不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

虎ノ門ニュースの坂東さん。

2020-02-29 | 地域
2月28日の虎ノ門ニュースで
坂東忠信さんが出ていて、聞けてよかった。
幸いユーチューブで、繰り返して見ることができる。
うん。よかった。
ユーチューブだと、本を繰り返して読むように、
繰り返して発言を聞けるのは有難いなあ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一期一会と夜咄。

2020-02-29 | 本棚並べ
司馬遼太郎・林屋辰三郎「歴史の夜咄」(小学館ライブラリー)。
その「あとがき」は林屋さんでした。

うん。楽しいので、そこから引用。

「だいたい、座談とか対談という企画は、終わったとき
の何となく空虚さや後悔を感ずることが多いのだが、
司馬さんとの語らいは、いつも充足したよろこびを
感じたものである。

そして一回一回が、『一期一会(いちごいちえ)』
という気持ちにもなった。・・・・・

いうまでもなく、この言葉は安土桃山時代の茶人、
山上宗二(やまのうえのそうじ)が言った茶湯者の覚悟で、
一生に一度限りの会合という茶事の実意を表わしたものだが、
幕末に井伊直弼が好んで用いたことで、一般にひろまった。
お互いに何の用意もするわけではなかったが、そうした会合を
連想するような雰囲気があったことはたしかで・・・
うれしく想い起される。」

うん。長くなるけれど、もう少し引用(笑)。

「そのような茶会からの連想で、秋から冬にかけての
夜長にもたれる茶事『夜咄(よばなし)』が、おのずから
この書物の題名になった。古人が静かにゆらぐ灯の下で
語り合ったのは、どんなことであったろうか。もとより
知ることはできないが、茶の湯の世界の伝書が
だいたい聞書の形をとっていることを考えると、
あるいは夜咄の記録であったかも知れないと、
ふと思うのである。

それにしても
『咄』という字は、うれし文字である。
武将の側近に仕えたという咄衆などは、
たしかに夜咄の話相手であった。
武功談も滑稽談もあったろう。
そうしたなかの諸国の世事の見聞などは、
西鶴が『諸国咄』としてまとめている。いわば『咄』は、
浮世をえがいた江戸文学の母胎ともなったのである。
この『歴史の夜咄』がどのように読まれるか、
読者の方の歴史への興味を少しでも
引きおこすことに役立つならば、この上なく有難い。
そして『咄』の文字のように、口から出まかせではなにしても、
自由で気楽な夜咄の機会を与えられたことに、
深く感謝したい。・・」


はい。私はパラパラ読みで申し訳ないのですが(笑)
読むよりも安い古本を買うのが楽しみなので、
つぎに
林屋辰三郎編『歴史のなかの都市』(日本放送出版協会)
林屋辰三郎対談集『聚楽の夜咄』(淡交社)
とそろえて
本棚には
「日本人の知恵」(中公文庫)と
「日本史のしくみ」(中公文庫)と
「現代の大和ごころ 新・国学談」(角川文庫)
といっしょに並べております。

はい。本はいつでも、開いてくださいと
待っていてくれるのに、私は読まない(笑)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小京都。豆京都。

2020-02-28 | 京都
山崎正和著「室町記」のなかに、3頁ほどの
「小京都・豆京都の成立」という文がありました。
島根県津和野に伝わる鷺舞の歌が
引用されて、はじまります。
そのあとを引用。

「毎年7月、弥栄(やさか)神社の祭礼の行事として、
二羽の鷺が舞ひながら静かな山陰の町並を練り歩いて行く。

弥栄神社といふ名前からも推察されるように、
この祭の遠い先祖は京都八坂神社の祇園会である。

祇園祭は祭神ともども大内氏によってまづ山口へ移され、
そこから大内氏の重臣であった吉見氏によって津和野へ
もたらされた。京都の祇園祭は今では山鉾の渡御だけが
知られてゐるが、江戸時代まで鷺舞はこの祭に欠かせない
ハイライトであった。それが本家の京都でも山口でも
廃れたのちに、この山陰のひなびた町にひっそりと
古い姿を残したのである。」
(p284~285「山崎正和著作集4」)

このあとに、こうありました。

「いはば大内氏は『小京都』の建設をめざしたわけだが、
同じ趣旨の町造りが行なはれたのは山口ばかりではなかった。
一条家が造った土佐の中村や、朝倉氏が越前に開いた
一乗谷の城下町は有名であるが、そのほかにも建築や祭礼に
京都を写すことは全国的な流行であった。
津和野の鷺舞の場合のやうに、『小京都』がさらに写されて
孫にあたる『豆京都』を生むこともあった。
応仁の乱で武士たちは本来の京都を政治的に奪ひあふ一方、
それぞれの領国にその雛型を文化的に再現しようとした。
・・・・・」(p285)

林屋辰三郎氏は、こう指摘されておりました。

「・・京都文化は、分身を全国につくり、
単なる中央でない日本文化として成長したのである。
従って日本文化は、じっくりと
京都に研究の焦点を定めないかぎり、
完全に理解することが出来ないであろう。
日本文化の研究が京都から生れる所以である。」
   (p11「京都文化の座標」人文書院・昭和60年)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都への修学旅行。

2020-02-27 | 地域
いよいよ。
林屋辰三郎著「京都」(岩波新書・1962年)を手にする。
はい。昨日届きました。本1円+送料350円=351円。
書肆吉成札幌IKEUCHI GATE6店より。

はい。『はしがき』は、こうはじまります。

「春は花、いざ見にごんせ東山、色香競(あら)そう夜桜や
とうたわれるように、京は四季のうつりにつれて、
それぞれの季節に応じた名所がある。・・・・」

この次の頁に

「わたしは京のなかに、
こうして四季を求めることができるなら、
どうかして一年の四季よりも、千年の古都という
その歳月を、京のなかでさがし求めてみようと、
いつのころからか考えていた。・・・・・
その可能性はおそらく日本中で、
京都だけがもっているものではなかろうか。」


はい。パラリとひらき「六道さん」の箇所を引用。

「京都の中京の人々は、毎年盂蘭盆になると
四条の橋をわたり大和大路を南に折れて、
さらに東へゆるやかな松原坂を上って六道まいりをする。
 ・・・
わたくしは両側に並ぶ切子燈籠やお供えの槇(まき)を
うる屋台店をぬいながら、精霊の迎い鐘をたよりに
松原坂をゆっくり上って行く方がたのしい。

坂の北側に古びた赤門のみえるのが、
六道さんの名で親しまれた珍皇寺(ちんこうじ)である。
本堂の前を六堂ノ辻といい、冥途の通い路と考えたのだが、
親しい人々を鳥辺野の煙とした京都の人々にとっては、
年に一度の六道まいりで精霊をむかえることを、
千年このかた伝えつづけているのである。・・・・・

