前回。四コマ漫画の「コボちゃん」(8800)の各コマを追っていきました。
そこから、つづけて思い浮んだことを並べてみます。
出久根達郎著「今読めない読みたい本」(ポプラ社)に「朗読のすすめ」と題した文があります。そのはじまりは。
「人は、どんなきっかけで、読書が好きになるのだろう?
私は今でも本業は古本屋だから、客といつもそんな話をする。言うまでもないが、古本屋の客は、例外なく大の本好き、読書家である。意外なことがわかった。ほとんどの人が子供の時分から本に親しんでいるが、それは親が絵本を読んでくれたためである。意外なことというのは、それではない。文字が読めるようになり、逆に親や友だちに読んで聞かせるようになった。それが読書の喜びを覚えたきっかけである、というのである。朗読で人を感動させた。この喜びが読書の醍醐味と知った、というのである。黙読は、自分一人の楽しみだが、音読は、自分はもとより、周囲の人たちを楽しませることができる。面白い本は、人を面白がらせる。あたかも読み手の自分が、人を喜ばせているような錯覚におちいる。この錯覚が、自信となる。読書は、音読が一番ですよ、とある客が断言した。文章の味がよくわかる、という。」
谷沢永一著「読書人の浅酌」(潮出版社)のはじまりの題名を3つ並べてみますと、
イジメぐらいで死ぬな!
虚々実々 父のこと
雪隠の踏板 母の遺訓
ちょうど、ここで谷沢さんの子供時代が出てきておりました。
たとえば、父親のことは
「父は天性の働き者であった。勘がよく器用であった。当時の大工仕事に向いていたのである。かたわら夜間授業の今宮(いまみや)職工学校へ通わせて貰った。記憶力は天稟(てんぴん)であったから成績は優秀である。三十年を経て、その間に読み返しもせぬ『五重塔』の一節を、的確に朗誦して私を驚かせた。」(p25)
「私が小学校へ入った頃、貧しいわが家には本らしい本がなかった。・・・
一年生の秋口だったろうか。担任の女性教諭が休まれたので、隣のクラス担任が応援に駆けつけ、取り敢えずは【お話し】の時間にすると宣言、級友にこもごも何か話すように命じ、当然の成り行きであろうが第一番に級長の私に指名した。しかし私は咄嗟の間に語るべき内容が思い浮かばず、教壇で泣き出してしまったのである。私はなんでも母に報告する習慣だったから、帰宅して事の次第を語った。母がどれほど情ない思いをしたことか。早速に応急の対策を講じた。今後、一ヵ月に二冊だけ、欲しい本を探して言いなさい。それをずっと買って上げます。この時、母が一方的に自分で選んだ本を授けるようにしていたら、私は受け身の単なる本読みになっていたかも知れない。・・・」(p37)
「三年生の1学期もまた級長であった。・・・新しく担任となった宮川訓導は、教育者としては必ずしも真面目ではなかったのかも知れぬが、子供を大人なみに扱うという性癖が顕著であった。大阪弁まるだしで生徒を呼ぶのに、谷沢はん、と来たのはびっくりした。あんた、よう本、読んでるそやさかいに、みんなへハナシしたってんか。当時は作文という時間があって・・・ほとんど無意味な作文の時間であるから、その変りに先生が何かお話をして、時間をつぶしてもよいことになっていた。どのクラスでも大抵の先生はその便法に従い、遠足のあとだけ感想を書かせるにとどめていたようである。
