和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

とてもようしよらん

2024-06-21 | 思いつき
曽野綾子著「揺れる大地に立って 東日本大震災の個人的記録」
( 扶桑社・2011年9月10日発行 )に
スイス連邦法務警察省発行『 民間防衛 』という本が紹介されていました。

その紹介しながら、
「備品の中に聖書があるというのもスイスらしい。 
 日本だったらもちろんお経文を持ち込む人もいるだろう。
 両親や妻子の写真が代わって、人を勇気づけることもあるだろう。
 何でもいいのだ。人間は敬い、愛するものを持たねばならない。 」
                        ( p113~114 )

ところで、このすこし前に「 南極越冬隊の装備 」という言葉があって、
あれっと、おもいました。

「 人間の性格はそれが世間通りの
  いいものであれ悪いものであれ、
  使いようということはあるのである。
  だから私は一度、南極越冬隊の装備を
  手がけてみたいとさえ思ったことがある。 」(p113)

ここに『 南極越冬隊 』という言葉がある。
そうだ、と思い浮かぶのは西堀栄三郎著「南極越冬記」でした。
梅棹忠夫氏が、その本ができるまでを書いていたのが印象的でした。
そこを引用。南極越冬から帰ってきた西堀氏の様子からでした。

「西堀さんは元気にかえってこられたが、それからがたいへんだった。
 講演や座談会などにひっぱりだこだった。
 越冬中の記録を一冊の本にして出版するという約束が、
 岩波書店とのあいだにできていた。

 ある日、わたしは京都大学の桑原武夫教授によばれた。
 桑原さんは、西堀さんの親友である。桑原さんがいわれるには、

『 西堀は自分で本をくつったりは、とてもようしよらんから、
  君がかわりにつくってやれ  』という命令である。・・・

 まあ、編集ぐらいのことなら手つだってもよいが、
 いったい編集するだけの材料があるのだろうか。
 ゴーストライターとして、全部を代筆するなど
 ということは、わたしにはとてもできない。

 ところが、材料は山のようにあった。
 大判ハードカバーの横罫のぶあついノートに、
 西堀さんはぎっしりと日記をつけておられた。
 そのうえ、南極大陸での観察にもとづく、
 さまざまなエッセイの原稿があった。

 このままのかたちではどうしようもないので、
 全部をたてがきの原稿用紙にかきなおしてもらった。
 200字づめの原稿用紙で数千枚あった。これを編集して、
 岩波新書1冊分にまでちぢめるのが、わたしの仕事だった。

 わたしはこの原稿の山をもって、熱海の伊豆山にある
 岩波書店の別荘にこもった。全体としては、
 越冬中のできごとの経過をたどりながら、
 要所要所にエピソードをはさみこみ、
 いくつもの山場をもりあげてゆくのである。

 大広間の床いっぱいに、ひとまとまりごとに
 クリップでとめた原稿用紙をならべて、
 それをつなぎながら冗長な部分をけずり、
 文章をなおしてゆくのである。

 ・・・どうやらできあがった。この別荘に
 一週間以上もとまりこんだように記憶している。・・ 」
        
    ( p15~16 「 西堀栄三郎選集 別巻 西堀栄三郎追悼 」 ) 


はい。私はたまたま『 安房郡の関東大震災 』と題して
1時間ほどの講習をするのですが、
『安房震災誌』と『大正大震災の回顧と其の復興』の2冊だけで
その内容の材料は山ほどありました。 
そこから、それこそ曽野綾子さんも登場させながら、
冗長な部分を削りながら、時間内に語る内容を編集吟味する。
「クリップでとめた原稿用紙をならべて」なおしてゆく。
講習録を作るとして、それまでに、あと2ヶ月。         
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講座予定日は、8月28日(水曜日)。

2024-06-14 | 思いつき
昨日は、近所の高校へ公民館講座のお願いにゆく。
公民館の方と、推進員の方と、私とで。
昨年の関係された先生方は移動になり、
新しい先生に挨拶。とりあえず、主旨と予定日とを
推進員の方が用意されて挨拶して帰る。

さてっと、今年は当ブログで思いつくことを書いてきましたが、
これを振返って、ほぼ1時間の講座へとまとめるようにします。

とりあえずは、目次よろしく項目をたてて、
その項目にあたる箇所をうめてゆくことにして、
最後に、その順番を決めてゆけばよいかなと思っております。
ということで、項目を順不同にまずは並べてみる。

〇 参考文献一覧
   できたならば、その本に簡単なコメントいれて
   参考文献だけをみながらでも読めるようにしたい。

〇 関東大震災当日の鏡ケ浦沿岸の被災状況を、引用で埋めてゆく。

〇 当日の北條病院への怪我人搬入の様子を、浮かび上がらせ
  さらに、隣接していた安房郡役所後での吏員の立ち回りを示して、
  その中に、安房郡長大橋高四郎を置いてみる。

