梅棹忠夫を今年は読む。
まず、梅棹忠夫を読むには、加藤秀俊を読めばいいのじゃないか。
「知的生産の技術」を加藤秀俊氏はどう語っていたか。
朝日選書「ベストセラー物語 下」を開いてみました。
そこには、加藤秀俊氏が「知的生産の技術」をとりあげています。
「・・この本の奥付をみると、初版、1969年7月21日、とある。1969年の夏、日本ではなにが起こっていたか。いわゆる『学園紛争』である。・・・そうかんがえてみると、全共闘と梅棹忠夫は、ほぼ同時期に、まったくおなじ教育への批判をこころみていた、というふうにもみえる。もちろん、全共闘は、わけのわからない泥沼のなかにふみこんで、不定形な感情の発散をくりかえすことになり、あまり生産的な貢献をすることができなかった。それにたいして、梅棹忠夫は、きわめて具体的、かつ説得的に、いまの日本の知的訓練の欠陥をこの本をつうじて指摘している。」
このあと、加藤秀俊氏の読みが語られておりました。
「じっさい、この本には、いささかうんざりしながら、それでも、見るに見かねて書いているのだ、という著者の気分がみなぎっているように見うけられる。なにをいまさらこんなことを、といった著者のつぶやきが行間にきこえるような部分もいっぱいある。・・・・ほんとうは、この本に書かれていることの大部分は、大学の一年生のときに、ひと月ほどでやっておくことのできることである。その、あたりまえの基礎ができていないから、やむをえず、梅棹忠夫はこの本をかいた。・・・・・とにかく、おびただしい情報の渦のなかで、どんなふうに処理していったらいいのか、途方に暮れてしまっている人たちの数が、このころから急速に増加してきていたのだ。・・・」
ちなみに、そのころの加藤秀俊氏は、どうしていたか?「わが師わが友」をひらいてみました。その「教育学部の助教授へ」という箇所にこうありました。
「辞令は1969年1月16日付。・・・初出勤の日がきた。1月16日である。しかし、なんたることであろうか、よりによってその当日、学部の建物と図書館とのあいだに毛沢東の大きな肖像がかかげられ、そのそばで数人の学生がタキ火をしているのである。・・・
そんなある日、おびただしい数の白や赤のヘルメットをかぶった学生たちが総攻撃をかけてきた。わたしは、西門にとんで行って、必死に内がわからおさえた。なにがなにやら、さっぱり事情がわかないが、とにかく、これが業務命令なのだからしかたがない。・・・・じぶんが学部の教員である以上、毎日研究室に詰めよう、と決心した。・・・ただ本を読み、執筆した。ほとんど無人の建物のなかに、ある日、白ヘルのグループが入ってきて、ガラスを割りはじめた。そのとき、わたしは中公新書の『人間開発』の「まえがき」を書いていたが、物音が近づいてきたので研究室のドアをあけ、『バカ者、しずかにしろ』と怒鳴った。覆面をしていたから、誰であるかわからなかったが、二、三の学生はわたしの姿をみとめ、『あ、いらしたんですか、すみません』と間の抜けたことをいっておじぎをした。物音はしばらくつづいたが、わたしの部屋のガラスだけは割られずにすんだ。・・・・解除後の学部の建物は、めちゃくちゃだった。しかし、わたしと、他の一、二の先生の研究室だけは、家具も持ち出されず、書棚も整然としていた。わたしはべつだん全共闘の仲間でもなんでもなかったのだが、こういうイキサツがあると、どうにも居心地がわるい。1970年の冬、わたしは、もう、ここは辞職しよう、と決心し、辞表を出した。おなじころ、永井道雄、川喜田二郎、鶴見俊輔、高橋和巳、伊東光晴など、何人ものわたしの先輩や友人も、期せずして大学を辞めた。わたしは40歳になっていた。・・・」
つぎは、『知的生産の技術』といっしょに、
『人間開発』をひらいてみたくなりました。
ちなみに、加藤秀俊著「独学のすすめ 現代教育考」は、1975年に出ます。
まず、梅棹忠夫を読むには、加藤秀俊を読めばいいのじゃないか。
「知的生産の技術」を加藤秀俊氏はどう語っていたか。
朝日選書「ベストセラー物語 下」を開いてみました。
そこには、加藤秀俊氏が「知的生産の技術」をとりあげています。
「・・この本の奥付をみると、初版、1969年7月21日、とある。1969年の夏、日本ではなにが起こっていたか。いわゆる『学園紛争』である。・・・そうかんがえてみると、全共闘と梅棹忠夫は、ほぼ同時期に、まったくおなじ教育への批判をこころみていた、というふうにもみえる。もちろん、全共闘は、わけのわからない泥沼のなかにふみこんで、不定形な感情の発散をくりかえすことになり、あまり生産的な貢献をすることができなかった。それにたいして、梅棹忠夫は、きわめて具体的、かつ説得的に、いまの日本の知的訓練の欠陥をこの本をつうじて指摘している。」
このあと、加藤秀俊氏の読みが語られておりました。
「じっさい、この本には、いささかうんざりしながら、それでも、見るに見かねて書いているのだ、という著者の気分がみなぎっているように見うけられる。なにをいまさらこんなことを、といった著者のつぶやきが行間にきこえるような部分もいっぱいある。・・・・ほんとうは、この本に書かれていることの大部分は、大学の一年生のときに、ひと月ほどでやっておくことのできることである。その、あたりまえの基礎ができていないから、やむをえず、梅棹忠夫はこの本をかいた。・・・・・とにかく、おびただしい情報の渦のなかで、どんなふうに処理していったらいいのか、途方に暮れてしまっている人たちの数が、このころから急速に増加してきていたのだ。・・・」
ちなみに、そのころの加藤秀俊氏は、どうしていたか?「わが師わが友」をひらいてみました。その「教育学部の助教授へ」という箇所にこうありました。
「辞令は1969年1月16日付。・・・初出勤の日がきた。1月16日である。しかし、なんたることであろうか、よりによってその当日、学部の建物と図書館とのあいだに毛沢東の大きな肖像がかかげられ、そのそばで数人の学生がタキ火をしているのである。・・・
そんなある日、おびただしい数の白や赤のヘルメットをかぶった学生たちが総攻撃をかけてきた。わたしは、西門にとんで行って、必死に内がわからおさえた。なにがなにやら、さっぱり事情がわかないが、とにかく、これが業務命令なのだからしかたがない。・・・・じぶんが学部の教員である以上、毎日研究室に詰めよう、と決心した。・・・ただ本を読み、執筆した。ほとんど無人の建物のなかに、ある日、白ヘルのグループが入ってきて、ガラスを割りはじめた。そのとき、わたしは中公新書の『人間開発』の「まえがき」を書いていたが、物音が近づいてきたので研究室のドアをあけ、『バカ者、しずかにしろ』と怒鳴った。覆面をしていたから、誰であるかわからなかったが、二、三の学生はわたしの姿をみとめ、『あ、いらしたんですか、すみません』と間の抜けたことをいっておじぎをした。物音はしばらくつづいたが、わたしの部屋のガラスだけは割られずにすんだ。・・・・解除後の学部の建物は、めちゃくちゃだった。しかし、わたしと、他の一、二の先生の研究室だけは、家具も持ち出されず、書棚も整然としていた。わたしはべつだん全共闘の仲間でもなんでもなかったのだが、こういうイキサツがあると、どうにも居心地がわるい。1970年の冬、わたしは、もう、ここは辞職しよう、と決心し、辞表を出した。おなじころ、永井道雄、川喜田二郎、鶴見俊輔、高橋和巳、伊東光晴など、何人ものわたしの先輩や友人も、期せずして大学を辞めた。わたしは40歳になっていた。・・・」
つぎは、『知的生産の技術』といっしょに、
『人間開発』をひらいてみたくなりました。
ちなみに、加藤秀俊著「独学のすすめ 現代教育考」は、1975年に出ます。