和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

ことばの場を洗う。

2021-04-30 | 枝葉末節
今回は、杉本秀太郎氏による追悼文をふたつ。

杉本秀太郎著『品定め』(展望社・2001年)
杉本秀太郎著『パリの電球』(岩波書店・1990年)

『品定め』に「司馬遼太郎一周忌に」がありました。
そこから、引用。

「五十代半ばに『ひとびとの跫音(あしおと)』という長編がある。
司馬さんの作品中で私はこれがいちばん好きだ。」

「司馬遼太郎の作中にはめったにないことだが、
ここには作者が友として親密に交わった人びとが
相つらなってあらわれる。・・・・・

作者はこれまためずらしいことに、
自分の日常についてしるしていう――
『私事だが、私は大阪の東郊に住んでいる。
一種のっぺらぼうの暮らしで、日記はつけず、
人なかに出ず、友人の数はすくなく、書斎には
五年前にかけわすれた古ごよみがそのままかかっていて、
自分自身のなかを過ぎてゆく歳月については、
感覚が薄ぼんやりとしている』と。

また、この人たちのことを書くのに、曇っていて
『重い湿気が頸すじにかぶさってくるような日』はふさわしくない、
晴れた日を待ち、この連載原稿にとりかかる、と打ち明ける。
もって思い入れの深さを察することができる。」
 (p227~228)


ここに、『この人たちのことを書くのに、曇っていて
・・はふさわしくない、晴れた日を待ち・・』とありました。

司馬遼太郎で、私に思い浮かぶのは「この国のかたち 五」です。
そこに神道が語られておりました。はじまりは

「神道(しんとう)に、教祖も教養もない。
たとえばこの島々にいた古代人たちは、
地面に顔を出した岩の露頭ひとつにも
底(そこ)つ磐根(いわね)の大きさをおもい、
奇異を感じた。
畏(おそ)れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、
みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。
それが、神道だった。

むろん、社殿は必要としない。
社殿は、はるかな後世、仏教が伝わってくると、
それを見習ってできた風である。・・・」


もどって、『パリの電球』に「追悼・石川淳」がありました。
そこにどういうわけか『神の矛先』という言葉がでてきます。

「・・ちっとも古びていないのはその内容である。
茫としていて何もないあたまのなかに、
ことばを一つ投げこむ。そこから事がはじまる。

神の矛先からしたたり落ちた泥土が島のかたちをなしたように、
あたまのなかが宇宙のはじまりと同じさまを呈する。
うごき出したものをたしかめているうちに、
こちらも位置を更めなければ、見ているものが見えなくなる。
はじめにことばありき。それをこういうふうに合点させてくれた人は、
石川さんよりほかにはなかった。・・・・・

はじめのことばが問題である。あわてながら思い直した。
ことばの場を清潔に洗うことが、まずは大事な条件にちがいない。
ことばでことばを洗う・・・・」(p68)


あれ。2冊引用するつもりで、
3冊、引用してしまいました。



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彼のフィールドノート。

2021-04-29 | 枝葉末節
塚本珪一氏は、杉本秀太郎を評して

「・・・『これは彼(杉本)のフィールドノートだ!』と思う。
いわゆる科学者だけのものではなく、文学者、芸術家も
フィールドノートをそれぞれに持っている・・・・・

このようなことは当たり前であるが、博物学とか『自然学』を
背負っているものは自分だけのものと考えがちである。・・」
   (p198「フンコロガシ先生の京都昆虫記」青土社)

この正味4ページほどの、塚本氏が指摘する杉本秀太郎氏への
文が、私のなかに火がともっているような気がしております。
その火が消えないうち、杉本秀太郎へのフィールドノートを
私なりに、このブログで書いておきたいと思います。

杉本氏の本を読んでいると、いろいろな方が登場します。
なんといっても、京都がホームベースとなっております。
気になることは、いろいろと出てきますから、忘れない
うちにブログフィールドノートに何とか書きこめればと。

