尋の神隠し」の21ページほどの文を読み返して満足しております。
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