和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「子猫殺し」から強制中絶まで。

2006-08-28 | Weblog
坂東眞砂子さんが「私は子猫を殺している」と告白するコラムを掲載して、
反響を呼んでいるそうです。
現在、坂東さんは仏領タヒチ島在住なのだそうです。
そのコラムは日経新聞夕刊の「プロムナード」というコーナーで、
「子猫殺し」というタイトルが付けられた坂東さんのコラムだそうです。
読売新聞の8月24日夕刊によると
「『こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている』で始まり、生まれたばかりの子猫を家の隣のがけ下に投げ捨てていると告白している。その上で、飼い猫に避妊手術を受けさせることと、子猫を投げ捨てを対比し、『生まれてすぐの子猫を殺しても(避妊と)同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ』と書いた。」

ここで、竹村公太郎著「日本文明の謎を解く」が思い浮かびました。
そこには、「なぜ、平安の都に盛んに登場した牛車は、姿を消していまったのか?」
という疑問が考察されておりました。
疑問はつづきます。
「なぜ、日本では馬車や牛車が発達しなかったか。発達させるどころか衰退させてしまったのか?」
ここでは、猫の話ではなくて、牛や馬の話です。
けれども、つながりがあるのでした。

「中国から馬車や牛車が入ってきた。その際、車の動力となる馬や牛を去勢する技術も一緒に入ってきた。しかし、日本人は馬や牛の去勢を徹底しなかった。
日本人は牛や馬を道具として扱わなかった。馬や牛に名前を付けて、家族の一員として扱ってしまった。家族になれば当然、去勢を施すなどということはできない。
去勢しない馬や牛は扱い難い。それでも馬はどうにか調教によって人に馴染む。しかし、牛は馬のように調教が効かない。普段の牛は草食でおとなしいが、突っ走りだしたら止まらない。牛は臆病なためか、外部の刺激に対して敏感だ。とくに去勢しない牛は危険である。ちょっとした刺激で暴れだす。」(P 102)

そして、平安時代の絵巻「日本の絵巻 年中行事絵巻」(中央公論新社、1987)からの指摘をしているのでした。
「この絵巻では、牛車の場面が25場面描かれている。その場面の3分の1近くの七場面で牛が暴れているのだ!・・牛は役には立つが、厄介物であった。牛車によって多くの人が傷つき、物が壊された。とくに人通りの激しい都は、牛にとって刺激が多い。都会と牛車は相性が悪く、牛は少しずつ農村部へ追いやられていったのだ。」
さらに竹村さんは調べておりました。
江戸の屏風絵である「江戸名所図屏風」と「江戸図屏風」を見に出かけて、
「私は心から驚いてしまった。
この江戸時代の二つの屏風絵に『車』の影も形もなかったのだ!
車は江戸文明から消え去っていた。牛車も馬車も完全に姿を消してしまっていた。」

この箇所は、まだ続くのですが、これくらいにして、
8月25日の産経新聞の国際欄に北京の野口東秀さんの署名記事がありました。
そこには

「中国山東省の村で『当局が強制中絶など不当な人口抑制を行なっている』と告発した全盲の人権活動家や世界的にも著名な人権派弁護士が逮捕、拘束された。」とあります。

中国の人口問題は、
加藤徹著「貝と羊の中国人」(新潮新書)のなかの第4章「人口から見た中国史」によると歴史的な背景がよくわかり、現在の資源を食いつぶしてゆくような経緯が、人口問題と絡んで浮かび上がってきます。

また岡田英弘著「この厄介な国、中国」(ワック)には
「これは14世ダライ・ラマの著書に書かれていることだが、巡回医療班がチベットの奥地を回って、結婚適齢期の女の子に不妊手術を施しているという」
という箇所がありました。
産経新聞の記事を読んで、自国の村でも強制中絶をさせているとなれば、領有地であるチベットへの不妊手術などは、当たり前のことだったのだと気づきます。

加藤徹さんの本では
「中国では、人口増減のサイクルが歴代王朝の寿命を決定した。しかも、破局の到来を回避できた王朝は、一つもなかった。」という歴史認識をしめしておりました。

坂東さんのコラム「子猫殺し」から、
中国の強制中絶まで新聞の記事はさまざまな考える材料を提供しております。
文化の問題を含めて、どこをどう結びつけてゆけばよいのか?
ただ、問題を隠す体質としてなら、坂東さんは正直に情報公開をしている
といえることになります。そうして公開された情報を丹念に比べてゆく
そんな発想が各自の判断にゆだねられているのだと思うのでした。