〇 当日から2日、3日、4日までを、断片的に時系列においかける。

〇 4日以降の安房郡外からの救援活動の様子を紹介する。
  まず、銚子青年団の一番乗りの道筋をたどってみる。

〇 安房郡長の言葉を紹介してゆく。
   指揮、指示、通達、訓示、表彰状の文面を列挙して
   大橋高四郎の人物像を、おのずと浮き彫りになるようにする。

〇 流言蜚語の拡がりを、各町村の文書のなかからひろってゆく。

〇 米騒動・日露戦争を、その時代背景から歴史的な流れの中で把握。

〇 安房の酪農を、鉄道の開通を示しながら産業としての
  震災前の状況を示して、そのあとに、震災直後の牛乳の無料配布へ及ぶ。

〇 資材調達のための段取り、資金調達と交渉の流れをたどる。

〇 資材、応援物資の陸揚げにかかわる救援活動の紹介。

〇 郡制の意味合いと、郡制の廃止時期を示しておく。

〇 勅使及び山階宮殿下の御慰問への言及


以上の項目別に、これまでの当ブログを読み直し、
それを各当箇所をふりわけてみる。

最後に全体の流れをつなげられれば、一応の完了として、
どなたかに、たとえば推進員の方に読んでもらって、感想を聞く。

はい。そこまでいければ、当日の私が語るシナリオの完成とします。
問題は、いつも、そこまでいけるかどうかなのですが(笑)。
まあ、まだ時間に余裕があるので、早いうちに目鼻をつけます。
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茶の間・床の間・仏間

2024-01-19 | 思いつき
茶室とか、茶道とか、わたしには分からず、
まずもってどう捉えてよいのかが分らない。

などと漠然と思っていたのですが、
あっ、これが手がかりになるかも。
そんな古本の一冊を手にしました。

小泉時著「ヘルンと私」(恒文社・1990年)。
そこに「野口米次郎とセツ」という文がある。
「詩人の野口米次郎氏は、八雲に会いたいと
 思っておられたようだが、二、三日の差で、
 生前の八雲に会うことができなかった。」(p84)

こうはじまる7ページの文と写真。
写真は、葬送の西大久保の自宅前と葬列。
それに、西大久保の家の仏間兼書斎写真があり印象深い。

さて、野口米次郎が、セツの在世中に友人の米人記者を連れて
訪問した様子を記述した文が紹介されておりました。

「文豪ラフカディオ・ハーンの未亡人、節子刀自(とじ)は
 令嬢寿々子さんとハーン在世当時、
   松江から連れて来た腰の曲った老婢よね婆さんと、
   三人で東京市外西大久保の自宅で老後を養っていた・・・・
 刀自は知らぬ人に応接することをあまり好まなかった。」(p87)

この訪問者の箇所も印象鮮やかなのですが、
引用をカットして野口氏が〇〇氏を案内した場面。

「それは『新聞社からの案内ならば困る、筆者(野口米次郎)が
 案内して来て下されるなら面会しましょう』という訳であった。

 約束の時間に訪問した。玄関へお米婆さんが取次に出た、
 名刺を通じて暫くすると、刀自は黒紋付の羽織、令嬢は
 友禅縮緬の礼装で玄関に私等を迎えられた。

 〇〇氏には途中自動車の中で日本の礼儀のことを話しておいたから、
 先ず一礼して静かに外套をとり、靴をぬぎ、静々と導かれるがままに
 庭に面した日本座敷に通された。

 床の間にはハーン愛好の桜花満開の軸が掛けられ、
 その前に香がたかれてある。庭には赤や白の皐月(さつき)が
 今を盛りと咲いているが、五月雨が降っていて薄暗い。

 令嬢が日本の茶とお菓子を礼々しく持って出る。
 〇〇氏はただ無言のままで、日本の座布団の上に
 ヘンな足つきで固くなって坐って居る。
 刀自は・・・

 『お馴れにならないのにこんな室でお気の毒ですから、
  ハーンの書斎に椅子とテーブルを用意しておきましたから』

 と、今は仏間となっている書斎へ案内された。
 それから刀自は、正面の仏壇の扉を開かれ燈火をともし、
 ハーンの肖像と位牌の前に黙礼して生ける主人に対するが如く、
 私共に出されたものと同じ果物やお菓子を供え、
 鈴をチーンと打って、静かに〇〇氏の前へ進まれた。

『 お名刺を一枚いただきたい 』

筆者(野口氏)は〇〇氏に向かい、
『 刀自が今ハーン先生の霊前に貴下の来訪をお告げになるのです 』
と伝えた・・・・

 刀自は〇〇氏の名刺を仏前に供えられてから、

『 はるばるお訪ねくださいました貴下を故人の霊に引合わせました。
  さぞ喜んでいることでしょう 』

 と申された・・・・
 それからいろいろと、ハーンの遺品を出して見せたりされた。
 筆者は〇〇氏に何か質問や希望がないかと聞いた。
 氏は・・・ただ多年憧れて居た大文豪のお住居を訪ね、
 しかもかくまでご丁寧な待遇を受け、
 文豪の霊にまでお引きあわせ下さった事は、
 生ける文豪に直き直き面会したと同じである。
 日本へ来て各方面の見物や諸名士の招待を受けたが、
 今日の如く自分の脳裡に深く印象し、また
 今日の如く嬉しい日は生れて始めてである。・・・・・

