和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

落語の入口。

2009-08-31 | 幸田文
落語を読みたいと思っておりました。
ところが、どれを読んでよいのやら、素人にはわからない。
ヘタに手に取ったりすると、落語の解説書だったりします。
いけない。いけない。
ということで、落語の入口がどこにあるのか。
横着にも、探しもせず、読みもせずにおりました。

するッテェと、ある書評が目にはいりました。
ありがたいですね。書評というのは、入口はここですョ、
と手を振ってくれている。
あとは、ハ~イと云って、その手を振る方へと出かければよいわけです。

その呼び込みの口上が、これまたいい。
ひとつ引用したくなります。

「安藤鶴夫は、劇評家である、直木賞も受賞した作家であるが、数多い仕事のなかでも、この『落語鑑賞』が小説などよりずっといい。いや一流の文学だと思っていた私はいま文庫化された『わが落語鑑賞』を手にとって昔の感動がよみがえってくるのを覚えた。それは事実。しかし私がホロリとしたのは、そんな感傷でも懐古趣味でもなかった。そこにはレッキとした理由がある。
まず第一にここに描かれた市井の人たちが、いかにもひたむきに生きていたからであり、第二にそれを語る名人たちの芸道一筋にかけた姿があざやかだったからであり、そして第三は、この仕事にうち込む安藤鶴夫の文章家としての覚悟が人の胸をうったからであった。」

「そう、これは単なる高座『見たまま、聞いたまま』ではない。むろんモトがなければ不可能だが、そのことを前提にして、これはほとんど創作。なまじの小説とは違う、文学としての質の高い仕事であった。それに安藤鶴夫は片言隻句、言葉のこまかいニュアンスに実に厳格だった。目の前の噺を書き取る困難さの上にこの厳格さ。この苦労が一人の人間を文章家にした。」

これが、毎日新聞2009年8月23日の書評欄に載っていたのです。
評者は渡辺保。
河出文庫・安藤鶴夫著「わが落語鑑賞」(1260円)の書評なのです。

ということで、私は古本を、購入。
古本は、ちくま文庫「わが落語鑑賞」で680円。
さっそく読みました。内容は。天下一品。
私は、こういう本を読みたかった。と読みながら思っておりました。
あとには、福原麟太郎氏の「『わが落語鑑賞』に寄せて」が載っておりました。
そういえば、ネット検索で安藤鶴夫作品集の監修者のひとりに福原麟太郎氏の名前がある。

ちなみに、KAWADE道の手帖。「誕生100年記念特集」とある「安藤鶴夫」(河出書房新社)には、幸田文との対談があったりします。

うん。福原麟太郎氏の文のはじまりも、チラッと引用して終わります。

「安藤さんから電話がかかって来て、(手紙であったかも知れないが、どっちでもよろしい、)『落語鑑賞』の新版を出すから序文を書けという。馬鹿なことを言っちゃいけない。・・・・・私は永の安藤ファンで、『落語鑑賞』の初版が出たとき、それはいま奥付で見ると昭和27年11月15日らしいが、実に感嘆して、たちまち全巻を読み上げ、ぼくが死んだら、この本をお棺の中へ入れてくれと、家の者に言った。それは家内も覚えているし、私も覚えている。それほど感動した本に何か書きつけろという・・・」
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世論指導者。

2009-08-25 | 朝日新聞
徳岡孝夫著「『戦争屋』の見た平和日本」(文藝春秋・1991年刊)は、
はじめに「『索引』のない社会」という4頁ほどの文がついております。
なかに、こんな箇所がある。

「・・混沌の中にも一つの基準があるとすれば、辞書、事典類などのつぎに、索引のある本を手近に置いていることだろう。たとえば日本古典文学大系は後ろの棚に押し込んであるが、その索引だけは手近にある。百科事典も、索引一巻のみはすぐ手の届くところにある。なぜそうするかといえば、索引のない本は、内容を覚えていないかぎり、簡単には役に立たないからである。・・・一般に横文字の本は、詩か小説か随筆でないかぎり索引がついている。ついていなければ、まともな本として信用されないからである。・・・
索引がないから、日本の学者やジャーナリズムは、世の流れに浮かぶうたかたのような説を立て、そのくせ枕を高くして眠ることができる。・・・
幸か不幸か、この国は『索引なき社会』だ。時に応じ機に乗じ、だれでも無責任な説をなし、世に好まれるものを書きとばすことが可能だ。流行すたれば、世間は都合よく忘れてくれる。ありがたや、ありがたや。」


さて、この本の第三章「平和日本」に
「『ビルマの竪琴』と朝日新聞の戦争観」という文が掲載されております。
まずは、そこに竹山道雄氏が書いた「ビルマの竪琴」についての言及があります。

「あの本が出た当時、それよりもっと切実な響きを持っていたのは、戦友たちの『おーい、水島。一しょに日本にかえろう!』という叫びだった。なにしろ、何十万という父や兄が、まだシベリアにいた時代である。戦友の呼びかけよりさらに強烈だったのは、『ああ、やっぱり自分は帰るわけにはいかない!』という水島の拒否の声であった。当時の日本人には、それはほとんど信じられないほどの異常な意志に聞こえた。『流れる星は生きている』が好例だが、あのころの日本人は、とにかく何がなんでもいったん故国に帰り、まだ存在している山河を確認してからでないと生きていけなかった。それほど打ちのめされていた。ビルマに残って日本兵の遺体を弔いたいという水島の意志の強さは、今日の人が想像できないくらいであり、その水島を創造し得た竹山さんも強かった。
あの小説を書いた前後のことは、竹山さん自身が『ビルマの竪琴ができるまで』の中の述べている。戦地からの気の毒な復員兵(その多くは彼の教え子だった)を毎日のように見て、『義務をつくして苦しい戦いをたたかった人々のために、できるだけ花も実もある姿として描きたい』というのが動機だった。
『当時は、戦死した人の冥福を祈るような気持は、新聞や雑誌にはさっぱり出ませんでした。人々はそういうことは考えませんでした。それどころか、『戦った人はたれもかれも一律に悪人である』といったような調子でした。日本軍のことは悪口をいうのが流行で、正義派でした。義務を守って命をおとした人たちのせめてもの鎮魂をねがうことが、逆コースであるなどといわれても、私は承服することはできません。逆コースでけっこうです。あの戦争自体の原因の解明やその責任の糾弾と、これとでは、まったく別なことです。何もかもいっしょくたにして罵っていた風潮は、おどろくべく軽薄なものでした』」

さて、ここまでが「ビルマの竪琴」に関することですが、
次に、原子力空母エンタープライズの佐世保入港を評する竹山道雄氏の寄航に賛成の意見と、それに対する朝日新聞「声」欄での二ヶ月半にわたって続く論争にテーマが絞られていきます。