境内はとりすました禅寺や門跡寺院とは異って、
まったく地獄・極楽の庶民的世界である。
そうした図絵を前にして絵解きをしたと思われる
雰囲気が、そのままにのこされているのである。

この寺の西には、今は嵯峨の奥に移された
愛宕念仏寺という、念仏三昧の寺もあった。
これらの寺が、庶民たちの魂の故郷ともなったのだ。
しかもこの寺は、京都の人々から盂蘭盆以外は
まったく忘れられている。お盆になると
突如として人が集まるのである。

この六道まいりも、室町時代には町々の人たちが
つれ立って、むかし町に生きた人々をしのび、
かつ今を生きる人たちの親しみをふかめる機会であった。
そこへ行けばそのころはいっそう広かった境内で、
猿楽などもみられたのである。

 ・・・・・・・・
本堂の本尊薬師如来坐像は藤原時代の優作といわれているが、
この寺が思い起こされる日の本堂の雰囲気は、とうてい
美術の鑑賞とはかけへだたった、人いきれの中にある。
いわば本尊の美術的価値をあげつらうのも、ためらわれる
空気が支配しているのである。町の人々が、こうしたなかに
一日を送ることが、盆という休日の理由であったのであろう。

この日に重ねて、おこりは新しいことだが、
清水坂の陶器の店々が市をたてる。
このごろは陶器まつりの名でにぎわい、
六道まいりの帰り客を誘うはずのが、
逆に陶器まつりの帰り客のいくらかが、
六道まいりをするというありさまである。
・・・・」(p115~117)

こうして文章は、つぎに至近距離にある
空也上人の六波羅蜜寺へとすすみます。

ちなみに、
「梅棹忠夫の京都案内」(角川選書)には、
この林屋辰三郎著「京都」の、梅棹さんによる書評が
掲載されておりました【昭和37(1962)】。

この書評で、梅棹忠夫は、こう指摘されております。

「著者の論点のなかで、わたしがもっとも感動したのは、
著者が、『京都はなぜ千年の古都と称しうるか』を
説明した部分である。
応仁・文明の大乱によって、古代都市として京都は、
完全にほろびさった。しかし、王朝の遺跡はすべて、
桃山・寛永のルネッサンスによって復興されているのである。
この指摘は、京都を理解するうえに、
あるいは日本の文化を理解するうえに、
ひじょうに重要な点であろう。」(p86~87)

うん。この梅棹さんの書評でおもしろいのは
「京都への修学旅行の意義」を語っている箇所でした。
最後に、そこを引用。

「ある意味で、京都はそのまま、いきている日本史である。
京都の歴史をかたることは、日本の歴史をかたることにもなる。
ここでは、京都を材料として、日本の歴史がかたられているのである。
この本は、京都という実地に即しながら、日本史へのよき入門書と
してつかうことができる。もともと、京都への修学旅行の意義は、
そういうところにあったのである。生徒たちを京都につれてゆく
役の中学・高校の教師にとって、この本の出現は、おおきな福音に
なるだろう。・・・」(p86)






コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベニシアさんの京都。

2020-02-26 | 京都
古本で200円。ということで買いました(笑)。
「ベニシアの京都里山日記 大原で出逢った宝物たち」(世界文化社)。
写真もありますが、文章が主です。
カバー折り返しに略歴紹介がありました。

ベニシア・スタンリー・スミスさんはイギリス生まれ。
1950年生まれ。1978年より京都で英会話学校を始め。
1996年に大原の古民家へ移住。

文章のはじまりは、曾祖伯父、カーゾン卿が
二度にわたり世界旅行で、日本に二度訪れている。
ということからはじまっておりました。
そのカーゾン卿の京都を語る文章が引用されております。

「初めて訪れた京都については、こう語っています。
『この街は豊かな緑に包まれており、
その趣のある優雅な姿が山間に浮かんでいます。

夜明けに街全体が白い霧に包まれた時は、
寺院の重厚な黒い屋根が、まるで転覆した巨大な船が
海から浮かび上がってくるかのように見えます。
すると、もやの向こうから寺院の鐘が鳴り、
哀愁のある空気が徐々に広がってきました。

日没時には、どこまでも続く町家の格子窓から
温かい光がこぼれ、路上にゆらめいています。
 ・・・・・
町家からは温かい人の声や物音が聞こえてきます。
そして、路上を交差する大きな声や笑い声は、
上空へ響き渡るのです』

このようにカーゾン卿が本の中で書き残したことは、
私が38年前の1971年に初めて京都に到着した日に、
目にし、感じたことと同じでした。・・・」
(p20~21)

寺院の鐘が鳴り。町家の挨拶をかわす声。
物音には、戸のあけしめの音にまじって
物売りの声もあったのでしょうか?
「上空へ響き渡る」という、京都の音を
聞きとっている感性を、思います(笑)。

はい。パラパラ読みの本文からも
すこし引用。

「1990年頃、私は京都の百万遍の近くにある
『梁山泊(りょうざんぱく)』という料理屋さんに、
英会話を教えに行っていました。参加者は、
梁山泊主人の橋本夫妻とアンティークショップの
主人の田澤夫妻、それに京唐紙の工房『唐長』を
営む千田夫妻でした。個性的な六人との週に一度
の集まりは刺激的でした。・・・」(p49)

ちなみに、この文のはじまりは
「我が家の客間の襖が傷んでいました。
襖の前に座って、どんな襖紙を張ろうかと
思い巡らせていると、突然、千田堅吉さんと
郁子さんの顔が浮かんできました。お二人が、
襖や屏風に張る唐紙を作っていたことを
思い出したのでした。」

表具師の山次さんも登場します。

「山次さんは1983年、30歳の時に
表具師の修業を始めました。通常10年といわれている
修業期間を3年にして、独立したそうです。

西陣で生まれ育ち、実家は西陣織の仕事をしていましたが、
山次さんは表具に興味を持ち、この仕事を選んだのです。

独立してしばらくの間は、顧客を見付けるのが難しかったそうです。
日本家屋や伝統的な生活様式の減少により、
表具師の仕事は近年減っているそうです。
山次さんは、表具に使う古い材料を探しに
古美術のオークションに通ううちに、
外国人のコレクターや美術商と知り合うようになりました。
特に英語に自信があったわけではなかったそうです。
彼らと付き合ううちに外国人から仕事が入るようになり、
結局今の仕事のほとんどが外国からの仕事になって
いたそうです。アメリカの青年が二年間、山次さんの
もとで修業したこともありました。山次さんにとっては、
英語の修業になったということです。・・・」(p48)

う~ん。ベニシアさんと京都。
はい。古本200円分の情報はここまで(笑)。

ちなみに、写真・翻訳は梶山正。
その紹介には
「写真家。主に、自然、山岳写真を専門・・・
インドを放浪・・帰国後すぐに本格的な
インド料理レストランDIDIを京都で始める。
妻ベニシアはレストランのお客だった。・・・」