まず、この人はどのような人なのか。
ここいらから、焦点をあててみます。

杉本秀太郎著「文学の紋帖」(構想社・1977年)の帯に
菅野昭正氏による「感受の人」と題する文がありました。
うん。これも忘れやすいので全文引用。

「杉本秀太郎氏は感受の人である。
加うるに、よき趣味の人でもある。

好みに合わぬ対象には、一歩も近寄ろうとしないが、
嗜好の針がいったん動きだすと、
感受の窓を惜しみなく開けはなそうとする。
たとえば宗達の、あるいは荷風の、
こまやかな魅惑の襞まで分けいって、
物のかたちを精妙に究めようとする。
さらに作品という物のかたちを通して、
それをつくりだした芸術家の心のかたちを
見定めようとする。これこそ文学・芸術に
接する心得の基本である。

杉本氏ほど初心をみごとに磨きあげた人に、
私はあまり出会ったことがない。」

ちなみに、蛇足になりますが、発行元の
構想社というのは、坂本一亀氏が発行者。
坂本一亀というのは、坂本龍一氏の父親。

杉本秀太郎著「文学の紋帖」(構想社・1977年)
篠田一士著「読書の楽しみ」(構想社・1978年)

篠田一士の本のあとがきでは、篠田氏が
こう書きこんでおりました。

「こういう本ができるなどとは、ついぞ考えたこともなかたけれど、
読みかえしてみて、なにがしかの脈絡があるのは、われながら不思議である。
これも、ひとえに坂本さんの努力の賜物で、スクラップの山から、
あれこれの旧稿をえらびだし、苦心の配列をしてくれた手際は、
感謝のほかない。

坂本一亀と知合いになって、もう、四分の一世紀になるだろうか。
長いと言えば、長い時間だったが、今度、はじめて、ぼくの本が
彼の手づくりでできあがったのは、なによりも、ぼくには、
うれしいことである。しかつめらしい文学論もいいけれども、
こういうアンティークな本をつくってくれたことが、また、一層うれしい。」

どっちらかというなら、杉本秀太郎氏の単行本というのは、
「アンティークな本」と呼べる本が多いような気がします。
というか私にとっては、そういう本を読めるのがたのしみ。




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詩『数え53になった』

2021-04-28 | 枝葉末節
杉本秀太郎氏の単行本を、古本で購入してます。
すぐに枝葉末節に行きつき、袋小路に迷うので、
65歳を過ぎたら時点で、備忘録は欠かせません。
今回は、富士正晴の名前にひっかかりました。

杉本秀太郎著「パリの電球」(岩波書店・1990年)
杉本秀太郎著「文学の紋帖」(構想社・1977年)
もう一冊どこかにあったような気がするのですが、
もう見つからない(笑)。 まあ、いいや。

本棚からとりだしたのは、
「富士正晴詩集 1932~1978」(泰流社・1979年)。
この栞には、4人の方が書いておりました。

 桑原武夫・杉本秀太郎・清水哲男・原田憲雄 

ここには、桑原氏の言葉を引用することに

「・・これが19歳のときの作品だから、天分は疑いを容れない。
めったに夜を歌わぬ富士が、夜を処女作としてもつのはおもしろが、
ここには静かな水底のような景色があるだけで、夜の連想させる
悲しみ、絶望、罪といったものは全くない。

日本の詩人として恐らく異例だが、
富士は打ちしおれた愁嘆をきっぱり遠ざける。
いや初めから持っていない。彼の好きなのは
青年と自然、青空、風、太陽――それも天中した太陽で、
それらはしばしば擬人化されて詩人と協力するが、
人の心を悲しくする月光や星々の歌われることはない。
ただ小川が音をたてて光り流れる。」

 はい。せっかく詩集を出してきたのですから、
一篇を引用したいのですが、ここでは19歳の詩じゃなくて
もう少し年をくった詩「小信」

      小信    富士正晴(1965年4月)

 数え五十三になった
 なってみれば、さほど爺とも思えず
 思えぬところが爺になった証拠だろう

 他の爺ぶりを見て胸くそ悪くてかなわず
 他の青春を見て生臭くてかなわず
 二十にならぬ娘たちをながめて気心知れぬ思いを抱く
 爺ぶるのが厭で しかも爺ぶってるのだろう   

 やり残している仕事が目につく
 日暮れて道遠しか
 ばたついて 仕事はかどらず
 気づいてみれば ぼおっと物思いだ

 数え五十三になった
 知っている詩人は もっと早くて死んだ
 死に競争で負けてしまった
 もう ゲーテをみよ ヴァレリを見よと
 長命詩人をほめる方へ廻るか
 詩人の平均年齢も上がった
 全くロマンチィックでなくなった