「投書主、とくに竹山さんを批判する人に、職業を主婦や学生と書いている人の多いのは面白いが、荒正人という有名人も竹山批判派として参加した。荒氏は『ソ連は東欧を衛星圏にした』という竹山反論の一節を取り上げ、『一例をあげればチェコスロバキアでは国民の70%以上が第二の家を所有し、各種の福祉施設も発達し・・・共産圏でも、生産が豊かになれば自由化は必至です』と批判しているが、なんぞ計らん、この六ヶ月後にはソ連軍の戦車がそのチェコになだれ込んだのである。何という浅薄な言論。何という竹山さんとの違い!『声』欄での論争は、二ヶ月半のあいだ、かなりはなばなしく行われた。竹山さんも二度、反論の機会を与えられ、社会面にも取り上げられている。・・・だが、それ以後の『声』欄には竹山さんの文がない。私は竹山さんが批判に負けるかイヤ気がさして反論を打ち切ったのだろうと思っていた。そうでないと知ったのは・・『主役としての近代』(講談社学術文庫)という竹山さんの本を読んでからである。『これに対して、私はその日のうちに投書した。返事はつねに問とおなじ長さに書いた』これを読んで、私は唖然となった。つまり、朝日新聞がボツにしていたのである。・・・・
竹山さんは『これはフェアではないが・・・投書欄は係の方寸によってどのようにでも選択される。それが覆面をして隠れ蓑をきて行われるのだからどうしようもない』と続けている。日ごろから朝日の『声』欄のあまりの整いかた、ある種の傾向に気がついていた一人として、私は竹山さんに同感せざるを得ない。あの欄は、意図的に一つの風潮をつくろうとしていると私は思う。すでに毎日新聞のコラム『変化球』に指摘されたように、朝日は『ここに甦る朝日投書欄の三十年 完結!』と称して、朝日文庫から六冊本で『声』のアンソロジーを出した。そして、その中から、この『ビルマの竪琴論争』は、みごとに消されているのである。」(~p325)

とりあえず、古本屋から竹山道雄著「主役としての近代」(講談社学術文庫)を買ったのでした。
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七郎平の句。

2009-08-23 | 詩歌
石渡進著「間宮七郎平と和田の花」。
間宮七郎平句集「潮騒」。

ちょうど、鉄道の駅が出来る前後を2冊の本から拾ってみました。


大正11年12月5日、待望の国鉄和田浦駅が完成。
句集「潮騒」の始まりの句は

   春昼の薬缶がたぎる線路土手

大正12年9月1日、関東一円に大地震あり、花の大事な市場である東京は、一面の焼野原・・震災後1ヵ月もすると花の注文が急に増えて来ました。震災で亡くなった人の慰霊祭があちこちで行われ、花が大量に必要になったのです。


昭和9年3月。先に鉄道省と結んだ花の出荷が頭打ちになって来たため、県に陳情し東北や北海道へ市場開拓に行くことになりました。

その前後の句

  トンネルの長きに旅の暑さかな

  蝉の声車窓に迫り旅半ば

  雲の影走れる雪の大地かな


昭和19年になると、戦況が一変し、物資、特に食糧が乏しくなって来ました。
そのため国は、食糧生産を農政の第一目標として定め、農産物の作付割当てをするようになりました。その中で特に、千葉県と長野県は、花が禁止作物に指定されたため、花作りは壊滅的な打撃を受けました。・・政府の花作りに対する取り締りは徹底したもので、花の苗や種は残らず焼却してしまうこと、今作っている花は全部ぬき取ってしまうこと、ということでした。


  昭和19年 北海道へ

  汽車暑し衣食に辛き人の渦

  隣り座の婆よりかかり昼寝かな

  葦枯野蝦夷地を走る汽車の中


  戦時

  敵一機包みて速し冬の雲

  疎開児も霜の丸太を肩に負ひ

  春灯を細め代用食並ぶ

  麦の穂や疎開の娘蛇に馴れ


  終戦

  秋立ちて笑はぬ顔の人だかり

  管制の解けて秋灯尚淋し

  飛機とばず軍靴騒がず立てる秋

  炒り豆の歯に沁む五十三の秋

  秋刀魚来ず何を焼くらん漁家の灯は

  寒鴉遺骨の庭を遠巻きに
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りん読。

2009-08-22 | 幸田文
え~と。「りん」というのは、石垣りん。
石垣りんの詩に「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」があります。
そこに、こんな箇所

「 それらなつかしい器物の前で
  お芋や、肉を料理するように
  深い思いをこめて
  政治や経済や文学も勉強しよう、

  それはおごりや栄達のためでなく
・・・・・・
全部が愛情の対象あって励むように。 」


りん読の「読」は、読書の読。

松岡正剛著「多読術」(ちくまプリマ―新書)を、読むともなく、
パラパラとめくっていたら(この新書、インタビューに答える座談のかたちなのでお気軽に、ページを飛ばして)、こんなエピソードが語られておりました。


「あるとき、逗子の下村寅太郎さんのところに伺ったことがありました。日本を代表する科学哲学者です。そのとき七十歳をこえておられて、ぼくはレオナルド・ダ・ヴィンチについての原稿を依頼しに行ったのですが、自宅の書斎や応接間にあまりに本が多いので、『いつ、これだけの本を読まれるんですか』とうっかり尋ねたんですね。そうしたら、下村さんはちょっと間をおいて、『君はいつ食事をしているかね』と言われた。これでハッとした。いえ、しまったと思った。・・・」(p141)

こうして、すこし後に松岡さんは、こんな話をしております。

「昨今はグルメの時代で、誰もが、日々の会話でもテレビでも、食べものの話ばかりをしますね。お店へ行っても、食べながらまた料理の話をする人も多くいる。『このタコは南フランスの味だ』とか、『ここの店のはちょっとビネガーが強いけれど、タマネギが入るとまたちがうんだよ』という会話が、食事をそれなりに愉快にしたり、促進している。
それにくらべて本の話は日常会話になりにくいようですが、これはもったいない。『あの店、おいしいよ』というふうに、『あの本、いいスパイスが入っていた』という会話があっていい。・・・・
食べものと同じでいいんです。本のレシピや味付けや材料の新鮮さでかまわない。『この著者のこの本はこういう料理の仕方がいい』『この著者は焼き加減がうまい』『あれはソースでごまかしているなあ』というようなことでいい。あるいは、店のインテリアや『もてなし』がよかったということもある。店のインテリアというのは、たとえば本のブックデザインとか中見出しがうまかったというようなことです。それを『知のかたまり』のように思ってしまうのは、いけません。これは書評や文芸批評が『本についての会話のありかた』を難しくしすぎているということもあるかもしれませんが、本はリスクはあるものの、知的コンプレックスを押し付けるためのものじゃないんです。もっとおもしろいものであるはずです。これはね、日本にリベラルアーツ(教養文化)の背景が薄くなってきているということも関係があるようにも思います。大学からも教養課程がなくなっているし、どうもリベラルアーツを軽視する傾向があるね。そのくせ漢字クイズや歴史クイズや、観光地の検定が流行する。これは『○愴#12398;知』にはいいかもしれないけれど、人間にとって一番たいせつな『語り』にはなりません。」(~p148)

