和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

お地蔵さん。

2019-11-30 | 京都
そういえば、
門田隆将著「死の淵を見た男」(PHP)を思い浮かべました。
副題は『吉田昌郎と福島第一原発の500日』とある。
第22章に、「地面から湧いて出る地涌菩薩」の話が
でてきて、一読忘れられない箇所としてありました。
そこを、読み直そうとして、本棚から取り出してくると、
その記述の近辺に、こんな箇所があった。

吉田氏の奥さんのコメントのようです。

「若い頃から宗教書を読み漁り、禅宗の
道元の手になる『正法眼蔵』を座右の書にしていた。
あの免震重要棟にすら、その書を持ち込んでいたほどだ。
生と死 ーーー 夫は、お寺まわりが趣味で、・・・・・・
そう考えると、あの事故に夫が立ち向かったのも、
それが『運命』だったような気がしてならないのである。」

う~ん。地涌菩薩については、この本を読んだころに、
どういうわけか家に、キリスト教の布教の女の方が
お二人で回られていて来たのでした。
うん。その時に、キリスト教のことを語られるのを聞いていたら、
読んだばかりの法華経の中に登場する地涌菩薩のことが
気になって、その地涌菩薩のことを、
こちらから反対に話しかけておりました。
それ以来でしょうか。機会があったら法華経も読んでみたい。
そして正法眼蔵も読まなければと漠然と思い描いたのは(笑)。

けれども、正法眼蔵も、各章の解説だけ読んで、
それっきり、本棚に鎮座しております(笑)。

それはそうと、今回はお地蔵さん。

河野仁昭著「京ことばの知恵」(光村推古書院・2002年)。
この本のはじまりは「お地蔵さんがいてくれてはる」と題して
3ページの文でした。そこをはじめから引用。

「テレビが祇園界隈を映しているので観ていたら、
地蔵さんの祠に花を供えていた年配の女将さんが、

『ここだけやおへんえ、どこの町内にも
お地蔵さんがいてくれてはって、
町内を守っとくれやすんどっせ』といった。

いい光景だったし、
『お地蔵さんがいてくれてはる』というのが、
いかにも京都であった。
『はる』はいうまでもなく、
軽い意味にもせよ敬意の表現である。
しかも、たんに『いてはる』ではなくて、
『いてくれてはる』つまり『居て下さっている』のだ。

『わたしとこ、ほん近くに小児科の
お医者さんがいてくれてはるさかい、助かりますねん』
というのと、ほとんど変わりがない。

地蔵の人間化はなにも京都だけのことではないし、
いまにはじまったことでもない。
おそらく仏教の諸仏の中で、町衆ひいては民衆に、
地蔵菩薩ほど身近で親しい存在はないだろう。

しかも京都では各町ごとに祠を造って
地蔵さんを祀っている。
祠には供花が絶えないのである。
こんな街は全国どこにもないのではないか。
『平安の都』は、反面『不安の都』であり、
災いが絶えなかったことの証かもしれない。
・・・・・」(p10~11)

短いので全文引用したくなるのですが、
ここまでにします。

この本の「あとがき」のはじまりも紹介。

「光村推古書院から、京ことばの本を書かないか
といわれたとき、わたしは当惑した。
本気でいわれているとも思えなかった。

『年寄りをからかわんといて下さい、
ぼくは生まれも育ちも四国でっせ』
と、わたしはいったと思う。
編集者の西山さんは根っからの京都人だ。
『だから書いてほしいんですがな』と、
彼は真顔になった、
『他府県から出てきて長年京都に住んではる人が、
京ことばをどう思ってきはったか、いまどう思ってはるか、
それを書いてほしいんです』。・・・・」

はい。あとがきは、このように、はじまっておりました。






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四条通りの八坂神社。

2019-11-29 | 京都
京都にいったとき、
円山公園から八坂神社をとおり、
四条通りへと、はじめて降りました。
道路へと石段をおりながら、
お上りさんであるわたしは、
へ~。こんなところがあるんだと
思っておりました(笑)。

さてっと、京都関連の古本の積読のなかに、
内藤益一著『京都再見』(発売・丸善)がある。
とっつきにくそうなので、そのままでしたが、
なにげなく、ひらくと、そのはじまりの京都は、
「祇園界隈」とあり、八坂神社の山門を
道路側からとった写真がありました。
うん。はじまりを引用。

「京のまんなかを東西に走る四条通りを
東山に突き当たったところに八坂神社がある。
京では祇園さんで通っている。
東山の緑をバックに朱塗りの山門と玉垣とが
小高い石段の上から京の街を見下している。
幕の開いたばかりの舞台のようにあざやかである。

目の下の四条通りの両側の裏通りが祇園町である。
八坂神社の裏が円山公園であり、その北隣が知恩院である。
南隣が真葛ヶ原(まくずがはら)と呼ぶ。高台寺、清水に続く。
・・・・」(p11)

うん。「幕の開いたばかりの舞台のようにあざやか」
なその山門の石段をおりてきたのでした。
もっとも、私の場合は、石段をおりたそこには
中国人の団体さんらしい混雑がまっており、
ごったがえして横断歩道をわたりました(笑)。

このあとに、平清盛がこの場所でくりひろげた
エピソードが語られていて、はじめて読むその話に
わたしはといえば、ワクワクします。

うん。それを引用している場合じゃない(笑)。
硬いけど、味わいのあるスルメみたいな一冊。
はい。古本で安くなければ買わなかった一冊。
そうして、手にしてよかったと思える一冊です。
「まえがき」に

「生まれ育った京の町に強い愛着があって、
当てもなく、街の隅々を歩く癖があった。
・・・・齢を重ね・・・・・・・歴史のエピソードの
舞台をもう一度訪れて見たいと思うようになった。」

とあります。著者は明治40年生まれ。
とりあえず。つぎにパラリとひらけば、
「四条大橋界隈」のこの箇所でした。

「四条河原が芸能との関係で史上に現れる最初の
事件は貞和5年(1349)のことではないかと思う。
楠木正行(まさつら)戦死の翌年である。
四条河原に橋を架けるための資金を募る勧進田楽で、
足利尊氏も見物していたとき、突然249間の桟敷が
崩潰したのである。

当時川幅は今よりずっと広く、四条辺りでは、
西は富小路、東は宮川町筋に及び、今の先斗町も
河原町も寺町も御旅町も河原であったらしい。

河原の芸能は時代と共に多様になる。
女曲舞(おんなくせまい)、女房猿楽(にょうぼうさるがく)、
辻能、操(あやつ)り、浄瑠璃、祭文(さいもん)、放下(ほうげ)、
蜘蛛舞などから諸種の見世物が軒を並べる。