何もセツばかりではなく、戦前まではどこの家庭でも 
仏間があり、来客より頂戴物があれば、まずお燈明をあげ、
先祖の霊に捧げてから家族がいただいたものである。・・・」(~p91)



はい。私の昔の家には仏間というのは無かったのですが、
居間兼食堂兼寝室の部屋に備付けの小仏壇はありました。
そんな私にも、仏間のイメージは何だかわかる気がする。

どんな心持で、茶室をイメージすればよいのだろうか。
この本から、私は仏間から茶室へ補助線を引いてみる。
これで、縁遠かった茶室茶道が身近に感じられるかも。

神棚から神社へとつながるように、案外なことに、
茶の間、床の間よりも、仏間から茶室への道のり。
どうせの思いつきなら、このような連想の楽しみ。
 
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お正月のべべ。着古したゆかた。

2024-01-13 | 思いつき
本の検索をしてたら、
大村しげ著「しまつとぜいたくの間」(佼成出版・平成5年)が出ている。
そういえばと、未読の本棚を探すとある。巻末の紹介には

大村しげ。1918年京都府生まれ。京都女専国文科に学ぶ。
     京ことばだけで文章を綴り、京の暮らしや食べ物
     のことを随筆として描く。・・・・

本をパラリとひらき『ぼていっぱいの思い出』という5ページの短文を読む。
はじまりは、

「わたしは生まれたときからずーっと着物で育った。
 そして、70歳を通り越した今でもその着物暮らしが続いている。」

うん。調子づいて引用してゆくことに。

「母は着物ほど安いものはない、というていた。そして、
 ぼて(和紙を張り、柿しぶを引いたかご)にしもうてある反物を見ては、
『 これ、あんたのお宮詣りのべべえ 』とか、
『 お正月のべべやったんえ 』などと話してくれる。」

こうして、ぼてから布を探して、掛布団の中央部分の布にしたり

「母は着物をほどいて洗い張りに出し、きっちりとしもうてあった。
 そして、いうには、
『 着物ほど安いものはないなぁ。着られんようになっても、
  こうしてちゃんと役に立っているのやから 』
 それが口癖になっていた。  」


このあとに、御自分のことになります。

「わたしはまたつぎ当てが好きやった。
 若いくせに、泥(泥染め)の大島などを買うてもらい、
 赤い帯を締めて、お茶やらお花のけいこに通うていた。

 その着物を着古して、身八つ口などが破れてくると、
 薄い絹の布を当ててきれいに繕うた。
 いや、身八つ口どころか、身頃全体が薄うなっている。
 それで全部に布を当てて、着物の裏はつぎが色紙のようである。
 そんな布地をきれいな袷(あわせ)に仕立て上げて、
 何食わぬ顔で出かける。

 『 まあ、ええ柄の大島、着といやすこと 』

 とほめられると、心のうちでにんまりとして、人をだますのはおもしろい。
 こうして、つぎだらけの着物を着て・・・   」

さあ。短文なので、もう最後の引用になります。

「 着古したゆかたは、布がやわらかいので、おしめになった。
  おばあさんは、自分のゆかたで自分が寝ついたときの用意を
  ちゃんとしてはった。

  今は紙おむつのある時代やから、いざというときでも
  すぐに間に合う。そう思うと、
  やっぱり昔の人はえらかった。・・・  」(p30~34)


うん。こんな箇所を引用していると、自分にとって
『 ぼて(和紙を張り、柿しぶを引いたかご)にしもうてある反物 』は、
 何だろうなあと思うのでした。

本棚から、本の断片を切り取ってきて、つないで
さも反物を切り貼りするような引用をしてブログにあげている。

『 しまいまでほかすところがのうて、お役に立つのやから。 』(p34)


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庭掃除から思う露地。

2023-12-15 | 思いつき
70歳が近づくまで、庭の手入れなど考えたこともありませんでした。
はい。庭とは縁遠い家庭の育ちでした。けれど、妻の実家には庭がある。
そしてそれが、主なき家になったときに、庭の手入れがはじまりました。
はい。突然に庭を持った。ということになります。

とてものこと、庭師に手入れを依頼する甲斐性もなく、
コロナ禍で、出かけることも少ない折から庭の手入れ。

この水曜日(13日)も、そんな手入れ日和でした。
足元のツワブキが枯れたと思えば山茶花は満開です。

チンタラチンタラと雑草取りと枝払いをするのですが、
その日は、簡単な粉砕機で、刈り取った枝を砕く作業。

根が怠け者ですから、ボケっと庭を見ていたりします。
すると、作業中も、その後にもあれこれ思うのでした。

今日になって、「茶室を囲む露地(庭)」が思い浮びました。
そのまえに、古本で買ってあった未読本並べ。

「藤森照信の特選美術館三昧」(TOTO出版・2004年)
「足立美術館 日本庭園と近代美術」(山陰中央新報社・昭和55年)
「庭園日本一足立美術館をつくった男」(日本経済新聞出版・2007年)
白崎秀雄著「北大路魯山人」(文藝春秋・昭和46年)