う~ん。「語り」が出てきたので、
ここで最後に、長田弘詩集「食卓一語一会」から詩「イワシについて」を引用。


「 ・・・・
  けれども、イワシのことをかんがえると
  いつもおもいだすのは一つの言葉。
  おかしなことに、思想という言葉。
  思想というとおおげさなようだけれども、

  ぼくは思想は暮らしのわざだとおもう。
  イワシはおおげさな魚じゃないけれども、
  日々にイワシの食べかたをつくってきたのは
  どうしてどうしてたいした思想だ。

  への字の煮干にしらす干し。
  つみれ塩焼き、タタミイワシ無名の傑作。
  それから、丸干し目刺し頬どおし。
  食えない頭だって信心の足しになるんだ。

   おいしいもの、すぐれたものとは何だろう。
   思想とはわれらの平凡さをすぐれて活用すること。
   きみはきみのイワシを、きみの
   思想をきちんと食べて暮しているか?   」



ということで、
 石垣りんの詩「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」と
 松岡正剛著「多読術」と
 長田弘の詩「イワシについて」。

以上の炊事・食事と読書とを、
私は、「りん読」と命名したいと思います。
いかがでしょう。

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読書展望。

2009-08-22 | 幸田文
幸田露伴は夏目漱石と同じ年に生れておりました。
慶応3年(1867年)。その10年後。
角田柳作は明治10年(1877)生れ。
ちなみに、この人は、ドナルド・キーン氏の大学の先生。
でも、いまいち、どんな方なのか分かりずらい。
窪田空穂が明治10年(1877)なので、
何やら、角田柳作氏との年代的な共通点があるのじゃないかと、
こちらは、窪田空穂全集があるので、読もうと思えば読める。
でも、読もうと思うだけ。
翌年が、与謝野晶子で明治11年(1878)。
堀口大學は明治25年(1892)で、
そういえば、「月下の一群」を丁寧に読みたいと思ったのに、
いまだに、忘れております。
田中冬二は明治27年(1894)、田中冬二の全集は3巻なので
いつでも、読めそうなのですが、今年は、齧りはじめ。
その十年後、幸田文が1904年。
何とか、幸田露伴・幸田文とのつながりで読み齧れれば。
というところ。
徳岡孝夫氏は1930年生まれ。
その徳岡氏の「妻の肖像」に

「1970年に40歳にして思いがけないことが起った。56・9倍の競争率にもかかわらず、横浜・港南台の宅地債券に当選したのだ。」
「会社の信用組合から限度まで借りた。住宅金融公庫から借りた。銀行からも借りた。それでも二百万円がどうしても足りず、最後の頼み中央公論社の嶋中鵬二社長に借金を申し込んだ。私の話を聞いた嶋中氏は、一瞬考えてから『よござんす』と、二つ返事で二百万円貸して下さった。ドナルド・キーン氏の日本文学史の翻訳料から返す約束(私の方から申し出た)であった。そもそも借りられたのは、キーン氏の口添えがあったからである。真っ先に中央公論の借金を、二年も経たぬうちに完済した。・・・」(p84・単行本)

というドナルド・キーン著「日本文学史」も、いまだ未読。
とにかくも、読むというよりも「袖振れあうも・・・」でゆきましょう。
そうしましょう。
ということで、未読本の列挙。


9月1日追記。
安藤鶴夫は、1908年の東京浅草生まれ。


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みそっかす。

2009-08-20 | 幸田文
え~と。
どこから書き始めましょう。
田中冬二詩集「サングラスの蕪村」は、昭和51年(1976年)。著者82歳の時に出版されておりました。そのはじまりに「『サングラスの蕪村』に関して」という1ページほどの文があります(「田中冬二全集」第二巻・筑摩書房)。
まずは、そこから

「私は詩を書いて来て五十余年、顧みればそれは詩を書いて来たというよりも、ロマンを追つたことのようだ。そしてそのロマンが詩をもたらしたのだ。私はこれまで詩作上のプロジェクトとして、日常見聞したこと、感銘したこと、ふと思い浮かんだことなどを、一冊のノートにいちいち誌して来た。・・・・これは私の詩作上の単に参考資料であつて、クリエーションに反しない事はもとよりである。・・・・きわめて軽いものなのである。といつてこれを無下に捨ててしまうのも惜しく、敢えてまとめてみた。
私は老年であるが、エスプリは燃え上がる青春の日のままである。そうした一面にはまた独楽(こま)が澄みきつて廻つているような、しずかな心境を欲している。」

こうしてノートを「敢えてまとめてみた」というのが、題して「サングラスの蕪村」なのでした。そこから一箇所。

「 火吹竹 味噌漉し 擂(す)り粉木 擂り鉢 片口 漏斗(じょうご) 目笊(めざる) 蒸籠(せいろう) 散蓮華(ちりれんげ) 卸金(おろしがね) 土瓶 土鍋 七輪 枡(ます) 焙烙(ほうろく) みんな忘れられてゆくものばかりだ 」


ところで、幸田文に「みそつかす」というのがあります(「幸田文全集第二巻」岩波書店)。
そこに「みそつかすのことば」という7ページほどの文。

「大言海をあけて見た。そこにみそつかすといふことばは載つてゐなかつた。そうか、無いのか・・・」とはじまっております。
「雑誌が出るとたちまちだつた。『あの題はなんと読むの』と親しい人から訊かれた。訊かれると途端に、しかし漸く、ああしまつた、通じないぞと悔やんだ。味噌汁の味噌がもうずつと前からみんな漉し味噌になつてゐて滓のないことは、毎朝あつかつて来た自分自身がもつともよく知つてゐる筈のものを、うつかり勘定に入れ忘れ、我を張つてこんな題にした間のわるさ、ばからしさ。いまさら、みそつかすとは東京だけの方言かなどとも思ひつつ、しやうがないから人に訊かれるたびに、擂粉木・味噌漉の、昔の味噌汁製造法を説明しなくてはならなかつた。」