出雲のお国とその芸団によって
『歌舞伎舞』が興行されたのは
慶長8年(1603)、関ヶ原の戦後3年である。
女が切髪に鉢巻き締め、
金襴の衣裳に細見の大小を落とし差しに、
胸に十字架をかけ、腰に瓢箪をぶらさげた
『かぶき者』の服装で茶屋女と戯れる踊りである。
男装の美女の『はしり』である。
・・・・・・」(p127)

うん。こうして綴られていくのです。
各題は、京都の交差点を掲げて○○界隈としており、
○○界隈、○○界隈と並ぶ目次の圧巻(笑)。
こういう本が、できあがる不思議な京都。
そう思いながら、わたしは、これだけで満腹。
もう読み進めず、本棚に立てかけておきます。




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反日感情のカンドコロ。

2019-11-28 | 短文紹介
板坂元著「考える技術・書く技術」(講談社現代新書)は
1973年に出版されておりました。

今回本棚から取り出して、パラパラとひらいていると、
ああ、こんな箇所があった。

「いつか、大宅壮一が
海外の対日感情の調査旅行から帰って、
『世界中の反日感情を調べて回ったが、
反日感情のいちばん強いのは日本だった』
と警句を吐いたことがある。なるほど、
東南アジアの対日感情が悪くなった今日でも、
日本の総合雑誌ほど日本批判を熱心に
やっているものはほかにはなさそうだ。
けれども、この現象も・・・・・・ずっと時代を
さかのぼって遣唐使のころからの伝統らしい。
外にいつも頭のあがらない文化があるが故の
劣等感、それが裏がえしになった悪口であり
批判であった、と考えられる。
インテリにその現象がはなはだしいのは、
インテリの方が外に対する劣等感を
強く持っているせいであろう。」(p141)

現在のテレビのコメンテーターの
セリフが思い浮かぶような箇所もあります。

「この場合でも、読者は評者といっしょに
局外者として日本を見る立場に立つので、
共通の『われわれ意識』をつくりあげることになる。

手紙を書くとき天候や気候のことを持ち出して
共通の話の場をつくった上で、用件に入るのと
同じふうに、日本の悪口を述べたてて相手を
『だきこむ』作戦もありうるわけである。・・・」
(~p142)

うん。韓国の反日なら、
よそ事のようにして、見ていられるけれど、
日本のなかに、反日がいるとなると、
笑って、見ているわけにはいかなくなる。
歴史をひきずった日本人の反日感情とどう付き合うか?
韓国の反日が、浮き彫りにしてくれているような、
始末に負えない日本人の反日感情を思うにつけ、
改めて、韓国の学者の方々が出版され、日本訳ができた
「反日種族主義」を読んでみなければと思うのでした。



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きれいな いちょう。

2019-11-27 | 詩歌
GOOブログ「爺ちゃんの京都散歩」の11月26日に、
檀王宝林寺のイチョウの木が撮影されておりました。

さてっと、詩を数篇。
  
  京都府大枝小学校一年 山田いく子
   
    いちょう

  きれいな いちょう
  おおきなきに
  ついている
  かぜにふかれて
  うつくしいな
  わたしは それをみて
  すべりっこを
  すべりました

この詩について、井上靖の文「『きりん』のこと」が
一読印象に残っているので、あらためて引用。

「昭和22年秋・・」とはじまります。
出版社社長が、新聞社の井上さんを訪ね、そこで、
小学生向きの月刊詩文誌を出すことに決まります。

「雑誌の題名は、
竹中郁氏によって『きりん』とつけられた。
そして関西一円の小学校に手紙を出して、
児童の詩作品の提供を依頼した。
送ってくれたところもあり、
くれないところもあったが、
それでも何十編かの詩が集まった。」

こうして、井上靖氏の短文は、雑誌の2号に載せた
一年生の山田いく子さんの詩と、あと一篇。
つぎに引用された詩は

  愛媛県上分小学校四年 宗次恭子

    かれ木

  かれ木は秋になって
  さみしくなるのだろう
  風にふかれてきものが
  とんで行くのだろう
  しまいにはからだだけに
  なって行くのだろう
  雨にもうたれ
  風にもうたれ
  さみしくなって
  行くのだろう

井上靖氏は、この2篇の詩を引用したあとに
こう書いておりました。

「この二号が出るに先立って、
この二編の詩をたくさんの投稿詩の中から
選び出した夜のことを憶えている。
一月の終わりか、二月の初めだったと思う。
選が終わると、私は竹中、足立両氏と連れだって、
尾崎書房を出て、闇市の一画を突っ切って、
大阪駅の前まで行き、そこで両氏と別れた。
  ・・・・・・・・
当時家族の者は郷里伊豆の家に疎開したままに
なっていて、私は一人住まいであった。・・・・
まだ終戦後の混乱期が続いており、世の中にも、
私自身の生活にも、安定した戦後は始まっていなかった。
 
少し大袈裟な言い方をすれば、私はその夜、
たまたま小学校から送られて来た二人の少女の詩に、
感心したというより、何もかも初めからやり直さなければ
ならないといったような思いにさせられていた。・・・・・」

 さてっと、このあとに井上靖氏の
この詩の評がかかれておりました。

「・・・大人ではこんな風には書けないと思った。
余分なことは一語も書かれていず、
水の中を流れている藻でも見るように、
子供の心が澄んで見えている。

『いちょう』を読むと、
いちょうの葉の落ちている校庭で、
滑り台を滑っている小学一年生の
少女の姿が眼に浮かんでくる。
そしてその時の少女の気持が、
手にとるようにはっきりと、こちらに伝わってくる。
少女は淋しいと思っているのでも、
悲しいと思っているのでもなく、
うつくしいな、ただそれだけである。
そして、いちょうの落ちている庭で、
いちょうの落ちるのを眺めながら、
滑り台を滑っているのである。

『かれ木』を書いた少女の方は
四年生になっているので、
もう少しおませである。
それにしても、次々に葉を風に持って行かれ、
からだだけになって行く裸木の姿が、
その時間的経過まで取り入れられて、
みごとに書かれており、この少女が指摘しているように、
裸木は本当に淋しくなって行くのであろうと思われる。

私がこの二編の詩に異常なほど強く心を動かされたのは、
私自身が丁度同じ年頃の子供を持っていて、
その二人が同じように伊豆の山村で小学校に
通っていたということもあるかも知れなかった。」

 
せっかくなので、最近読んだ詩を引用。
編集工房ノア「少年」有馬敲(1994年)。
有馬氏の詩集成の一冊のようです。
安いので買いました。きれいです(笑)。
その帯に、こうあります。