とあります。うん。写真がでしゃばらずに、
文章によく溶け合っているわけです(笑)。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

徒然草の多種多様。

2020-02-25 | 京都
山崎正和著「室町記」をひらく。
はい。パラリ読み(笑)。

「・・室町幕府の200年が、日本に初めて真の
『都市文化』を成立させたと見ることができる・・」

(p235・「山崎正和著作集4」中央公論)
以下を引用。

「平安朝の貴族は京都といふ大都市を建設したが、
そこにはまだ、真の都市らしい多様な趣味の文化は
生まれなかった。

文化は貴族の閉ぢられたサロンのなかに育てられ、
価値の基準も彼らの排他的な好みが唯一のものさしであった。

平家一族はこの都会に武士の権力を持ちこんだが、
教養のうへでは逆にたあいもなく貴族サロンのとりことなった。

だが、南北朝の動乱は、この貴族的な伝統をも十分に残しながら、
しかしその上に武士から農民にいたる多様な階層の趣味を導き入れた。

吉田兼好の『徒然草』を読めば、いかにこの時代の感覚が
多種多様な趣味と倫理に向かって開かれてゐたかが明らかであろう。」

ここに、徒然草が出てくるのでした。
ああそうか。徒然草は、貴族サロン・武士・農民という
多用な階層の趣味へとひらかれた一冊として読めばいいのだ(笑)。

今度、徒然草をひらく時の、着眼点の楽しみがふえました。
そういえば、この本には徒然草をとりあげた2頁の文もありました。
題して『最初のジャーナリスト 兼好法師』。
うん。ここからも引用。

「名文の裏には、いかにも乱世にふさはしい生活の匂ひのする
知恵がちりばめられてゐる。たとへば彼にとって、
友とするに悪いものは第一に『高くやんごとなき人』であり、
続いて『猛(たけ)く勇める兵(つはもの)』『欲深き人』などが並び、
逆に良い友達の筆頭は『物くるる友』だといふのである。

兼好が何で生活をたててゐたかもよくわからないが、
おそらくその毎日はずいぶん不安なものであったと思はれる。
経済的な不如意もさることながら、
生活の中心が明確でないといふことは、
自分がはたして何者なのかといふ疑ひにつながるからである。

いふまでもないことだが、当時の観念のなかには、
まだ『随筆家』などといふ分類はなかった。
法師とはいふものの僧として偉いわけでもなく、
吉田神道の家につながりがあるといっても
神官として身を立てたわけでもない。
和歌は『四天王』のひとりに数へられることもあったが、
あいにく二条、京極、冷泉といふ伝統ある家柄の生まれではなかった。
結局、兼好は有職故実に詳しい学者として生きたのであろうが、
それすらも宮中に官職を持つ専門家として遇されたわけではなかった。

社会的にも精神的にもいはば浮草のやうな人生だが、
その不安がまた、兼好の好奇心を活発にしたとも考へられる。

文明論と生活相談を兼ね、国語問題と木登りの名人の
逸話が同居する『徒然草』は・・・・・・」(p320)

はい。今度「徒然草」をひらく時があったら、
楽しみです(笑)。


さてっと、
林屋辰三郎・梅棹忠夫・山崎正和編の
「日本史のしくみ」(中公文庫)をひらくと
まえがきに、
「この本はもともと・・・昭和46年に・・出版された」
とあるのでした。
山崎正和著作集には最後に書誌があり、
「室町記」の初出が
「『週刊朝日』(昭和48年1月5日~同年12月28日)
52回連載」とあります。

順番としては
「日本史のしくみ」という討論会のあとに
山崎正和の「室町記」が書かれております。

「日本史のしくみ」のあとがきを梅棹忠夫氏が
書かれているので、あらためてそこから引用してみることに。

「昭和44年の暮から、林屋さんのおさそいをうけて、
日本史についての討論会をやることになった・・・・
メンバーとしては、もう一人、山崎正和氏をさそって、
この共同討議に加わってもらうことにした。」

この「あとがき」の最初で梅棹忠夫は
林屋辰三郎氏の着想を指摘して、書きはじめられております。
そこを引用しておかなきゃね。

「歴史というものは、たとえば平安時代とか江戸時代というふうに、
比較的安定した時期を中心に書かれているものがふつうである。

源平の争乱とか幕末の動乱などの変革期は、
むしろ時代と時代との接点にあって、ひとつの時代に
区切りをつけるものというふうに見られている。

ところが見方をかえて、
変革期のほうに焦点をすえると、どういうことになるか。
変化と動揺こそは歴史の常態であって、そのあいだに、
わずかな安定期がはさまっているのだ、
という見方もできないわけではない。そういう見方で、
いっぺん具体的に全日本史を見なおしてみたら、
いろいろ新しいことにも気がついて、おもしろいにちがいない。

というのが林屋辰三郎教授の着想であった。・・・」

はい。
『変化と動揺こそは歴史の常態であって』という
着眼点で、いまげんざいを見てゆくために。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

林屋さんのおさそい。

2020-02-24 | 京都
林屋辰三郎氏の対談を読んでいたら、
私の未読本に、何かあるかもしれない。
そう思って文庫本を見ると、ありました(笑)。

「日本史のしくみ 変革と情報の史観」(中公文庫)。
林屋辰三郎・梅棹忠夫・山崎正和編。

このあとがきは、梅棹忠夫。そこに

「昭和44年の暮から、林屋さんのおさそいをうけて、
日本史についての討論会をやることになった・・・」

とあり、そこでこう指摘されておられます。

「林屋教授は、日本史を古代から近代まで、
幅広く見とおせる、めずらしい型の史家である。
こんどの討論では、全部をつらぬいて、
氏の見識と指導力に全面的に依存することに
なったのは当然のなりゆきといわねばならない。」

こうあるのでした。
見るともなしに、パラリと開くと
最後の方に『復興文化』と題して
林屋辰三郎氏の文が3頁ほどの文を
載せておりました。
そのはじまりは

「歴史の時代は、
しばしば災害によって時期を画される。
その実は変革期の内乱であっても、
庶民の現実的な感覚としては、
戦乱にともなう災害であった。」

うん。3頁を、断片にしてしまうと、
意味が通じなくなるかもしれない。
でも、ここでは断片にたよることに(笑)。

「そこで、災害史観を近代に適用すると、
どういうことになるか。まずその一つに、
大正12年(1923)9月1日、関東を襲った
大震災をあげねばならない。この災害は、
直接的には関東であったが、日本全体に
課せられたといってもよいであろう。
その直後、廃墟のなかで江戸の情緒はもとより、
明治もまた遠くなったことを、人々は実感をもって
味わったのだ。・・・・・

もう一つの画期はいうまでもなく、
第二次大戦=太平洋戦争の戦災だ。
広島・長崎はいうに及ばず、東京大空襲をはじめとして、
全国の主要都市はほとんど焦土となった。
それから25年、われわれは現在、
復興ということを感じさせない、全く
新しい現代文化のなかにある。
しかし少し考えてみれば、やはり
現代日本は復興文化の国ということになろう。