 数え五十三になった 白髪と虫歯と いぼ と しみ・・・・

(詩は、一行空白というのがなく、つづいておりましたが、
 ここでは、とりあえず、ところどころ区切ってみました。あしからず)

え~とですね。
富士正晴氏は、1987年(昭和62年)74歳で亡くなっております。
年譜には「7月15日午前7時、急性心不全のため死去」。
誕生は、1913年(大正2年)10月30日徳島県三好郡生まれ。

ちなみに、「富士正晴作品集」全5巻(岩波書店・1988年)があります。
その編集委員が、杉本秀太郎・廣重聰・山田稔の3名。
はい。私は読んでおりません。
              
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斎藤緑雨への、品定め。

2021-04-27 | 本棚並べ
杉本秀太郎氏の古本をポツポツ買っています。
ネットで購入できるので、ついつい手がでる。

氏は随想と肌合いがよいようです。その都度、
文がまとまると編集され本を出されてました。

編集者にとっては魅力の文の持ち主なのかも。
あっちの文を、改めてこっちの本にいれたり、
別の本と重複する文があっても、それなりに、惹かれます。
その都度の、本の装幀もいろいろなので、並べて楽しめる。

『品定め』(展望社・2001年)と題した、あとがきには

「近頃、暑気当たりといえばよくわかるものを
 熱中症などと呼ぶようになってきた。

まるいことば、耳当たりのやわらかな呼び方に代えて、
四角い熟語、耳当たりの険しい用語を公用語あるいは
官用語にする傾きは、今に始まったことではない。
『品定め』が『批評』と呼び代えられて久しい。
私はあえて古語を使ってみたくなったまでである・・」


さてっと、斎藤緑雨をとりあげた短文が、
ちらちら、あったので備忘録として引用。

『文学の紋帖』(構想社・1977年)
『回り道』(みすず書房・1981年)
『洛中通信』(岩波書店・1993年)

そのうちの2冊に、篠田一士の名が登場しておりました。

「次のような文章がある。『緑雨の呼吸』と題した
篠田一士の随想に引用があったのを読んで以来、
私の記憶にとどまっている文章である。・・・・」
 (p158「回り道」)


「私は篠田一士の所説にほぼ賛成である。
緑雨にとって、世界はただ二つしかなかった。
一つは経験的世界、他は言語的世界である。

それなら、私もあなたも、
緑雨と異なるところはないはずである。
違いは、緑雨にとって、この二つの世界が、
形の宝庫であり、形の埋蔵資源帯であり、
そして見出された形が逆に世界に働きかけ、
世界の見かけではなくその構造を
変質させるにいたったという点にある。・・・」
(p144~145「文学の紋帖」)


うん。ここに紹介されている、篠田一士の『緑雨の呼吸』は、
篠田一士著『読書の楽しみ』(構想社1978年)にありました。
ここでは、『緑雨の呼吸』の最後の箇所を引用しておきます。

「・・・こういう戯文を緑雨は、かずかぎりなく書いた。
題材はせまく、主題もとりたてて言うほどのことはない。
アイロニーと言い、諷刺と言ってみたところで、そこから
たいした卓論がひきだせるとも思えない。

しかし、この日本語の呼吸のよさ・・・・

力強い文章とか、優雅な文章ならば、他に人がいるだろう。
だが、それよりもさきに、言葉はまず生き物である。
生き物がいくつもあつまり、組み合わさって、
そこになにがしのものが創られるというならば、
当然、息づかいが問題になるだろう。

観念とか、思想とかといった得体のしれないものが出てきて、
言葉がその符丁になってしまえば、息づかいなど無用になる。
・・・・・」(p169)

杉本秀太郎氏は「スティル 斎藤緑雨の戯文」と題する文で
このバトンを、丁寧にとりあげてゆくのでした。

ちなみに、『スティル  斎藤緑雨の戯文』は
『回り道』と『杉本秀太郎文粋1』(筑摩書房)で読めます。








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草花の語り草・仕草。

2021-04-26 | 枝葉末節
岸田衿子の詩「古い絵」は、こうはじまります。

   木の実の重たさをしるまえに
   話をはじめてはいけません

   実のそとを すべる陽
   実のなかに やどる夜

   人の言葉の散りやすさ
   へびと風との逃げやすさ

こうはじまり、途中省略して、最後の二行はというと、

   かすかな音をきくまえに
   話をはじめてはいけません


うん。この詩が印象に残っているのでした。
それじゃ、話をはじめるのは、いつなのか。

この疑問のバトンは杉本秀太郎(1931年~2015年)へつながります。
「見る悦び 形の生態誌」(2014年・中央公論新社)のはじまりに
「宗達のこと」(16ページ)の文を、杉本氏はもってきております。