以上4冊を、今月はひらけますように。
ここには、吉田光邦「茶の湯の工芸」(吉田光邦評論集Ⅱ)
から「茶室を囲む露地(庭)」について書かれた箇所を引用。

「この数寄屋としての茶室を囲む露地(庭)をつくるのは庭師、造園師である。
 露地には井泉、つくばい、飛石、燈籠など、
 茶の湯に必要な物が定まっている。
 しかしつくばいの形、燈籠の形、配置などは
 
 すべて自由なのだ。そこに造園の苦心がある。

 さらには庭はいつも手入れし、
 大自然の凝集である特質を保ちつづけねばならない。

 12月には霜よけや雪がこいをし、敷松葉をして苔を守る。
 冬の間には木に肥料を与え、3月、春も近づくと敷松葉などを
 とりのける仕事がある。

 垣根を結い、竹樋をかけ、刈りこみ、灌水などと、
 自然はいつも十分な管理をすることで、
 はじめてその生命は生かされてくる。・・・・ 」(p117)

うん。庭から脱線してゆきますが、
最後にはこちらも引用したくなります。

「これらのハードウェアばかりでなく、
 茶・菓子といったソフトウェア系のものにも、
 それぞれの工人の苦心が払われていることはいうまでもない。

 よい味の茶、そのためには品種の改良、栽培法などに、
 多くの研究と試みがつづけられてきた。

 さらにはほのかな甘さをたたえる菓子に対する
 さまざまのデザインと工夫。京菓子のもつ独自の美しさと味は、この
 茶の湯の世界できずきあげらたものが、ひろく拡散していったためである。

 生菓子はいきものである。そこで茶会の日、時間にまで合せて
 そのとき最もすぐれた味となる菓子も作られる。原料の配合、味ばかりか
 ながめたときの美しさをもたえず念頭において、
 菓子作りの人たちはデザインする。

 そのほか炉でたかれる炭もまた遠い山中の人びとの
 手で焼かれていることを忘れてはなるまい。・・・・・  」(p118)


はい。こんなことが思い浮かぶような仕事ぶりなので
いつまでたっても主なき家の庭の手入れは進みません。
さきの4冊も、どうひらてゆくのか、ひらかないままなのか。
庭の手入れ同様に、はかどらないかもしれないし。

とりあえず、主なき家の庭掃除は、今年はこれでおしまい。






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高齢者特有発作的な読書パターン

2023-11-12 | 思いつき
文春ネスコ編「教科書でおぼえた名詩」(1997年)の
「序にかえて」は丸山薫の詩「学校遠望」でした。
 はじまりの3行は

   学校をおえて 歩いてきた十数年
   首(こうべ)をめぐらせば学校は思い出のはるかに
   小さくメダルの浮き彫りのようにかがやいている

詩「学校遠望」の最後の4行は

   ・・・・・
   とある窓べでだれかがよそ見して
   あのときのぼくのようにぼんやりこちらをながめている
   彼のひとみに ぼくのいるところは映らないのだろうか?
   ああ ぼくからはこんなにはっきり見えるのに


はい。どのように『 はっきり見える 』のだろう。
その筋道を、いったい何歳になったらたどれるのか。
ということが、津野海太郎著「百歳までの読書術」(本の雑誌社)を
ひらいていたら、思い浮かんできまいた。そのあとがきには

「このタイトル(百歳までの読書術)をつけたのは私ではない。
 本書のもとになった連載を企画してくれた『本の雑誌』発行人の
 浜本茂氏である。・・・・

 『百歳までの読書術』は、私にとっては
 『七十歳からの読書術』とほとんどおなじ意味になる。・・・・

 このさき、じぶんの読書がどのように終わってゆくのか、
 そのおおよそがありありと見えてきた。・・       」

さてっと、本文に『老人にしかできない読書』という文があり、
はじめの方を引用しておくことに。

「・・まだ少年や青年だったじぶんが大切にしていた
 なんらかのイメージが、何十年かの時間が経過したのち、
 思いがけず発見された新資料や大胆な仮説によって
 ガラリと一変させられてしまう。

 そのおどろきから、とつぜん新旧を問わない
 本から本への集中的な『渡り歩き』がはじまる。・・・
『老人読書』とは、このような高齢者特有の発作的な読書パターンをさす。

 なぜ高齢者特有というのか。
 少年や青年、若い壮年の背後には、ざんねんながら、それから
『何十年かの時間が経過した』といえるだけの時間の蓄積がないからだ。
 だったら当然、かれらにその種の読書があるわけがない。 」                                           
                            (p172~173)


はい。ちょいっと、丸山薫の詩と、老人の読書とを
つなげるのは無理があるでしょうか(笑)。
でも、このように無理してもはじめてみたかった。

ということで、次につながっていきますように。
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本をバラす、入刀記念日。

2023-11-09 | 思いつき
津野海太郎著「百歳までの読書術」(本の雑誌社)に

「六十代までは硬軟を問わず、本はベッドや電車、
 もしくは歩きながら路上で読むのがふつうだった。」(p40)

とあります。私に思いあたるのは、電車や、たとえば病院の待合室での
読書はごく普通だったのですが、ベッドは腕が疲れるし、
何しろ、すぐに寝てしまう睡眠導入剤みたいにしておりました。

「持ち歩きに不便な重い本はバラして読んだ。」(p40)