日本は名にし負う災害国である。
その上の戦災国である。
災害には必ず復興をともなう。
日本人にとって復興は、
生きるための条件であったともいえる。
毎年の恒例のように襲ってくる台風、
忘れたころにやってくる地震、
そうした被害への対応は、
全くねばり強い繰り返しの復旧作業である。

日本人の生きがいは復興にあるのかもしれない。
そして災害という一歩後退と、復興という二歩前進
のなかで、日本は進歩してきた。いわば
文化創造の旗印として復興があったといえるだろう。

しかしそのような文化の基本的性格は、
変革的というよりも保守的な漸進性に貫かれており、
古く滅びたものを典拠とする古典性によってささえられている。
京都などはその典型ともいってよい都市である。

たとえば王朝文化というものも、
数をかさねた内乱で完全に滅んだはずだが、
桃山の復興文化として現在の京都に残され、
一応のムードだけは味わえるというたぐいである。

日本人は口でいうほどに史跡や文化財を
尊重しているとは思われないが、現実の生活環境
のなかに歴史がつきまとっているのだといえよう。」
(p201~202)

うん。昨年の台風15号・19号のことを
思い浮かべたりしてしまいます。
そうそう。中公文庫には『日本人の知恵』もありました。
林屋辰三郎・梅棹忠夫・多田道太郎・加藤秀俊。
この4人連名の「あとがき」(昭和37年)には

「こういう共同討議の企画を、だれが最初に思いついたか、
わたしたちは知らない。それは○○学芸部のだれかであって、
メンバーも、その指名によってきまったのであった。
わたしたちは、みんな京都に住んでいるけれど、
必ずしもまえからの知りあいではなく・・・・
ところが、討論をはじめてみると、どういうわけか、
みんなひじょうに気があった。

みんな忙しいものばかりだが、この会にかぎって、
出席率はたいへんよかった。98パーセントくらいに
なっただろう。会場は・・京都岡崎の『たき本』の一室に
固定してしまった。会合は5時頃からはじまる。
途中で食事をはさむが、議論はたいてい11時すぎまでつづく。」
(p242~243)

はい。梅棹忠夫を昨年は読もうと思った。それが
はじまったばかりの中途半端な読書なのに、
興味は、林屋辰三郎の本へふれてゆく(笑)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ふすまに絵を描く。

2020-02-23 | 京都
身近に本を置き、時にパラパラとめくる。
というのは、何とも贅沢ですね(笑)。
図書館に行くという手もあるのですが、
なんせ田舎なもので、時間も手間もかかる。
ネットで簡単に安価な古本が手にはいると、
贅沢も安上がりにできる。これが嬉しい(笑)。

さてっと、林屋辰三郎対談集
「聚楽の夜咄」(淡交社・1994年)は、
本100円+送料350円=450円という
ネットでの贅沢。うん。これを手にして良かった。
ここから、いろいろな本へ結びつく予感(笑)。

それはそうと、この対談集に山崎正和氏との
対談が掲載されておりました。紹介文を
見ると、山崎正和氏は京都府生れなんですね。
さて、この山崎氏の対談の最後を引用したくなります。


林屋】 これは面白い人物ですね。
(足利)義政なんていう人は、歴史の上で
だれも弁護する学者はおりませんなあ。
応仁の乱という京都の三分の一が灰になった
大乱に背をむけて、お茶だ能だと遊び呆けて
いたというので、徹底的に悪者にされてしまった。
しかし、そういう見方は一面的だと思うね。

山崎】 幸か不幸か
日野富子という強い奥さんを持ったので、
政治の現実面は奥さんにぜんぶまかせて、
彼は幕府の公家化を意識的にやったような
気がしますね。武士たちは公家文化に弱いから、
公家文化の中心に自分をおくことで、
情報交換の場を提供したり、武士の争いにたちまじって、
調整機能を果たそうとしたんじゃないか。・・・・・

林屋】 とにかく、あの時代はもう政治的には
どうにもならんようになった。守護が大きくなって、
それが互いに抗争している。もちろん、それをおさえるべき
義務は義政にあるにちがいないけれど、
もうなるようにしかならんというところまで
追い込まれているわけですからね。
政治的には無能力者かもしらんが、
一人の人間としてみた場合、立派だと思う。

東山の山荘に同仁斎という茶室を設け、
や猿楽者たちと対等なつき合いをする。
文字通り一視同仁です。
これは普通の貴族や武士にできることではありませんよ。
後小松さんの時宗への関心と共通するとことがあります。

山崎】 
現実に彼と同じ状況におかれた人物を考えますとね、
最後の足利将軍、義昭でしょう。義昭はちょこまか動いて、
あちらへ行っては唆(そそのか)し、
こちらへ行っては謀反をすすめる、
権謀術数のかぎりをつくしますね。
なにもしない義政とまさに対照的です。

まあ、義昭・・・・動くことで幕府をつぶしてしまった。
足利幕府があれだけ続いたのは、
義政が幕府を一種の『朝廷』にした
からではないでしょうか。それに義政のまわりに
集まった文化人は第一級の人物ばかりですよ。

林屋】 現在のわれわれの生活の基本になることは、
ほとんど義政の時代にできたんですね。床の間や違い棚、
それにふすまに絵を描くというような
美的な感覚の中で生活するというのは、
みんな義政がはじめたことです。

義政くらい日本人の生活を豊かにした人はいません。
日本人の生活文化史でいちばん高く評価せねばならない。

山崎】 その美的生活の規範が、
後に越前の朝倉から、山口の大内氏にいたるまで、
全国の守護大名の間に広がって行った。
地方に点在する小京都の中身は
だいたい東山文化ですね。

林屋】 そうです。

山崎】 
国家というのは、政治と文化の二重の層からできています。
義政が政治的にいくら奔走しても、応仁の乱は長びくばかり
だったでしょう。そこで政治という層で活躍することを
放棄して、文化の層で国家を統一しようとした。

義政の美的生活に憧れた大名たちは、
それを通じて政治的にも義政に呪縛されたといえるわけです。
なんというか、将軍の生き方に新しい構想を示した人
だといえばいいんでしょうか。
 ・・・・・・・・・
 
林屋】 当時の人には、おそらく誰も
あの心はわからなかったね。
五百年後のいま、はじめて義政の心が
理解されたということでしょう(笑)。


はい。林屋辰三郎・山崎正和対談の
最後を引用しました(p104~106)。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東福寺と書斎。

2020-02-22 | 京都
森浩一著「京都の歴史の足元からさぐる」(学生社)。
「洛東の巻」「洛北・上京・山科の巻」「北野・紫野・洛中の巻」、
以上三巻を、何となく手元に置いております。