ちなみに、気になって三省堂国語辞典(第四版)を引いてみました。

「みそっかす・味噌っ滓」みそをこしたあとの、かす。いちばんつまらないもののたとえ。
(子どもの遊びで)一人前になかまに入れてもらえない者。

と、あります。
幸田文の「みそつかすのことば」の最後は、その子どもの遊びで使われる「みそつかす」を語って、納得の1頁が書かれておりました。

さて、もう一箇所。
幸田文著「雀の手帖」(新潮文庫)の最後に
出久根達郎氏が「幸田さんの言葉」と題して書いておりました。
そこにも

「ずっとのちに至って、私は幸田さんの言葉が、かなり特殊であるのを知る。方言でなく、いや一種の方言だが、ごくごく狭い地域の、極端に言うなら、幸田家とその周辺で遣われる言葉なのだった。けれども通じないことはない。いなか者の少年にも、十分、意味は通じたのである。正確にはわからなくとも、大体の内容はつかめた。『おっぺされる』などは、茨城人の私も日常、口にのぼせていた。『押しひしがれる』ことである。私が幼年時に遣っていた日常語を、幸田さんが堂々と書物で用いているのだから、感動するはずである。
これは『雀の手帖』には出てこないが、幸田さんの初期の文に『みそっかす』という語が遣われている。子供たちの遊びで、一人前と認めてもらえぬ者のことだが、私のいなかでは、『みそっこ』と入った。『みそっかす』とも言った。」
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おいしい言葉。

2009-08-18 | 幸田文
KAWADE夢ムック・文藝別冊「総特集 幸田文 没後10年」。
そこで、「幸田文の東京っ子ことば」を読めました。
林えり子氏の文。

ちょっと魅力ある手ごたえなので、引用から。

「・・・母は、幸田文の愛読者だったが、なぜ母が文に惹かれたのかが、いま、この文章を書くいまになって、わかってきた。まだ年端もゆかぬ娘に読ませたかった理由も、いまさらに見えてくる。幸田文と母はほぼ同い年である。・・・・なぜ、娘の私に読ませようとしたのかというと、母がわが父母、祖父母から伝授された、根生いの江戸っ子以来の家のしつけなり暮しのありようが、戦後の混乱と無秩序の中で、意味もないものと見做されることへの忿懣が幸田文によってふつふつと涌きあがり、本当は娘に教えたかったことを引っこめていた自分に気づいたということであったろう。ことばや言いまわし、口調にしてもそうである。母は音羽で育ち、私の父となる婚家は本郷、その地での耳なれたもの以外の、東京っ子にとっては、耳障りな口吻が席捲しだしていた。娘は学校でおぼえてきたらしい、どこの土地だかわからないようなことばをつかいだす。それを訂正していいものか。戦後の民主教育は平等を旨としている。ことばにも平等観が求められているのか。そんな疑問が、幸田文によって解かれたのだろう。東京っ子のことばがここにある。こういう表現ならばこそ東京っ子の心情は伝えられるのだ。娘にその良さを、あらためて知らしむベきだ、そう思ったにちがいないのである。・・・」

ところで、この文章は、林えり子著「東京っ子ことば抄」(講談社)にある
「東京っ子ことばの親玉は幸田文」からの再録のようですが、そちらには、こんな箇所がありました。

「未練がましく言わせてもらえるなら、東京ことばの持つ一種のはじらい、感情をむきだしにしないスマートさ、くすりとおかしみのある言いまわし、リズミカルな口調と歯切れのよさ、そうしたものがこの東京から失われていくことに何ともやりきれない思いがする。ことばは文化である。伝達の一手段であり、ことばなくして人の生活は成り立ち得ない。どんなことばを択(えら)み、どんな言いかたをするのかに人柄がしのばれてもくる。東京っ子たちは、そのことを十分にわきまえていて、多弁を弄せず、一言きりりと言うことに誇りさえ感じてきた。東京っ子の集まる座は、まさに『談笑』というにふさわしい、なごやかさをかもしだした。そこでは拙い表現は恥とされた。会話は知性と礼節と諧謔が織りなすゲームであった。悠々と、季節の移ろいを愛でながらの、そうした座が持てなくなったいまの東京人に、喚起をうながしたいと思うのは、もはや夢なのか・・・・。」(p274)
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イヤラシイ一面。

2009-08-18 | Weblog
徳岡孝夫著「妻の肖像」の中の「仕事で死んだら」という文。
山本七平著「日本はなぜ敗れるのか」(角川oneテーマ21)の第三章「実数と員数」。
そして、徳岡孝夫著「岡本公三サイパン全記録 銃口は死を超えて」(新人物往来社)未読。

以上の3冊。

まずは「仕事で死んだら」からの引用。

「1967年の初夏に、香港取材を命じられた。文化大革命の騒ぎが、英植民地であった香港にも波及し、・・・あちこちで時限爆弾が破裂する騒ぎになった。その頃まで、週刊誌記者の海外取材なんて例外中の例外だった。・・・編集長Mさんは私を派遣することにした・・香港取材中に、私は新聞社のイヤラシイ一面を、まざまざと見た。編集局からも外信部の中国専門記者二人が私と同時に香港に入り、現地駐在の特派員と合わせて三人もいるのに、からきし取材力がないのである。歴代の特派員は英語ができないから、香港政庁へ取材に行ったことが一度もない。そのくせ私が危険を冒してテロの現場へ行って取材した結果を、横取りしようとする。詳しく語れば個人攻撃になるので略すが、私は入社のときから憧れていた『海外特派員』というものの実態を知って、がっかりした。皮肉なことに、その香港取材中に、私にバンコク特派員の辞令が出た。週刊誌野郎がいきなり社内のエリートでなければなれない特派員になる。思いがけない人事であった。」


つぎに山本七平氏の本から引用。

「岡本公三の裁判のとき、ある新聞記者は、ホテルから通訳のI氏に電話しただけで、一度も法廷に姿を現さないで記事にした。これでは、東京から電話しても同じことだが、I氏が久しぶりに帰国してその新聞を見ると、何と、法廷で自ら取材したように書かれていたという。私はそれに興味を感じ、その新聞を探し出して丹念に読んでみた。
確かに秀才の文章、きわめて巧みに整理され、I氏から電話取材した現場の情景が、巧みに、形容句のような形で文脈に挿入され、叙述それ自体はまことに【格調の高い】もので何ら破綻がないが、視覚に基づく強烈な印象が構文の先頭に出てきておらず、現場の目撃者の記録とは、基本的に構成が違っている。またその人が『見た』なら、その人の『見た』に基づくその人の判断があるはずであり、それがI氏の判断とも世の通念・通説とも異なっていて少しも不思議ではない。それが『見る』ことであり『知る』ことであろう。
多くの国の言葉で、『見る』は同時に『知る』『理解する』の意味である。通念・通説・他人の判断の受け売りは、見ることでも知ることでもない。従ってそういう文章をいくら読んでも、人は、何かを知ったという錯覚を獲得するだけで、実際には何も知ることはできない。それでいて、何もかも知ったと思いこむ。そしてこうなると『知る』とはどういうことなのか、それさえ知ることができなくなってしまうのである。そういう状態がきわめて日常化した今日・・・・」(新書p72~73)


ちなみに、山本七平著「日本はなぜ敗れるのか」の新書の黄色い帯には、
「奥田碩会長が『ぜひ読むように』とトヨタ幹部に薦めた本」とありました。
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昭和20年の日本語。

2009-08-17 | 幸田文
幸田文を読みたいと思いながら、読んでいない私です(笑)。
ということで、幸田文の気になる箇所。
篠田一士の言葉に(kawade夢ムック・総特集幸田文)p158

「幸田文の作品を読んで、はじめにだれしも経験するのは、日本語がこんな美しいものだったかというおどろきである。美しいといっては多少そらぞらしくきこえる。言葉のひとつひとつが、しかとした玉のごとき物体となって、読者の掌中のなかでずっしりした重さを感じさせるといった方が、まだしも正確な表現になるだろう。玉のまどやかな触感―――それははじめ冷やかではあるが、しばらくすると、掌のあたたかみを吸収して、情感にもにたぬくもりを逆に放射する。」

「日本語がこんなに美しい」という手ごたえが面白いですね。
幸田文には、どうやら、それがあるらしい。
その美しさをどう、私なら読むか。
これが、幸田文を読むよろこび。
そこいらが、気になるなあ。

たとえば、徳岡孝夫著「妻の肖像」にこんな箇所がありました。

「バンコクで思い出すことがある。町の名は忘れたが、支局のオフィスのあるラジャダムリ街の先に、台湾人のオバサンの営む瀬戸物屋があった。食器を買いに何度も行った。そのオバサンが、実に綺麗な日本語を話した。正しい敬語、正しい言葉遣い。若い日本人の奥さん方は、相手の言葉の美しさに押され、客なのに『ハッ、ハッ』と恐縮していた。私は聞いて、『あ、これは昭和二十年の日本語だ』と、すぐに判った。オバサンが日本統治の終了時に話していた日本語、それは彼女の記憶の中で昭和二十年のまま固定した。われわれも、当時は同じように美しく折り目正しい日本語を喋っていたのである。和子は『あそこでお茶碗買うの気持ちいいわ』と言って贔屓にしていた。」

幸田文のは、その美しさもあるのですが、それだけじゃない。
それは何なのか。
ちょうど、8月13日にブックオフで買った幸田文著「雀の手帖」(新潮文庫)の解説・出久根達郎の文を読んで、こういうイキイキした箇所もあると思えたのでした。出久根さんの文は「幸田さんの言葉」。雀の手帖が新聞連載された年に、出久根さんは東京へ出てきた。と書かれております。昭和34年の3月。では引用。

「私は15歳、古本屋の店員になった。いなかの少年だったので、方言と訛があからさまである。早速、これの矯正をされた。商人になるためには当然の教育なのである。しかし言葉遣いの注意を受けるくらい、屈辱的なことはない。劣っているもののように指摘されるから、いじけてしまう。私は軽いノイローゼにおちいった。そして人の言葉に過敏になった。・・・・そんな状態の折りに、私は幸田文さんの文章に出くわしたのである。・・・たちまち雲と散り霧と消えるのを覚えた。それは、こういうことだった。気取ることはない。飾ることはない。ごく普通にしゃべれば、それでいい。恥じたり、卑下する必要はない。おかしな点は、何もない。幸田さんの口調が、良い手本ではないか。私は何を勘違いしたのだろう。幸田さんは東京の方言を遣っている、と思ったのである。幸田さんの独特の言葉遣いを錯覚したのだった。無理もない。私がそれまで読んできた作家の文章とは、全く異質だったのだから。・・・方言を小説でなく、エッセイの文章に用いていることに、驚いたのである。エッセイというものは、端正な標準語で書くものだ、と信じていたのだった。方言や訛を恥じることはない。と私が言葉の劣等感から解放されたのは、幸田文さんの文章を読んでの上だ、と言うと、おかしいだろうか。実際の話である。少なくとも幸田さんの文章が、一集団就職少年の鬱屈を払拭したことは間違いない。・・・・」「私は幸田さんによって方言コンプレックスを解かれただけでなく、文章の自由を教えられた。どのような俗語を用いても、用い方一つで、美しい文章をつづれる、という教訓であった。・・・」

ということで、昭和20年の日本語と、幸田家の言葉遣いと、その興味でもって、幸田文の文章を読み進めればよいのだろうという方向性が見えてきました。感謝。
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折目正し。

2009-08-17 | Weblog
徳岡孝夫著「妻の肖像」が文庫に入ったそうです。
徳岡孝夫氏が雑誌「諸君!」の匿名巻頭コラム「紳士と淑女」の著者だと、
わたしが知ったのは、おそまきながら「諸君!」の最終号でした。
さて、「妻の肖像」は、徳岡氏を残して妻・和子さんが先立つ顛末が書かれております。妻が病院に入っている間のことが、こうかかれておりました。
「その間にも、毎月の決まり物の〆切りが次々に来る。朝の四時半まで書き、八時に起きてゲラ直しをしたが、何のために仕事をしているのか何を書いているのか、自分でも判らなくなる。そのうちに食事の時間が来る。布団の上げ下ろしもある。近くのファミレスや冷凍食品で誤魔化すが、妻を病院に取られた私は全き無能力者である。午後は和子のベッド脇に座って、息子たちのことを話ながら、二人で深い溜め息をつく。それでも長男が帰ってきたので、少し元気が出た。家族全員が集まったのだ。」
「毎月の決まり物の原稿を書く時期になった。逃げることのできない、責任ある仕事である。」「モルヒネを二錠増やしたとのこと。それから夜まで、病院のベッドの脇で妻と長々と話す。和子、珍しく私の性格の欠点を指摘する。すぐ弱音を吐くところだと言う。やっぱりそうか。自覚はしていたが、改めて妻の口からそれを聞くと、自分という人間のツマラナサが見える。家に帰り、今度は長男の洋介と再び長々と物語する。」
    以上は「別れの始まり」より。

また、「二度のお産」という文の最後は、こう締めくくっておりました。

「人間は、この世に生きて何をするか?私はまだ終わりきらない自己の人生を顧み、『死者を悼むこと。子を産むこと。それ以外は何も大切なことはない』と感じる。課長で終るのと課長補佐で終るのと、人生の価値になにほどの差があろう。私は時代の要所に立った人を何人も取材し、記事を書き本を書いてきた。だが和子の二度のお産に比べると、私のしたことはハリウッドの二流映画をなぞる程度のものでしかなかった。」