その文を読んで、私が思ったのは、岸田衿子のこの詩でした。
『かすかな音をきくまえに 話をはじめてはいけません』
亡くなる一年前の杉本氏は、ご自身の本を
『かすかな音をきく・・』話からはじめておりました。

はい。ということで、まあ、杉本氏の話を聞いてください。


「・・きのうも、京都国立博物館の常設室に出ていた
伊年印『草花図』襖四面を、しばらくぶりにながめ

翳(かげ)りの少しもない金一色の、風さえ絶えて、
息詰まる緊張に包まれた、これはひとつの閉ざされた庭である。

十種にあまる植物が寄りつどっているが、一見、
秋草ばかりにみえて、そうではない。・・・・・・・・

庭の中央に、一むれの芥子(ケシ)の花が場を占め、他を圧して
色あざやかに、華やかに咲き誇り、右からも左からも、
前からも、他の植物が芥子をめがけて傾き、のび出し、
這い寄る気配を見せながら、芥子の晴れ姿を祝ってか、
妬んでか、口ぐちに人語(じんご)を発している。

左の隅から上半身を乗り出すようにして傾いている稗の紫がかった、
つぶつぶした花穂の一団が、他を圧する大声で祝言を唱えている。

遠くから稗と向かい合って、右の奥には、ひょろりとした細竹二本が
立ちあがり、いまにも芥子の花に駈け寄らんばかりの動勢を示しているが、
内心では『芥子なんて、近ごろの外来の西洋だねが、いばりくさって
おるのは片腹痛いわい』と思いつつも、口先では
『やあ、おめでとうござる』と言っている。

この細竹と、当座の中心たる芥子とのあいだに挟まれた薊(アザミ)の花が、
細竹の内心を見抜いてくすくす笑いたいのをこらえ、口元に片袖を
当てて控える。」

うん。このあとに野薔薇・秋海棠(シュウカイドウ)
山帰来(サンキライ)・立葵(タチアオイ)・鶏頭(ケイトウ)
菫(スミレ)の花と続いてゆくのですが、
ここは、私の一存でカット(笑)。

そのつぎを引用してゆきます。

「この襖絵の『草花図』をながめるたびに、私はいま書いたような
植物たちの言い草、仕草を聞いたり見たりして娯しみ、
自分の心のさわがしさに、われながらあきれ、笑いをこらえきれなく
なるまでその場を離れない。

そして立ち去りがてらに思うことはいつも決まっている。
それは大体、次のようなことである。

この襖の中央、芥子の根元に取り付けられている美麗な
一対の金色の引手にゆびをかけ、襖を左右にあけ放てば、
奥の部屋の壁には、如拙(じょせつ)の有名な
『瓢鮎(ひょうねん)図』がぶらさがっているはずだ。

つまり、宗達はこの『草花図』を描くにあたって、
妙心寺退蔵院に古くより伝わる室町時代のあの禅画から
まなび取るところがあったと、私は見込んでいる。

『瓢鮎図』全体に紛れもない滑稽の気味、度外れな諧謔の趣は、
宗達のこの襖絵に脈々として流れている。

右端のあの細竹のあわてている恰好などは、
ことに如拙作中の竹に似かよっている。・・・・」(~p18)


はい。詩と随筆とが、私の中でむすびつく。
その嬉しさ。



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「久しぶりね」屏風。

2021-04-25 | 枝葉末節
杉本秀太郎著「絵 隠された意味」(平凡社)。
はい。楽しめます。どんな風に楽しめるのか?
うん。その雰囲気は引用するに限ります。

屏風絵で、喜多川相説『芙蓉・菊』をとりあげた箇所を引用。

「・・・古くさい草花図や円山四条派のおっとりした、
至極おだやかな風景がかかっていることはめったにない。・・・

そもそも床の間というものに注意することがない。まして、
紙も黄ばんだ、なんだかうすぎたない草花図の枕屏風ごときに
気をうばわれるいわれがあるだろうか。・・・」(p82)