それにしても、私は読んでいないのですが、
坂東眞砂子さんとは、どんな小説を書く人なのでしょう?
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花のほかには松ばかり

2006-08-26 | Weblog
山村修著「花のほかには松ばかり」(檜書店)が出ておりました。
さっそく買って読んでおります。
ということで、読みながら思いついたこと。

現在、読売新聞朝刊の土曜日に連載されているドナルド・キーンの「私と20世紀のクロニクル」。その7月29日では、1957年に東京と京都でおこなわれた国際ペンクラブ大会のことがでておりました。
そこにこんな箇所があったのです。
「全員を感動させた唯一の文化的行事は、能の上演だった。ところが上演が終了するや、記者たちはそれぞれの代表を取り巻き、『さぞ、退屈なさったでしょう』と質問するのだった。自分たちにとって退屈極まる芸術が、まさか外国人にわかるなどとは想像も出来ないのだった。」

なぜ、この箇所を思い起こしているかというと、
山村修著「花のほかには松ばかり」の最初の文に
田代慶一郎著「謡曲を読む」のことがでてきたからです。
そこで山村さんは田代さんの本を
「『見る能』から『読む能』を独立させて研究することを試みた一冊でした。
その精緻な読みかたから、私はたくさんのことを教えられました」とありました。

さて、その田代慶一郎の「謡曲を読む」(朝日選書)の帯は
ドナルド・キーンさんが書いておりました。
どう書いていたかというと、
「謡曲がすばらしい文学であることには異論がなかろうが、現在でも文学として鑑賞する評論家は少なく、文学として謡曲を読もうとする一般読者は、誰が誰に対してものを言っているという基本的な知識を教えてくれるテキストに恵まれていない。田代氏は文学作品として謡曲を取り上げ、日本文学の中で最高の演劇文学に新しい光を投げかけてくれる。」
とあったのです。

その本のあとがきで、田代氏はこう打ちあけておりました。
「私が謡曲に興味を持ったのは、奇妙なことだが、フランスにいたときのことである。
・・・
私はウェイリー訳するところの英訳謡曲数篇には深い感銘を受けた。
特に英訳『景清』を読んだときの感動は今でもあざやかに覚えている。・・・」


さて、
能の上演を鑑賞した外国人に
「さぞ、退屈なさったでしょう」と当然のように質問する日本人記者。
それは1957年のことでしたが、今はどうでしょう。
そして、フランスで謡曲に感動した田代慶一郎氏。

ドナルド・キーン氏は、田代氏の本の帯で
「誰が誰に対してものを言っているという基本的な知識を教えてくれる
テキストに恵まれていない。」と1987年に書いておりました。

2006年8月10日第一刷発行とある
山村修著「花のほかには松ばかり 謡曲を読む愉しみ」(檜書店)は
1900円で発売になっております。

山村修著「狐が選んだ入門書」(ちくま新書)は生前最後の本でした。
そこには25冊の入門書が紹介されておりました。
ひょっとしたら、今回紹介する本が26冊目の入門書だったのかもしれない。
そんなことを思いながら、読んでおります。
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日米の硫黄島。そして中国の情報戦。

2006-08-24 | 硫黄島
8月15日の新聞全面広告が印象に残ります。
「クリント・イーストウッドが描く 日本とアメリカ双方から見た2つの『硫黄島』。」とあります。
そして真ん中にはイーストウッドの言葉「日本のみなさまへ」がありました。
御覧になりましたか?
「61年前、日米両軍は硫黄島で戦いました。・・・
この戦いに興味を抱いた私は、硫黄島の防衛の先頭に立った指揮官、
栗林忠道中将の存在を知りました。彼は想像力、独創性、そして機知に富んだ人物でした。私はまた、栗林中将が率いた若い兵士たち、そして、敵対するにもかかわらず両軍の若者たちに共通して見られた姿勢にもとても興味をもちました。そしてすぐに、これをふたつのプロジェクトにしなければと悟ったのです。私は現在、『硫黄島からの手紙』『父親たちの星条旗』という、硫黄島を描いた映画を2本、監督しています。・・・」

栗林忠道という方はどんな人なのか?
たとえば、昭和23年生れの留守晴夫氏は、今年の7月に出た本の中でこう書いております。
「私が栗林に関心をもつようになったのは、十数年前、アメリカのマサチューセッツ州の小さな大学町に、在外研究員として滞在していた頃の事・・ある日、行きつけの古書店の店頭に積み上げられた古書の山を眺めていたら、IWO JIMA と背表紙に記された一冊の書物が目にとまった。リチャード・ニューカムというジャーナリストが1965年に上梓した硫黄島戦の記録であった。出版されるやベストセラーになったそうだが、それを読むまで、私は・・・ニューカムがかなり詳しく紹介している栗林中将の為人(ひととなり)については全く無知であった。武人として卓越していただけでなく、父親として、夫として、そして何よりも一人の人間として、実に見事で魅力的な栗林忠道という日本人を知る事が出来たのは、私の場合、ニューカムというアメリカ人のお蔭であった。」(p18)
以上は留守晴夫著「常に諸子の先頭に在り 陸軍中将栗林忠道と硫黄島戦」(慧文社)のはじまりの方に書かれております。

