和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

名文どろぼう。

2010-05-31 | 短文紹介
昨日の夜7時過ぎに、
本が届く(today便)。
竹内政明著「名文どろぼう」(文春新書)。
言葉の配達人による、語りながら引用をちりばめてゆく一冊。
最初は、どうも引用につっかえつっかえ読み始めたのですが、
p57ほどから、面白くなり始めました。
言葉にはどうしても誤解があり、ユーモアが手助けしてくれたりします。
そういう言葉の迷路を、解き明かしながら引用がつづきます。

とかく自分に都合のよい言葉を散りばめたがる文章に辟易している方には、さらりと、言葉の垢を洗い流してくれる一冊。
私など、後半にゆくにしたがって、ゆっくりした味わいの歩調が、しっくりとした読後感につながってゆきました。

とりあえず、ここまで。
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十里。40キロ。

2010-05-30 | 地震
大橋鎭子著「『暮しの手帖』とわたし」に
昭和19年のことが出ておりました(p75~)

「昭和19年になると、食料はすべて配給制で、その日の食べ物にも事欠くようになっていました。秋のことでした。父の故郷の岐阜県養老郡時村では、父の兄と弟の二軒の人たちが、私たちのことを心配して、せめてお米でもあげるから来なさい、ということになり、私と妹の晴子の二人で行くことになりました。汽車とバスを乗り継いで行きます。・・・翌日、両方の家から、それぞれリュックに一杯のお米を貰い、おにぎりの弁当を持てるだけ持たせてもらって、帰りのバスに乗りました。バスが隣の村のバス停に着いたとき、バスの入口で『しずちゃん、しずちゃん』と叫ぶような声がします。なんと、志津伯母さんがいて、大きなお米の袋を持って『伯父さんに内緒、お母さんにあげて・・・』と叫んで、手渡してくれました。この日のことを思うと、もう六十年以上も前のことなのに、涙がにじみます。関ヶ原の駅で、東京行きの列車に乗り、なんとか座ることができました。だんだん人が多くなって、名古屋を過ぎたころには、いわゆる『すし詰め列車』になってしまいました。・・・・・やっと列車は横浜をすぎて鶴見まで来ました。ところが『列車は鶴見までです。空襲があって、列車は東京まで行けません。あとは歩いてください』というアナウンスがありました。私たちは、お米と野菜のリュックを背負って、線路の枕木をひとつひとつ踏みしめるようにして歩きました。なんとか川崎まで来ましたが、そこには多摩川が大きく横たわっています。鉄橋を渡らなければなりません。枕木と枕木の間には、多摩川の水が青く見えます。足を踏みはずしたり、お米が重くて尻餅をついたりしたら大変です。・・・でも行列になていますから、前へ進まなければなりません。渡りきったときは、うれしかったです。お金より大事なお米や野菜は無事でした。大井鹿島町のわが家には、夕方、無事に帰りつきました。・・・」(~p77)


それにしても、とここまで読んできて思うのは、リュックに一杯のお米と、次には大きなお米の袋までもらって帰ったことでした。それも鶴見から歩いて帰りつくまで、どのくらいの距離があったのでしょう?


さて、なんでこんなことを思い出したかというと、
1964年「暮しの手帖」77号が古本屋さんから届いたからなのでした。
そこに掲載されている丸山丈作氏の語り「東京府立第六高等女学校」という19ページの文を読んだのでした。それは90歳になられた第六高等女学校校長だった丸山氏が、女学校を回顧しておられるのです。そこに気になる箇所があったのでした。


「新しい学校ができて、はじめて私が校長になった年の九月一日に、関東大震災がありました。あの震災は私にもいろんな意味でショックでしたが、なかでも、強く心を打たれたのは、被服賞廠跡で何万人という人が死んだという、あのことです。その人たちのなかには、もう少し歩けば上野の山なりなんなり、安全なところへ避難できたのに、疲れきってしまって、つい手近な被服廠跡へ逃げこんで、そうしてそこでみんな焼け死んだのです。
それをみて、女だから、歩かないでいいという、これまでの教育はまちがっていた、と心底からそうおもいました。こういうとき、日ごろから足を鍛えておけば、あの被服廠で死んだたくさんの女の人だって、死ななくてすんだにちがいない、うちの学校でもなんとかして足を鍛える訓練をしなければならないと、そう感じたのです。・・・・」