「『いまの詩人のなかで、
有馬さんほどフォークシンガーたちから
曲をつけられた詩人はいないはずだ』
(片桐ユズル)・・・・」

いろいろな詩集があつめられています。
その「『京わらんべ』おわりに」は、
こうはじまっておりました

「わたしは京都にうまれ、京都にそだちました。
そしていま、京都にすんでいます。・・・」

このくらいにして、目次をパラパラと
めくっていると、
有馬さんの詩に「いちょう」がありました。
最後に、それを引用します。

    いちょう

 いちょうのきは
  あつがりやさん
   なつになったら
     おおぎのような
   はっぱがいっぱい
  かぜをおこして
 あおいでいる

 いちょうのきは
  しんぼうづよい
   ふゆになったら
     はだかになって
   へいきのへいざ
  ゆきがふっても
 だまっている





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そういうものではない。

2019-11-26 | 本棚並べ
板坂元著「続 考える技術・書く技術」(講談社現代新書)
を本棚からとりだしてひらく。
こんな箇所がある。

「ちょっとした読書家なら、
おなじ本を何回も読み直す率は
買い入れる本の10パーセントくらいのはずだ。
残り90パーセントは本棚で眠ってしまう。」(p61)

これは、「切り抜き」についての箇所でした。
そのあとに、
「旅行などに行くときに、読み捨てのつもりの文庫本など
を持参して、片っぱしから破りとるのは一種の爽快感を
さえ伴う。いちど実行すると、あとはこだわりなくやれる
ことなので、ためしにやって見るとよい。」
こうつづきます。

う~ん。これができない(笑)。
台風の雨漏りで本がふやけて、カビが生えた時は
(いまだ、乾燥させても捨てられない私がおります)、
本とのつき合い方を考えさせられる事態でした。


そうそう。谷沢永一著「自作自注最終版 紙つぶて」。
これも、水を吸いました。買い換えようとしたのですが
(これは私の、読み直す10パーセントの本にはいります)、
古本でも値段が安くなっていない。しかたない(笑)。
ふにゃふにゃ本でも何とか読めるので、十分に
乾燥させて、本棚に立てかけることにしました。
カビがちらほら。

思い浮かんだのは、
菊池寛の学生時代のエピソード。
友人がトイレで本をひらいていたら、
便器の下にポトンと本を落としてしまった
(はい、当時は水洗じゃなく汲み取り式です)。
菊池寛は、その本をもらってもいいか、
と言ってもらいうけ、とりだし、水をかけて、
外で乾燥させてから、さておもむろに
古本屋へともっていったそうです。

うん。へんな連想をするものです(笑)。
最近の、アマゾンなどのネット古書では、
新刊書なみのきれいな本が安いので、
菊池寛の時代とは違っております。

話がそれていきます。
「おなじ本を何回も読み直す率」という発想は
わたしには、ありませんでした。いまでも、
すぐ、ちがう本へと目移りしていきます。
落ち着いて読了できないタイプ。

はい。わたしのマイブームは『京都』。
京都とあれば、安ければ買っております。
読まないくせしてね(笑)。
うん。10パーセント。10パーセント。
10冊のうち、1冊ものになれば、それでよいよい。
と、もう決めております。

こういうのを後押ししてくれる文がありました
(と、勝手にきめつけております)。
それは、1971年に「京都大学学園新聞」に掲載された
梅棹忠夫の「文献探索の訓練を」という全集で
3ページほどの文でした。
さいごは、そこからの引用。

「一般論的にいえば、今日の学生たちは、
知識を受容する能力はなかなかたかいけれど、
自分からすすんで知識を獲得する能力となると、
はなはだ無能である、といってよいだろう。
まるで訓練ができていないのである。
   ・・・・・・・・

だいたい、文献を『たぐる』ということを
しらないのには、まったくおどろかされる。
自分の関心をもったことがらに、ちょうど
ピッタリあう本があるにちがいないと
おもいこんでいるようだ。
本というものは、そういうものではない。
なにごとについてもしりたいとおもうなら、
まず一冊、手がかりになる本をさがしだす。
それをもとにして、しだいに関連文献を
『たぐり』よせるのである。そのうちに、
重要な本とつまらないものとの区別がついてくる。
さらにくわしい知識の所在がわかる。
あたりまえの手つづきだとおもうのだが、
そういう努力をやらずに、いきなり
エッセンスだけをおしえてもらおうとしても、
知識は身につくものではない。

全体に、知識に対する今日の学生の姿勢は、
かなり受動的になっているのではないか
という印象をうける。知識というものは、
料理にたとえるならば、『すえ膳』で
自分のまえに提供されるものではないのだ。

自分で、方針をきめて、材料をさがし、
料理して、自分で構成してゆくものなのだ。
・・・・」(p195~196・梅棹忠夫著作集第11巻)

ということで、読もうとして、そのままだった、
梅棹忠夫著作集に、すこしもどれました(笑)。

「京都」本での、『たぐり』よせるレッスン。
紅葉の京都なので、GOOブログのなかで
京都へ行かれる方のブログ写真を拝見しながらの、
京都へのレッスンです。











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京都に帰って以後。

2019-11-25 | 古典
昨日のブログへの「続き希望」②とありました。
はい。その2名の方の希望にお答えします(笑)。

当ブログは、ほぼ引用から成り立っております。
はい。そのことは、自覚しております(笑)。

さてっと、この野間宏・増谷文雄対談にも、
「引用文」という箇所があり、気になりました。
この機会に、そこを引用。

増谷】 そういうわけですね。『教行信証』を読んでおりますと、
あの構成の仕方は、『往生要集』に始まる日本人の仏教ものの
一つの型じゃないかと私は思うのです。
引用文を中心にしているところが。
その一つの型は『往生要集』だし、それから
第二の型は法然の『選択集』ですね。
引用文が先にきて、それに自釈を加えるといったような。
『教行信証』を書かれてときにはまだその型に
だいたいよっておられるのじゃないか。
親鸞の独特のものというのはそれ以後ですな。
京都に帰って以後に書かれたものが
親鸞の独特のものだと思うのです。

野間】 独特のものですね。

増谷】 まったく独特のもの。

野間】 ただしかし、その独特のものが出てきたのは、
やっぱりあれだけ多くの原典から自分で選んでいって、
つぎに何経の何の句、次に何の句と選んでいって、
それを貫いて筋を通して、それが根本(ねもと)にあって
そしてあの後書があって、のゆえでしょう。つまり
『教行信証』がなければあれだけ大胆に型を破って、
すべてを破りつくして出すということはできなかった。