本はバラせば断然読みやすくなる。
それはそうでしょうが、今まで本をバラす習慣は、私には皆無で、
最近になって、古本が安いのと、画集などはバラした方が面白い。
その味を段々と知ってきたのでした(笑)。

それでも、単行本をバラすところまではいっていませんでした。
読んでると、新書がバラバラになってしまうことはありました。
でも、自分から本をバラす。

ということで、今回、松田哲夫著「縁もたけなわ」をバラす。
ケーキ入刀じゃなくって、本の内側のどにカッターを入れる。
またこれが、よい本なのに、売れなかったのか初版なのです。
はい。古本でも安いので、本としてまた買えばいいし気が楽。
各章の各段で、南伸坊さんの顔イラスト拝見がバラせば一望。

それはそれとして、バラしていたら秋野不矩さんの箇所がでてくる。
秋野不矩著『画文集 バウルの歌』は持っていて嬉しくなった本でした。
それについて書かれた箇所がある。

はい。本の入刀記念。目にはいった、この箇所を引用しておくことに。

「この『画文集 バウルの歌』は、路上観察学会メンバーが協力して作った。
 プロフィール写真の撮影を赤瀬川原平さん、装丁を南伸坊さんが担当した。

 藤森照信さんは、『週刊朝日』に思いのこもった書評を書いてくれた。
 ちょうどそのころ、藤森さんは建築家としての作品を作り始めていた。

 そして、藤森建築のたたずまいと不矩さんの絵とは、共通点があると思っていた。
 ちょうど、故郷の天竜に美術館を作る話があったので、路上の仲間たちは、
 半ば冗談で『藤森建築で美術館を』と話していた。不矩さんは、藤森さんの
 処女作『神長官守矢資料館』を見ていて、その造形力に深く感心し、
『この人に頼みたい』と宣言した。・・・・・・
 そして、98年に『秋野不矩美術館』は完成披露された。

 ところで『画文集 バウルの歌』の見本ができた時、
 それを担いで京都に向かった。不矩さんに手渡すと
『本になるなんて、夢のよう』と顔をほころばせた。そして、

 その夜、不矩さんは枕元にこの本を置いて寝たが、
 嬉しくてほとんど眠れなかったという。・・・・
 不矩さんにはこういう初々しさもあるんだと知って、なんだか楽しくなった。
 不矩さんは、99年、文化勲章を受章し、01年、亡くなった。
 享年93歳だった。  」(p216)


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きわもなく。隈(くま)モナシ。

2023-10-07 | 思いつき
まるっきり読んでいない本の癖して、
題名だけが気になる本ってあります。

最近になって思い浮かぶのが
丹治昭義著「宗教詩人宮澤賢治」(中公文庫1996年)。
うん。親鸞さんからの連想でした。


親鸞について、増谷文雄氏の対談の言葉に

「たとえば『和讃』のいちばんはじめですな、
 『讃阿弥陀仏偈和讃』ですね、これは全部原文がありますですね。

 それを親鸞はなんとかやわらかくしようとしながらも、原文の
 大事なところは原文のままに生かして『和讃』をつくっているのですね。

 ・・・・・・
 たとえば『智慧光明不可量』なんていう原文がありますね。
 それを『智慧の光明はかりなし』と訳しておる。

 あるいは、『法身光輪遍法界』とあると、
 『法身の光輪きわもなく』としています。

 それはもうほとんど読み下しなのです。
 むずかしい言葉を使っておられるのですが、
 それは原文をできるだけ生かそうとしておられるようですね。」
      ( p10~11 「日本の思想3 親鸞集」別冊・筑摩書房  


この箇所やらなにやらで、私に思い浮かんだのは、
宮澤賢治教諭がつくった農学校の「精神歌」(大正11年)。
それは歌詞が4番までありました。
ここでは、各1~4番の、はじまりとおわりの行とを引用。

1 日ハ君臨シカガヤキハ ・・・ マコトノクサノタネマケリ

2 日ハ君臨シ穹窿ニ  ・・・・ 気圏ノキハミ隈モナシ

3 日ハ君臨シ瑠璃ノマド ・・・ 白亜ノ霧モアビヌベシ

4 日は君臨シカガヤキノ ・・・ ワレラヒカリノミチヲフム


もどって、最初に引用した対談での最後の方で、増谷文雄氏が
指摘されていた言葉がありますので引用したくなります。

野間宏氏が『極楽というようなものもあってもなくてもいいんだという、
そこの、つまり強さですね。その極楽という一つのフィクションという
のかな・・・』
これを引き受けて、増谷氏は語っておりました。

『あなたが極楽をフィクションといってしまわれると
 私どもは非常に楽になるのです。仏教の中に身を置いておりますと、
 極楽はフィクションだなんていう言葉は容易に使えないです。・・・

 ・・・・・・

 密教的フィクションの場合は、これはいわゆる地上だけでといいますか、
 高きところのものを仰がずしてできますね。

 親鸞の場合には大きなフィクションが、光り輝くものがあったわけですな。
 無量光という光を考えるのが親鸞の場合の一つの決め手でございますな。
 ・・・・・
 親鸞にとってはフィクションというのは光として
 受け取られていたような気がするのですね。   」(p15)