わたしは、まえがきを読むだけですが、
それだけでも、いろいろ考えさせられます(笑)。

第1巻目の「はじめに」の最後は、2007年5月1日とあり、
「東福寺を借景にしている書斎にて 森浩一」とある。

第2巻目の「はじめに」には
「いま、ぼくは東福寺の境内を見下ろす書斎でこれを書いている。
・・・本の山はときどき片付けて小さくなりはするが、2,3日もたつと
また高い山になる。これからもこの状態は続くだろう。
なおこの部屋には冷暖房の装置はつけていない。
冷暖房をいれると頭の動きが鈍る。以上のことを書きそえて
『はしがき』を終えることにする。  2008年2月15日 森浩一 」

ちなみに、この第2巻に、

「禅宗の法堂は本堂というより、
僧たちが問答をする講堂の役割があると常々おもっている。
毎月一度は、東福寺の法堂から僧が問答をする大きな声が、
ぼくの書斎まで聞こえてくる。」(p195)

はい。つぎは第3巻目です(笑)。
「はじめに」の最後の日付をみると、2008年7月17日とある。
では引用。

「ぼくの誕生日は7月17日である。この日は祇園祭の
山鉾巡行の日で・・・今年の7月17日でぼくは満80歳になる。
 ・・・・・
今、近所を歩く僧侶の托鉢の声がとどいてきた。
月に一度ほど、数人で組んだ托鉢の僧が回ってくる。
妻はいつも心付を渡している。
今の時代、修業をつづける若者は珍しく、
激励しているのであろう。

托鉢の声をかき消すように、
書斎の軒先に釣り下げた風鈴が涼しそうではあるが、
鋭い音をひびかせ始めた。先日、仕事場近くの寺町通りで
求めたガラス製の風鈴だが、なかなか音色がよい。

托鉢の低音にたいして高音といってよさそうな
風鈴のかもしだす音のハーモニーに、
しばらく執筆の手を止めてしまった。
これもある種の仏教音楽である。
続きは仕事場で書こう。・・・」

ちなみに、「はじめに」の最後は
「御幸町の仕事場にて 森浩一」とありました。

検索すると、考古学者の森浩一氏は
2013年8月6日85歳で亡くなられております。

もどって、「京都の歴史を足元からさぐる」の
第1巻目が「洛東の巻」からでした。

「わが家と東福寺の間は、ブロック堀があるだけである。
二階にある書斎からは東福寺の伽藍の屋根の甍を見下ろせる。」
(p20)

うん。第1巻目の「はじめに」をあらためて引用しておくことに。

「・・・いま78歳の半ばにきている。・・・・
5年ほどまえから腎臓と心臓を悪くし、
人工透析をうけ胸にはペースメーカーをいれながら
の生活になり、病院ですごす時間が多くなった。
 ・・・・・・・・・
そのような制約があるなかで出来ることとは何か。
のこされた時間を集中するにふさわしいことは
何かを模索した。

ふと気がつくと『京都の歴史を足元からさぐる』ことが
のこされている。このことは地域史の総集としても
やっておくべきことになりそうである。

それと日本とは何かとかアジア各地との関係も、
京都のどこかでふれることもできそうだと考え、
手始めにわが家の近くの東福寺から書きだした、
というのがこの本の誕生の契機である。

だから足元から少しずつさぐりだした、
というのがいつわりのない気持であるし、
やりはじめるといままで知らなかったことが
ずいぶんわかってきた。
こういう機会が生まれたのは幸運だった。」

はい。「洛東の巻」の目次をみると、
第一部「わが家の足元から京都を見る」。
その1章が「家から歴史をたどる」
その2章は「東福寺をめぐって考えること」
その3章は「稲荷山への信仰」
・・・・という具合にはじまっておりました。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

僧が読経を始め。

2020-02-21 | 京都
森浩一著「京都の歴史を足元からさぐる」(学生社)
の北野・紫野・洛中の巻をパラパラめくっていたら、
「大報恩寺・千本釈迦堂」の箇所が気になりました。

まずは、地理の引用から(笑)

「大報恩寺は千本通と七本松通の中間にあって、
周囲を民家ですっかり囲まれているが、もとは
東が千本通までの大寺だったと伝えられる。」

うん。この記述が鮮やかなので、もう少し引用(笑)

「千本釈迦堂の名で親しまれているが、
北野釈迦堂ともよばれるように北野の地に含まれている。
北野天満宮の東約400メートルのところにある。
引接寺の南にほど近いところでもある。

応仁の乱の主戦場の西陣に近いのに、
安貞元年(1227)年に建立された本堂(いわゆる千本釈迦堂)
が今日まで伝えられたのは、奇跡といってよかろう。
この寺も応仁の乱の兵火によって他の堂は失われたが、
幸い釈迦堂だけがのこったのである。
この建物は東寺の校倉(あぜくら)を別にすると、
旧京都市域での最古の建造物でもある。

ぼくは何度もこの建物を見るために訪れていて、
重厚さとともに気品のある建物を眺めていると気持ちが落ち着く。」
(p148~149)

はい、まだ続くのですが、これくらいにして、
本題へと近づいてゆきます(笑)。

「いつもは扉が閉ざされているが、
ぼくが訪れた12月8日の大根焚(だいこだき)の日は
釈迦が悟りを開いた成道会(じょうどうえ)でもあったので、
厨子の扉は開けていて、像のお顔を拝むことができた。
 ・・・・・
ぼくはお堂の外陣(げじん)に座って、
しばらく釈迦如来像を凝視していた。
すると特別祈祷を頼んだ人たちが
やってきて、僧が読経を始めた。

それにあわせて若い僧が打つ太鼓の音は
なかなか高音で、リズム感もよく、
ジャズバンドが顔負けするほど元気があった。

お寺でこれほど威勢のよい読経に
接したのは初めてであり、仏教音楽についての
認識を一つもつことになった。」
(p150)

はい。このあとに森浩一さんは
「先日、林屋辰三郎氏の対談集『聚楽の夜咄』を読んだ」
とあったのでした。そこに語られている司馬さんの
指摘を確認したくなり、
ネットで『聚楽の夜咄』を注文したのでした。
さて、森浩一さんが引用している前後を
じかに対談集で読めることができました。
その対談集からの引用をして、おわります。

司馬】 室町時代、叡山の坊さんが坂本で
声明(しょうみょう)を勉強している所に、

京都の物好きの
声がよくて耳の良い人が習いに行って、
京都の町で町の者に教える。
そうすると歌謡のもとになる
というのは本当ですか。

林屋】 これは芸能史の大発見ですね(笑)。

司馬】 僕はなんとなく日本の民謡は声明から
始まっているような感じがするんですが。

林屋】 そうですね。
後白河さんの『梁塵秘抄』がやっぱり原点でしょうね。
これもやはり声明から入っていますしね。
またいろんな世俗の歌も入っていますし、出てきます。
まあ、近いところでは『閑吟集(かんぎんしゅう)』になりますけど、
『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』の『このごろ京に流行るもの・・・』
でしょうね。言い方でいろんな社会風刺をしてるでしょう。
おそらくもとは、声明的な歌の言い方から来たものなんでしょうね。