増谷】 そのとおりですな。
『教行信証』というものがあって、それから今度は
そこで引用したものを『浄土和讃』『高僧和讃』で
やわらげているでしょう。その辺りから
親鸞の本物が出てきているように私は思うのです。
     ・・・・・・とくに
『浄土和讃』『高僧和讃』というところはまさにそうですね。

野間】 つまり、自分は異端とされたんだけど、
自分こそは異端じゃないんだという、そういう系列
といいますかな、『高僧和讃』で出てきて。

増谷】 あれは正統の主張ですね。
法然の直接の言葉を耳にして
正統を主張するものは自分だという
考えが『歎異抄』にもありますね、はっきりと。

野間】 ありますね。
そして実際そのとおりになったということは、
これは本当に大きな力ですね。
別にそのとおりになるというふうには
なっていないのですけれども・・・・



 はい。小冊子の対談からの引用は、
 まだまだしたいのはやまやまですが、
 ここらで『親鸞集』の目次を紹介しておきます。
 訳・解説は増谷文雄。
 はじまりは増谷氏による解説「親鸞の思想」。
 あとは、目次を列挙しておきます。

 正信念仏偈
 一念多念文意
 和讃 
  浄土和讃
  浄土高僧和讃
  正像末法和讃
 書簡
  真蹟書簡
  古写書簡
  『末燈鈔』
  『親鸞聖人御消息集』(略文)
  『御消息集』(善性本)
  『親鸞聖人血脈文集』
  恵信尼文書

 歎異抄

 親鸞関係略年表 
 参考文献

はい。わたしはまだ『親鸞集』を読んでいません(笑)。


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親鸞。京都に帰られて。

2019-11-24 | 古典
「親鸞集」(「日本の思想3」・筑摩書房・1968年)。
この本の編者は増谷文雄。
著作集には月報という小冊子がはさまれますね。
このシリーズにも小冊子がはさまれておりました。
「親鸞集別冊 対談 野間宏・増谷文雄」とある。

うん。この対談の小冊子は、興味深い。
小冊子の中に『口伝でつたえられて』という箇所が
ありまして、興味深いので引用。

増谷】 私はこういうことを考えるのです。
私は仏教の中でものを言っている人間です・・・

例の『歎異抄』の第三段目の悪人正機の問題ですね。
あの悪人正機の問題というのは、
あれをずばりと書いた人というのは、
いわゆる上人がたの中にはだれもいない。
恐らくあれは晩年の法然が口で言い、
それを親鸞が直接に耳に聞いていたのだと思います。
しかし親鸞の著作の中には出てこない。どこにも。

野間】 『歎異抄』には出てくるけれども。

増谷】 『歎異抄』は聞き書きですからね。
法然の書いたものにも、親鸞の書いたものにも出てこない。
それはただ口伝でつたえられておったと思うのです。
それが『歎異抄』の中にすぱっと出てきているでしょう。

これは文章に書けば誤解される言葉なんですね、
だからそれを口で言い残してきて、そしてそれが
『歎異抄』に出てきていること、ここに『歎異抄』の
いちばん大きな力が、すさまじさが、あると思いますね。


  はい。『口で言い残してきて』ということを、
  小冊子の対談で、聞いている不思議(笑)。
  せっかくですから、この対談からもう少し引用。


増谷】 おっしゃるところの、親鸞のあれだけの
自信がいつできたかということですね。私は
『恵信尼文書』を読みましてね、
越後から関東に入ってきて、まだ栃木県あたりにいた頃ですね、
いよいよ常陸に乗り込む前です、そこで『三部経』千部読誦
という仕事をやり始めたということを書いています。
関東教化がうまくいくようにと思って
『三部経』を千回読もうという願いをたててやり始めたのを、
三日か四日かして、そこでやめたらしいですね。

あれは、非常におもしろいと思うのですがね。
それは、念仏だけでやらなきゃならん人間が、
いったいなにをしているんだと、
まだ本当の自信ができていなかったことを
そこではっと気がついたのじゃないかと。

野間】 迷いですね。

増谷】 迷いですね。
それが京都に帰ってからは、もうツユ迷っておりませんな。
そういう意味で、私は、完成した親鸞なんていう言葉は
いかんでしょうけれども、
親鸞の絶頂は京都だと思うのですよ。
  ・・・・
京都に帰られて、それも初め数年はいろいろな
身辺の取り片づけやら、会う人やらいろいろあった
でしょうけれども、70を越してからの親鸞が
われわれの親鸞だという感じがしますね。
それが『歎異抄』に出ておる親鸞でしょう。


 うん。ここから対談の興味深い箇所へと
 深まるのですが、私の案内はここまで(笑)。







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あの時代の仏教者たち。

2019-11-23 | 前書・後書。
増谷文雄の親鸞講義。
「親鸞」(朝日出版社)。
うん。そのはじまりが印象深い、
ので、引用しておきます。

「あの時代の仏教者たちを振り返ってみますと、
法然、親鸞、道元、日蓮、その後も一遍・・・・
そうした人々の生没年を見てみますと、まず

法然が一番早い12世紀の前半、1133年に生まれております。
1212年、13世紀の初めに亡くなっている。

親鸞はちょうど法然より40歳離れて1173年に生まれ、
大変長生きをして1262年に90歳で亡くなっている。

道元は、ちょうど13世紀の始まりの1200年に生まれて
1253年に亡くなっている。

それから日蓮は、もう少し遅い1222年から1282年。
一遍は1239年から1289年です。

つまり、これらの人々は、ほとんど同じ時代に
生を享けておるわけですね。・・・・・・
私の考えはこれらを全体として見てみたらどうか、
というところにあるわけです。

さてそこで、これらの13世紀の仏教者群像・・・
これを長いこと考えておりますうちに、まず
国家との関わりの問題があるんだということに、
ある日気がついたのです。
と言いますのは、
法然、親鸞、日蓮の三人は、いずれも御上人ですね。
これは御聖人とも書きますが、どれも
国家から与えられた称号ではない。
禅宗の場合は、上人という言葉は使いませんので、
道元は禅師です。その禅師というのは本来は
国から頂戴する僧侶の称号なんですが、
道元禅師の場合は、実は国から貰ったものではない。

ということは、変な言い方ですが、それまでの仏教者が
すべて、国家公務員であるのに対して、
これら新しい仏教者たちはそうではない。・・・・
そこに、非常に面白い問題があるように思われる。」
(p7~8)