はい。ここで本の題名が思い浮かんできたのでした。
それが、丹治昭義著「宗教詩人 宮澤賢治」でした。
副題には「大乗仏教にもとづく世界観」とあります。

はい。次はこの中公新書を開いてみたくなりました。


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扇谷大明神。

2023-09-11 | 思いつき
櫻井秀勲著「戦後名編集者列伝」( 編(あむ)書房・2008年 )。
ちょっと気になった箇所が思い浮かんだのでひらいてみる。
目次をみると、第一回が池島信平ではじまり、第三十回まで。
その第七回は扇谷正造でした。そこに、こんな箇所がありました。

「・・・・一時間もやると、最低でも十本は面白いプランが出てきたものだ。
 まさに扇谷大明神だった。

 扇谷正造は話すうちに、次第に興奮してくるタイプだった。
 火のような魂をもっているといわれたが、けんかっぱやいのである。

 だがこのタイプは、成功する率がかなり高い。 」(p72)


う~ん。『扇谷大明神』というネーミングは、
これは著者櫻井氏が考えたのかなあ。

ちなみに、この第七回のはじまりの箇所も引用しておきたくなります。

「『週刊誌の鬼』といえば、扇谷正造(おおぎやしょうぞう)を指す。
 なにしろ『週刊朝日』の編集長を引き受けたときの部数は
 わずか十万部で、返品率25パーセントという惨状だった。

 これを朝日の幹部は『なんとか三十五万部まで上げてくれ』
 と扇谷に頼んだ。そこまでいけば黒字になる。

 ところが扇谷は八年のうちになんと、百三十八万部という、
 週刊誌で日本初の大記録を打ちたてたのである。

 鬼というより、天才というほうが正しいだろう。  」(p66)
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迷いから離れる門出。

2023-09-05 | 思いつき
最近、NHKBSでは、再放送が花盛り。
うん。この機会に『街角ピアノ』をまとめて見たいと
8月15日からこまめに録画しはじめました。

私のことですから、録画し忘れることしばしば。
それでも聞き流す程度だった『街角ピアノ』に
登場する人たちの顔が見えるようになりました。

それはそうと、鴨長明『発心集』下巻の
現代語訳をひらきはじめました。

うん。下巻は音楽に関係する箇所が気になります。
そういえばと鴨長明『方丈記』(ちくま学芸文庫・浅見和彦校訂・訳)
の「仮の庵のありよう」(p162~163)から現代語訳を引用。

「いまあらたに、日野山の奥に隠れ住んでから後、
 東に三尺余りのひさしをさし出して、柴を折って、焚きくべる場所とする。
 南には竹のすのこを敷き、その西側に閼伽棚(あかだな)をつくり、
 北の方に寄せて障子を隔てた、阿弥陀の絵像を安置し、
 そばに普賢菩薩の絵像をかけ、
 南には『法華経』を置いている。
 東の端にはわらびのほどろを敷いて、夜の床とする。

 西南に竹のつり棚をもうけ、黒い皮籠を、三つ置いてある。
 すなわち、その中には和歌、管絃、『往生要集』などの書物をいれてある。

 そのかたわらに、琴、琵琶、それぞれ一張ずつたてかける。
 いわゆる折琴、継琵琶がこれである。

 仮の庵の様子は以上のとおりである。   」

以前に、詩人の茨木のり子の二階建ての家の写真集を見てました。
方丈記の鴨長明の、方丈の家のようすは、ちくま学芸文庫には、
p157に、「河合神社内に復元された方丈の庵」の写真と、その復元図。
p159に、「方丈の庵(復元)の内部」の写真。
p160に、「方丈の庵内部の復元イラスト」が掲載されております。

そうでした。楽器でした。「発心集」下巻にこんな箇所があります。

「大弐源資通(すけみち)は琵琶の名手である。
 源信明(のぶあきら)の弟子、大納言源経信(つねのぶ)の師である。

 この人は、全くもって通常の修行はしないで、
 ただ、毎日持仏堂に入り、琵琶の曲を弾いて回数を数えさせ、
 その演奏を極楽に廻向しこれを修行に振り替えたという。

 修行というものは行為と情熱とによるものなので、
 必ずしもこれらを無駄と思うべきではない。

 中でも数寄というのは、人との交際を好まず、
 我が身が落ちぶれることも嘆かず、
 花が咲いたり散ったりするのを哀れみ、
 月が出たり沈んだりするのを思うにつけ、常に心を澄まして、
 世間の濁りに染まらないのを専らにしているので、

 自然と無常の理が理解でき、
 名誉や利益への執着も尽きるのである。
 したがって数寄は迷いの世界から離れる
 門出となるに違いないと思います。・・・   」(p215・現代語訳)


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ドローン『飛鉢の法』

2023-09-03 | 思いつき
鴨長明著「新版発心集」上巻(角川ソフィア文庫)。
はい。私のことですからもちろん現代語訳の箇所をひらきます。

その現代語訳を読みすすめていると、何だか現代のことを
読んでいるような不思議な気分になってくるのであります。

ここは、ひとつ引用。
「浄蔵貴所(じょうぞうきそ)が鉢を飛ばすこと」(p350~352)

「浄蔵貴所と申し上げるのは・・・並ぶ者のない行者である。
 比叡山で飛鉢の法を修業して、鉢を飛ばしながら暮らしていた。

 ある日、空(から)の鉢だけが戻って来て、中に何も入っていない。
 不審に思っていると、これが三日間続いた。・・・

 四日目に、鉢の行く方角の山の峰に出て様子を見ていると、
 自分の鉢と思われるものが、京の方向から飛んで帰って来る。
 すると北方からまた別の鉢が来合せて、その中身を移しとって、
 元の方角に帰っていくのが見えた。 」

こうして犯人さがしにむかうのでした。

「・・老齢の痩せ衰えた僧がただ一人いて、肘掛けによりかかりながら
 読経している。『見るからにただ者でない。きっとこの人のしわざだろう』
 と思っていると、老僧は浄蔵を見て
『どこから、どのように来られた方か。
 普通では人がお見えになることなどございませんが』と言う。

『そのことでございます。私は比叡山に住んでおります修行者です。
 しかし生計を立てる方法がないので、この度、鉢を飛ばして、
 人から喜捨を受けて修行を続けておりましたが、
 昨日・今日と、大変不都合なことがございましたので、
 一言申上げようと、参上致しました』と言う。

 老僧は『私は何も知りません。でもとてもお気の毒なことです。
 調べてみましょう』と言って、ひそかに人を呼ぶ。

 すると庵の後ろから返事があり、出て来た人を見ると、
 十四、五歳くらいの美しい童子で、きちんと唐綾の華やかな装束を着ている。
 
 僧はこの童子に『こちらの方がおっしゃっていることはお前のしわざか。
 全くあってはならないことだ。これから後は、そのようなまねはしては 
 いけないよ』と諫めると、童子は赤面し、何も言わずに下がっていった。

 『こう申しておきましたので、今はもう同じようなことはしますまい』
 と言う。

 浄蔵は不思議に思いながら、帰ろうとする時、
 老僧は『はるばる山を分け入って来て下さり、
 きっとお疲れでしょう。ちょっとお待ち下さい。
 接待申上げたい』と言って、また人を呼ぶ・・・・

 浄蔵は『老僧の様子は、ただ者とは思えなかった。
 法華経を読誦する仙人の類だったのだろうか』などと語ったという。
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讃岐の国の源太夫が。

2023-08-22 | 思いつき
鴨長明『発心集』上の現代語訳をめくっていたら、
『讃岐の国の源太夫がにわかに発心し、往生した事』(p320~323)
というのが載っておりました。

そういえばと、岩波少年文庫の杉浦明平
『遠いむかしのふしぎな話 今昔ものがたり』をとりだす。
この一番最初が『悪人往生』と題して、
この讃岐の国の源太夫の話になっておりました。

うん。鴨長明『発心集』と「今昔物語集」とが
この話を、どちらの選者も選んでいたことになります。
そして、杉浦明平氏は少年文庫の一番最初にもってきておりました。

どうもこの話は当時の人々にとっては印象深く、
有名な語り草になっていたのかもしれないなあ。

ちなみに、岩波少年文庫のこの『今昔ものがたり』を、
わたしは、最初の文だけを読んでおしまいにしておりました。
その最初の数ページが、何十年かたって『発心集』と結びつくとは。

ちなみに、この岩波少年文庫のさし絵は、太田大八。



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心を師とする事なかれ。

2023-08-08 | 思いつき
中田喜直が、サンケイ新聞のインタビューに答えていて
印象深い箇所がありました。

「『 子供の歌を作るとき、どんな考えで作られますか? 』
  と中田はよく聞かれた。そんなとき、中田は必ず

 『 子供のことを考えないで作ります 』と答えていた。

 要するに
 『 子供や大衆に媚びたら駄目で、他人のことはあまり考えず、
   自分の考えを率直に表現することが一番大切 』だということだ。  
   ・・・・・

  伴奏についても、中田は、
 『 私は童謡を沢山作っているが、
   メロディーよりも伴奏のほうに力を入れ、
   時間をかけて作ることが多い。
 
   子供にはどうせ分からないから簡単にして、
   幼稚園の先生でも弾けるようにやさしく、
   などと考えたことはない。

   いつも、その詩に一番ふさわしい音楽
   であることだけを考えて作曲してきた 』  」

 ( p115~116 牛山剛著「夏がくれば思い出す 評伝中田喜直」新潮社 )


はい。この箇所が印象に残ります「こども・こころ」と連想。そういえば、
『 心を師とする事なかれ 』という言葉を、誰かがどこかで引用してた。

検索すると
鴨長明の『発心集』にあるらしい。
鴨長明といえば『方丈記』しか思い浮かばない私ですが、まずは、
新潮日本古典集成の『方丈記 発心集』をひらいてみることに。

発心集の序の、まずはじまりに、その言葉が置かれていました。

「 仏の教へ給へる事あり。
 『 心の師とは成るとも、心を師とする事なかれ 』と。
  ・・・・    」

はい。この新潮日本古典集成は、現代語訳はないのですが、
本文の上に、注釈が詳しいので、さっそくはじまりの注釈を見る。

「『涅槃経(ねはんぎょう)』二十などの経論に
  同趣旨の一節が多く見えるが、直接には

 『 もし惑ひ、心を覆ひて、通・別の対治を修せんと
   欲せしめずは、すべからくその意を知りて、
   常に心の師となるべし。心を師とせざれ 』
      ( 「往生要集」中・大文五 )による。   」