声明については、まあもうその頃には
『聞くに可笑しき経読みは・・・・』という、
やっぱり『梁塵秘抄』の歌の言いかけがありますが、
聞くに可笑しき経読みちゅうんですから、
お経を読んでいるのを聞いていると
誠に妙(たえ)なるものがあるというわけですな。
・・・・・・(p20)


うん。「門前の小僧習わぬ経を読む」から
一歩も二歩もすすむと、
「京都の物好きの声がよく耳の良い人が習いに行って」
ということになるのでしょうか?
うん。司馬さんの指摘は、鮮やかな場面を思い浮かべます。
はい。京都の音が、深堀りされてゆきます(笑)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三日月様と、土佐の女の子。

2020-02-20 | 手紙
引用の孫引きになりますが、
坂本龍馬全集の内容見本に
司馬遼太郎が書いているそうです。

「・・散文家のなかでも吉田松陰は紀行文においてすぐれ、
・・龍馬は書簡という、特定の相手に対する文章において
すぐれているといえるであろう。とくに乙女や姪の春猪に
書き送ったものは、江戸期の人間の感覚というよりも、
近代文学の成立以後の文章感覚のようで、
対人的な形式や文章の規矩準縄から、
生来縁の薄かったかれのような人物に
よってのみ書かれたものであろうかと思える。」

はい。私は龍馬の手紙を読んでいないなあ。
それでも、高知の女の子については、
面白い本で出会っておりました。
あらためて引用したくなりました。
それは、内村鑑三著
「後世への最大遺物 デンマルクの話」(岩波文庫)。
そこに、土佐の女の子が登場しているのでした。
以下その箇所を思いだしたように引用(笑)。

「私は高知から来た一人の下女を持っています。
非常に面白い下女で、私のところに参りましてから、
いろいろの世話をいたします。ある時はほとんど
私の母のように私の世話をしてくれます。

その女が手紙を書くのを側(そば)で見ていますと、
非常な手紙です。筆を横に取って、仮名で、
土佐言葉で書く。・・ずいぶん面白い言葉であります。

仮名で書くのですから、土佐言葉がソックリそのまま
で出てくる。それで彼女は長い手紙を書きます。
実に読むのに骨が折れる。しかしながら
私はいつでもそれを見て喜びます。

彼女は信者でも何でもない。
毎月三日月様になりますと、
私のことろへ参って、

『ドウゾ旦那さまお銭(あし)を六厘』という
『何に使うか』というと、黙っている。

『何でもよいから』という。
やると豆腐を買ってきまして、
三日月様に豆腐を供える。

後で聞いてみると
『旦那さまのために三日月様に
祈っておかぬと運が悪い』と申します。

私は感謝していつでも六厘差し出します。
・・・・私はいつもそれを喜んで供えさせます。

その女が書いてくれる手紙を
私は実に多くの立派な学者先生の
文学を『六合雑誌』などに拝見するよりも
喜んで見まする。・・・」(p47~ )

こちらは、明治22年の講話で語られたものです。
はい。この女の人は、どのくらいの年齢なのでしょう?

土佐の女の子とすると、私はイメージがふくらみます。
うん。高知県の浦戸に育った西原理恵子さんなんて、
いくら年を重ねても、いまだ女の子としておきたい(笑)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都に行って帰ってくると。

2020-02-19 | 京都
注文したあった林屋辰三郎対談集
「聚楽の夜咄」(淡交社・1994年)が、
今日届く。本100円+送350円=450円。
ハートフルブック埼玉からでした。

はじまりは、司馬遼太郎との対談でした。
うん。さっそく引用したくなる箇所があり(笑)。

司馬】 随分古い話ですが、
 昔、讃岐のあたりで
文部省の役人の人と会った時、
四国の各地で偏差値が違うのは
どういうわけですかと聞いたんです。

まあ、四国は四県が鮮やかに違うんです。
偏差値の高い低いが良い悪いではありませが、
高知県が全国でビリから二番目、
愛媛県がトップから二番目くらいなんです。

隣国でこんなに違うのはどういうわけですか
と聞くと、『お寺の数だと思います』と言うんです。

高知県は、非常にお寺の数が少ないんです。
そして、もともと少ない上に明治以後、廃仏毀釈を
真面目にやりましたから余計に少なくなっている。

愛媛県は昔から一村に浄土宗がある、
浄土真宗がある、時宗がある、禅宗がある、
と一か村に沢山のお寺がありました。

林屋】 八十八か所もある。

司馬】 江戸時代、お寺のお坊さんの跡継ぎが
京都に修行に行くことについては、
各藩ともそれだけは許している。
薩摩藩も許していますよね。
また、聖護院に山伏の修行に行く。
それだけは藩外に行くのを許しているんです。

京都へ行って帰ってくるとお行儀が良くなりますでしょ。
障子は足で開けるなとか。当たり前のことなんですけれど、
それをまず庄屋階級が見習って、次に大百姓が見習って、
ずうっと、規則正しい生活ができていくんです。

つまり朝は何時に起きて、朝御飯は何時に
こういうスタイルで、ということが代々
お寺の若僧さんが京都に行って身に付けてきた
お行儀の真似をしていって自立的になったんだと
言うんです。

で子どもが、テレビは一時間見て後は勉強、
というようになったんだと思いますというのが、
その文部省の古い役人のね、お寺の密度と
全部重なっていますという意見なんです。

林屋】 なかなかよく見て。

司馬】 実務者の見方で面白いでしょう。
これは京都が光の源、つまりお行儀という
文明の一貫した光源だった。

だから田舎の三年、京の昼寝三日とか、
京都で三日ほど昼寝しているだけでも
田舎で三年勉強しているより値打ちがあるんだ
という諺ができるのは、京都にお坊さんが修行に
行ったら全然違う人になって帰ってきた。
そういうことが我々の知らない明治以前の京都
というものの有難さだったんじゃないですか。
(p17~18)

はい。ここまで引用してきたのですが、
高知県に失礼になるかもしれません。
それは、司馬さんの本位ではないので、
そういえば。と思い出す本を本棚からとりだす。

司馬遼太郎著「『昭和』という国家」(NHK出版・1998年)
この第12章は「自己解剖の勇気」と題しておりました。
そこからも、忘れないように長めに引用しておきます。

「前回も言いましたが、右から左から、東西南北、
日本どこを問わず、偏差値ばかりです。・・・・

私は坂本龍馬の国の、土佐のことをずいぶん書いた
ものですが、高知県というのは全国の最下位に近いんですね。
おもしろい、非常にダイナミックなものの考え方のできる
風土と土地だと思うのですが、偏差値教育の場では
最下位に近いんです。