「・・・かわいそうに、と思いながら屏風をながめている気分は、
こういう世であればこそはじめて許されるふしぎな気分である。」

こうして、短文の最後に屏風を説明しておりました。

「この屏風には、左扇に芙蓉、白菊、芒、
右扇に白菊、萩、芒が描かれているが、
左右を交互にながめていると、草花が互いに
左右から中央の空地にむかって手をさしのべ、
久しぶりね、とまず言いかわし、心の奥では
密語をたくらんでいるように思えてくる。

こういう花々の願望を形にあらわすのに、
画家は芒の葉を巧みに用いている。

琳派を装飾的と形容するのはいいが、
装飾とは心の表現であることを忘れてはいけない。」
(p84)

はい。この屏風に呼び名をつけたくなってきました。
『「久しぶりね」屏風』と、名づけてはどうでしょう。
そうすると、紙も黄ばんだ屏風の、芒の葉が
こころなし揺れるような、そんな気がしてくる(笑)。

はい。この短文の途中には、こうもありました。

「屏風というものが日常生活の道具、調度品として、
われわれの感情生活にかかわっていた時代は、
この枕屏風が渋紙に包まれたまま暗所で長い眠りに
就いていたあいだに、すっかり過ぎ去ってしまった。」

その屏風の眠りを、目覚めさせてくれる感性が、
杉本秀太郎著「絵 隠された意味」にあります。
うん。そんなことを思って、楽しんでおります。
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なぜ 花はいつも。

2021-04-24 | 詩歌
いただいたコメントに「?」マークがふたつ。

しばらくしてから、思い浮かんできたのは、
岸田衿子の詩でした「なぜ 花はいつも」。

  なぜ 花はいつも
  こたえの形をしているのだろう
  なぜ 問いばかり
  天から ふり注ぐのだろう


古今和歌集の一首を探す。身近の本や、
学習参考書でさがしても見あたらない。
そうだそうだ困った時の窪田空穂全集。
「窪田空穂全集第21巻古今和歌集評釈②」
その最後に総索引があり簡単に見つかる。

「     題しらず      よみ人しらず

 宮城野(みやぎの)の本(もと)あらの小萩(こはぎ)
      露を重(おも)み風を待つごと君をこそ待て 」

評釈から、すこし引用。

「宮城野の萩を目にしながら、
女が男を直待(ひたま)ちに待っている心である。・・・
それも思想的なものではなく、感覚的なものである。

本来、萩はたわみやすいもので、それが花が咲き露が置いて、
梢が重くなれば、一層その感が強くなる。
『本あら』の萩であれば、その感はさらに一層強くなって、
露が落されないと、今にも折れてしまいそうに感じられよう。
 ・・・・・
作者は、その萩に自身を連想し、露に自身の状態を連想して、
そして萩を擬人して・・・・萩に『小』の接頭語を添えたのも、
この心であろう。

萩を感覚によって見、自身を暗示するものとしているのは、
その萩を眼前のものとしなければできないことに思われる。
『宮城野の本あらの小萩』ということは、
想像でもいえないことではなかろうが、
全体がこなれて、微妙なものとなっている点から、
その場所にあっての作と見たい気のするものである。」
    (p171「窪田空穂全集第21巻」)

語釈からも少し引用。

〇宮城野 陸前国宮城郡。今の仙台市の東方にその名を存している。

〇本あらの小萩 『本あら』は、一つの詞。『本』は、幹。
 『あら』は、疎(あら)で、幹の疎(まば)らに生えている。・・
 幹が疎らに立っている萩で、本来撓(たわ)みやすい萩が、
 支え合う幹が少ないために、はなはだしく撓むものとしていっている。


はい。以上、解説引用でした。




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薬用植物画の小磯良平。

2021-04-23 | 枝葉末節
時には、古本で、楽しい物が手にはいります。

薬用植物画(複製)3点プレゼント。そのプレゼント品でした。
武田薬品のアリナミンを記念してのもののようです。
もうすこし詳しく。

「このアリナミン発売30年を記念し、過般新聞紙上で
小磯良平画伯による薬用植物画(複製)プレゼントを発表しました
ところ、早々とお申込みいただき有難うございました。・・・
このたび、厳正な抽せんを行いました結果、あなた様が当せん
されましたので、同封お届け申しあげます。」

「本薬用植物画は、弊社のPR誌『武田薬報』の表紙に
昭和31年から12年余にわたり掲載されたもので、
その作品150点が『薬用植物画譜』として刊行されましたが、
芸術作品としては勿論のこと、植物学的にも高い評価を得た
ものでございます。ここもとお届けの3点は、その中から
特に選びだしたものでございます。
ご鑑賞賜りますれば幸いでございます。・・・」

とあり、3点は
「はぜのき」「くちなし」「れんぎょう」が1枚ずつありました。

それはそうと、
杉本秀太郎著「絵 隠された意味」(平凡社・1988年)に
『告白』と題してはじまる5ページの文があります。
はじまりは

「京都の修学院に曼珠院というお寺がある。・・・

もう二十数年も昔になるが、3月のある晴れた日、
曼珠院の土塀ぞいの小道から木戸を押し開けて斜面のほうに
入ってみたことがあった。たよりない木戸に打ちつけられていた
門札によって、これが武田薬品の薬草園だと気づいたので
 ・・・・・・・
去年の春、まったくひさしぶりに修学院に行って、
古なじみの薬草園のあたりを歩いた。いまは整備も警固も行きとどき、
昔のように無断で出入りはもう出来そうもなかった。・・・・」

まあ、こんな風にはじまり、小磯良平画の『薬用植物画譜』へと
言及されていきます。ここでは短文の最後から引用。

「私は正直なところ、『新制作』の大長老である
この洋画家の油彩画を見て感動したおぼえがない。
冒険を好まぬ、温良従順なひとりの画工であればこそ、
この人は植物図譜の描き手に適していたのかと思われる。

武田薬品の薬草園からアトリエに持ちこまれる植物を写生しながら、
この人は画工たるの快楽と画工たるの痛恨とを、百五十点の
精細な水彩画にこめたのではなかったか。・・・・」(~p94)

ちなみに、この本には、植物図譜のなかの『葛』(p93)が
掲載されておりました。それについては

「薬用植物の図譜のために描かれた植物図には、
普通の植物図鑑の図とはちがうところがある。
薬用に供される部分が特に目立つように描かれ
なければならないからである。・・・・・

小磯良平が薬用植物として葛を描いたとき、
ふてぶてしいばかりの葛の根を特に入念に
描いているのは、もっともな処置ということになる。」

杉本氏は、小磯画伯について
『油彩画を見て感動したおぼえがない』と、正直に書いておりました。
そんな視点から見れば、画伯が描いた女性よりも、ここの植物の方が
ひとりの個性として眺められるのかもしれない。

女性と植物といえば、『絵 隠された意味』に
京都国立博物館所蔵の絵襖を見に行く場面がありました。
最後にそこを引用。

「今年の夏も例年どおり、
吉日をえらんで屏風を見に出かけると、ひとりの先客があった。
絵の勉強で京都に滞在しているオーストラリアの女性。

『この草花の絵は、好きですか』

『ええ、とってもキレイ』日本語が話せる。

『私はこの屏風に描かれている草花は、一つ一つがみな、
女のひとの肖像として描かれていると思ってながめるのですが、
あなたは』とたずねてみた。

『それは、わたしには分からない。
どうしてこれが女のひとなの。これ、ハギでしょう。
これは何。ああそうね、シューカイドー。そして・・・・』

『フジバカマ、クズ、オバナ、キキョウ、オミナエシ。
キクもあるし、ナナカマド、サルトリイバラもある』

『どうしてこれがみな、女のひとですか。
やっぱり分からない』

私は古今集の歌を一首、教えてあげた――

『宮城野のもとあらの小萩つゆを重み風を待つごと
 君をこそ待て。まさにこれ、屏風の萩の風情ですね』

小首をかしげて
『やっぱり分からない』 ・・・・・」(p19~p21)

うん。わたしにも分らないのですが、
それでも、小磯良平の女性画よりも、
薬用植物画の方へ、より惹かれるものがあります。
ということで、このプレゼント品を、
飽きるまで、壁に貼っておこうかなあ。
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庭には顔がある。

2021-04-22 | 本棚並べ
杉本秀太郎著「火用心」(編集工房ノア・2008年)に
『詩人の庭』という短文が入っておりました。
そのはじまりが、興味深いので、まず引用。

「 庭には顔がある。
  取り澄ましている庭、
  くつろいでいる庭、
  素顔のまま、
  あるいは厚化粧の庭。
  流し目を送る庭もあれば、
  むっつりと不機嫌な庭もある。
  微笑していたり、泣いていたり、
  大笑いしていたり、おどけていたり。

  じつにさまざまな顔を示すところは人とよく似ている。
  無病息災に暮らしている人が一日じゅう
  少しも表情を変えずということはないだろう。
  それと同じで、ひとつの庭が一日のうちにも、一年のうちにも、
  さまざまに顔を更ため、表情に変化を見せる。」(p81)

(注; 散文を、短く一行にしながら、改行もほどこして、
    いつものように、こちらで、勝手に並べかえました。)

わたしは身近では、庭とは縁のない住まい・生活でした。
それで、めずらしく庭の掃除をしたり剪定したりすると、
この杉本氏の言葉が鮮やかに浮き上がってくるのでした。

ちなみに、このあとに萩原朔太郎と龍安寺が
登場するのですが、私にはどうでもよくって、
その箇所はカットして、この4ページの文の
最後の方から、すこし引用しておきます。

「くどくど言うまでもないが、庭が顔をそなえているというのも、
庭に植物があるからで、石庭は特殊な例である。
長い目で見れば、庭は木の育ち方にしたがって、
次第に持ち前の顔の造作を変えてゆく。

植えたときには程良い高さ、好ましい枝ぶりだった樹木が、
いつの間にか背高く伸び、枝ぶりも変ってきて、
おだやかな、よくととのっていた顔が
山姥のようなおそろしい顔になったり、
卒塔婆小町のようないたましい顔になったり。
つまり、庭は人と同じように老化する。
そして美しく老いた人のように老いて美しい庭もある。」(~p84)
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庭の手入れ。

2021-04-21 | 本棚並べ
今日は、妻の実家へ。
ご両親お二人とも亡くなり、時々窓をあけに行きます。
今日はよい天気。庭の手入れというか、
わたしは道路に面した細葉の手入れと下草の除去。
草刈り機で、畑の雑草も刈ります。
日中は、これで過ぎました。
お昼は、開けはなった廊下でごろ寝。
はい。風もよく通ります。

そういえば、と帰って来てから、
「半歩遅れの読書術Ⅱ」(日本経済新聞社・2005年)をひらく。
いろいろな方が、4~5回の短いコラムを書いておりまして、
そのなかに、河合隼雄氏が登場しておりました。
その1回目が『庭の手入れ』。気になるので引用。

「講演は・・・ときに依頼されたテーマに刺激されて面白いことが生じる。
先日、津田塾大学の講演に、『物語の生まれるトワイライトゾーン』と
いうテーマをいただいた。『物語』は現代人にとって非常に大切で、
科学技術の発展によって得た便利で快適な生活に、深さや味わいを
与えてくれるものと思っている。

その物語が立ち現れるのは、
明快な二分法をあいまいにする境界であることが多い。虚実の被膜の間、
つまり、トワイライトゾーンにこそ物語が立ち現れるというのである。
・・・そして、ここから『庭』というイメージが浮んできた。庭はまさに
トワイライトゾーンである。屋外であるが家の敷地内である。」(p223)

このあとに児童文学を4冊紹介するのですが、
わたしは小説を読まないので、そこはカット(笑)。

そして、コラムの最後は、
「本の読み直しは庭の手入れに似ている。」

うん。河合隼雄氏といえば、知ったかぶりして、
箱庭療法を思い浮かべます。
そういえば、杉本秀太郎氏の本を検索していたら、
「京の坪庭を楽しむ」(平凡社・2006年)というのが
コロナ・ブックスの一冊としてありました。
写真が主なのですが、杉本秀太郎・東山魁夷・重森三明
という名前があります。エッセイですね。
坪庭といえば、ぐっと「家の敷地内」というイメージが
濃くなります。送料を入れると1300円くらいになるので、
迷うところですが、ここは、注文することにします。

はい。読みましたら、このブログにあげます。



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「モナ・リザ」の微笑。

2021-04-20 | 本棚並べ
小林秀雄が岡潔との対談に、こう記しておりました。

小林】 ベルグソンは若いころにこういうことを言ってます。
問題を出すということが一番大事なことだ。うまく出す。
問題をうまく出せば即ちそれが答えだと。

この考えはたいへんおもしろいと思いましたね。
いま文化の問題でも、何の問題でもいいが、
物を考えている人がうまく問題を出そうとしませんね。
答えばかり出そうとあせっている。
 