ところが宮川先生にとってはそれもシンドイ。そこで毎週一回ある作文の時間を、すべて私に話をさせてやりすごそうと考えた。おかげで私は先生の替りとして教壇に立ち、覚えている少年少女小説のあれこれを、級友に説いて聞かせる運びとなったのである。これは級友の全部に受けた。なにしろ厭でたまらぬ作文を書かずに済む。江戸川乱歩の『怪人二十面相』から始めて野村愛正の『三国志物語』に至るまで・・・」(p13~14)
谷沢さんだけで、終っては信憑性がないので、せめてもうひとり引用しておきましょう。
山野博史著「発掘 司馬遼太郎」(文藝春秋)。
そこに源氏鶏太を扱った一章があり、そのなかで源氏さんの文を紹介している箇所。
「司馬遼太郎は『話術の名人である』といい、『その昔、司馬君がまだ福田定一といっていた頃、同君から聞いた話をそのまま書いて、いくつかの短篇を書いている。今でも好きな短篇になっているのだがしかし、同じ話でも同君から聞いたのでなかったら作品として成功しなかったであろう。成功したのは、同君の話術の妙が私の作品の中に活きたからである』と感謝し、『私は、かつて、司馬君の作品の中に、その話術の妙の出てこないことを不満とした。が、それが『竜馬がゆく』の頃から現われて来て今やその話術の妙を超えた境地に来ている。立派である。・・・」(p23)
山野博史さんは司馬さんの名セリフを書き残しておいてくれておりました。
山野博史著「人恋しくて本好きに」(五月書房)。
そこにある「清談に光る名セリフ」という文がありますので、最後はそこから引用。
そこでは、大阪府の国際文化賞「山片蟠桃賞」の行事が終了した後の二次会の席で
「司馬遼太郎さんの隣か向いにすわって、そのよろこばしき清談に耳を傾けること。毎回退屈知らずであった。これはという名セリフを聞いたら、しっかりおぼえておいて、帰宅後すぐに書きとめるとき、どれほど心はずませたことか。思いつくままにあげるならば、こんなふうだった。
昭和が去ってから最初に逢った平成二年一月。新しい元号が好きだ嫌いだとか、西暦のほうが望ましいとか、浮足立って騒ぐまえに、愛国心というものを考え直してみるべきだ。なにもむずかしいことはないのです。山野さんだったら、あなたが毎日きちんと物学びに努め、学生さんにむけて全力を注ぎこめば、それでいいのですよ。どこでどんな仕事をしていても、そのような心がけを積み重ねれば、それが大きなかたまりとなって、この国へのせつないまでの愛情にふくらんでゆくにちがいないのです。」(p83~84)
そこから、つづけて思い浮んだことを並べてみます。
出久根達郎著「今読めない読みたい本」(ポプラ社)に「朗読のすすめ」と題した文があります。そのはじまりは。
「人は、どんなきっかけで、読書が好きになるのだろう?
私は今でも本業は古本屋だから、客といつもそんな話をする。言うまでもないが、古本屋の客は、例外なく大の本好き、読書家である。意外なことがわかった。ほとんどの人が子供の時分から本に親しんでいるが、それは親が絵本を読んでくれたためである。意外なことというのは、それではない。文字が読めるようになり、逆に親や友だちに読んで聞かせるようになった。それが読書の喜びを覚えたきっかけである、というのである。朗読で人を感動させた。この喜びが読書の醍醐味と知った、というのである。黙読は、自分一人の楽しみだが、音読は、自分はもとより、周囲の人たちを楽しませることができる。面白い本は、人を面白がらせる。あたかも読み手の自分が、人を喜ばせているような錯覚におちいる。この錯覚が、自信となる。読書は、音読が一番ですよ、とある客が断言した。文章の味がよくわかる、という。」
谷沢永一著「読書人の浅酌」(潮出版社)のはじまりの題名を3つ並べてみますと、
イジメぐらいで死ぬな!
虚々実々 父のこと
雪隠の踏板 母の遺訓
ちょうど、ここで谷沢さんの子供時代が出てきておりました。
たとえば、父親のことは
「父は天性の働き者であった。勘がよく器用であった。当時の大工仕事に向いていたのである。かたわら夜間授業の今宮(いまみや)職工学校へ通わせて貰った。記憶力は天稟(てんぴん)であったから成績は優秀である。三十年を経て、その間に読み返しもせぬ『五重塔』の一節を、的確に朗誦して私を驚かせた。」(p25)
「私が小学校へ入った頃、貧しいわが家には本らしい本がなかった。・・・
一年生の秋口だったろうか。担任の女性教諭が休まれたので、隣のクラス担任が応援に駆けつけ、取り敢えずは【お話し】の時間にすると宣言、級友にこもごも何か話すように命じ、当然の成り行きであろうが第一番に級長の私に指名した。しかし私は咄嗟の間に語るべき内容が思い浮かばず、教壇で泣き出してしまったのである。私はなんでも母に報告する習慣だったから、帰宅して事の次第を語った。母がどれほど情ない思いをしたことか。早速に応急の対策を講じた。今後、一ヵ月に二冊だけ、欲しい本を探して言いなさい。それをずっと買って上げます。この時、母が一方的に自分で選んだ本を授けるようにしていたら、私は受け身の単なる本読みになっていたかも知れない。・・・」(p37)
「三年生の1学期もまた級長であった。・・・新しく担任となった宮川訓導は、教育者としては必ずしも真面目ではなかったのかも知れぬが、子供を大人なみに扱うという性癖が顕著であった。大阪弁まるだしで生徒を呼ぶのに、谷沢はん、と来たのはびっくりした。あんた、よう本、読んでるそやさかいに、みんなへハナシしたってんか。当時は作文という時間があって・・・ほとんど無意味な作文の時間であるから、その変りに先生が何かお話をして、時間をつぶしてもよいことになっていた。どのクラスでも大抵の先生はその便法に従い、遠足のあとだけ感想を書かせるにとどめていたようである。
ところが宮川先生にとってはそれもシンドイ。そこで毎週一回ある作文の時間を、すべて私に話をさせてやりすごそうと考えた。おかげで私は先生の替りとして教壇に立ち、覚えている少年少女小説のあれこれを、級友に説いて聞かせる運びとなったのである。これは級友の全部に受けた。なにしろ厭でたまらぬ作文を書かずに済む。江戸川乱歩の『怪人二十面相』から始めて野村愛正の『三国志物語』に至るまで・・・」(p13~14)
谷沢さんだけで、終っては信憑性がないので、せめてもうひとり引用しておきましょう。
山野博史著「発掘 司馬遼太郎」(文藝春秋)。
そこに源氏鶏太を扱った一章があり、そのなかで源氏さんの文を紹介している箇所。
「司馬遼太郎は『話術の名人である』といい、『その昔、司馬君がまだ福田定一といっていた頃、同君から聞いた話をそのまま書いて、いくつかの短篇を書いている。今でも好きな短篇になっているのだがしかし、同じ話でも同君から聞いたのでなかったら作品として成功しなかったであろう。成功したのは、同君の話術の妙が私の作品の中に活きたからである』と感謝し、『私は、かつて、司馬君の作品の中に、その話術の妙の出てこないことを不満とした。が、それが『竜馬がゆく』の頃から現われて来て今やその話術の妙を超えた境地に来ている。立派である。・・・」(p23)
山野博史さんは司馬さんの名セリフを書き残しておいてくれておりました。
山野博史著「人恋しくて本好きに」(五月書房)。
そこにある「清談に光る名セリフ」という文がありますので、最後はそこから引用。
そこでは、大阪府の国際文化賞「山片蟠桃賞」の行事が終了した後の二次会の席で
「司馬遼太郎さんの隣か向いにすわって、そのよろこばしき清談に耳を傾けること。毎回退屈知らずであった。これはという名セリフを聞いたら、しっかりおぼえておいて、帰宅後すぐに書きとめるとき、どれほど心はずませたことか。思いつくままにあげるならば、こんなふうだった。
昭和が去ってから最初に逢った平成二年一月。新しい元号が好きだ嫌いだとか、西暦のほうが望ましいとか、浮足立って騒ぐまえに、愛国心というものを考え直してみるべきだ。なにもむずかしいことはないのです。山野さんだったら、あなたが毎日きちんと物学びに努め、学生さんにむけて全力を注ぎこめば、それでいいのですよ。どこでどんな仕事をしていても、そのような心がけを積み重ねれば、それが大きなかたまりとなって、この国へのせつないまでの愛情にふくらんでゆくにちがいないのです。」(p83~84)