さてっと(笑)。
つぎはP88へといきます。

「・・・『教行信証』そのものは資料です。
親鸞自身は自分の『教行信証』をとおして
法然の言葉に再び触れ、それによって
心が昂ぶってくるということだったと思います。

実を申しますとね。・・・
私が『親鸞集』を編むことになりましたとき、
『教行信証』は入れなかったんです。
ただ一つ入れたのが『正信念仏偈』の現代語訳だけでした。
なぜかと言いますと、要するに『教行信証』というのは
親鸞の思索修行の書であって、
彼自身の宗教的な所感がもっともよく出てきているのは、
『教行信証』の中では『正信念仏偈』だと思うのですね。
それで、これだけはなんとしても訳そうと思いましたが、
さてどう訳したらいいかがわからない。
『正信念仏偈』は詩でございますから、
だらだらと訳しても仕方がない。
それで、数日間原文を前に置いて、
ただじっと眺めておりました。まったく、
途方に暮れたとはあのことでございましたが、
ある日、はっと気がついた。
いくら私が頭をひねったってだめだ。
そうではなくて、原文をそのまま現代語に
引っぱってくればいいんだと。
・・・訳せた。『ああ、それでいいんだな』と、
そのときに思いました。その日のうちに
すっと六十行すべてを訳し終えることができましたね。」

うん。ここに出てくるのが
「日本の思想3 親鸞集」編集・解説増谷文雄(筑摩書房)。
はい。ネットの古本で注文。
それが届きました。別冊の冊子は野間宏氏との対談。
函入りで、きれい。うん。これで親鸞が私にも読めそう。
とりあえずは、手にしました(笑)。



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小便たごをかついだ男が。

2019-11-22 | 京都
読書論だったかに、
本は十冊のうち一冊ものになればしめたもの。
というような箇所が、たしかあった。

う~ん。九冊は無駄になる。何て、その時思う(笑)。
今は、ありがたいことに、居ながらにして、
きれいで、安い古本が簡単に手に入る。
うん。こういう時代ならばこそ、
「十冊のうち一冊ものになれば」という、
可能性を試す絶好のチャンス到来(笑)。

はい。こう自分に、言い聞かせれば、
ネット古書注文の、はずみがつく(笑)。
 
まあ、そんな調子で古本を買って、
こんな様子を、ブログに書きこんで。

私のマイブームは、『京都』。
こうして、ネット上でぶらぶら古本さがし。
そんななかに、200円+送料257円で
りっぱな函入「京都庶民生活史」(鹿島出版会)。
これ昭和48年出版を購入してありました。

話はかわりますが、夜寒くなりました。
寝ていて、時にトイレへ行くのが2度3度
(はい。正確を期せば、1度か2度)。
はい。我慢できないのでしょうがない。

ということで、気になって、
「京都庶民生活史」をひらく。

「京の町人の食卓を彩った農作物は、
糞尿として農村へ還元されることによっても
近郊の村々を潤していた。江戸時代に入り、
田畑の肥料に人肥が本格的につかわれるようになると、
二、三〇万人の人口を抱えた京の町は、
まさしく黄金の宝庫となる。
・・・
室町時代に町々に公衆便所が普及していたことは、
洛中洛外図にみえることからも明らかである。
そこには方一町をとり囲んで建てられた町屋の
中央の空地に、井戸・物干場とともに
公衆便所が描かれている。
家々にはよほどの大家でないかぎり、
便所は備えつけられていなかったのであろう。
ルイス・フロイスの『日本史』にも、
戦国時代の京都の町に、
藁ぶきの公衆便所があり、
悪臭を放っていたことが記されている。
・・・多くは江戸時代と同じく近郊の農村に
還元されていたにちがいない。」(p211)

そのあとに、
十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の
こんな場面が引用されているのでした。

「江戸時代になると、需要の増大から
京の糞尿は一躍脚光を浴びるようになる。」

「弥次・喜多さんが清水詣をして、
三条で宿をとろうと道をいそいでくると、
小便たごをかついだ男が、『大根小便しよしよ』と
大きな声で、向こうから歩いてくる。
大根が小便をするというわけではない。
大根と小便を交換しようというのである。

この小便取のこえをきいて出てきたのが
二人の中間(ちゅうげん)。
『コチャコチャわしらふたりがここで
小便してやるが、その大根三本、おくさんかいな」
と交渉をはじめ、やおら路地うらで
小便たごに小便をはじめたのである。
・・・」(p212)

もうすこし「膝栗毛」の経過を引用したあとに、
この本は、こう指摘しておりました。

「京都における、小便の値打ちがわかろう。
実際時には小便と交換する農作物のことで
大喧嘩になることもめずらしくなく、
正徳元年(1711)のある記録には、
小便取と中間が口論の末、刃物沙汰に
まで及ぶという事件があったことを記している」

以下には、その例証が続くのですが、
これくらいにしておきます(笑)。

さてっと、p353~354には
馬琴のいろは短歌が引用されて
女性のトイレ風景がつづられております。


ここまでに(笑)。
ちなみに、近々「小便たごをかついだ男」が
夢に出てくるかもしれないなあ。
はい。そのあとに目が覚めてトイレに起きる
という段取りとなります。




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屋根の修理と、飲み会と。

2019-11-21 | 地域
昨日の水曜日は、家内の実家へ、屋根瓦の修繕。
家内の父が、今年の一月に93歳で亡くなり。
それ以来、空家。着くと、まずは窓をあけて、
家に風を通す。

うん。簡単な修理です。
家の端のかまぼこ型の瓦がずれて
その下の細かな瓦が、散乱していたのを
あつめて、組み立てて、くっつけてという段取り。
ようするに、プラモデルの組みたての要領(笑)。
一階上の屋根瓦で、しかも二階の窓のそばでしたので、
出入りが簡単な、初心者でもできそうな作業。
簡単でも、そこはそれ、素人ですから、
時間がかかる。それにけっこう漆喰に塗りむらができ、
終わってから、庭からみると、汚さが一目瞭然。
素人の修復作業ということが、よくわかる(笑)。
でも、まあいいや。
ちょっとの修繕で補修できたのだから、
これでも、めっけものです。

あとは、隣りにならぶ、古い家の峰にあたる
箇所のトタンがなくなっていて、
そちらは、どうしたか。
はい。防水シートで裏がガムテープよろしく
しっかり張りつくのが、ありましたので、
それをつけて、こちらもおしまい。

もう一箇所。納屋の屋根の浪打トタンが
飛ばされていて、こちらは、とりあえずは、
残っているトタンが飛ばないように、釘で
あらためて、固定して、こちらはあと回し。
以前来たときは、気がつかなかった箇所で、
今回はじめて、気がついての修復箇所。