お隣の愛媛県は最上位に近い。
同じ四国のなかでどうしてこれだけ違うんだろう。
きっと土佐の人間には偏差値という社会が
合わないのではないかと思うぐらいです。

一人の女の子がいましてですね。その女の子は
高等学校を出たばかりの、高知の子です。

彼女は言います。全く偏差値社会と関係ない子でして、
こんなことよく言います。『日本という国は息苦しい』と。
どこかの国の人と結婚したい、
もう日本の社会は私にはあわないという。

高知の子であります。
高知という、おおらかで、ダイナミックで、
そして潔いところのある県はですね、
おもしろい人をたくさん生みました。

革命家だけではなく、自由民権運動家だけではなく、
高知県には明治以後、名文家が多うございました。

漱石が可愛がった寺田寅彦という物理学者がいますね。
あるいは大町桂月もいます。非常に文章のうまい人が
多いところですが、そういう知的な作業においても、
おもしろいものを持った県が、どうして日本の事務局長
養成型の偏差値社会に合わないのでしょうか。

これは大きな何かを暗示していることだと思うんですね。
・・・・言いっぱなしにしておきましょう。
・・・・若い人がもし聞いてくださっていれば、
その人が考えたらいい。その人が考えることであり、
私はちょっと宿題というよりも、かすかなヒントを
一人しゃべりでしゃべっているだけであります。
・・・・長らく聞いてくださってありがとうございました。」
(p183~185)

愛媛県のつぎに、高知県を出して、
ここまでにします(笑)

ところで、古本を送ってくださった
「ハートフルブック埼玉」からの文が入っておりました。
それを紹介しておきます。

ハートフルブック埼玉は
「障がい者就労継続支援A型事業所 オークタウン」
と詳しくなっておりました。
「ご寄贈ください。着払いでお送りください。」
とあります。詳しくは
「ハートフルブック埼玉」で検索できるようです。





コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

情報の自主トレーニング。

2020-02-18 | 道しるべ
中国発の新型コロナウイルス感染では、
まずは、情報を聞けないのが、不安材料となります。

さてっと、最近はユーチューブにて、
文化人放送局を毎日見ております。
情報の材料にはこと欠かず(笑)、
情報弱者の不安は解消されるような、
そんな気になります。

う~ん。思いついて
板坂元著「考える技術・書く技術」(講談社現代新書)
をひらく。そこに『材料あつめの段階』という箇所がある。
その箇所を引用。

「料理のコツというものは、けっきょくは、
包丁さばきとか味つけではなく、
よい材料を使うということにある。

おそらく、料理のよしあしの80パーセントは
材料によって決まる、といってさしつかえは
あるまい。ものを考えたり書いたりする頭の活動も、
料理とおなじように、材料のよしあしが
半分以上は決定的な力をもっている。
どんな分野でも、できるだけ立派な資料を、
できるだけ豊富に仕入れることが成功の秘訣である。」
(p48)

うん。あとは、この情報をどう選んで
料理していくかを考えます。
はい。私はときどき、ブログをアップされる方々の
料理をつくったり、お店の料理を写したりする
ブログをひらいては、見させてもらってます(笑)。

さらに、私自身が60歳を過ぎてからは、若い方よりも、
60歳以上の方々のブログを励みとして見ております。

ということで、今度読み直した板坂さんのこの新書に
『六十の手習い、年よりの冷や水』という言葉があった
ので、最後にそこを引用しておきます。

「できるなら楽器やタイプライターを与えて、
符号と道具を使って目と耳と指を同時に
働かせる訓練をすれば、頭のはたらきの
スピードは、ますます早くなる。

・・・・あつかうことによって脳の老化は防げるようだ。
六十の手習い、年よりの冷や水とはいうけれど・・・・

くり返していうが、頭のよしあしなどというものは、
つねに変化するもので、自分の身辺にいくらでも
トレーニングの手段は転がっている。よしあしは、
その手段を見つけてトレーニングをマメに実行するか
老朽化にまかせるかによる。
学歴とか教師の差などというものは、
九割がた関係はない。・・・・・

学校教育も信じられているほどには
役に立つものではない。ただ、
とりえといえばそれぞれの才能が伸びて行くのを、
応援団のようにはげましてくれる点だけだろう。

平凡な結論になるが、つまるところは、
自主トレーニング次第ということになろうか。」
(p33~34)

はい。このGOOブログで、
「いいね」「応援」「続き希望」「役立った」という欄があって、
そこに、数字が加算されるたび、なんだか、
応援団に、励まされるような気分になる、この頃です(笑)。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都で親鸞と。

2020-02-17 | 京都
司馬遼太郎・林屋辰三郎『歴史の夜咄』(小学館・1981年)。
この本は、のちに小学館ライブラリーでも出ておりました。

単行本は、ゆったりと読めます。文庫サイズの、
ライブラリーは、そこに写真をふやしています。

はい。単行本の古本は、
赤ペンでの線引きが、ところどころにあって、
熱心に読まれた痕跡が残っておりました(笑)。

各雑誌に掲載された対談をまとめた一冊。
そこに、2つの対談を更に加えて本書にしたと、
最後にあります。その本書のための特別対談
に『フロンティアとしての東国』がありました。
今日紹介するのは、この対談からです。

うん。どこから引用したらよいのか。
たとえば、ここから

司馬】 当時、西日本の非常に人口の多い社会では、
善悪さだかならざる状態で暮らしていました。

そのなかにあって関東の登場というのは、何にもまして
倫理的華やぎであったろうと思います。・・・・・

いままでは武士という言葉でかたづけるから、
本質がどこかへ行ってしまうので、
私は前から言っているんです。
あれはたんに農場主なんだと。それも、
できれば開墾農場主とか新興の農場主という
言葉にすればいい。 
(p163・単行本の頁数)


司馬】 ・・・・京都のお公家さんが形式的に
坂東に土地を持っているんだというのは、リアリズムじゃない。
自分が開いた土地は自分のものだ、というリアリズムの確立は、
鎌倉の芸術や宗教に、非常に大きな影響を及ぼしていますね。
強烈なリアリズムだったと思います。・・・・(p165)

はい。うまく紹介できないので、真ん中を飛ばします(笑)
つぎは、歎異抄を語る箇所を引用。

司馬】 『歎異抄』の成立が東国ですね。
『歎異抄』という優れた文章日本語をあの時代に持って、
いまでも持っているというのは、われわれの一つの幸福ですね。
非常に形而上(けいじじょう)的なことを、あの時代の話し言葉で
語れたということは坂東人の偉業だったと思いますね。
 ・・・・・
『歎異抄』というのは、いかにもまた東国のフロンティアの
においがありますね。親鸞が東国へ流されます・・・・・
京都へ帰りましたら、また坂東に・・雑想が芽生えてくるわけです。
・・・疑問になってくる。

それで東国から代表者たちが押しかけてきて、
京都で親鸞と一問一答するわけでしょう。
これは当時の農民の民度からいえば非常に高級なことです。
それを親鸞がまともに受けて答えているからいいんですね。
 (p175)