これから映画を観てから、留守さんのように興味を持つ方が増えるかもしれませんね。

梯久美子著「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」(新潮社)は2005年に発売され、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しておりました。
今年は留守氏の本と、それから
「栗林忠道 硫黄島からの手紙」と題して新潮社から8月に発売になっております。

それとは別ですが、
今年2006年4月15日産経新聞。古森義久氏の「緯度経度」が古い記事ですが印象深く思いおこされます。
それはちょうど、日本が国連安保理常任理事国入りを果たしたいと願っている時期に合わせて画策された問題でした。その時期が過ぎるまでの嘘を大げさに並べてみせる手段を示しておりました。
それは、どんな風にしておこなわれていたか?
「発端は読売新聞1月19日付朝刊に載った上海発の記事だった。上海紙の『文匯報』に出た南京事件ハリウッド映画製作の報道をそのまま転電していた。記事は『米国の有名な俳優兼監督のクリスト・イーストウッドが旧日本軍の南京での中国人虐殺を米国人宣教師の目を通じて描く【南京・クリスマス・1937】という映画・・・来年12月の南京事件70周年に合わせ、全世界で同時公開する』という要旨だった。」
そこで米国駐在記者である古森氏が取材すると
「本人には直接、話せなかったが、同氏の仕事を取り仕切るエージェントのレオナード・ハーシャン氏に電話で問い合わせることができた。
すると、なんのことはない。ハーシャン氏は『イーストウッド氏が南京事件映画にかかわるというような話はまったくのウソ』と答えた。しかもよく聞いてくれたという感じで、そんな『報道』がデタラメでることを日本や中国の人たちに幅広く伝えてほしいと、こちらに要望するのだった。」
そして、古森氏は「この種の日本についての国際情報は早めにチェックすることの不可欠」を自戒をこめて記したあとに
「マスコミを管理する中国発の・・『情報』の点検の重要性を痛感した」としております。
具体的には
「文匯報は中国共産党上海市委員会の監督下にあり、この規模の地方新聞にしては異様なほど海外支局の数が多いという」
さらに調べるとALPHAという常に日本を攻撃する一貫性から、はっきりと反日団体と呼べる在米中国系組織へと行き当たるのでした。
ここから丁寧に中国とその組織のつながりや、安保理常任理事国への反対の試みの画策を調べております。
そして最後に古森氏は、こう締めくくっておりました。

「『イーストウッド、ストリープ共演の南京虐殺ハリウッド映画』などという日本側を動揺させる虚報の背景を探っていくと、中国から米国へ、南京事件から国連常任理事国入り問題へ、政治意図に満ち満ちた黒い情報戦略を感じさせられた次第だった。日本側としても中長期の効果的かつ敏速な対応が不可欠なことを証する典型ケースだと思った。」

だいぶ余談になりました。
ALPHAは、これくらいにして、
せめて、栗林忠道中将についてぐらいは知っておいてもよいと愚考するのでした。
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「毎日かあさん」の夏休み。日曜日は毎日新聞を買おう。

2006-08-23 | Weblog
毎日新聞の日曜日は楽しみです。
私は産経新聞を購読してるので、
日曜日は近くのコンビにへ行って毎日新聞を買ってきます。
日曜日の毎日新聞には「今週の本棚」という書評が3ページ。
本を読まずに、本のダイジェストを一望できるような贅沢なページです。
というわけで、わざわざ日曜日になると新聞を買いに出かけます。
ところがです、最近、毎日新聞の日曜日に西原理恵子著「毎日かあさん」が
もどっておりました。この連載の最初の始まりが日曜日だったのですが、
いつのまにか、新聞の違う曜日へと引越しており残念読めずにおりました。
それがまた、日曜日に読めるようになったのです。
ちょうど、西原家の夏休みは「海のみえる旅館に来ている」というわけです。
私が思わず笑っちゃったのが8月6日の第184回でした。
(毎回まるで、いろは歌留多か、百人一首の札をただ並べただけのようなコマワリで
話がすすむのが痛快。痛快。)
その回の始まりはというと、最初のコマが
窓の外は海と半島とが見えている部屋で
「朝の潮風の涼しい時間に宿で息子と宿題をする。」
次のコマは、
「お前は本当に机に座って問題をとけずに自分がとけるタイプだよな。」
というセリフの下に、陸に上がったクラゲか、千尋のカオナシか、
と思わせる異臭をはなつような流動体が机にのしかかっている図。
その息子のクラゲ妖怪の上には「でろーん」とあります。
それから、エイリアンの子供ぐらいのアシダカグモがトイレにいたり、
カンボジアではクモを油で揚げて砂糖をつけて食べた話になったり。
どういうわけか輪廻転生の話になり、アジアの話になるのが
第184回「息子地図」。
第185回は「父帰る」で空と雲と山なみと。
そういえば、初めて毎日新聞に「毎日かあさん」が連載されていた頃、
いつのまにか、連載が中断しておりました。しばらくして
そこまでの連載が、単行本になったときに本の帯に
家庭マンガをはじめたら、離婚しました。というような状況報告。
なにか、実況中継家庭マンガなので、
それが2006年の今年の夏は、親子での夏休み風景でした。
第186回の「ああ漢字」も夏休みの宿題を親子で格闘しており、
こちらでは机の上でお母さんが溶けはじめる場面。
そこでの説明文は
「ふと以前のノートをみかえすと私のお手本が先生に赤ペンで直されている始末」
息子のセリフが「お母さんとけたらダメ」。
そこから、いつのまにかゴビ砂漠で、
通りがかりの日本人読者のセリフ
「私、元国語教師でしてね」
と漢字の間違いを注意される始末。
まだ夏休み中ですから、今度の
8月27日はどんなマンガが読めるのか、いまから楽しみです。
どうです。今度の日曜日は毎日新聞を買いに行こう。
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入門書をめぐる、アレコレ。

2006-08-22 | Weblog
山村修著「狐が選んだ入門書」(ちくま新書)が出たばかりなのに、
残念なことは、当の、著者の山村修氏が亡くなってしまったのです。

日刊ゲンダイに週一回で22年半という書評の連載をされていたのが狐さんで。
その狐さんが山村修氏だとご自身が種明かしをしたのが、今回の新書でした。

入門書といえば、「先生の程度」を日下公人氏が書いておりました。
「著者の中には、自分はこれだけたくさんのことを考えているんだぞということを飾って書く人がいます。博引傍証はいいのですが、自分は外国に留学してきたとか、大全集の本が並んだ本棚の前で写真をとったとか、よくあるやり方です。・・
こいう先生方が書くものは、どういうわけか決まって、入門書です。工業経済概論、会計入門、イギリス宗教史概要など、概論や入門ばかりで本論を書きません。本論はあると思わせていますが、じつは何もない場合が多いのです。ほんとうは、概説を書くためには全部を知らなければ書けないはずで、若いときには、だまされる場合が多いのですが、やがてその先生の限界がわかるようになります。・・」
(日下公人著「『逆』読書法」p84~85)

こうした入門書の氾濫のなかから、これはという入門書を選び出す眼力を期待して、若い人に自由に選ばせるほど酷なことはありません。そんな入門書洪水のなかで、ワラをもつかみたい人のための一冊。そこに山村修著「狐が選んだ入門書」が新しく加わったのでした。

そういえば、司馬遼太郎著「風塵抄」(中公文庫)に「“独学”のすすめ」という文がありました。そこには
「物を考えるときは、基本的なことをおさえる必要がある。・・
そういう場合、いきなりむずかしい本を読んでもわからない。その場合のコツは永年の『独学癖』で身につけた。少年・少女用の科学本をできるだけ多種類読むのである。
子供むけの本は、たいていは当代一流の学者が書いている。それに、子供むけの本は文章が明快で、大人のための本にありがちなあいまいさがない。そのあと大人のための本をよむと、夜があけたように説明や描写が、ありありとわかってくる。」
「ただし、『独学』は万能ではない。ひとりよがりの危険におち入ることを常に感じておかねば、あぶない。・・」

入門書を鑑識眼豊かな人(狐)に選んでもらえる。そんな幸せ。

読売新聞の「鵜」さんは
この新書を評して、こう書き始めておりました。
「たかだか200㌻ちょっとの新書と侮ってはいけない。これを読んだあなたは、膨大な読書時間と書籍代の出費を覚悟した方がいい。読み終わると、この本に紹介された書籍を次々に読み、味わいたくなること必至だからだ。」

書物の森への水先案内人、
狐のけもの道を知りたければ、それなりの覚悟がいるのでした。

コメント (2)
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