もう。とりこわしてもよい納屋なので、
雨漏りも気にならない、というか気にしない。
ということで、トタンが飛ばないように、
近隣に迷惑がかからないように、
という一応の修理で、今日はおしまい。
屋根の木材の骨組みが一畳ほど
あらわになったままの状況ですが、
今日はおしまい。

こちらの近所にも、屋根にビニールシートを
かけた家があったり、足場で家を囲って、
作業の途中で、そのままになっている家もあり、
まだまだ、もと通りの家並みとはなっていない、
といった感じです。

さてっと、夕方5時半から、7人での飲み会。
生ビールで乾杯。日本酒でチビチビと、
話しがはずみました。
はい。女性2人と男性5人。
じつは、ご夫婦を招待しての気さくな会。
会費は7500円。招待した方からも、
金一封をいただいて、日本酒も
よいものを注文しての会話でした(笑)。

ということで昨夜は帰宅して寝て、
そうして、朝起きてのブログ更新。






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宗教者の書簡。

2019-11-19 | 手紙
増谷文雄氏は、宗教者の書簡に着目しておられる。
それが、うん。うん。とうなずけます。

増谷文雄・遠藤周作対談「親鸞(親鸞講義)」朝日出版社。
そこにも、宗教者の書簡ということで語られておりました。

「私は親鸞という方の性格をもっともっと知りたいと
思っているんですが、その手がかりは現存する書簡に
あるような気がします。親鸞は40数通の書簡がありますし、
日蓮のは何百通も残っています。

実を申しますと、私は書簡に特別の興味を持っておるんです。
というのは、新約聖書を読んでみますと福音書、使徒行伝、
書簡、黙示録の四つから成っておりますね。ということは、
宗教者の書簡というのは非常に大事なものである。で、
ひょっと気がつきましたら、親鸞や日蓮においても
書簡が大きな役割を持っていることに気がつきまして、
それからというもの書簡を読むのがとても面白くなりましてね。」
(p16~17)

うん。私なんて、漱石の書簡で満足しておりました(笑)。
さて、引用をつづけます。

「それで書簡を読んでみますと、日蓮の性格や親鸞の性格が
鏡に映し出されたようによくわかるという気がいたしますね。

日蓮さんという方は、自分のことを
非常にざっくばらんに手紙に書いておられましてね。
たとえば、あの方はお酒好きでしたでしょ。
書簡の中にもそのことが出てきたりしておるんです。
晩年に9年間籠られた身延山でも、『ここは寒くてしょうがない。
そのときはお酒をわかしてきゅっと飲むと身体が暖まってくる』
といったようなことを、悠々と書いている。

それに対して、親鸞は40数通残っている書簡の中で、
ほとんど自分のことを書いていないんですね。
『末燈鈔』の第八書簡は浄土の教えを考えるに当って
大事なことを五説という形で列挙しておるのですが、
その一番最後に
『目もみえず候。なにごともみなわすれて候うへに、
ひとなどにあきらかにまふすべき身にもあらず候』
というくだりが見える。

その他には、息子の善鸞が起こした関東での事件
それについての痛恨の情あふるる義絶状がありますが、
これは自分の今の暮しぶりについて書いたものでは
ありませんしね。それから親鸞は63歳で京都に帰り
ましてから、ほぼ30年隠棲していますね。
その間にどういう生活をしていたか
はっきり知りたいんですが、よくわからない。
あちこちを転々としていたようなんですが、
ある書簡に仮名で『しやうまうのことあり』と、
ただそれだけ書いているんです。
たぶん火災にあったんだろうというのが
定説になっておりますし、私もそうだろうと思います。

もしこれが日蓮だったら、それでどうしたこうしたと
長々とお書きになったに違いない。
ところが親鸞はそれだけなんですよ。
そういう点ではずいぶん違うなと思いますね。」
(~p18)

うん。増谷文雄氏の語りは面白いなあ。
安心して読んでいけます。
はい。いつも手紙を書いていないなあ。
と、毎年年賀はがきが発売されていると、
思いだすわたしです(笑)。



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茶の本と、掛け軸。

2019-11-18 | 本棚並べ
本棚から岡倉覚三著「茶の本」(ワイド版岩波文庫)を
ぬきだしてくる。
第一章「人情の碗」の最初の頁にこうありました。

「茶道の容義は『不完全なもの』を崇拝するにある。
いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、
何か可能なものを成就しようとする
やさしい企てであるから。」(p21)

うん。この言葉が気にいったので、
線を引いてある(笑)。

つぎに線がひいてある箇所はというと

「おのれに存する
偉大なるものの小を感ずることのできない人は、
他人に存する
小なるものの偉大を見のがしがちである。」(p23)

はい。第一章で線をひいたのは、この二か所(笑)。
つぎ、第二章「茶の諸流」のはじめの頁にも線引き。

「宋の詩人李仲光(りちゅうこう)は、世に最も
悲しむべきことが三つあると嘆じた。すなわち
誤れる教育のために立派な青年をそこなうもの、
鑑賞の俗悪なために名画の価値を減ずるもの、
手ぎわの悪いために立派なお茶を全く浪費するもの
これである。」(p31)

はい。引用はこれくらいで、おしまい(笑)。
うちは、両親が建てた家に住んでいるので、
もう、築38年になります。
ですから、台風が屋根を吹き飛ばしても、
もう築年数がたっているので、
と言われれば、そうですね。という感じです。
さてっと、その二階の床の間に
ちょうど台風15号の被害があった際に、
かかっていた掛け軸はというと、
墨絵でした。絵はというと、
雪深い山奥のようです。
細長い掛け軸の下のほうに、
小川に橋らしいものが架かっていて、
掛け軸の中ほど右上に
藁ぶきの屋根がゆきで白くなっている。
その家の、左が一筆で山際をあらわしている。
あとの空白は、雪がうめているという見立てです。

はい。七~八畳分ほどの屋根が台風で
飛ばされて、数日して片づけをしているときに、
その掛け軸に気づきました。
母親が生きている際には、
季節ごとに、掛け軸を変えて楽しんでいた
こともあったのですが、この掛け軸は
父親の好みだったのかもしれない。
万事めんどうなわたしは、掛け軸をかけかえる
ようなタイプではありませんので、たまたま
シンプルで余白の多いこの掛け軸をかけておりました。

台風が過ぎて、いろいろ来ていただいたり、
支援してくださったりして、ありがたかったのでした。
そのホッとしたなかに、この掛け軸も
すこしは関わってくれていたような気がします(笑)。

さいわい、その床の間のある部屋には、
雨漏りはなかったのでした。
風に煽られて、掛け軸の下の方が切れてしまっている。
まだ、そのままになっております(笑)。




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方丈記から、パッパッパッ。

2019-11-17 | 道しるべ
「亀井勝一郎全集」第十五巻(講談社)に、
「日月明し」が入っております。
解題によると、この「日月明し」は、
「昭和20年7月20日生活社発行」となっております。
終戦直前に発行された一冊なのでした。
内容は、故郷へ送った手紙の形式で書かれています。
第一の手紙から、第四の手紙まで。
全集だとp13~p37で、当時は小冊子だったのでしょうか。

「第一の手紙 故郷の人へ」はこうはじまります。

「帝都空襲が伝へられるたびに、いつも私のことを
御心配下さって、心から感謝いたしております。
私は健在です。
あなたの御配慮に対し、最近の自分の生活や
東京の有様等について、何か報告申し上げようと
思って筆をとりました。しかし故郷への手紙を書こうとすると、
私の心にまず浮かび上がってくるものは、
故郷の山河や人々の移り変りでありました。
津軽海峡の海の色、なだらかな海岸の砂丘・・・・
・・・・なつかしくてたまりません。・・・・・

不思議なことに、自然も人もみな鮮やかな色彩を帯びて
よみがえってくるのです。故郷の思い出は私にとって
色彩となりました。早いものです。東京に住みつくように
なってからもう20年近くなります。
少年の私にとって、東京は憧れの都でした。・・・・
そして今は廃墟です。

遠くで噂だけ聞いておられるあなたは、廃墟という
言葉から、まず悲惨な姿を想像なさるかもしれません。
 ・・・・」(p13)

はい。このあとに鶴見俊輔氏が対談で
話された箇所だと思える部分あります。
ここでは、そこは、はぶいて(笑)
その次を、引用。


「罹災した人々は焼跡に小屋を建てました。・・・
少しはにかんで住んでおります。そして周囲には
早くも菜園が拓かれ、ほどよい緑がまず復活しはじめました。
馬鈴薯の白い花が、新宿のまん中に咲いていると云ったら
あなたは驚くでしょうか。やがて大きな南瓜が、
銀座や日本橋の辺りにみられると思います。
貧しい小屋に棚をつくって、そこへ
へちまをからませようとしている人があり、
また私の知っている茶人は、焼けかかった古材を
集めて茶室を建てることを考えています。

すべて日本人にとってあたりまえの生活態度なのです。
人々の蒙った災害は大きかったかもしれません。
しかし何事もなかったように、再建の第一歩からして
おのずからに風流なのです。・・・・・」

終戦間近とはいえ、戦争中に出版された本でした。
その出版事情をある程度、念頭に置いて
読まなければいけないのでしょうか?

もどって、鶴見俊輔対談「ふれあう回路」に
方丈記をもちだして語る箇所がありました。

鶴見】・・・・たとえば『方丈記』という古典ひとつとってみても、
それをひとつの象徴として自分のなかに保つようにしたい。
それを自分の理想として持つべきものと思う。
ロンドンで江戸時代の展覧会があって、
ロンドンの人たちの目を集めたのは、
プレファブリケーションの茶室なんです。
そこでヒョッとつくっちゃうような、
ああいうものというのはすごいですよね。
パッパッパッと一部屋つくっちゃう。
ああいうものが『方丈記』からずっと
茶の湯の伝統としてあった。そのような目標を、
自分の今の暮らしのなかでとにかく保つ。
茶室自体は実現できないとしても、
複雑な現代の暮らしのなかで、そういう単純なものを
ギューッと握りしめるスタイルを保ちたい。」(p133~134)

はい。ひきつづき、引用させてもらいます。

「野村さんの言葉でいえば、『裸体の伝統』の中の
いいものにつながっていくことが重要なんですね。
外から帰ってきたら、靴を脱いであがる。
これは日本のうちのいいところだ。・・・・・・・・
素足なんてのは欧米の文化でいえば
恥ずべきことなんだけれど、素足で畳を踏みしめる、
あるいは風呂の木の上に流れるお湯の感触を楽しむ、
素足で土の上に立つという、その感じがたいせつなんで、
それを取り戻して文化をつくっていかないと困る。

しぐさと身ぶりの伝承のなかに、
文化の伝承の非常に根本的なものがあって、
素朴さから手を放さないということに、
意味があるという気がする。・・・・」(~p135)

そういえば、
「素足で畳を踏みしめる」からの私の連想。

この前の台風15号で、それなりに畳が濡れました。
うちは濡れた畳は二階だけで、一階はフローリング。
晴天ごとに、二階ベランダに畳をたてかけたり、
よく風を通して、日にあてて、なんとか、その時の
古い畳を、いまだに使っております(笑)。

閉校になった小学校の校舎が、台風の被害の一時置き場となり。
瓦やトタン・木材・ボート・木々などが持ちこまれておりました。
う~ん。そこに積まれた濡れ畳が、印象に残ります。
畳を廃品として出した家は、いまだ
当然のように畳は入っていないのだろうなあ。
まだ、瓦屋根にビニールシートを掛けている家々が
常態化しているのでした。

そういえば、茶室には畳が敷いてある、
でも、長明の方丈の家に畳はあったか?
はい。復元の写真を見ると、暗いのですが、
どうやら、板張りのようです。







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土俵下の「砂かぶり」。

2019-11-16 | 本棚並べ
宮本徳蔵著「力士漂泊」(小沢書店)の
第四章は「鎮魂のパフォーマンス」。

うん。この章は気になりました。
はじまりは
「江戸という都市は、災害が多かった。
地震、火事、コロリ(コレラ)の流行などと、
ほとんど十年とはおかず発生して、
そのたびに万単位の犠牲者を出した。
富士火山脈にのっかっている位置、
筑波おろしの乾っ風、
埋立地であるための飲み水の質の悪さ
・・・」(p61)

はい。第四章「鎮魂のパフォーマンス」は、
こうはじまってすすむのでした。
この章は、いろいろ引用したくなるのですが、
エイヤア。思いっきり端折っていきます(笑)。

「蔵前でもそうであったが、国技館の内部は
金剛界マンダラの構造を持っている。
モンゴルといい朝鮮半島といい、チカラビトの
歩んできた通路は同時に密教の盛んだった
地域でもあるから、このことにたいして不思議はなかろう。」