さて、このあとに司馬さんが語る『京都』がありました。
引用をつづけます。


司馬】 ・・・それをまとめたのが『歎異抄』で、唯円坊という
のが質問の筆頭人で、後に文章にした人だと思うのですが、

これが京都の人なら、
同時代の京都の人が疑問を持っても、

『ああ、わかりました、わかりました』で、
帰っていくと思うのですよ。あるいは
『わからんけれど、まあよろしい』と、
いいかげんにすると思うのです。
いいかげんにする文化が西にはあるんです。

あまり本質をほじくり出すのはえげつないという、
それは差しさわりがあるなどと。
 
林屋】 そうですね。

司馬】 これは人口の多い所には必ずある現象ですが、
坂東は人口の少ない所ですから、人と人とがほんとうに
向き合って接触するときには、対決の形をとる。・・・・・・・

それは武家の親類どうしで土地争いをする場合には
訴訟ということになりますが、その訴訟は
平安末期から鎌倉幕府成立前後の風土です。
だから自分の主張を言葉で表現する。
そしてあくまでも通すというのが、坂東の精神だったわけです。
フロンティアの精神ということでかさねあわせると、
そういうことになる。

そういう土のにおいのする中から日蓮が出たり唯円坊が出て、
たとえば『歎異抄』という文章日本語の名作を残したりしたわけで、

かんじんの関西の本願寺さんは、
『歎異抄』を明治まで隠していたんですね。
『これは見せたらいかん。こんなに明快なものを見せると、
門徒衆はありがたがらんようになる』と。
そのぐらい、『歎異抄』は大げさに言えば人文科学的なものです。
そういう精神は、鎌倉幕府の成立前後は
坂東にみなぎっていたんだろうと思います。
(~p176)

古本を読んでいたら、いつのまにか、
京都と関東の関連へとひろがります。

う~ん。司馬さんと歎異抄といえば、
私に思い浮ぶ短文がありました。

「・・・やがて、学業途中で、兵営に入らざるを
えませんでした。にわかに死についての覚悟を
つくらねばならないため、岩波文庫のなかの
『歎異抄』(親鸞・述)を買ってきて、音読しました。
 ・・・・・・・・
『歎異抄』の行間のひびきに、
信とは何かということを、黙示されたような
思いがしました。むろん、信には至りませんでしたが、
いざとなって狼狽することがないような自分を
つくろうとする作業に、多少の役に立ったような
気がしています。・・・」

これは、司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」
にある、「学生時代の私の読書」(単行本4ページほど)
にあります。その同じ本には、
「日本仏教小論 伝来から親鸞まで」があり、
そこにも引用しておきたい箇所がありました。
最後にそこからの引用。

「日本仏教を語るについての私の資格は、
むろん僧侶ではなく、信者であるということだけです。
不熱心な信者で、死に臨んでは、伝統的な仏教儀式を
拒否しようとおもってる信者です。・・・・・

ただ私の家系は、いわゆる『播州門徒』でした。
いまの兵庫県です。17世紀以来、数百年、
熱心な浄土真宗(13世紀の親鸞を教祖とする派)
の信者で、蚊も殺すな、ハエも殺すな、
ただし蚊遣(かや)り(smudge)はかまわない、
蚊が自分の意志で自殺しにくるのだから。
ともかくも、播州門徒の末裔であるということも、
私がここに立っている資格の一つかもしれません。」











コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

下京。西洞院通り散歩。

2020-02-16 | 京都
本は、まえがきと、あとがきと、目次とで、
読むのをヤメてしまうばかりの私です。

こん回も、ほんのはじまりを齧ります。
山折哲雄著「法然と親鸞」(中央公論新社・2011年)
その序のはじまりの箇所を引用。

「・・私は京都に居を移して、もう20年を超えている。
いまは縁あった洛中の下京に住みついている。・・

その下京で、私はときどき散歩を楽しんでいる。
あるときのことだった。住まいから5,6分ほど歩いて
西洞院(にしのとういん)通りを下り、
高辻通りの辻を曲がったとき、

そこに大きな石碑が立っているのに気がついた。
近づいてみると、『道元禅師御示寂之地』と
書かれているのが目に入ったのだ・・・・

道元は晩年病をえて、越前の雪深い永平寺を発って
生まれ故郷の京都の地にやってきた。
養生のため身を寄せたところが、
この下京だったのである。それが、いま私の住んでいる
ところからわずか5、6分の場所である。

だが、道元の病はついに癒えず、
ふたたび越前の山に帰ることはできなかった。
碑の前にたたずんでいるとき、
道元の無念の思いが伝わってくるようで、
立ち去りがたかったのである。

しばらく経ってからだった。
道元の碑のあたりから同じ西洞院通りを
南に歩いていって、松原通りにぶつかった。
これも家から7,8分ぐらいのところであるが、
その辻を東に入ったすぐのところに石碑が
立っているのが目についた。近づいてみると、

『親鸞聖人御入滅之地』
と刻まれていた。
私は、そのあまりの近さに驚いた。・・・

家にもどって『年譜』をくってみると、
親鸞が遠く離れた関東の地から京都に帰った
のが嘉禎元年(1235)のころとされている。
63歳になっている。

それにたいして道元が中国留学から帰国し、
伏見の地に興聖寺(こうしょうじ)を開いたのが
天福元年(1233)、34歳のときだった。

とすると、この時期、親鸞と道元は京都を中心に
生活の場を定めていたことになるだろう。
二人はもしかすると、
いま私が住んでいる下京で西洞院通りを歩き、
すれちがっていたかもしれない・・・・。」(p7~9)

はい。私の読書は、ここまで(笑)。

夢の中で、私が西洞院通りを散歩していると、
親鸞と道元と、そのどちらかと、私はすれ違う。
しかも、残念なことに私はそれに気づかない。
そんな夢を見るかもしれない(笑)。

それはそうと、
はじまりを引用したのですから、
本文の最後の頁からも引用することに。


「いま、京都の街に出て歩いていると、
ときとして法然の影が横切るときがある。
歩き疲れて、ふと辻に立つと、どこからともなく
親鸞のいる気配に包まれる。

不意に、中世のざわめきが身近に迫る。
乱の叫びがこだまし、耳を澄ますと
末法の声が地響きを立てている。

法然の
しみ入るような言葉が蘇るのが、そのときだ。
親鸞の
低くくぐもったつぶやきの声が耳朶を打つのが、
そういうときである。

 法然の人生、80年
 親鸞の生涯、90年

法然よ、いずこにいます。
親鸞よ、いずこに去りたもう。 」(p234)


はい。これが本文の最後の頁の全文でした。
そのあとに、法然と親鸞の関係年表がついておりました。

はい。わたしは、本の最初と、最後を開いただけ(笑)。
まるで、本人はちょっとした散歩をしてるような気分。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする