谷沢永一は渡部昇一との対談で
「ぼくら、この分野あるいはこの著者について一番大切なのは、
この一声、この本だという言い方が体質的に好きなんですが、
それを大学の講義なんかでやる人が少ないんでしょう。」
うん。
谷沢永一は山本七平を、どのように語っていたか?
というのが、今回のブログのテーマです(笑)。
1990年(平成2年)1月12日に開高健の葬儀。
61歳の谷沢氏は弔辞を述べる。
1991年「新潮」12月号に谷沢著「回想 開高健」掲載。
「回想 開高健」の最後の文は、
「その、開高健が、逝った。以後の、私は、余生、である。」
1991年12月11日 山本七平永眠。
1992年2月 『回想開高健』(新潮社)刊行。
1992年 「Voice」3月増刊号「山本七平追悼記念号」。
ここに書評対談「山本七平を読み切る」(谷沢永一・渡部昇一)掲載。
1992年12月 谷沢永一著『山本七平の智恵』(PHP研究所)刊行。
1993年 読書鼎談「三酔人書国悠遊」(潮出版社)刊行。
これは月刊雑誌(1992年~1993年)に連載されたもの。
内容はというと、あとがきの山野博史の言葉を引用。
「おめあては、当代きってのわけあり人物、
それも存命者にかぎる。現代日本文化を語るうえで
逸することのできぬ存在ありながら、
敬して遠ざけられていたり、ていのいい黙殺にあったり
しているきらいがあるため、正体定かとはいいがたい
人物の仕事をめぐって・・・いろんな角度から語りあることで、
意見が一致した。わずか十二名である・・・」(p242)
ここで、三番目に取り上げられたのが山本七平でした。
その最初を谷沢永一は、こう切り出しております。
「このシリーズが企画されたとき、第一回を誰にするかということで、
実はわれわれ、大いに悩んだわけです。つまり司馬遼太郎でいくのか
・・・そしてもちろん、山本七平の名もそのなかにありました。
これは異論のあるところかもしれませんが、私は、
山本七平こそ、戦後、否、近代日本が生んだ最良の評論家である
と信じております。・・・・」(p45)
ちなみに、「三酔人書国悠遊」の中で
谷沢氏が選んだ山本七平の三冊は
「空気」の研究
日本的革命の哲学
現人神の創作者たち
谷沢永一著「山本七平の智恵」の「はじめに」から、
引用します。
「山本七平のテーマは一貫していた。
ひとりの日本人として、この日本の社会で生きて
ゆくためには、どんな心得が必要であるのか、それを
じっくり確かめたい、というのが終生の願いであった。
それは日本人にとっていちばん根本的な問題である。
もっとも普遍的な問いかけである。
誰もがいちばん頭をなやませる課題である。
だからこそもっともむつかしいテーマである、
その難問に山本七平は体当りした。
そればかりを念じつづけたのである。
そもそも、あらゆる学問の目的は、
煎じつめたところ、人間、一度しかない生涯を、
どのように生きてゆくべきか、
という問いに答えることである。
その問いに真正面から答えることのできない
学問は死んだ学問である。
山本七平は、生きた学問を志した。
その方向へ脇目もふらずに突き進んだ。
山本七平は学問の核心を衝く純粋な探究者であった。
学問のための学問など、
彼にはあずかりしらぬことであった。
・・・・・・・・・・・
結果はすばらしいものだった。
日本人論の次元で彼が見出したところは比類なく深かった。
日本人社会の特性の実に多くが、彼によってはじめて見出された。
日本人論という課題に関するかぎり、
山本七平は史上最高の存在である。
前人未踏の創見が、その著作には
数えきれずちりばめられている。
山本七平を読むことによって、
たぶんほとんどの人が、
日本人社会に生きてゆくコツを会得できるであろう。
かく申す私がそのひとりである。
山本七平を読むことは、
非常にトクをすることなのだと私は思う。」
「ぼくら、この分野あるいはこの著者について一番大切なのは、
この一声、この本だという言い方が体質的に好きなんですが、
それを大学の講義なんかでやる人が少ないんでしょう。」
うん。
谷沢永一は山本七平を、どのように語っていたか?