そして、その足を鍛える訓練のようすが、次に語られておりました。

「大宮の氷川神社まで、距離にしておよそ二五、六キロ、これを歩く遠足をやりました。年一回ということにして、つぎの年は厚木へゆき、そのつぎは藤沢へ行きました。・・毎年一回のことだから、コースをきめて歩くようにしたほうがいいとおもったんです。それにはどこがよかろうか、といろいろ考えた末、多摩川の土手がよかろう、ということになりました。というのはここだと途中にいくつも、東横線だとか、玉電とか小田急だとか、京王線だとか、何本も電車が通っている。だから、途中までしか歩けないこどもも、その電車の通っているところを一つの区切りにしておけば、そこから電車に乗って帰ることができる、そういう便利さがあったからです。そこで多摩川園を起点にして、まず上流のほうへむかって土手を歩いてゆく。そしてむこうへ行きついたら、こんどは反対側の土手をまた多摩川園まで帰ってくる。その往復の距離がちょうど十里になるように、途中でわざわざ寄り道したりして、コースをきめました。そして途中の区切りとしては、三里、五里、七里、という地点を作って、十里歩けるとおもうものは十里歩きなさい、しかし、どうも無理だという人は、自分の足の力に応じて、三里なり、五里なり、七里をえらびなさい、ということにしたのです。・・・これはずっと毎年つづけてきたものです。
一口に十里といっても四十キロですからね、これは女の子でなくても、そうラクではなかったですよ。最初の年は十里を歩きとおした子が、全校千二百人のうちの三百人たらずでした。しかしえらいもので、のちには八百人以上の生徒が、十里の道を歩きとおしましたからね。訓練というものはやはりありがたいものだとおもいます。のちには年二回にしました。朝七時に集合してそれから歩きだすんですが、十里歩くと夕方の五時になりましたね。・・・・・もともと私は山へ登るのが好きで、毎年槍ケ岳などへは生徒を連れて登ってました・・・・歩くということではそのほかにもいろいろやりました。たとえば、寒中に目黒駅を起点に、洗足から丸子の渡し、それから池上の本門寺、大森駅というコースで、耐寒訓練というのもやりましたし、それから月に一回、やはり歩く遠足をやりました。まあ夏休みとかそういうときはできませんから、年にするとこれが十回、少ない年でも九回はやったわけです。・・・
戦争がおわってからうちの卒業生に会うと、この歩く訓練のことが話に出ましてね、疎開先や買出しなどで田舎へいく、これから相当なものを背負って駅までいかなければならない。道のりを聞くと二里半だとか五里だとかいう。たいていの女の人ならまいってしまうんだけども私たちはあの適応遠足のおかげで二里半といえば、ああ、あれくらいだ、五里といえばあれくらいだという見当がつくし、それならじゅうぶん歩けるという自信もあった、それでずいぶん助かった、そういって感謝されたものです。しかしいちばん感謝しなければならないのはこの私かもしれません。というのは、九十のこの年になっても、まだ立派に毎年歩けるんですから、これもあのときの十里を歩き通した訓練のおかげだろうとおもっています。・・・」

さてっと、大橋鎭子氏は、今年の三月十日で九十歳だそうです。
横山泰子さんによると「九十歳となった今でも、毎日のように出社。・・・今でも、週末にデパートや銀座に出かけると、人だかりのしているところには必ず近づき、『何をやっているんですか』『あなた、何がおもしろいの』と尋ね回る、自称『タネさがし』に励んでいます。」(「暮しの手帖」とわたし・p220)

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ゲーテとの対話。

2010-05-29 | 他生の縁
足立倫行著「妖怪と歩く 評伝・水木しげる」(文藝春秋)に
文庫本「ゲェテとの対話(上・中・下)」(エッケルマン著、亀尾英四郎訳)について語った箇所がありました。

「『ゲーテを読んでたのは十八か十九の時です。その頃は哲学書を読むのが若い者の間ではやっとたんですよ。いずれ兵隊にとられて死ぬるかもしれんってことでね』・・・ゲーテ観はぜひとも聞いておきたかった。『私に師匠はいない』と公言している水木が、折に触れて引用するのがゲーテの言葉だった。戦争に行く前に岩波文庫の『ゲェテとの対話』を何回も読んで暗記したのだという。ゲーテの言葉だけではなく、その思想や生活を批判したり讃美したりすることも少なくなかった。」(p264)

「八十二歳で死んだゲーテの晩年八年間の言動を、崇拝者である貧乏詩人ヨハン・ペーター・エッカーマンが忠実に記録した書物である。『気に入ったんです。楽しそうだし、面白い男だと思ったんです。偉人や著名人というと、とかく金のことをバカにするわけですが、ゲーテは金の力というものをよく心得ていて、【問題は、困らぬだけの金をつくることだ】って言うんです。・・・これはいい、見習わなきゃいかんと思いましたね』」(p266)


「『イタリア旅行もそうですね』
『そう、恋人のシュタイン夫人にも知らせないでパッと行く。そういうね、パッパッと判断して行動するところも、大いに気に入ったわけです。これ式で人生やってゆくのもええなァ、と思ったわけです』」(p268)


「『しかしね、ゲーテは尊敬ばかりできる男でもないんです』
今度は、にこやかに水木は微笑んだ。
『戦争が起こると自分の息子だけ戦場に出させまいとして、あれこれ工作したりね。晩年になって、詩作だけやっとればよかったとむやみに悔やんだりね。第一、エッカーマンに対して過酷でしょ?あれだけの仕事やらせときながら、給料も払わんのです。そのためにエッカーマンは、十何年も婚約者と結婚できんかったわけですからね』
ゲーテがエッカーマンに対して冷淡だったことは多くのゲーテ研究書が指摘している。・・・
『だから、ゲーテの生き方をそっくり真似する必要はないわけです。面白そうなところだけ参考にすればいい』水木は再び声を上げて笑った。」(p272~273)

そういえば、田中美知太郎著「時代と私」(文藝春秋)に、こんな箇所がありました。

「エッケルマンの『ゲーテとの対話』の訳者である亀尾さんは、終戦の頃やみの食料を買ふことを知らないで、栄養失調のためなくなつたやうな話を聞いたことがある。」(p260)

栄養失調といえば、最近読んだ大橋鎮子著「『暮しの手帖』とわたし」(暮しの手帖社)に

「前の年(昭和二十二年)の十月でしたが、当時『人をさばく裁判官がヤミをしてはならない』と、配給生活を守りぬき、栄養失調で死んだ東京地裁の山口良忠判事のニュースが騒がれていました。私は、裁判所の受付に、山口判事のような裁判官に差し上げてくださいと、玉子を預けようとしたのですが、受け取ってくれません。・・結局、最高裁判所長官室に案内されました。もう一度、『これは買ったものではございません。私のうちのニワトリが生んだ玉子です。山口判事のような方がいらしたら、差し上げてください』と、三淵忠彦長官の机の上に玉子を取り出しました。玉子は二十四個ありました。長官は何度もうなずき、その玉子を、過労と栄養不足のためにたおれ、休職している青年判事の家に届けてくださったのです。それから二年後・・・」(p93~94)

おっと、話がそれてゆきます。
水木さんは戦後すぐどうしていたか。

「水木が帰国後東京で過ごした数年間は、・・傷痍軍人不遇時代だった。国立相模原病院で左腕の再手術を受けた後の昭和21年から24年にかけて、闇米の買い出し屋、病院直属の染物工場の下絵職人、鮮魚の配給業、輪タク(自転車に客席を付けた簡便タクシー)屋の親方など各種の職業を転々とした。・・・この間水木は、傷痍軍人の団体である新生会に加わり、折に触れて行動を共にしている。・・・」(「妖怪と歩く」p191)


ところで、どういうわけか、「ゲーテとの対話」を私も十代の頃に面白いと思って読んでいたことがあります。けれど内容はまったく覚えてない(笑)。あの文庫本どこにあるかなあ。
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同情も期待も。

2010-05-28 | 他生の縁
今頃は、本を読んで、日にちをかけて、本から言葉が浮かび上がるのを待っているような読書をしております。その言葉の断片を本にあたって捜すのです。時間が経つほどに、それがどの本だったのかを忘れる度合いが多くなるし。

足立倫行著「妖怪と歩く 評伝・水木しげる」(文藝春秋)を読んでから、そのようにして、あの言葉がどこにあったかなあと思ったりするのでした。

そのエピローグでラバウル郊外のトペトロのいた村へ行ったときの、足立氏の感想に
「傍目にも決定的な村人とのコミュニケーション不足を、水木氏は、持ち前の柔軟性でやすやすと乗り切った。その根底にある『他人に多くを期待しない(期待すると失望も大きい)』という考えは、小学校卒業以降の水木氏を支えてきた自立の思想でもある。」(p352)


 最近、ボランティアの会議へ定期的に行くんです。
すると、どうしても口調が、こうしたらいいとか、ああしたらいいという風になって、それが他人への期待として語っている按配になることが多かったのです。ちょっと自分の話し方をかえなきゃいけない。と思っております。どうしたらよいのか。と思っております。すると外山滋比古氏の本と、この言葉が思い浮んだというわけです。


せっかくですから、水木氏の戦争体験が、その後に、どう影響していたのか。
ということが分かるような箇所。

水木氏は、対談でこう語ったそうです。
「やっぱり戦死した人ですよ。私は戦後二十年くらい、人にあまり同情しなかったんです。戦争で死んだ人間が一番かわいそうだと思ったからです」(p183)

「・・・不思議に思った。その時にはまだ水木が、『(戦争で死んだ人間が一番かわいそうだから)めったなことで他人に同情しない』ということを知らなかったせいもある。」(p208)
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第六高女。

2010-05-26 | 短文紹介
読んだ本が、何日かしてから(それが一週間か10日かもしれず)、その本の数行を思い浮かべることってありますね。あれ何でしょうね。今日思い浮かべたのは、大橋鎭子著「『暮しの手帖』とわたし」の中の言葉でした。1920年(大正9年)3月10日生まれの大橋さんは、昭和7年に女学校の入学試験を受けます。では思い浮かんだ箇所。


「東京府中第六高等女学校。私にとって、ここは『心のふるさと』『育ての親』でした。・・・『第六は、勉強はそっちのけで、体操ばかりしている・・・』と世間で言われていましたが、それが今の私にとって健康のもとになり、大変な宝となりました。九十歳ちかくになりましたが、今も会社に出ています。第六では、一週間に四、五時間は体操の時間がありました。それも、歩くことが健康の要ということで、とにかく歩け、歩け、でした。体操の時間には歩き方の訓練があり、背筋を伸ばして、膝を伸ばして、とくりかえし言われるので、みんな、すっ、すっと歩くのが身に付きます。月に一度は遠足があって、三里(十二キロ)ほど歩かされました。それに年に二度、『適応遠足』といって、全校生徒がいっしょに行動します。これは自分の力に合った距離を選んで歩くのです。年によって、行き先が変わったようですが、私たちのときは、多摩川の土手を歩きました。川崎駅が出発点で、終点は日野。川崎から十里(四十キロ)になります。多摩川の土手を川上に向かってずっといきますと、私鉄がいくつか交わります。途中、二里(八キロ)、六里(二十四キロ)で歩くのをやめて、それぞれ、もよりの目蒲線の多摩川園前駅、小田急線登戸駅から電車に乗って帰ってもいいのです。校長の丸山丈作(じょうさく)先生が思いつかれた方法でした。
丸山丈作校長については、『暮しの手帖』七十七号(昭和39年 1964年)に特集を載せていますが、とにかく生徒が大事、生徒の健康が大事と考えられた先生でした。・・・・」


ああ、そうそう。この『暮しの手帖』七十七号を読みたいと、その時に思ったのを、すっかり忘れていたのが、なんとなく、それで思い浮かんだということなのでした。
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河童の三平。

2010-05-25 | 短文紹介
NHK朝の連続ドラマ「ゲゲゲの女房」は、いよいよ前途多難ながら、水木さんが河童の三平を描くというところにさしかかってきました。ということで、あなたは「河童の三平」を読んだ?

まずは、鶴見俊輔著「思い出袋」(岩波新書・2010年3月)に登場する、この言葉から。
「水木しげるの『河童の三平』は、私の古典である。そこに出てくる死神は愛嬌があって、ヨーロッパの神話に出てくるような荘厳な風格をもっていない。」(p32)


さて、「河童の三平」で小学校の水泳大会がでてきます。
それについて、足立倫行著「妖怪と歩く  評伝・水木しげる」(文芸春秋)に、こんな箇所。

「水木は陸上競技や水泳も得意で、毎年台場公園で開催される五ヵ町村対抗の小学校連合体育大会の常連選手だった。昭和十年(1935年)の夏には、淀江で開かれた県の水泳大会に学校代表チームの一員として出場した。」

ちょいと、この箇所は引用していきましょう。

「しかし僕は、自伝やエッセイでも触れられている絵やスポーツのことより、旧友たちの記憶にある『あの頃のゲゲやん』の初めて聞くエピソードの方に興味をそそられた。景山は夏の夜の肝試しを覚えていた。『真っ暗な墓地に、順番で一人ずつ行って、行った証拠に何か品物を取ってくーですわ。私ら恐いですけんね、せいぜい端っこの塔婆を引き抜いてくーぐらいのもんです。ところがゲゲやんは、湯呑みですよ、あの小さい湯呑み。あれは、仏さんの社の奥に手を突っ込まんと取れんですけん。死んだばっかりの仏さんの社ですよ!みんな仰天ですわ』・・・豊田省一は、水木の奔放な無邪気さに唖然としたことがあった。『隣町の外江で武良やつと泳いだことがあーましただ。わしらはパンツはいちょーましたが、武良は「汚れーとお母ちゃんに怒られる」てーで、スッポンポンですわ。そこへ、遊びにきとったのか、二級したの堺の女子が何人か通りかかりましてな。わしら十二、三の時ですけん、多少は色気付いちょーもんで、パッと石垣に隠れたんですわ。恥ずかしけん。でも武良だけは平気で泳いじょーますだ。素っ裸で。あげなことは何ともないようでしたな、あの男は』・・・水木のクラスのマドンナ的存在だった池淵は、ふだん学級内でふざけたり道化役を演じたりして教師に叱られてばかりいた水木が、時として異様に真剣な表情を見せることがあったのを忘れられない。『お寺でお葬式があると[ そーれん見に行かい ]ってよく友達と見物に行ったもんです。すると、必ず武良さんが先にきとられるんです。武良さんの見物場所は決まっていて、いつも本堂に向かって右手の角のところ。葬式が始まると、ほんに一生懸命見ておられる、私たちは途中で帰るんですが、武良さんは最初から最後までいつも真剣に見物されてました。今でもその姿は目に焼きついております』・・・」(P283~285)


うんうん。ここから、本名武良茂(むらしげる)こと、水木しげるの描く「河童の三平」まで、ほんの少しの堺を越えるだけのようではありませんか。

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ゲゲゲの~。

2010-05-23 | 詩歌
武良布枝著「ゲゲゲの女房」(実業之日本社)に
「鬼太郎の歌」の歌詞をつくる箇所が出てきます。

「夜、遅くまで、水木は机に向かって、歌詞を考え続けていました。そしてある日の朝、『できたぞ!』と満面の笑みを浮かべて、いちばん最初に私に見せてくれました。考えに考えた末に生れた歌詞でした。私はこれを見て、なんていい歌なんだろう、と心底感心しました。ユーモアがあって、おおらかで、楽しそうで。寝床でぐーぐー朝寝をしているなんてところは水木そくりです。

   ゲッゲッ、ゲゲゲのゲー
   朝は寝床で、グーグーグー
   たのしいな たのしいな
   おばけにゃ 学校もしけんも
   なんにもない
・ ・・・・・・・・

この詩に、いずみたくさんが曲をつけ、熊倉一雄さんが歌ってくれました。この曲をはじめて聞いた関係者の人たちが、一様に『すごい!』と驚いたと、後に聞かされました。そして、そのLP盤が完成した昭和42(1967)年に、テレビアニメ化の話がまた動きはじめました。テレビ化にあたり、水木と『少年マガジン』の内田さん、東映の渡辺さん、キングレコード、フジテレビの人たちが話し合い、『墓場の~』ではなく『ゲゲゲの~』にタイトルを変えることとなりました。この題名変更によって、スポンサー問題が解決に向ったのです。」(p150~151)


ちなみに、足立倫行著「妖怪と歩く  評伝・水木しげる」(文藝春秋)に
手塚治虫のアトムのアニメ主題歌に関する言葉が拾われております。

「手塚治虫が亡くなって半年後、JICC出版局から『一億人の手塚治虫』という手塚に関する膨大な証言資料集が刊行された。その中に著名人らの追悼の言葉を集めた一章があり、水木のものも収録されていたが、その言葉というのが群を抜いて異色だった。水木はこう言っていたのだ。『売れない貸本マンガを描いていた終戦後、小学生が歌う【アトム】の歌に、【貧乏から脱出したい】と思ったナァ』
他の全員が手塚の天才と功績をさまざまに誉め称え、早過ぎる逝去をこぞって嘆き悲しんでいるというのに、水木一人が素っ気ない。いや、人間手塚やその作品にすら全然触れてない。アニメの主題歌と自分の貧困のみ、なのだ。」(p33~34)


足立氏の本には朝の寝床についての記述も拾えます。

「昭和初期、水木は友人たちから『ゲゲ』と呼ばれていた。幼い頃に自分の名を『シゲル』と発音できず、『ゲゲル』と訛っていたからだ。・・・・学業成績は、本人も認めている通り、劣等生に近かった。朝はゆっくりと起床し、兄や弟の分までたっぷり食べてから登校するので、毎日のように遅刻して廊下に立たされた。」(p16)


また、娘さんの尚子・悦子さんの話がおもしろい。
長女尚子さんの話。
「私の朝寝坊は父のせいです(笑)。武良家では父の方針で、たっぷり睡眠をとることとゆっくり時間をかけて充分食事をすることを、最重要視してました。おかげで私も私も妹も、よく寝てよく食べる娘に育ちまし(笑)。」(p86)

次女悦子さんの話。
「中学時代が一番遅刻しました。母が無理に起こすと父が怒るので、毎日のように遅刻です。お姉ちゃんは自分に厳しいところがあるけど、私は自分に甘い(笑)」(p87)
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古本文庫横丁さん。

2010-05-22 | 他生の縁
渡部昇一著「楽しい読書生活」(ビジネス社)を読んでたら、
岩下壮一著「カトリックの信仰」(講談社学術文庫)を紹介しておりました。
「岩下壮一は東大を出た大秀才で、語学力も抜群。留学から帰ると東大に戻るだろうと思われていましたが、カトリックの神父になって帰国しました。この本は、東大のカトリック研究会の学生を前にして行なった講演がもとになっているので読みやすく、しかも西洋思想の真の姿を舞台裏から明らかにしてくれます。『カトリック』というタイトルがついているため、カトリックの少数のインテリにしか読まれていないようですが、日本人の西洋理解には絶対に欠かせない書です。」(p228)とある。

さっそくネットで古本を検索していると、どれも2000円以上しているし、こりゃダメかな、と検索をつづけると、何と古本文庫横丁さんのところに0円とある。返すときに送料を払ってもらえればよいとあります。何と、それが送られて来た。1ヵ月以内に返却してくれればよいとのこと。驚きながら、恐縮しながら包みをひらくと、文庫の厚み3.5センチ。文庫新刊での定価が、はじめから2000円だったのです。こりゃ当惑。お借りしている本なので、何とか読みこなさなくちゃいけないと思うと・・・。
うん。何とか読もう。とここに書きつけておくしだいです。
それにしても古本文庫横丁さん。なんともすごい。忘れられない古本屋になります。というか、期限内になんとか読まなければ。読まなきゃ。
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うらやましい。

2010-05-21 | 婚礼
昨日は、夜一時間ほど運動をして汗を流す。
これから、汗がでるだろうなあ、そんな季節となりました。
おかげでぐっすり眠りました。


昨日、古本屋へ注文してあった外山滋比古著「新エディターシップ」が届きました。その改訂箇所をまずは数ページひらいております。

さてっと、NHK朝の連続ドラマは武良布枝著「ゲゲゲの女房」(実業之日本社)が原作となっております。そのテレビは、もう戦地から帰った水木しげるがお見合いを済ませて、めでたく東京で新婚生活を過ごしておりました。ご主人の水木しげるは、漫画制作に没頭しております。その背中を布枝さんが見ている。近頃テレビでは、まるっきり見られなくなったお見合い結婚の様子がその朝のドラマで描かれて何だか新鮮。

うん。こういう状況で、私は「新エディターシップ」の最初の文「ミドルマン」を読み始めたというわけです。そこにこうある。

「 『キミたち、実に恵まれている。うらやましい』
戦後まだ間もないころ、日本から行っている留学生にアメリカの学生が言う、
『ボンヤリしていても、勉強に専念、没頭していても、ちゃんと結婚相手を見つけてくれる人がいる。ボクたち、うっかりしていれば、相手がいなくなってしまう。デイト、デイトで、おちおち勉強もできない』日本人留学生は目を白黒させる。アメリカの自由な恋愛結婚を心のどこかであこがれている。本場のアメリカで、それを否定し、自分たちが古い習慣と思っている見合い結婚がこういう実際的理由で評価されて、軽いカルチャー・ショックを覚える。以後、日本人もすこしずつ、しかし急速に恋愛結婚が多くなり、見合いは言うもはずかしい古い結婚と見られるようになる。自分の見つけた相手の方が、他人の選んだ人よりよいにきまっていると考えるのが一般になったのである。・・・・」(p2~3)

うん。うん。本題はこれからなのですが、その前振りに、こう語られておりました。
ちなみに、外山氏ご自身は留学を拒否しております。念のため。

ちなみに、ちなみに、テレビドラマの「ゲゲゲの女房」の方はというと、
放映中の状況は、「墓場の鬼太郎」が単行本化されるのですが、
気持悪がって、人気はイマイチ。収入は相変わらずの貧乏のようです。
「墓場」という設定が、なかなか収入へとつながらないようで、
こちらは、うらめしい。
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17歳から3年。

2010-05-19 | 他生の縁
大橋鎮子著「『暮しの手帖』とわたし」を読み返しております。
1920年生まれのしずこさんは、
昭和12年(1937年)4月に日本興行銀行に入行しました。
そこで3年間勤めております。どのような上司のもとで
どのような仕事をしていたのか。再読しながら改めてその箇所が浮かび上がってきました。ではそこを以下に引用。


「 そのときの調査課長が工藤昭四郎(しょうしろう)さん、戦後に東京都民銀行を創立された方です。調査課の仕事は、日本や世界の産業や経済の動きを知るためのいろんな調査や、そのための資料や図書の購入と整理。そして調査月報の編集でした。
私の仕事は走り使いのようなことが主でしたが、長く続けていた仕事の一つに新聞の切り抜きがありました。朝八時ごろから、工藤さんは東京朝日新聞、東京日日新聞、読売新聞、中外商業新報(現日本経済新聞)、日刊工業新聞などを読み、そのなかの主なというか、興銀に勤めている人なら読んでおかなければならない記事に印をつけます。私は印のついた記事を切り抜き、紙に貼り、日付、新聞紙名を記入、それを毎日六人分(重役数)作りました。これは十時までに仕上げなければならない急ぐ仕事です。
こんなこともありました。調査月報の締切りまぢかに、上司が病気で休みました。満州、中国の経済要録を、その日のうちに出さなければならなかったのです。『大橋君、今日中にまとめなさい、そうでないと困る』との指示です。やらなければなりません。誰かに相談したくても、みんな忙しそうです。
そこで考えついたことは、新聞に出ている回数が多い記事が一番のニュースだから、多い順にすればいいと思って、満州と中国に関連する記事を全部切り抜きました。そして多い順に記事を貼り、まとめました。順序もちゃんとしており、わかりやすかったと好評で、このあと、私はみんなに少し認められたようでした。
この新聞の切り抜きを作ったことは、すばらしい経験になりました。『暮しの手帖』を花森さんと始めてからも、誌面の割り付けやトリミングなど、どんなに役立っているかわかりません。定規や物差しを使わなくても、写植の文字などを曲がらずにまっすぐ貼れるのは、こんな経験のおかげだと思います。『どんなことが、なぜ大事なのかしら』と、新聞記事を比べて読んだりしたのもよかったと思います。以来私はずっと活字に関係した仕事をしています。・・・・ 」(p64~65)


この調査課については、もうすこし続くのですが、また読み直したくなります(笑)。
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鎭子(しずこ)さん。

2010-05-18 | 他生の縁
大橋鎭子著「『暮しの手帖』とわたし」を読んで私が思い浮かんだのは、サザエさんの長谷川町子さんのことでした。その家族構成をくらべてみます。
長谷川町子さんは、1920年(大正9年)1月30日生まれ。
1933年(昭和8年)13歳の時に、父死去。母と三人姉妹だけになります。
大橋鎭子さんは、1920年3月10日生まれ。
1930年(昭和5年)小学五年生で父死去。母と三人姉妹だけになります。

ちなみに、町子さんには姉と妹がおりまして、
鎭子さんは、長女でした。鎭子さんの父親が亡くなる際のことが書かれております。

「お父さんのベッドを、祖母、母、私、晴子、芳子で囲んでいました。父は、『鎭子・・・』と、私の名を呼びました。私は父の枕元に近づきました。父は小さく静かな声で、『お父さんは、みんなが大きくなるまで、生きていたかった、でもそれがダメになってしまった。鎭子は一番大きいのだから、お母さんを助けて、晴子と芳子の面倒をみてあげなさい』私は、引き受けました、ということを父にわかってもらいたくて、大きな声で、『ハイ、ワカリマシタ』と答えました。そして、みんな息をのむようなおもいで、父を見守っていました。すると、母が、『あっ、お父さんが』と大きな声で叫びました。父は、口から白い泡を出して、苦しそうにして、息がとまったのでした。お医者さまが急いでこられました。『ご臨終です』
私は、そのとき泣きませんでした。そして、父に言われたとおり、母や妹を幸せにしなくては、と思ったのです。いま仕事を続けていて、どうしていいかわからないとき、つらいとき、この病室の風景が目に浮かんで、しっかりしなくてはと思うのです。」(p48)

「宛名が品川とだけでも、私が小学五年のときから戸主になっていて、郵便の宛名は私だったので、郵便局でもすぐわかったのだと思います。」(p79~80)

鎭子25歳。花森安治34歳。時は昭和20年10月なかばでした。
花森さんは鎭子さんの話を聞いて答えます。

「君は親孝行なんだね。ぼくも高等学校の受験のときに、母が受かるようにと、なかなか手に入れにくかった牛乳や玉子を買って食べさせてくれ、いっしょうけんめいに尽くしてくれたけれど、発表を待たずに、肺炎で急に亡くなってしまった。ぼくは母親に孝行できなかったから、君のお母さんへの孝行を、手伝ってあげよう」(p18)

さて、この本の後半に、「暮しの手帖」の編集部のことが語られるなかに、その母親が出てきておりました。

「母はときどき『テストなどで徹夜明けの人に』、と朝ごはんを届けてくれました。おにぎりや色ごはん、ごぼうやにんじんの煮しめなど簡単なものでしたが、それがおいしいと楽しみにしている編集部員もおりました。編集者の家族に病人がいると聞けば、『これで元気になって』と特製のスープを作って持って来てくれることもありました。亡くなるまで『暮しの手帖』を自分のお金で本屋さんから買っていました。そんなですから、『大橋家のおばあちゃん』ではなく、『暮しの手帖のおばあちゃん』と言われていたのです。
編集部というより、『暮しの手帖』を作っている家族、という感じ。会社というより、家庭のよう。あたたかみのある、愉快な場所でした。そんななかで『暮しの手帖』を作ることを、編集部員みんなが、とても大事なことと思っていたのです。・・・・暮らしにこだわりのある『家庭』でした。」(p146~147)

長谷川町子さんが四コマ漫画のサザエさんという家庭を戦後つくりあげたように。
大橋鎭子さんは「暮しの手帖」という家庭を築いていったのでした。
とそんなふうに思える読後感がありました。



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大橋鎭子さん。

2010-05-17 | 他生の縁
大橋鎭子著「『暮しの手帖』とわたし」(暮しの手帖社)を読みました。
その家族構成・父との死別を読んで、私が思い浮かべたのは、サザエさんの長谷川町子でした。
  そういえば、長谷川町子さんは1920年1月30日生まれで~1992年5月に亡くなっておられます。ところで大橋鎭子さんはといえば、1920年3月10日生まれで、現在は90歳。

この本のあとがきにあたる箇所には、暮しの手帖社代表取締役横山泰子さんがこう書いております。

「今年三月十日に九十歳となった大橋鎭子は、家でも会社でも昔からずっと『しずこさん』と呼ばれています。九十歳となった今でも、毎日のように出社。・・・」


暮しの手帖の花森安治は昭和53年1月14日の真夜中に亡くなりました。
そしてしばらくて、田宮虎彦氏から手紙が届きます。ちょっとその箇所を引用。


「田宮さんは、花森さんが生まれ育った神戸の、小学校の同級生。ともに東大に進み、大学新聞編集部で再会した、心を許しあった友人どうしでした。」
 このあとに田宮氏からの手紙を引用してありました。

「花森君があれだけのことができたのは、もちろん花森君が立派だったからにはちがいありませんが、やはりあなたの協力があったからこそだと思います。こんなことを私が言うのは筋違いであり、おかしなことかも知れませんが、花森君が力いっぱい生きることが出来、あのようにすばらしい業績を残したことについての、あなたのお力に対し、あつくお礼を申上げます。・・・」(p216)


この本には、わかりやすい文章で「大橋鎭子の力」がどこにあったのかを、それとなく教えてくれております。まあ、原稿を届ける大橋鎭子さんの姿を見た花森安治氏の言葉も登場します。それは川端康成氏への原稿依頼の件でした(p90~92)。そこが読後、鮮やかな印象として残ります。
まあ、それは読んでのお楽しみ。

ここでは、横山泰子さんの「今日も鎭子さんは出社です」という4ページの文から、すこし引用して紹介にかえておきます。

「以前鎭子さんに『物事は、これって思ったときにパッとやらなきゃダメよ、私なら今日会いに行くわ』と言われた 」

「世間一般でいう偉い人と話すときも、タクシーの運転手さんや近所の人と話すときもまったく同じに、丁寧だけどちょっと親しげな調子で『あなたねえ』と話しかけています。」(p223)
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沸々と満ちる。

2010-05-16 | 短文紹介
産経新聞を購読しております。
それが、1月1日からはじまって、この5月まで、そのままに貯まってる(笑)。
ああ、どうしよう。このまま忘れて処分するか。コツコツ切り抜くのか。
やるべきか、やらざるべきか、それが問題なのですが。まだまだだよ、なんて気分だからいけません。それとは、別に朝日新聞の古新聞をもらってきては、手でぺージを切りとることをしております。こちらは、毎回もらって来ると整理してます。その朝日の5月2日の読書欄に江上剛氏の書評で鶴見俊輔著「思い出袋」が取り上げられておりました。
そこから、

「・・・まずなによりも名文だ。論理的であるがゆえに、その内容がいささかの抵抗もなく心に浸透していく。文章を読むことの心地よさをこれほど味わえることはめったにない。
私はサラリーマンを長く務めてきた。その間、たくさんの稟議書を書いてきたが、本書は絶対に参考になる。最初の1行にテーマが打ち出され、それに対して著者の考えが具体的事例を伴って演繹的に展開される。最後に結論としての考えと、課題が提示される。著者は10代の多感な時期をアメリカで暮らしたためにこのような論理的明晰さを身につけたのだろうが、本書に倣って稟議書を作成すれば難しい案件も容易に承認されるだろう。俗っぽい実益的な読み方を提案してしまったが、本書の眼目はなんといっても『疾風に勁草(けいそう)を知る』の例えのごとく生きる強さだ。どのエッセーからも泉のように生命力があふれ出て来る。人生に疲れた人は、読むごとに本書を机上に伏せ、目を閉じ、著者の言葉を心で反芻してみるとよい。沸々とエネルギーが満ちるのを感じるだろう。どの言葉も人生への真摯なアフォリズム(箴言)となっている。・・・」

う~ん。またこの岩波新書を取り出して読みたくなります。
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これに限ります。

2010-05-15 | 古典
渡部昇一著「楽しい読書生活」を読んでいたら、
恩師の佐藤順太先生のエピソードが出てくる箇所がありました。

「順太先生をお訪ねしたとき、「『伊勢物語』を奨められたので読みました」といったら、「『伊勢物語』を読むなら、キミ、藤井高尚だよ」とおっしゃって、藤井高尚の木版本を出してこられました。「『伊勢物語』はこれに限ります」といわれるので、その木版本のなかから一冊お借りして無理して読んだことがあります。読んでみると、江戸時代の注釈というのはもの凄い。五、六十年前のことですから細かいことはほとんど忘れてしまいましたけれども、あまりにもおかしかったのでいまでも覚えているのは・・・」(p171)

そういえば、渡部昇一・谷沢永一著「読書談義」で、
谷沢氏の言葉にこんなのがありました。

「さきほどの、『伊勢物語』ならこれだという、そういう言い方でカチッと一つの大切なものを評価するというのが、前世代の学者の共通点でして、釈迢空の論説なんかいつもその点でくるわけですね。それが現在はどうも影をひそめたような感じがします。・・・
ぼくら、この分野あるいはこの著者について一番大切なのは、この一声、この本だという言い方が体質的に好きなんですが、それを大学の講義なんかでやる人が少ない・・」


さてっと、以前読んだその「読書談義」で藤井高尚の「伊勢物語」というのは名前で覚えていたのですが、古本でもみつからない。みつからないから忘れておりました。そうしてですね。今度また「楽しい読書生活」で藤井高尚の名前が出てきたので、ネット上の古本検索をしたら、何とあったのでした(むろん復刻版の本)。さっそく注文。けれどすぐ読まないだろうなあ。でも手にすることができる。ということで、私みたいな鈍感な読者は、繰り返し語ってくださると大変ありがたいのでした。そうして、あの藤井高尚注釈の「伊勢物語」が手もとにあるのでした。残念なことは、まだ読んでいないということ。

そうそう。
そういえば、鶴見俊輔著「思い出袋」(岩波新書)にも「これだ」という箇所が、ちょこちょこと登場するのでした。
たとえばこんな箇所。

「八十一歳のもうろくが手伝っている。十九歳のころだったら、そのころ出会ったマシースンの評価どおり、アメリカ文学最高の作品は、まず『モウビー・ディック』(白鯨)としたかもしれない。しかし八十一歳になると、もうろくの中で、佐々木邦訳『ハックルベリイの冒険』をあげるのをためらいはしない。埴谷雄高は二十世紀最高の作品としてプルーストの『失われた時を求めて』を推したが、私の中ではそれらにも押し負けない。」(p45)
コメント (2)
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生気に乏し。

2010-05-13 | 短文紹介
鶴見俊輔・渡部昇一・外山滋比古の三氏を比べると、現在の私には、外山滋比古氏の本が一番しっくりと読めるような気がします。ところで、三氏の本に登場する佐々木邦を読んでみたいと思うのですが、とりあえず、外山滋比古編「佐々木邦 心の歴史」(みすず書房・大人の本棚)を古本屋に注文しまして、それが届きました。その本の解説は外山滋比古氏が書いておりました。六ページ。さて、外山氏の本も読みながら、この「心の歴史」も読んでみましょう。うん。たいてい、こう宣言すると読まないことになるのですが(笑)。まあ、読まないときは、読みたいと思うことでも書いておきます。外山滋比古氏の「エディターシップ」を読んで、あえて新しい「新エディターシップ」を古本屋にたのんだのでした。

「文化の中心部に位する活字刊行物においてエディターシップがこれほど曖昧になっているのは、新聞とか雑誌とかの形式は外国のものの見よう見真似でつくることができるが、それに生命を与える精神の機能は真似ることも翻訳することもできにくいからであろう。われわれの国は、西欧文化を摂取して百年になるが、エディターシップについては、これを真剣にとり入れようとしたことはほとんどなかったといってよい。ヨーロッパ自体でも、オーサシップに比べるとエディターシップの影はずっとうすいのであるから、これもやむを得ないといえばやむを得ない。しかし、明治以来のわが国の文化、思想がなんとなく生気に乏しく、創造性に欠けるのは、エディターシップがながい間、文筆志望の青年の腰掛け仕事みたいに考えられてきたことと無関係ではなかろう。形式的エディターシップの確立が急がれなくてはならない。」(外山滋比古著「ホモ・メンティエンス」みすず書房p172)
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