うん。『心の師となるべし』。
そのためには、発心集とか、往生要集をひらかなきゃいけないと
そう思ったわけです。
すくなくとも、私にはチンプンカンプンの、この発心集ですので、
現代語訳付きの文庫をさっそく注文することにしました。

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注文の多い〇〇料理店。

2023-08-06 | 思いつき
宮澤賢治の『注文の多い料理店』の最後の方でした。

「二人はあんまり心を痛めたために、
 顔がまるでくしゃくしゃの紙屑のようになり、
 お互にその顔を見合せ、ぶるぶるふるえ、声もなく泣きました。」

そして、最後の2行はというと、

「しかし、さっき一ぺん紙くずのようになった二人の顔だけは、東京に帰って
 も、お湯にはいっても、もうもとのとおりになおりませんでした。」

その『注文の多い料理店』の題名から変な連想、

中国版や韓国版の『注文の多い料理店』そのどちらも
丸裸にされてしまいかねない夢から目覚めますように。

まあ、それやこれや、夏は怪談。
小泉八雲の『耳なし芳一』をひらくことに、

「ある夏の夜、和尚は亡くなった檀家の家へ法事に呼ばれた。
 小僧を連れて行ったので寺には芳一がひとり残された。

 暑い夜で盲目の芳一は寝間の前の縁側で涼を取っていた。
 縁側は阿弥陀寺の裏の小さな庭に面していた。

 そこで芳一は和尚の帰りを待ちながら、
 琵琶を弾いて淋しさをまぎらわしていた。

 真夜中も過ぎたが、和尚はまだ戻らない。しかし
 寝間の内にはいるにはまだあまりに暑かったので、
 芳一は外に残っていた。・・・・・        」

  ( p15  講談社学術文庫「小泉八雲名作選集 怪談・奇談」 )


この文庫本には、『夢応(むおう)の鯉魚(りぎょ)』という
話しも載っておりました。

それは、近江の国の三井寺の僧・興義の話でした。

「ある年の夏、興義(こうぎ)は病の床に臥した。
 七日間病み、もはやものを言うことも、からだを動かすこともなく
 なってしまったので死んだようにみえた。

 ところが葬式をすませたあと、弟子たちは遺体に温もりのある
 ことを発見し、しばらく埋葬を延期して亡骸とおぼしきものの
 そばで見守ることにした。その日の午後、興義は突然蘇生した。」(p207)

はい。死んだように見えた間、
興義は、魚になって泳いでいたというのでした。
そして、旧友の文四の釣針につかまってしまったのだというのです。

「 ・・・『 たとえ文四につかまっても、
  よもや危害を加えることはあるまい。旧友だもの 』・・ 」

そして魚になっていた興義は、飢えから餌にくらいついたのでした。

「わたしは、がぶりとまるごと飲みこんだ。その途端、
 文四は糸をたぐり、わたしを捕えた。わたしは叫んだ。
 『 何をする、痛いじゃないか 』

 けれども彼はわたしの声が聞こえないように、
 素早くわたしの顎に縄を通した。それから、
 わたしを籠(びく)に投げこみ、君の館へ運んでいった。

 館で籠が開けられたとき、君と十郎が南向きの部屋で碁を打ち、
 掃守が桃を食べながら見物しているのが見えたというわけだ。

 君たち三人は、すぐに縁側に出てきてわたしをのぞきこんだ。
 そうしてこんな大きな魚は見たことがないと喜んだ。

 わたしは、あらんかぎりの大声で君たちに向かって叫んだ、
『わたしは魚じゃない、興義だ、僧の興義だ。お願いだから寺に返してくれ』

 その瞬間、刃ものが自分を切り裂くのを感じた――ひどい痛みだった!
 ――そのとき、突然わたしは目ざめ、気がつくとこの寺にいた・・・・ 」



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題名は、『題名のない音楽会』。

2023-08-03 | 思いつき
忘れそうなんだけど、ここは、忘れたくはない箇所。

牛山剛著「夏がくれば思い出す 評伝中田喜直」(新潮社・2009年)。

この本の最後の方にありました。
中田喜直と倉本裕基の二人を語った箇所でした。

「この二人に、音楽以外で共通していたのは、
 ダジャレが大好きだったことである。

 中田に言わせると『 ダジャレの出ない作曲家はダメ 』。
 頭が柔らかくて、ユーモアがあって、音や言葉など
 すべてに敏感でないと、いい音楽が作れないということだろう。

 その点、『倉本さんのダジャレは高尚で素晴らしい』と幸子は言う。」
                      ( p257~258 )

うん。すぐに思い浮かんだのは、
この本の著者牛山剛氏の経歴でした。
『 テレビ朝日の音楽プロデューサーとして
  【 題名のない音楽会 】などを制作 』とあります。

はい。【題名のない音楽会】という題名をつけるセンス。
これ【高尚なダジャレ】と言わなくてなんとしましょう。

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