竹中郁の詩集「動物磁気」(昭和23年7月尾崎書房刊行)の
詩「開聞岳」のなかに、「焼野原の町の」という言葉がありました。
それでは、東京での焼野原は、どうだったのか?
大村はま先生に語っていただきます。
「 昭和22年中学が創設されました・・・
私はいちばん最初に、来るようにと声をかけてくださった
校長先生の学校へ行きました。それは江東地区の中学校でした。
ご存じのとおり大戦災地でしたから、一面の焼野原で、
朝、学校に行くにも、私は秋葉原という駅で教頭先生をお待ちしていて、
いっしょに行きました。朝早くからでも女性一人で歩くのはむずかしか
たのです。
見渡す限りの焼野原、ところどころに、防空壕のあとがあります。
まだ、そこに人の住んでいる壕もありましたから、足もとがパッと
あいて人が出てくる。どこから人が出てくるかわからないのです。
そこを通ってゆくと、焼け残った鉄筋コンクリートの工業学校が
あります。その一部を借りて、私のつとめる深川第一中学校と
いうのは出発しました。
あのころ、雨が降って傘をさして授業をしているところや、
大きな算盤(そろばん)がどうしたわけか焼け残っていて、
その大きな算盤に腰掛けて、子どもが勉強している・・・・
みんな私の教室でした。
床があるわけでなく、ガラス戸があるわけでなし。
本があるわけでなし、ノートがあるわけでない、
紙はなし、鉛筆はなし・・そこへ赴任したわけです。
一年生は四クラスで、一クラス50人でしたが、
『 教室がないから二クラス100人いっしょにやってください 』
と、こういうわけです。その100人の子どもは
中学校の開校まで3月から一か月以上野放しになっていた子どもたちです。
ウワンウワンと騒いでいて・・・・
私は・・しばらく教室の隅に立ちつくしていました。・・
ワァワァ騒いでいる中を、少しずつ動いて何か少し教えたりして、
なんとか授業のかっこうをつけていました、
とても一斉授業なんてできませんから。 」
こうして、大村はまは、西尾実先生のお宅へ伺います。
「 西尾先生は高笑いなさって、
『 なかなかいいかっこうじゃないか、
経験20年というベテランが、教室で立ち往生なんて・・ 』
とおっしゃり、
『 そういう時にこそ人間というもはほんものになるのだから、
病気になったり、死んじゃったら困るけれども・・・ 』
と取り合ってくださいません。 ・・・・ 」
うん。ここまでも長く引用しちゃいましたが、このあとでした。
大村はま先生はこのあとに『 私はその日 』と続けるのです。
「 私はその日、疎開の荷物の中から新聞とか雑誌とか、
とにかくいろいろのものを引き出し、教材になるものをたくさんつくりました。
約100ほどつくって、それに一つ一つ違った問題をつけて、
ですから100とおりの教材ができたわけです。
翌日それを持って教室へ出ました。
そして、子どもを一人ずつつかまえては、
『 これはこうやるのよ、こっちはこんなふうにしてごらん 』と、
一つずつわたしていったのです。
すると、これはまたどうでしょう、
教材をもらった子どもから、食いつくように勉強し始めたのです。
私はほんとうに驚いてしまいました。・・・・
そして、子どもというものは、
『 与えられた教材が自分に合っていて、
それをやることがわかれば、こんな姿になるんだな 』
ということがわかりました。それがない時には
子どもは『犬ころ』みたいになることがわかりました。
私は、みんながしいーんとなって床の上でじっとうずくまったり、
窓わくの所へよりかかったり、壁の所へへばりついて書いたり、
いろんなかっこうで勉強をしているのを見ながら、
隣のへやへ行って思いっきり泣いてしまいました。・・・・
私はそれ以後いかなる場合にも、子どもたちに騒がれることがあっても、
子どもを責める気持ちにはどうしてもなれなくなりました。
・・・・・
今でもときどきどうかした拍子に、子どもがよくやらないことがあります。
もちろん、中学生なんてキカン坊盛りですから、私は今も
『 静かにしなさい 』と言うことがあります。
ありますけれども・・・慙愧(ざんき)にたえぬ思いなのです。
能力がなくてこの子たちを静かにする案も持てなかったし、
対策ができなかったから、万策つきて、敗北の形で
『 静かにしなさい 』という文句を言うのだということを、
私はかたく胸に体しています。・・・・・・ 」
( p72~77 大村はま「新編教えるということ」ちくま学芸文庫 )