私は、徳岡氏がコラムの著者でなかったならば、この言葉をまともに聞いてしまったかもしれず。まして、この本自体を読まなかっただろうなあと思われます。匿名コラムにある個人を特定できる話題を避けていたコラムニストが、ここでは妻とご自身の細部までを、静かに語って、自然と、こちらの居住まいが正されている。

何げない、夫婦の些事を丁寧に拾い上げて、ああ、あれもあったというぐあいに書き込まれておりながら非凡なのです。この本のはじまりの方で、こんな言葉がありました。
「自分がこれまでに書いた本や仕事のことには、全く触れなかった。著作は身すぎ世すぎであり、文章は書けば書くほど、説明すればするほど真実を裏切る。満足のいくものは一冊も書いてない。・・・」。

徳岡氏の「身すぎ世すぎ」本を読もうと思うのでした。
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新聞概論。

2009-08-13 | 朝日新聞
ドナルド・キーン著「日本人の戦争 作家の日記を読む」(文藝春秋)を読んでいます。
第六章が「玉音」で、第七章が「その後の日々」。第七章の高見順の箇所が引っ掛かりました。8月20日の新聞報道についての言葉があります。
以下引用

「うそしか書けなかったということはわかる。
それは国民も知っている。
しかし、だからといって、しゃあしゃあとしているのはどうかね。
―――これは新聞だけのことではない。
言論人、文化人全体の問題で、
僕等作家も等しく謝罪せねばならぬことだが」・・・
翌日の読売報知新聞で、科学と芸術の振興を唱えているトップ記事を読んだ高見は、『虐待されて来た文学も今度は自由が得られるだろう』と書いている。その記事に明るさがあることは認めても、新聞の節操のなさに、高見の心は晴れない。同日の日記の後半で、高見は読売報知の記事に対する自分の反応をさらに詳細に記している。
「朝、急いで書いたので胸の中のもだもだをとくと突き留めることができなかった。『心は晴れない』と簡単に書いたが、事実はもっと激しく、不快なのであった。腹が立っていた。よくもいけしゃあしゃあとこんなことがいえたものだ、そういう憤怒である。論旨を間違っていると思うのではない。全く正しい。その通りだ。だが如何にも正しいことを、悲しみもなく反省もなく、無表情に無節操にいってのけているということに無性に腹が立つのである。常に、その時期には正しいことを、へらへらといってのける。その機械性、無人格性がたまらない。ほんの1月前は、戦争のための芸術だ科学だ、戦争一本槍だと怒号していた同じ新聞が、口を拭ってケロリとして、芸術こそ科学こそ大切だなどとぬかす、その恥知らずの『指導』面がムカムカする。莫迦にするなといいたいのである。戦争に敗けたから今度は芸術を『庇護』するというのか。さような『庇護』はまっぴら御免だ。よけいな干渉をして貰いたくない。さんざ干渉圧迫をして来たくせに、なんということだ。非道な干渉圧迫、誤った統制指導の故に、今日の敗戦ということになったのだ。その自己反省は棚に挙げて、またもや厚顔無恥な指導面だ。いい加減にしろ!」



以上は敗戦後の高見順の日記からなのでした。
あれ。どこかで聞いたような文句だなあ。と私は思ったのでした。
昭和20年に8歳だった養老孟司氏の「こまった人」(中公新書)に
2005年1月12日の『朝日新聞』について取り上げた文が掲載されておりました。
題して「奇妙なNHK・朝日騒動」。
そこに、ついでのようにして、養老氏の個人的な体験が語られているのでした。

「私の親は『朝日新聞』をとっていたが、大学紛争以降、私自身は『朝日新聞』をとらないし、読まないのである。それは朝日の人にも申し上げた。紛争のときには、朝日が記事にするたびに、紛争が深刻化したという思いがあるからである。つまり新聞記者はある意味で紛争の当事者だったのだが、その後始末はほとんどわたしたちがしたという思いがある。・・・・ともあれ今度の事件について、政治的圧力があったに違いないと、朝日が決めたらしい。そんなものはなかったというNHKと、それで喧嘩になった。・・・」


せっかく養老孟司著『こまった人』をもちだしたので、
そこから、「参拝問題」という文も引用しておきましょう。
はじまりは、
「小泉首相が靖国神社に初詣をして、また『問題を起こした』。そう書くと、多くの『開明的な』人たちは『小泉が問題を起こした』と解釈するであろう。・・・」

けっこう内容をはしょって行きます。

「医者を強く告発する人間が医者になったら、はたしていい医者になるか。私はそれを信じない。根本的には、必要なときに他を信じない人間に、生産的なことができるはずがないと思うからである。小泉首相はべつに『特別な人』ではない。『ただの人』である。ただの人が首相という特別な地位に置かれたとき、どう行動するか。そろそろそれを、民主主義国家である以上は、一般市民も『身につまされて』考えるべきであろう。・・・
記事を書いたり報道をしたりする人たちは、その意味ではしばしば他に対する責任を感じないで済む人たちである。『俺はそこまで偉くない』と、自分で思っているからであろう。メディアの根本にあるのは、そのことだと思う。その文脈でなら、メディアの報道より靖国に参拝する小泉のほうを私は信用する。・・・・」


あらためて、ドナルド・キーン著「日本人の戦争」へと話題をもどします。
序章の最後はこうでした。
「この本が生れるきっかけとなった数々の日記はすべて公刊されていて、戦前戦中戦後の時代史の研究家にはよく知られたものである。しかし意外にもこれらの日記は、日本の大東亜戦争の勝利の一年間と悲惨極まりない三年間について語る人々によって、時代の一級資料として使われたことがほとんどない。」

あとがきには、こんな箇所があります。

「岩波書店から発行されていた永井荷風全集には原作ではなく、改作が収められていますが、それに対する説明はありません。わたしはより文学的な原作の方を採用することにしました。」

そうそう。養老さんの新書には、こんな箇所がありました。

「新聞やテレビのニュースを見ていると、そこがわからない。
どこまでが本当で、どこまでが嘘か。
そう思いながら、いつも見ている。
こんな疲れる話はない。それなら実際の人生と同じではないか。
科学の世界には、まだ本当の話がある。
若いときには、そう思っていた。その科学も社会のなかにあり、
人間のすることである。それがわかってしまうと、万事同じこと、
どこまでが本当でどこまでが嘘か、年中考えなければならない。
ああ、疲れる。それならファンタジーのほうがいい。
そう思うから、私はファンタジーばかり読む。アニメを見る。
マンガを読む。それも飽きたらどうするか。突然思う。
なるほど、だから年寄りは宗教なんだ。
・・・・」

養老氏は東大の解剖学の先生でした。
大学紛争も経験されておりますし、
大学生が、オウム真理教へと結びつく現場も御存知のようです。

せっかく、ここまで、来たから、もうすこし続けましょう。
徳岡孝夫著「『民主主義』を疑え!」(新潮社)の「はじめに」で
徳岡氏は1960年の秋のことを語っております。
それはニューヨーク州の大学の教室での新聞概論の一時間目の話を、語っておりました。

「すでに八年間の記者としての実績があった。だが部長、デスクや同僚が口にするのは『抜いた』『抜かれた』『掘り下げが足らん』など技術的な面ばかりだった。言論の自由は日本国憲法と共に占領軍から与えられ、従って考える余地のないものだった。ところが占領軍の母国であるアメリカでは、その否定の側から『言論の自由』を問うている。私は、この『一時間目の結論』を、正しいと言いたいのではない。今も考え続けている。・・」

さてっと、その授業の結論というのは、どういうものだったのか。


「あれをディベートと呼ぶのか。九十分が過ぎ、最初の授業というか議論というかが終ったとき、教室全体が一つの結論に達していた。それは『言論の自由はいかなる圧力に抗しても守らねばならない』ものである。しかし『満員の映画館の中で『火事だ!』と叫ぶ自由は誰にもない』ということだった。・・・ショックが、私を打ちのめしていた。『新聞概論』の一時間目が、言論の自由の制限だったことである。それまで一度もそんなこと、日本では議論はおろか考えたことすらなかった。」
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神棚・仏壇。

2009-08-11 | Weblog
梯久美子著「昭和二十年夏、僕は兵士だった」(角川書店)
を読んだら、家にある神棚や仏壇のことを思いました。
以下、思いつくままに。

司馬遼太郎著「この国のかたち」に「ポンペの神社」という文があります。

「十数年前、私が四国の善通寺に行ったとき、そこの国立病院の名誉院長だったこの人にはじめて会った。『私の生家の庭に、ポンペ神社という祠(ほこら)がありまして』といわれた話は、わすれがたい。幼少のころ、荒瀬(進)さんは、毎朝庭に出てその祠をおがまされた。あるとき祖母君に問うと、『ポンペ先生をお祀りしてある』という。オランダ人、ポンペ・ファン・メールデルフォールドのことである。ポンペは、江戸幕府がヨーロッパから正式に招聘した最初にして最後の医学教官だった。・・・安政四年に開講した。・・三期生になって飛躍的にふえ、百二人という多さだった。三田尻での代々の医家にうまれた荒瀬幾造青年の名は、その百二人のなかに入っている。武士待遇の藩医でなく、庶民身分の町医であるかのようだった。惜しくも幾造は、早世した。
ただ、帰国してめとった妻に、ポンペ先生の人柄と学問がいかにすばらしかったかということをこまごまと語った。それだけでなく、ポンペ先生の恩は忘れられないとして、庭に一祠をたてて朝夕拝んでいたのである。
右のことについて、私はかつて書いたことがある。人間の親切(この場合、ポンペの熱心な講義と学生への応対)というものが、幾造の妻に伝わり、さらには孫の進氏にまで伝わったことに感じ入って『胡蝶の夢』という作品を書いた。
・ ・・・・・・・・・・・
唐突だが、右の祠に対する未亡人やその孫の感情と儀礼こそ、古来、神道(しんとう)とよばれるものの一形態ではないか。」


「栗林忠道 硫黄島からの手紙」(文藝春秋)に、昭和二十年一月二十一日の手紙があります。そこから、

「遺骨は帰らぬだろうから、墓地についての問題はほんとの後まわしでよいです。もし霊魂があるとしたら御身はじめ子供達の身辺に宿るのだから、居宅に祭って呉れれば十分です(それに靖国神社もあるのだから)。それではどうか呉々も大切にして出来るだけ長生きをして下さい。長い間、ほんとによく仕えて呉れて難有(ありがたく)思っています。この上共子供達の事よくよく頼みます。    良人より 妻へ  」


この栗林忠道氏についての本を書いたのが、梯久美子でした。
その梯(かけはし)氏が、「昭和二十年夏、僕は兵士だった」を出された。
五人の昭和二十年の回想をインタビューしてまとめられたものです。
その「まえがき」に、こんなエピソードが書き込まれておりました。


「平成19年の春、ある雑誌の記事が目にとまった。俳人・金子兜太(とうた)氏のインタビューである。健康法を問われ、当時87歳の金子氏は、毎朝、立禅をしています、と答えていた。立禅というのは彼の造語で、座禅を組む代わりに立ったまま瞑想するのだそうだ。しかし、どうしても邪念が浮かぶ。そこで、忘れられない死者の顔と名前を、ひとりずつ思い浮かべていくのだという。この人は、こんなふうに死者とつきあっているのか。そう思った。金子氏は戦時中、海軍主計中尉としてトラック島に赴いている。日本の将兵の多くが、おもに飢えのために死んだ島だ。やせ衰えて死んでいった人たちの、小さくなった木の葉のような顔が目にこびりついて離れないと、記事の中で語っていた。」

こうして、この本に登場するのは、金子兜太・大塚初重・三國連太郎・水木しげる・池田武邦。ただのインタビューと違って梯久美子氏は、その戦時中の関連する背景まで記述しておりました。金子兜太氏の文には、同じトラック島にいた梅澤博氏が出てきます。

「朝、仏壇に水をあげるとき、梅澤氏はかならず埋葬した人たちのことを思う時間を持つという。『われわれが思い出すときだけ、かれらは内地に帰ってこられる―――そんな気がするんです。もうあの人たちのことを知っている人間も少なくなりました。生きている限り、わたしが覚えていてやらなくては』」(p26~27)

金子兜太氏が復員船で帰国する昭和21年11月のことも書かれておりました。


「日本から迎えにきた駆逐艦が島を離れるとき、甲板の上から、米軍の爆撃で岩肌がむきだしになったトロモン山が見えた。そのふもとには、戦没者の墓碑がある。このとき金子氏は、こんな句を作っている。

  水脈の果(はて)炎天の墓碑を置きて去る

みずからが『人生の転機といえる二つの句のうちの一つ』と言う句である。
甲板の上で金子氏は、墓碑に見られているように思ったという。死者が最後の一瞬まで自分たちを見送ろうとしている、と。」

五人が梯氏の本には登場するのでした。
その五人の兵士を読みおわると、自然と、五人の戦争を思うのでした。すると、小林秀雄の「美しい花がある、花の美しさというものはない」という言葉が浮かぶのでした。戦争の悲惨というものはない。ここには五人の兵士の悲惨さがある。戦後に、その悲惨をかかえて生きた強さが、たんたんと語られているのでした。
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露伴のために

2009-08-09 | 幸田文
篠田一士著「幸田露伴のために」(岩波書店)という本があります。
以前、篠田一士への興味で読んだことがあったのですが、
読む方が未熟なので、理解が及ばないでおりました。
ということで、幸田文への興味から、
それではと、幸田露伴へと触手が伸びて、
どなたか、幸田露伴の水先案内役はいないかと思った時に、
そうだ篠田一士氏の文があると、思い出したりする、迂闊者が私です。

とりあえず。本の題名にもなっている「幸田露伴のために Ⅰ Ⅱ Ⅲ」を読んでみました。なにやら鉛筆で線がひいてある。私が引いた線なのに、すっかり内容を忘失している。さもありなん。というような箇所がありました。

「露伴の文学はむずかしい、という。・・・
昭和40年代の今日においてだけではない。露伴存命中、つまり、彼の作品が書かれた当時においても、事情はさほど変らなかったはずだ。読者が露伴をえらぶのではない。露伴が彼の読者をえらぶのである。読者と作者の出会いはもともとそういうものなのだ。」(p49)

う~ん。篠田一士氏の縁で「露伴が彼の読者をえらぶのである」という微妙な世界へと参入できるかどうか。

篠田氏はこうも書いておりました。

「はっきり言おう。幸田露伴の作品を読み、そこに感動を経験するひとは、彼自身が好むと好まざるに関わらず、日本の近代文学あるいは現代文学に対峙することになる。いい作品はいい、わるい作品はわるいといった鑑賞家の余裕はこの際通用しない。・・・この富は実に潔癖で、他の富との共存をひどく嫌う。」(p78)

幸田文の父親・幸田露伴がいて、
幸田露伴の水先案内人に篠田一士がいる。
まあ、こうして露伴の本を前に、
開いてもみずに、うろうろしているのが私。

篠田氏は、こうも語っておりました。

「昭和20年代の終り頃だったと記憶するが、田中西二郎氏が現代小説の隘路を打破しようという底意をあらわにした大変戦闘的な露伴再評価の一文を書き、露伴に還ることを提唱した。・・・折角の提唱もこれといった実を結ばないまま立消えになってしまった。やはり露伴をつれだすことは大変なんだなあと、他人事とは思えず、陰ながらぼくは嘆息をついた記憶をもっているが、事態は現在悪化こそすれ、決して好転してはいない。」

「それにしても露伴を読むたびに、ぼくの胸はつねに高鳴る。いま、ここに実現されているものを文学以外のどんな名前でよべばいいというのか。」(p64)
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騒雑の気味。

2009-08-08 | 安房
幸田露伴著「観画談」のはじめのほうに、
房総が登場しておりました。
その少し前から引用。


「晩成先生は、多年の勤苦が酬いられて前途の平坦光明が望見せらるるようになった気の弛みのためか、あるいは少し度の過ぎた勉学のためか何か知らぬが気の毒にも不明の病気に襲われた。・・・・
そこで山水清閑の地に活気の充ちた天地の灝気(こうき)を吸うべく東京の塵埃を背後にした。
伊豆や相模の歓楽郷兼保養地に遊ぶほどの余裕のある身分ではないから、房総海岸を最初はえらんだが、海岸はどうも騒雑の気味があるので晩成先生の心に染まなかった。・・・」


そこから、主人公は野州上州へ、そして奥州の或山間へ。
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夏中は。

2009-08-07 | 幸田文
森まゆみ著「読書休日」(晶文社)に、
幸田露伴を取り上げた文がありました。
ちくま日本文学全集の「幸田露伴」(文庫)を取り上げておりました。
そこに、こんな言葉があります。

「夏中は『観画談』『幻談』『雪たたき』の頁をめくれば涼しくしていられた。」

うん。うん。夏の涼しい読書。

今年の夏は豪雨のニュースに、館林市の竜巻と続きました。
まだまだ、つづくのでしょうか。
さて、テレビのニュースを見ていて、印象に残ったのは、山口県の防府市の老人ホーム「ライフケア高砂」の土石流災害でした。真新しい老人ホームの一階を土石流が通り、まるで土石流の真ん中にホームが建てられてあったような新聞写真でした。

ところで、「観画談」は、寺を訪ねる主人公の話です。
ちょうど、雨が降ってくる。

「 頼む、
と余り大きくはない声でいったのだが、がらんとした広土間に響いた。
しかしそのために塵一ツ動きもせず、何の音もなく静かであった。
外にはサアッと雨が降っている。
  頼む、
と再び呼んだ。声は響いた。答はない。サアッと雨が降っている。
  頼む、
と三たび呼んだ。声は呼んだその人の耳へ反(かえ)って響いた。
しかし答は何処からも起らなかった。外はただサアッと雨が降っている。」


とにかく、お寺に泊めてもらえることになります。
すると、

「御やすみになっているところを御起しして済みませんが、夜前からの雨があの通りひどくなりまして、谷がにわかに膨れてまいりました。御承知でしょうが奥山の出水は馬鹿にはやいものでして、もう境内にさえ水が見え出して参りました。・・・・すでに当寺の仏殿は最初の洪水の時、流下して来た巨材の衝突によって一角が破れたため遂に破壊してしまったのです。・・・水はどの位で止まるか予想はできません。しかし私どもは慣れてもおりますし、ここを守る身ですから逃げる気もありませんが・・・」

こうして雨具に身をつつみ、安全な場所に移動することになります。

「何処へ行くのだか分からない真黒暗(まっくらやみ)の雨の中を、若僧にしたがって出た。外へ出ると驚いた。雨は横振りになっている、風も出ている。川鳴の音だろう、何だか物凄い不明の音がしている。庭の方へ廻ったようだと思ったが、建物を少し離れると、なるほどもう水が来ている。足の裏が馬鹿に冷たい。親指が没する、踝(くるぶし)が没する、足首が全部没する、ふくらはぎあたりまで没すると、もうなかなか谷の方から流れる水の流れ勢が分明にこたえる。空気も大層冷たくなって、夜雨(やう)の威がひしひしと身に浸みる。足は恐ろしく冷い。足の裏は痛い。胴ぶるいが出て来て止まらない。・・・・風の音、雨の音、川鳴の音、樹木の音、ただもう大地はザーッと、黒漆のように黒い闇の中に音を立てているばかりだ。・・・泣きたくなった。」


ちょっと、雨の箇所だけを引用しました。
あとは、読んでのお楽しみ。では、涼しい夏の読書を。
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