というのが、今回のブログのテーマです(笑)。
1990年(平成2年)1月12日に開高健の葬儀。
61歳の谷沢氏は弔辞を述べる。
1991年「新潮」12月号に谷沢著「回想 開高健」掲載。
「回想 開高健」の最後の文は、
「その、開高健が、逝った。以後の、私は、余生、である。」
1991年12月11日 山本七平永眠。
1992年2月 『回想開高健』(新潮社)刊行。
1992年 「Voice」3月増刊号「山本七平追悼記念号」。
ここに書評対談「山本七平を読み切る」(谷沢永一・渡部昇一)掲載。
1992年12月 谷沢永一著『山本七平の智恵』(PHP研究所)刊行。
1993年 読書鼎談「三酔人書国悠遊」(潮出版社)刊行。
これは月刊雑誌(1992年~1993年)に連載されたもの。
内容はというと、あとがきの山野博史の言葉を引用。
「おめあては、当代きってのわけあり人物、
それも存命者にかぎる。現代日本文化を語るうえで
逸することのできぬ存在ありながら、
敬して遠ざけられていたり、ていのいい黙殺にあったり
しているきらいがあるため、正体定かとはいいがたい
人物の仕事をめぐって・・・いろんな角度から語りあることで、
意見が一致した。わずか十二名である・・・」(p242)
ここで、三番目に取り上げられたのが山本七平でした。
その最初を谷沢永一は、こう切り出しております。
「このシリーズが企画されたとき、第一回を誰にするかということで、
実はわれわれ、大いに悩んだわけです。つまり司馬遼太郎でいくのか
・・・そしてもちろん、山本七平の名もそのなかにありました。
これは異論のあるところかもしれませんが、私は、
山本七平こそ、戦後、否、近代日本が生んだ最良の評論家である
と信じております。・・・・」(p45)
ちなみに、「三酔人書国悠遊」の中で
谷沢氏が選んだ山本七平の三冊は
「空気」の研究
日本的革命の哲学
現人神の創作者たち
谷沢永一著「山本七平の智恵」の「はじめに」から、
引用します。
「山本七平のテーマは一貫していた。
ひとりの日本人として、この日本の社会で生きて
ゆくためには、どんな心得が必要であるのか、それを
じっくり確かめたい、というのが終生の願いであった。
それは日本人にとっていちばん根本的な問題である。
もっとも普遍的な問いかけである。
誰もがいちばん頭をなやませる課題である。
だからこそもっともむつかしいテーマである、
その難問に山本七平は体当りした。
そればかりを念じつづけたのである。
そもそも、あらゆる学問の目的は、
煎じつめたところ、人間、一度しかない生涯を、
どのように生きてゆくべきか、
という問いに答えることである。
その問いに真正面から答えることのできない
学問は死んだ学問である。
山本七平は、生きた学問を志した。
その方向へ脇目もふらずに突き進んだ。
山本七平は学問の核心を衝く純粋な探究者であった。
学問のための学問など、
彼にはあずかりしらぬことであった。
・・・・・・・・・・・
結果はすばらしいものだった。
日本人論の次元で彼が見出したところは比類なく深かった。
日本人社会の特性の実に多くが、彼によってはじめて見出された。
日本人論という課題に関するかぎり、
山本七平は史上最高の存在である。
前人未踏の創見が、その著作には
数えきれずちりばめられている。
山本七平を読むことによって、
たぶんほとんどの人が、
日本人社会に生きてゆくコツを会得できるであろう。
かく申す私がそのひとりである。
山本七平を読むことは、
非常にトクをすることなのだと私は思う。」