和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

谷沢永一の山本七平

2017-08-26 | 道しるべ
谷沢永一は渡部昇一との対談で

「ぼくら、この分野あるいはこの著者について一番大切なのは、
この一声、この本だという言い方が体質的に好きなんですが、
それを大学の講義なんかでやる人が少ないんでしょう。」

うん。
谷沢永一は山本七平を、どのように語っていたか?
というのが、今回のブログのテーマです(笑)。

1990年(平成2年)1月12日に開高健の葬儀。
61歳の谷沢氏は弔辞を述べる。
1991年「新潮」12月号に谷沢著「回想 開高健」掲載。
「回想 開高健」の最後の文は、
「その、開高健が、逝った。以後の、私は、余生、である。」

1991年12月11日 山本七平永眠。
1992年2月 『回想開高健』(新潮社)刊行。
1992年 「Voice」3月増刊号「山本七平追悼記念号」。
ここに書評対談「山本七平を読み切る」(谷沢永一・渡部昇一)掲載。
1992年12月 谷沢永一著『山本七平の智恵』(PHP研究所)刊行。

1993年 読書鼎談「三酔人書国悠遊」(潮出版社)刊行。
これは月刊雑誌(1992年~1993年)に連載されたもの。
内容はというと、あとがきの山野博史の言葉を引用。

「おめあては、当代きってのわけあり人物、
それも存命者にかぎる。現代日本文化を語るうえで
逸することのできぬ存在ありながら、
敬して遠ざけられていたり、ていのいい黙殺にあったり
しているきらいがあるため、正体定かとはいいがたい
人物の仕事をめぐって・・・いろんな角度から語りあることで、
意見が一致した。わずか十二名である・・・」(p242)

ここで、三番目に取り上げられたのが山本七平でした。
その最初を谷沢永一は、こう切り出しております。

「このシリーズが企画されたとき、第一回を誰にするかということで、
実はわれわれ、大いに悩んだわけです。つまり司馬遼太郎でいくのか
・・・そしてもちろん、山本七平の名もそのなかにありました。
これは異論のあるところかもしれませんが、私は、
山本七平こそ、戦後、否、近代日本が生んだ最良の評論家である
と信じております。・・・・」(p45)

ちなみに、「三酔人書国悠遊」の中で
谷沢氏が選んだ山本七平の三冊は

  「空気」の研究
  日本的革命の哲学
  現人神の創作者たち



谷沢永一著「山本七平の智恵」の「はじめに」から、
引用します。

「山本七平のテーマは一貫していた。
ひとりの日本人として、この日本の社会で生きて
ゆくためには、どんな心得が必要であるのか、それを
じっくり確かめたい、というのが終生の願いであった。
それは日本人にとっていちばん根本的な問題である。
もっとも普遍的な問いかけである。
誰もがいちばん頭をなやませる課題である。
だからこそもっともむつかしいテーマである、
その難問に山本七平は体当りした。
そればかりを念じつづけたのである。
そもそも、あらゆる学問の目的は、
煎じつめたところ、人間、一度しかない生涯を、
どのように生きてゆくべきか、
という問いに答えることである。
その問いに真正面から答えることのできない
学問は死んだ学問である。
山本七平は、生きた学問を志した。
その方向へ脇目もふらずに突き進んだ。
山本七平は学問の核心を衝く純粋な探究者であった。
学問のための学問など、
彼にはあずかりしらぬことであった。
 ・・・・・・・・・・・
結果はすばらしいものだった。
日本人論の次元で彼が見出したところは比類なく深かった。
日本人社会の特性の実に多くが、彼によってはじめて見出された。
日本人論という課題に関するかぎり、
山本七平は史上最高の存在である。
前人未踏の創見が、その著作には
数えきれずちりばめられている。
山本七平を読むことによって、
たぶんほとんどの人が、
日本人社会に生きてゆくコツを会得できるであろう。
かく申す私がそのひとりである。
山本七平を読むことは、
非常にトクをすることなのだと私は思う。」




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

司馬さんにしろ七平さんにしろ。

2017-08-04 | 道しるべ
長い文章を読まないので、
たとえば、司馬遼太郎の「風塵抄」などは
喜々として読んでいた方です(笑)。

その「風塵抄」の44「日本的感性」が
そういえば、印象に残っておりました。

こういう時、あまりに短すぎるので
意味を推し量れないうらみはあるのでしたが、
それでも、何か深い指摘をうけたような気がしておりました。

まあ、そんな印象をもっておりましたが、
それが司馬遼太郎・福島靖夫往復書簡
「もうひとつの『風塵抄』」をひらいた時に、
忘れていた、その「日本的感性」に関しての
手紙のやりとりが載っていたのでした。

福島靖夫氏が司馬さんに手紙を書きます。

「司馬先生
手紙でお許しください。
来年一月の『風塵抄』のテーマについて、お願いがあります。」

こうはじまる、手紙の最後を引用します。

「鹿内信隆さんは世界文化賞を大いに自慢しておりますが、
私たちにすれば一文化賞などを超えた、地についた、
しかも地球的視野の文化論を読みたい気分が、
切実にしております。
失礼をかえりみず、あつかましいお願いを申し上げました。」
(p60~61)

 日本的感性 1990年1月8日掲載

司馬さんの手紙は

「お手紙のご趣旨の主題で書きました。」
とはじまっております。
それへの福島さんの返事は

「司馬先生
このたびは、ぶしつけなお願いをききいれていただき、
まことにありがとうございました。・・・」
として、感想を書いております。

それに対して司馬さんから折り返し手紙がきます。

「よく読みこんでくださってありがとう。
すこし安心しました。」とはじまり、
その手紙の最後を引用。

「ただ、すべてにおいてダイナミズムに欠けます。
これは、『欠ける』という短所を長所にしてしまったほうが
いいと思うのです。東山魁夷さんの杉の山の絵を、
装飾的、平面的、非人間的ながら、
これこそ絵画だという美学的創見が必要なのです。
そういう評論家がいないというのが問題ですが。」

はい。この箇所も、
気になるけれど、やっぱり私にはわからない(笑)。
わからないままでしたが、
最近、ああ、このことかもしれないという
対談での言葉を読めました。

それはVOICE平成4年3月「山本七平追悼記念号」
のなかの谷沢永一・渡部昇一対談「山本七平を読み切る」
にありました。

谷沢】・・・しかし、それだけではないだろうという
手探りがあったと思います。それで掴んできたのが
『日本資本主義の精神』であり、『勤勉の哲学』です。
あそこには七平さんの、われ発見せり、という喜びがありますね。
 ・・・・
司馬さんにしろ七平さんにしろ、
戦争中の日本人にとことんうんざりし、
戦後の日本人にとことんうんざりし、
世捨て人になる寸前で体を翻して、
逆に日本人のほんとうの美質を発見してくれた。
 ・・・・・
戦後、黙して語らず世を去った人はたくさんいますが、
その方々は精神的世捨て人というか、
時代が変れば変るほどますます同じだと思って
戦後の風潮にうんざりした。
そうではなしに、もっと気持を平静に落ち着けて、
じわりじわりと自分で納得のいくように勉強する。
これはたいへんな精神力だと思います。
だから、出てくるものになんともいえない
艶、輝きがありますね。

渡部】 大岡(昇平)さんの小説を読むと
日本人が嫌になるところがありますね。
七平さんの場合は日本人が嫌にならない。
それが、いまもって読まれる理由だと思います。

谷沢】 学問的粉飾に一切こだわらずに書いた。
一種のモノローグなんですよ、山本学は。・・・
(p212)


ここにある
「世捨て人になる寸前で体を翻して・・・」

という箇所が印象として残ります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

司馬さんの「素人の観察ですが」。

2017-08-03 | テレビ
この前、
NHK昼の番組に磯田道史さんが登場しておりました。
いそいで、録画(笑)。
気になった箇所を、再生しながらメモしました。
以下に引用。


「歴史は私好きなんです」とか
「苦手なんです」というけど、
僕、それ違うと思うんですよ。
歴史は、トンカチとかノコギリと同じように
道具であり、実用品なのですよ。
嗜好品ではなく、タバコとか酒とかとは違うんです。

靴とかといっしょなんで、
要するに歴史という靴をはかなければ、
世の中を歩けないと僕は思っている。


うん。いいですね(笑)。
さっそく、私に思い浮かんだのは、
司馬遼太郎さんでした。
司馬遼太郎・福島靖夫往復手紙
『もうひとつの「風塵抄」』(中央公論新社)
そのp277~278
こちらも引用しておきます。


それにしても朝鮮半島人の誇り高さは、
人類のなかでもめずらしいのではないでしょうか。
『朝鮮人(韓国人)は、なぜああも誇り高いのでしょう』
と、井上靖氏にきいたことがあります。
『風濤』のなかの朝鮮漢文の激越さについての話題のときです。
『誇るべき何物ももたないために誇り高いのでしょう』
おだやかなはずの井上靖氏にしては、
息をのむようなきついことばでした。

われわれはニューヨークを歩いていても、
パリにいても、日本文化があるからごく自然に
ふるまうことができます。
もし世阿弥ももたず、光悦、光琳をもたず、
西鶴をもたず、桂離宮をもたず、姫路城をもたず、
源氏物語をもたず法隆寺をもたず
幕藩体制史をもたなかったとしたら、
われわれはオチオチ世界を歩けないでしょう。



こうして、読み直していたら、
北朝鮮のミサイルについて、
司馬さんが言及なさっております。
次に、その箇所も引用を続けます。


・・・・それにしても、
韓国・朝鮮史の空虚さは、悲惨ですね、
六百年、朱子学の一価値しかなかったための空虚
だったと思います。個々にはすぐれた人が多いのに、
いまでも、社会的な発表となると、反日一本ヤリです。
朱子学一価値時代とかわりがないように思います。
(北朝鮮のミサイルと核は、
八、九十%までできているのではないでしょうか。
問題は、燃料ではないかと思います。
その製造法に難があること。
また大量に石油が要ること。
その石油のパイプを中国が締めていること、
ではないでしょうか。素人の観察ですが。)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする