和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

瑞気集門。

2014-10-31 | 地域
10月29日(水曜日)のブログに、
4人して食事にいったことを書きました。
地元の料理屋で宿屋でもあります。
前日に予約して、当日は
6畳ほどの畳部屋へ。
両親と私共夫婦と、顔ぶれを伝えてあったので、
女将さんが気を利かせて、
お花を活けて、掛け軸がかかっておりました。

うん。まずは生ビールとジュースで乾杯。
そんなに話題をふるわけでもなく、
自然と目が床の間の掛け軸へ。
その字が読めないので、
女将さんへと、確認してもらったら、
「瑞気集門」と書いてあるのだそうです。

そうだと、思いついて、
今日、辞書をひいてみると、
瑞気(ずいき)とは
「めでたく神々しい気分」「縁起がよい雲」
とあります。集はあつまる。
門は「一門」ですから、おなかま。


食事が終わって、
食べきれない料理のために、
パックをもらって持ち帰りました。
うん。持ち帰ったものは、
それだけじゃなくて、
まだ、あったのだと気づきます。

数日して、掛け軸や活花とともに、
その部屋の気分が自分の内に残っているのに、
あらためて、気づかされます(笑)。
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見て話す。

2014-10-30 | 地域
林望著「『時間』の作法」(角川ssc新書)
を読み直す。うん、今度は味わえた感じ(笑)。

たとえば、
「読み手には『読まない権利』も
『途中で読むのを止める権利』もあるのです。」
(p67)とある。
ああ、朝日新聞定期購読者へと
教えてあげたくなるような言葉です(笑)。

今回、気になったのは、第四章の
「無駄なく『話す』こと」でした。

そこに
「人にものごとを伝えたいときには、
やはり相手をよく見て話すこと。
これが重要であると感じさせられるのです。」

うん。私はついつい目線がそれる。
しかも、若い女性をじっと見ることができず、
ついつい目線が下がる。ちょうどそれが
胸元で止まったりするから厄介。

うん。小津安二郎の映画でも、
笠智衆さんなどが、目線をそらせて
会話を成立させているのを見ると、
ホッとするくらいです(笑)。

林望氏の文を引用してみます。

「また、相手の目を見ないで話す人、
眼を逸らしてしゃべる人がいますが、
これはいちばんよくありません。
本人はただ淡々と話しているつもり
かもしれませんが、これではどんなに
内容が素晴らしくても、相手の心を
惹きつけることはできないでしょう。
・ ・・・・・・・
とくに会話において目線がまったく合わない
というのは、その時点でもはや会話ではありません。
目を見ないということは、発している言葉の
反応を確かめないということ、あるいは、
自分の反応を相手に見せないということです。」(p81)

「やはり言葉で説得しようと思ったら、
相手の顔をちゃんと見て話さないと
いけません。」(p85)

うん。この苦手をなんとか
克服するようにします(笑)。

ちなみに、この本の「はじめに」に
こうありました。

「つまり、『無駄な時間を省く』というのは、
言い換えるなら『有用な時間を生産する』
ということです。」

とあります。
何とか有用な会話が成立しますように。
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誕生日会。

2014-10-29 | 地域
私の両親は、亡くなっているのですが、
妻の両親は、2人して健在。

明日が、お母さんの87歳の誕生日。
ということで、
4人して、夕食会。
昔の話が聞けて、
というか、そういう話を聞ける
機会がなかなかなくって、
今日は楽しい会になりました。
戦前の話を聞くと、
話がはずみました(笑)。
午後4時半から8時まで。
うん。楽しいお酒でした(笑)。
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受験と方丈記。

2014-10-28 | 古典
丸谷才一「文学のレッスン」(新潮文庫)に
方丈記が登場しておりました。
ちなみに、このインタビューは2009年。
そう。東日本大震災より前。

丸谷】 ・・それから『方丈記』はすごい
ものなんですよ。昔、うちの息子が大学受験の
とき、古文が苦手だから何かいっしょに読んで
くれと僕にいったの。それで大野晋さんに相談
して、『徒然草』でも読もうかと思っていますと
いったら、大野さんは、『徒然草』はつまらない
からおよしなさい、何といってもいいのは『方丈記』
だ、といってすすめてくれた。それで読んだ。
おもしろかった。その話をドナルド・キーンにしたら、
キーンさんはコロンビア大学で『方丈記』を教えた
ことがあるんだって。そのとき学生の一人から手紙が
きて、ああいうすごいものを読み、日本語を勉強して
本当によかったと思った、と書いてあったというんです
ね。確かにそうかもしれないなと思いました。
あれはやはり文章がいいもの。」(p232)


うん。あらためて方丈記を読まなくちゃ。
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ああきれいだな。

2014-10-27 | 詩歌
気になっていた、
丸谷才一著「文学のレッスン」(新潮文庫)
を購入。これは湯川豊氏が聞き手の談話。

パラリと最後をひらくと、
最後は「詩は酒の肴になる」という章。
その章の最後を引用したくなる(笑)。

「詩のテクストがあってそれを読者が享受する
という場が大事なので、ほんとうは一つの文明の
なかにその場がなければ、詩はないわけです。
大岡信が日本古典文学論をあれだけ書いたのは、
その詩の場を求めようとしたからなんですね。
現代の詩人たちは、世界的に見てもそれを探して
いる。エリオットとかヴァレリーの評論だって
みなそういう動機があるんです。萩原朔太郎が
書いた評論だって同じことですね。詩人が批評家に
なって、文明評論を書くところに追いつめられて
きているのが現代の文学的状況なんです。
新聞の時評を見ると、文芸時評という小説の
評判記と論壇時評という政局論と景気論の
評判記はあるけれど、誰も文明なんか論じない。
言葉の問題なんか論じない。こういう社会じゃ
詩は無理なんですね。・・・・・
吉田(健一)さんは、一杯飲んでるとき、丸谷さん、
あなたの好きな詩はどんな詩ですか、みたいなことを
いう。僕が英語の詩で覚えているのを数行、16世紀の
トマス・ナッシュの詩かなんかをいうと、ああといって、
くちゅくちゅと口のなかで繰り返す。そして、
ああきれいだな、とかいって喜ぶ。カラスミとウニを
食べるような感じなんですよ。詩が酒の肴になるのね。
僕はなるほど詩というものはこんなふうにして
楽しむものか、と思いました。
  (2009年8月11日、東京・麻布) 」


さしあたり、私など評判記を読んで、
この年まで来てしまった。
と思わずにいられません。
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新書カバーの惹句。

2014-10-26 | 本棚並べ
惹句(じゃっく)=キャッチフレーズ
と辞書にあります。


鷲尾賢也著「編集とはどのような仕事なのか」
(トランスビュー)は、
講談社のお話でした。

そこで、途中入社した鷲尾氏が、
週刊誌部門から、講談社現代新書へとうつる。

「当時現代新書は、岩波新書、中公新書に大きく
遅れをとっていた。あまりにも売れないので、
やめようという社内の意見も多かったそうである。
・ ・・・起死回生の生き残り作戦の最中だった。
大衆向け出版社の講談社というだけで、多くの
先生方は真剣に相手にしてくれなかった。週刊誌
を発行している会社とはつきあいたくないという
顔を、露骨に見せる先生もいた。アカデミズムとは
こういうものかと、悔しかったことをよく覚えて
いる。人文研(京都大学人文科学研究所)など、
いわゆる京都学派の方々に積極的に執筆をお願い
したのは、そこには権威主義の匂いが少なかった
からであろう。装丁を切り替える
(たぶん200冊以上変えただろう)。そのために
編集部全員、毎日毎日、夜になるとネーム
(新書のなかで現代新書だけに入っている
カバーの惹句)書きに精を出す。当該の本を読み、
いわゆる帯のような文章を一日に何本も書く
のである。それを机に置いておくと、出社の
早い編集長の赤字が入り、戻される。写植化し、
資料とともに杉浦事務所に持参する、という
システムであった。ずいぶんそれは勉強になった。
先輩のネームに感心することも多かった。また
編集長の赤字になるほどと思わせられた。
センスは先天的なものかもしれないが、
磨くことは可能である。そういう気持ちが
生まれたのはそのころであろう。・・・」
(第2章「ささやかな自分史」から)

そういえば、昔の講談社現代新書には
表紙カバーの題字隣りに、惹句が数行
きちんと載っておりました。
読む方は、当然と思っていた表紙にも
新書なりの歴史があったのだなあ。

その講談社現代新書の表紙カバーも
またかわってしまい、
もう何年か経ってしまいました。
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たった5人。

2014-10-25 | 朝日新聞
WILL12月号届く。
なかに、定期購読継続お願いの一文が
入っている。その文面に

「たった5人の小さな編集部ですが・・」
とあるのでした。そうか5人なのだ。

さっそく蒟蒻問答をひらく。
そこから、この箇所

久保】 ・・・ま、それはともかく、
話を戻すと、いま重要なのは、朝日や赤旗らの
反転攻勢に対して、保守側が対抗する言葉を
まだ準備していないことです。放っておくと、
この論点すり替え、『黒馬を白馬と言い張る』
ような反転攻勢がまかり通ってしまいますよ。

堤】 そんなものがまかり通れば、世も末だァ。
(p108)


うん。こんな箇所もありました。

久保】 ・・堤さんは朝日を読まないから
知らないでしょうけど、最近の朝日の記事の
腑抜けなこと。パラパラとめくるだけで
読み終わるレベルですよ。(p104)


佐瀬昌盛氏の文は
「朝日新聞とのわが四十年戦争
『声』欄から朝日の劣化が見える」(p62~)

そこからも引用。

「・・9月20日の朝7時、配達されていた
朝刊を食卓で開いて、目を見張った。
私は鎌倉の住民で、三紙―『読売』『産経』
『朝日』―を定期購読している
(他紙は図書館で読む)。
・・『朝』にだけ、折り目正しく
A3判の紙が添えられていた。
それは広告ではなかった。
『ご愛読者のみなさまへ深く
おわび申し上げます』と題された
丁寧な文面の紙だった。・・・
ことの序にもう一点、気づいたこと
を書く。それは『朝日』の折り込み
広告が最近、めっきり減っている
ことである。・・・・
『読売』と『朝日』の折り込み競争は
迷惑以外の何物でもなかった。
徒に同じものが二紙分揃ってしまう
からである。これまで両紙の力量は
拮抗していた。『産経』なぞ、
足元にも及ばなかった。
ところが、それが変わりだした。
『読』と『朝』とでは、折り込み
広告量にかなりはっきりとした
差がつきはじめた。無論、『朝』の
それが減りだしているのである。
右に挙げた『読者のみなさまへ』の
詫び状は、裏を返すと折り込み広告の
落ち込みからくる『朝日』の前途不安感
の表れであると思えてならない。
世間は怖い。
現実の同紙の紙面をみても、張りを
失っているといった印象が強い。
言ってみれば、脂の抜けた脱脂粉乳を
飲まされている感じである。
具体例を挙げれば、同紙が看板にして
きた朝刊の『天声人語』、夕刊の
『素粒子』にその感が特に深い。
・・・・」

これが文のはじまりです。
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トウダイモト暗シ。

2014-10-24 | 短文紹介
「20世紀を通してハーン評価の浮き沈みは
まことに激しかった。高橋節雄(1878~1971)は
松江中学でハーンから習い、海軍兵学校を卒業、
日本海海戦にも参加した。1907年、日本製の巡洋艦
筑波で世界一周したが、各地で高橋はハーンの直弟子
ゆえに珍重され『全く先生の余韻に尾して世界を歩いた
様なものであった』。西洋で日本人を見かけると話しかけ
てきた人にはハーンの読者が多かった。そのことは
1931年の市河夫婦の世界一周のときまでなお続いた。
しかし、国際社会における日本の評価の低下に比例して
ハーンの評価も米英では低下した。1944年、米国の
軍用船に『ラフカディオ・ハーン号』と命名しようとした
とき非難の大合唱が起こり米国海軍省は愛国者の名前に
改名すると声明したほどである。日本の外国研究者は
本国での評価を気にする人たちである。秀才や才媛であれば
あるほど米英の動向に敏感となる。戦後の東大英文科では
中野好夫教授が1946年9月号の『展望』に小泉八雲を
論じていちはやくけなした。そのせいでもあるまいが、
東大にはハーン関係資料が多く保存されているにも
かかわらず、きちんとしたハーン研究者は出てこない。
『トウダイモト暗シ』とはまさにこのことであろう。
一人の作家について日本側と西洋側でかくも好悪が
分かれるのはなぜか。その評価の食い違いこそ
比較研究の好対象となるのではあるまいか。」

(「ラフカディオ・ハーンの英語クラス」弦書房より
p14~15を引用)
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律(りつ)は強情なり。

2014-10-23 | 短文紹介
正岡子規著「仰臥漫録」の
明治34年9月21日に。

「・・・律(りつ)は強情なり
人間に向って冷淡なり
特に男に向ってshyなり
彼は到底配偶者として世に立つあたわざるなり
しかもそのことが原因となって彼はついに
兄の看病人となりおわれり
もし余が病後彼なかりせば
余は今頃いかにしてあるべきか
看護婦を長く雇うがごときは
わがよくなすところに非ず
よし雇い得たりとも律に勝るところの
看護婦すなわち律がなすだけのこと
なしを得る看護婦あるべきに非ず
律は看護婦であると同時にお三(さん)どんなり
お三どんであると同時に一家の整理役なり
一家の整理役であると同時に世の秘書なり
書籍の出納原稿の浄書も不完全ながらなし居るなり
しかして彼は看護婦が請求するだけの看護料の
十分の一だも費(ついや)さざるなり
野菜にても香(こう)の物にしても
何にしても一品あらば彼の食事はおわるなり
肉や肴を買うて自己の食料となさんなどとは
夢にも思わざるがごとし
もし一日にても彼なくば一家の車はその運転を
とめると同時に余はほとんど生きて居られざるなり
ゆえに余は自分の病気がいかように募るとも厭わず
ただ彼に病なきことを祈れり
彼あり余の病はいかんともすべし
もし彼病まんか彼も余も一家も
にっちもさっちも行かぬこととなるなり
ゆえに余は常に彼に病あらんよりは
余に死あらんことを望めり
彼が再び嫁して再び戻りその配偶者として
世に立つことあたわざるを証明せしは暗に
兄の看病人となるべき運命を持ちしためにやあらん
禍福錯綜人知の予知すべきにあらず
・ ・・・・・・・
彼は癇癪持ちなり 強情なり
気が利かぬなり 人に物問うことが嫌いなり
指さきの仕事は極めて不器用なり
一度きまったことを改良することが出来ぬなり
彼の欠点は枚挙に遑(いとま)あらず
・・・・・・・・・・」


今日ひさしぶりに
子規の三大随筆をパラリとひらくと
この箇所に栞があったのでした。
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秋しぐれ。

2014-10-22 | 詩歌
今日は朝から雨。
午後も時々小雨。


筑摩書房の現代日本文学大系37に
「里見・久保田万太郎集」あり。
ちょうど、手元にあったので、
そこに入っている
久保田万太郎の句集「流寓抄」を
ひらくと、その最後の方に、


 10月9日、久生十蘭告別式、
     鎌倉におもむく。

 秋しぐれ茫乎と海のくらかりき


句集の次にも秋しぐれ


 秋しぐれいつもの親子すずめかな

 羊羹の三色(しき)五色(しょく)秋しぐれ



 ついでに、
「流寓抄」のおしまいの句2つも引用。



  秋場所の初日、検査役に抗議したる
   式守伊之助に

 正直にものいひて秋ふかきかな


 
 月今宵いささか風のつよきかな



句集「流寓抄」には、はじまりに
作者の言葉がありました。


 「・・すなはち、ぼくは、
 七十回目の誕生日をむかへるにあたり、
 何か一トくぎりつけたく、この句集を
 編んだ。

  昭和三十三年十一月
    久保田万太郎     」

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69歳で。

2014-10-21 | 短文紹介
読売新聞の読書欄10月19日の
「読書情報」を見るとこうありました。

「2月に69歳で亡くなった元編集者、
鷲尾賢也さんの
『【新版】編集とはどのような仕事なのか』
が、トランスビューから出版された。・・
今回、著者略年譜などを加え、改めて
新版とした。・・2000円」

そういえば、以前古本で買ったまま、
ちらりとしか読まずにあった
鷲尾賢也著「編集とはどのような仕事なのか」
副題が「企画発想から人間交際まで」を
とりだして、読み出す。

改定前の古本ですが、買っただけで
安心して読まずに本棚に眠っていた本。
それをひらくキッカケを頂戴することの
嬉しさ。読みたいと思った時にすぐに
手にとれる気軽さとあいまって
これも読書の愉しみ(笑)。

せっかくなので、
村上春樹氏が登場する箇所を引用。

「村上春樹『海辺のカフカ』があった。
私も読んだが、ついつい読ませてしまう力がある。
・ ・内容もさることながら、編集の立場から
いうと、そこから派生した、『少年カフカ』という、
雑誌とも書籍ともつかないものの刊行の方が
衝撃であった。
少年コミック誌に模した表紙、大判の判型、
いずれもがいままでの常識を覆していた。
『海辺のカフカ』の読者との1220通に
のぼるメールのやりとりを収録したものだが、
私はこれを読んで本当に感心した。・・・
村上は目をそらしていない。本と向きあう
ことで、読者がそれぞれ論理を展開できる
という、その格好の実例がある。1220通の
メールと返事を読んでいると、他のメディアに
くらべ、読書がいかに力をもち、他者を
動かせるかがよく分かる。
インターネットという限定された閉鎖的ツールが、
逆に生きているのだ。本は不特定多数と
不特定多数をつなげる役割がある。
本を媒体にして話題が展開することは、よく
経験することだ。本のツールとしての特性を、
私たちはもう一度認識する必要があるかも
しれない。・・・・
読書は習慣性の要素も強い。一度足が遠のく
と億劫になる。その結果、出版社や編集者は、
読む力の低下を嘆くことになる。それは何も
手を打たなかったことから来る嘆きかもしれない。
・ ・・・
あらゆるものが氾濫している現代は、情報過多の
ように見えて、じつは情報過疎になっている。
そういうことに村山は気づいている。
読者が自力で本を探す力が弱くなっている。・・」
(p201~203)


あれやこれやと刺激的で
思わず、唸ってしまいます。
ウ~。ここ掘れワンワン。
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必文。

2014-10-20 | 短文紹介
古田島洋介編著「漢文素読のすすめ」(飛鳥新社)
の古本が届く。うんCD付きとなっております。

このところ、古田島氏の本に興味があるので
新刊では買えない、この古本を購入。

第一章「人の性(さが)を悟る」。
その二番目が短いので引用。

子夏曰、小人之過也、必文。 『論語』子張

シカいわく、小人の過つや、必ず文(かざ)る。

【大意】子夏が言った。
『つまらぬ人物は、何か過ちを犯すと、
いつでも言い訳をして取り繕おうとする』と。


うん。「必ず文(かざ)る」
というのが印象に残る。

はい。このブログも
取り繕いながら、
文(かざ)っております(笑)。
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引導の渡し方。

2014-10-19 | 短文紹介
【引導を渡す】
これで最後だという宣告をする。

新潮45の11月号。
そこに小田嶋隆氏が
「『お山の大将』野党の死屍累々」
と題して書いておりました。

それを読むと、
「引導を渡す」という言葉が浮かびました(笑)。

では引用。

「民主党のだらしのなさが、政策以前の
ところにある以上、その中にいる議員さんが、
たまたま素晴らしい政策を語っていたのだと
しても、私は簡単に支持する気持ちにはなれない。」

「圧倒的な票差で政権を託されたにもかかわらず、
民主党は、その政策と支持層と熱と議席を、
すべて自分たちで台無しにしてしまった。
震災という不運な偶然はあったにせよ、
彼らの実行力の不足と、内部分裂の愚かさと、
対官僚折衝術の稚拙さと、説明能力の低さは、
われわれの予想のはるか上を行く、
とんでもないレベルのものだった。」

「彼らが信頼を失った理由は、
掲げた政策への不満や不支持ではなくて、
彼らの政治家としての資質そのものへの
不信だからだ。
『どんなに立派な看板を掲げても、
席に座るのがあの人たちである以上、
何をやってもダメにきまっている』
と、民主党は、そういうふうに
思われてしまっている。」(p50~51)


うん。こうしてキチンと
引導を渡してやることができて、
それを読むことができるよろこび。
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一日一曲読む謡曲。

2014-10-18 | 本棚並べ
山村修著
「花のほかには松ばかり」(檜書店)
副題は「謡曲を読む愉しみ」。

この本に、
有朋堂文庫「謡曲集」上下が
紹介されていて、古本で以前に買って
本棚に置いてありました。

最近になって、この本をひろげると。
すんなりと、はいっていける(笑)。
ああ、これなら読める。どうやら、
私にとっての読み頃をむかえたようです。

ちなみに、山村修氏の「花のほかには松ばかり」
のあとがきは、こうはじまっておりました。

「一日に一曲は謡曲を読んでいます。
ふつうの謡曲集で一曲は五、六ページから
十ページほどですから、読むのにそれほどの
時間は要しません。もちろん閑ができれば、
ゆったりかまえて堪能します。ともあれ、それが
一日のうちで、私にとってきらきら光る愉しみの
時間です。」


はい。一日一曲の愉しみを
私も、味わえそうです。

ところで、謡曲の愉しみとは何?
ゆっくり読むと、ついついそんなことを
思ったりもします。

そういえば、三上慶子著
「私の能楽自習帖」(河出書房新社)に
「世阿弥の作品を読み、世阿弥という人の個性を
想像する時、私は世阿弥の能の一面に、じつに
晴ればれしたリズムがあったことに気づいている。
そうした心底から晴ればれした能を舞えるのは、
現代のシテでは、・・・
人類の舞踊の出発には、心からの歓喜があった。
舞踊では、悲哀は歓喜の次に来るのである。
だが、現代の舞台芸術で、じつは最も表現が困難
なのは『晴ればれした歓喜』ではないか。
『騒々しい歓喜』と『晴ればれした歓喜』は、
全く異質のものである。」(p27)


あれ、そういえば、と取り出してきたのは、
向井敏著「文章読本」。そのはじまりの
「名文の条件」に、こんな箇所がありました。

「丸谷才一は『文章読本』で、文章上達の要諦は
名文を読むにつきると断じ、では名文とは何かと
問うて、『君が読んで感心すればそれが名文である』
と答えた。文章を書こうと志す人を勇気づける力ある
言葉だが、ただし、感心した名文が湿った名文で
あったりすると、その人のこうむる惨害の大いさも
またはかり知れない。世に湿った文章は数知れず、
湿った名文というのもけっして少なくないのである。
それだけに、陰湿な情念による侵蝕を可能なかぎり
制御した、カラリと晴れて快い文章、乾いて気持の
いい文章が望まれる理屈だが、それはたとえば
どんな文章なのか。・・・」

うん。
『君が読んで感心すればそれが名文である』
ということで、私の今やっと
感心を示せたのが謡曲(笑)。

うん。ここまで。
最後も「花のほかには松ばかり」の、あとがき
から引用してみます。

「すぐれた謡曲には、かならず人間の本質に
迫るものがふくまれている。胸の芯を打って
くる真情があるかと思えば、青空へと抜ける
ようなユーモアもあります。
昂揚があり、鎮静がある。
おどろきがあり、なぐさめがある。
謡曲集はさながら人間の心性の宝庫みたいな
ものです。そのことを書きたくて、
私はこの本をつくりました。」(p184)
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朝日購読者層。

2014-10-17 | 朝日新聞
地方にいるので、
分かりやすいのかもしれませんが、
朝日新聞の購読者層は、学校の先生が
多いような気がします。

それが、どうしてなのか。
腑に落ちる説明が、
雑誌「正論」11月号の
潮匡人氏の文です。
「崩れゆく【知のブランド】
 それでも入試に朝日を使いますか?」
p184~191。
それを読むと納得。

ちなみに、2005年の
中公新書ラクレ
「メディアの迷走朝日・NHK論争事件」
でも潮氏は
「入試問題と朝日論調『朝日信仰』の深層」
という文を書いておりました。

うん。分かりました。
まだ、朝日新聞は入試の牙城(ねじろ)で
持久戦に持ち込む可能性に掛けている。
つまり、若い人の試験問題を盾に、
立てこもることができる。
朝日には夏目漱石・天声人語の
老舗の看板があるのだ(笑)。
その切り札を連発している。

こういう新聞に教育問題を
語ってもらっても、困る。
私は、まず聞きません。
というところから、
はじめます。
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