この頁には、「金剛界マンダラ」と「成身会」の絵図が、
「新国技館」内部と、土俵との対比で載っております。

あとは、この箇所を引用。
それはマンダラの絵図を具体的に参照しながらでした。

「虫眼鏡で覗けばわかるが、
飛行天(ひぎょうてん)、虚空天、化楽天(けらくてん)
飲食天(おんじきてん)、歓喜天(かんぎてん)、・・・・、
そのほか数かぎりもない欲界、色界、無色界のちっぽけな
神々がマンダラのこの部分の隅ずみまで満たしている。
美貌、ブス、悧巧、アホ、デブ、痩せっぽち・・・・
およそ想像しうるかぎりのタイプが漏れなく揃っているが、
どれもが必要不可欠な構成員だ。

相撲の効験は、単に取り組んでいるチカラビトたち
のみにとどまるのではない。数千の見物人もまた、
ここで酒を飲み焼鳥をかじりつつ、
わあわあがやがや騒ぎ立てているあいだに、
勝負の真剣さについひきこまれて浄化され、
おのれを超えた霊的な存在―――
諸天、諸明王となってゆく。
おかげではね太鼓に送られて
隅田川岸に出てきたときには、
誰もが気分がすっきりし、
眼がうるみ頬が赤らんだいい顔になって
いるではないか。・・・」
(p73)

こう引用してくると、
この本の「あとがき」にも触れたくなります。
あとがきは、昭和60年に書かれております。

「不思議なめぐりあわせから生れた本である。
詩人渋沢孝輔氏、小沢書店の長谷川郁夫氏、
それにわたくしの三人は、ときおり誘い合っては
国技館に足をはこぶ楽しみをもう十年あまりも
ともにしてきた。定席がたまたま砂かぶりだという
事情もあって、相闘う力士たちの緊迫の気合い、
希望と絶望の微妙に入りまじる溜息を聞きつけるには
便利でも、きびしい規則に妨げられて、まさに数時間
というもの飲むことも食うことも叶わない。
いきおい、閉(は)ね太鼓ののち、両国橋畔の
シャモ屋もしくはドジョウ屋に傾ける盃は
ことのほかうまかった。

さめやらぬ昂奮の余波と、
すみやかにまわる酔い・・・・・
相撲が国技だなんて、小さい、小さい。
ユーラシアにまたがる数千キロの空間と、
十数世紀におよぶ時間が背後に横たわっている
のが見えないか。・・・
無類の聞き上手にして且つ皮肉屋でもあるお二人も、
当然黙ってはいず、適当に半畳を入れたり、
激烈に挑発したりした。・・・・・
両氏ともまんざら冗談とも考えられぬ真顔で、
『あれはぜひ書きとめておけ』とおっしゃる。

気がついてみると机辺には、長いあいだに
これという目的もなく少しずつ手に入れた
番付、浮世絵版画、手形、古書のたぐいが、
いつしか相当の嵩となって散らかっている。
・・・・・・
かれらの友情的強要と、犀利なアドヴァイスなくしては、
これだけのものでもとても陽の目を見ることは
あり得なかっただろう。・・・・」

はい。読めてよかったなあ(笑)。
これから、今日の相撲の録画をみながら
夕飯を食べることにいたします。ちかごろやけに、
観客の顔が鮮明に映っているテレビをみながら、
砂かぶりに、背筋を伸ばした着物姿の綺麗どころが
いて、ついつい気になるなあと思いながら。







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アー。ドスコイ。ドスコイ。

2019-11-15 | 詩歌
子どもの頃、そばの小山をのぼると、そこに
土俵があったという話を聞いたことがある。
中学一年の二学期に統合中学の校舎ができ、
そちらへと移った。すると、新しい先生が来て、
新しく相撲部をつくり、講堂脇の野外に土俵ができた。
けれど、その先生が転勤するともう相撲部もなくなる。

そういえば、神輿を担いで、
途中途中の駅の前とかで、休憩する際に、
相撲甚句で輪になって回りながら、お相撲さんの
手振りさながらにゆっくりと踊るのは、いまでも
演目に加えられています。

さてっと、宮本徳蔵著「力士漂泊」(小沢書店)に
こんな箇所があり、印象に残ります。

「相撲はモンゴルでの発生の当初より、
野外で演じられる放浪芸であった。
明治42年、両国回向院の墓地の西側を
整地して旧国技館が建設されるまで、
屋根の下でおこなわれたためしはない。

本場所のつど小屋を掛け、
桟敷と大衆席を臨時に作って、
千秋楽とともに撤去した。
雨や雪に遭うと否応なしに休日で、
力士の食い扶持にも難渋することさえあった。
しかも会場も容易に一定せず、市ヶ谷長竜寺、
茅場町薬師、湯島天神などの境内を転々とした。

まだ本場所の回数が少なかったころ、
力士たちは一年の大半を巡業の旅の空で過ごさ
ねばならず、それがまた苦労のともなうものだった。

 アー アー 当地興行も本日限りヨー
 アー ドスコイ ドスコイ
 アー 勧進元や世話人衆
 ご見物なる皆さまよ ハイ
 いろいろお世話になりました
 お名残り惜しゅうは候えど ハイ・・・
 せっかく馴染んだ皆さまと
 今日はお別れせにゃならぬ
 いつまたどこで逢えるやら ハイ
 思えば涙がパラーリパラリと

現在でも歌いつがれる相撲甚句が、
その哀愁を素朴な調べでよく伝えている。」
(p85~87)

そういえば、地元の田舎神輿は
ゆっくりと、キタ節を歌いながら、担ぎます。
いろいろ歌うそのなかに

 今日は嬉しや 皆さんと一座
 明日はどなたと 一座やら一座やら

こうして、一年に一度の神輿渡御を練り歩きます。
もっとも、私はもう担がしてもらえず。交通係(笑)。

もどって、対談「ふれあう回路」で
鶴見俊輔氏が紹介していた
川喜田二郎の「素朴から文明へ」という文を
わたしはまだ読んでいない(笑)。

せめて、鶴見さんの対談での言葉を引用して
この回の締めくくりとすることに。

「ここではポンと飛んでこう言うのですよ。
『素朴よりも文明のほうがはたしてよいものとか、
価値が高いものかどうかなどということは、けっして
自明のこととして前提されてはならない』。
ここからあとは、評価がむずかしい問題だから
わかりませんが、
彼(川喜田二郎)は日本にまだ見込みがあるのは、
日本はまだ文明じゃないからというんですよ(笑)。
素朴なものが残っているから、
完全に文明化していくと、小集団のなかでの
やりとりがつぶされてしまうので、血の通った
コミュニケーションがなくなってだめになる。
・・・」(p33~34)

はい。つぎは
川喜田二郎の「素朴から文明へ」を読まなきゃ(笑)。


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