森銑三・柴田宵曲「書物」(岩波文庫)を
本棚からとりだしてくる。
そこに「見る書物」(p138~)という箇所がありました。
「書物を便宜上『読むもの』と極めて、
これまで叙述を続けて来たが、それには例外がある。
『読む書物』の外に『見る書物』がある。・・・
古くは鎌倉室町時代を中心に作られた多くの絵巻物は、
わが国の『見る書物』として第一に挙げられるべきものであろう。
巻物(巻子・かんす)は書物の古い形式で、
後に出来た折本(帖)袋綴本などに較べては
取扱が厄介であるけれども、この絵巻物は、
巻物の性質を最も活かして使っているもので、
始から巻舒(けんじょ)しながら見て行くにつれて、
内容の絵の場面が移り、事件が進行して行く。
そこに今の映画とも共通する効果があって、
絵巻物独自の面白味が存する。そして
絵巻物はやはり絵巻物として、原型のままで
観賞すべきものだということが了解せられる。
というて、現在国宝やら重要美術品に指定されている
多くのすぐれた絵巻物の原物を、親しく手に取って
見るなどというのは、一般の者には
頭から出来ぬ相談であるが、幸いにして
今ではそれらの複製本が多数に作られており、
鳥羽僧正の『鳥獣戯画』など、原物からして墨絵
のものなど、複製本でも遺憾なくその面白さが
味われる。絵巻物はわが国の創製ではないが、
優秀な絵巻物を多数に有することにおいて、
わが国は絵巻物の国ということが出来るであろうか。
わが国の誇るべき文化財の一に絵巻物があるのである。
そしてこれらの絵巻物には、『源氏物語』『枕草子』
などの巻子以下、大和絵の人々が多く筆を執っている
ところから、それらは美術品たると同時に、
過去の風俗の研究資料としても大きな価値を持つ。
それで絵巻物を主としてのわが国の風俗の研究は、
既に江戸時代から始められているものの、なお
これはただ風俗の変遷を知るというのに止らず。
もっと広く過去の国民生活を知る上に、いろいろ
役立てることが出来るはずである。
なお今後絵巻物の研究は一層進められるべきで
あろうと思われる。・・・」
はい。「日本絵巻大成」は
まだろくの開いてもいないのでした(笑)。
ちなみに、「書物」のはじめの方に
こんな箇所
「書物そのものは死物であるが、
その奥にある著者その人に直面し、
その息吹の感ぜられる読書家にして、
始めて真の読書家の資格ありというべきである。
読書家もイキがよくなくてはならない。
イキのよい読書家にして、始めて
良書か非良書かが識別し得られるであろう。」(p31)
本棚からとりだしてくる。
そこに「見る書物」(p138~)という箇所がありました。
「書物を便宜上『読むもの』と極めて、
これまで叙述を続けて来たが、それには例外がある。
『読む書物』の外に『見る書物』がある。・・・
古くは鎌倉室町時代を中心に作られた多くの絵巻物は、
わが国の『見る書物』として第一に挙げられるべきものであろう。
巻物(巻子・かんす)は書物の古い形式で、
後に出来た折本(帖)袋綴本などに較べては
取扱が厄介であるけれども、この絵巻物は、
巻物の性質を最も活かして使っているもので、
始から巻舒(けんじょ)しながら見て行くにつれて、
内容の絵の場面が移り、事件が進行して行く。
そこに今の映画とも共通する効果があって、
絵巻物独自の面白味が存する。そして
絵巻物はやはり絵巻物として、原型のままで
観賞すべきものだということが了解せられる。
というて、現在国宝やら重要美術品に指定されている
多くのすぐれた絵巻物の原物を、親しく手に取って
見るなどというのは、一般の者には
頭から出来ぬ相談であるが、幸いにして
今ではそれらの複製本が多数に作られており、
鳥羽僧正の『鳥獣戯画』など、原物からして墨絵
のものなど、複製本でも遺憾なくその面白さが
味われる。絵巻物はわが国の創製ではないが、
優秀な絵巻物を多数に有することにおいて、
わが国は絵巻物の国ということが出来るであろうか。
わが国の誇るべき文化財の一に絵巻物があるのである。
そしてこれらの絵巻物には、『源氏物語』『枕草子』
などの巻子以下、大和絵の人々が多く筆を執っている
ところから、それらは美術品たると同時に、
過去の風俗の研究資料としても大きな価値を持つ。
それで絵巻物を主としてのわが国の風俗の研究は、
既に江戸時代から始められているものの、なお
これはただ風俗の変遷を知るというのに止らず。
もっと広く過去の国民生活を知る上に、いろいろ
役立てることが出来るはずである。
なお今後絵巻物の研究は一層進められるべきで
あろうと思われる。・・・」
はい。「日本絵巻大成」は
まだろくの開いてもいないのでした(笑)。
ちなみに、「書物」のはじめの方に
こんな箇所
「書物そのものは死物であるが、
その奥にある著者その人に直面し、
その息吹の感ぜられる読書家にして、
始めて真の読書家の資格ありというべきである。
読書家もイキがよくなくてはならない。
イキのよい読書家にして、始めて
良書か非良書かが識別し得られるであろう。」(p31)