岡】 問題を出さないで答えだけを出そうとするのは不可能ですね。

小林】 ほんとうにうまい質問をすればですよ、
    それが答えだという簡単なことですが。

岡】 問題を出すときに、
   その答えがこうであると直観するところまではできます。
   できていなければよい問題でないかもしれません。
   その直観が事実であるという証明が、数学ではいるわけです。
   それが容易ではない。・・・・

    (p76~77「対話 人間の建設」新潮社・昭和53年)


え~と。杉本秀太郎の短文を読んでいると、
ときに、文の書きだしだけで、充分だと思えることがあります。
例えば、『絵 隠された意味』(平凡社・1988年)に
「映発」という5ページの文があり、そのはじまりで杉本氏は、
さりげなくですが『問題提起』をして、はじめておりました。

「フィレンツェのウフィツィ美術館には、だれ知らぬ人もない絵が沢山ある。
ボッティチェリの『ヴィナス誕生』および『春』、レオナルドの『受胎告知』
・・・・・・・・・

だが、名画集のたぐいで見なれてしまった絵というものには、
厄介なところがある。はるばる遠い国の美術館を訪れ、
まぎれもない実物の絵のまえに立ったとき、
眼前の実物が妙にそらぞらしく、手ごたえを欠いていて、
これは一体どうしたことかと目をこすって見直す、
そういう経験をしなかった人があるだろうか。

まわりの見物衆はどの人も、神妙な顔をしているので、
内心のうろたえを隠して、こちらも神妙を装う。
こうしてお互いに神妙ごっこをしている。
あのルーブルの『モナ・リザ』は、
見物衆の内心を見すかして、
皮肉な微笑をやめないのである。」(p22~23)

岡潔氏は
「その直観が事実であるという証明が、
 数学ではいるわけです。それが容易ではない。」
と答えておりました。
杉本秀太郎氏は、このあとを、さて、
どうつづけて書いていたでしょうか。

たいてい私の場合、寝床で本をひらいていると、
始まりだけで、あとは本をとじ寝てしまいます。
ですから、わたしは、いつでもはじまりが肝心。
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いくつの年齢になっても。

2021-04-19 | 本棚並べ
数人で居酒屋へはいれば『とりあえずビール』。
私の最近は、といえば『とりあえず古本買い』。

桑原武夫の共同研究参加者リストがあって、
最後の6回目にだけ、杉本秀太郎氏の名前が登場している。
その時の共同研究は「文学理論の研究」(1967年)でした。

題名からして小難しそうで、眼中になかったのですが注文。
桑原武夫編「文学理論の研究」(岩波書店・1967年12月)。
古本で80円+送料257円=337円でした。
それが昨日届く。杉本氏の論文は『植物的なもの 文学と文様』
そのはじまりは、「古今集と草花文様」なのでした。
ちなみに、杉本氏の次は、山田稔氏で「鳥獣虫魚の文学」。
その次に、梅原猛氏が続いておりました。

うん。最近の『とりあえず古本』は、杉本秀太郎関連本。
昨日、寝床に持参した本はというと

杉本秀太郎著「太田垣蓮月」(小澤書店・昭和57年)
篠田一士著「読書のたのしみ」(構想社・1978年)
青木玉対談集「祖父のこと母のこと」(小沢書店・1997年)
「和田恒 追悼文集 野分」(私家版・昭和56年)
杉本秀太郎著「絵 隠された意味」(平凡社・1988年)
すばる「石川淳追悼記念号」(1988年4月臨時増刊)
新潮「小林秀雄 百年のヒント」(平成13年4月臨時増刊)
「半歩遅れの読書術Ⅱ」(日本経済新聞社編・2005年)

はい。どの本にも杉本秀太郎氏が登場します。
昨夜は、そのうちの一冊を数ページひらいたら
すぐに寝てしまいました(笑)。それはそうと、

私が、杉本秀太郎氏に目覚めたのは、塚本珪一の
「フンコロガシ先生の京都昆虫記」(青土社・2014年)のおかげ。
その本のなかに杉本秀太郎著「ひっつき虫」(青草書房・2008年)
が印象深く語られていたので、う~ん、こっちも古本購入(557円)。
「ひっつき虫」の、その帯には、こうあります。

「私の書いた本は、私の播くたね。
 たねよ、ひっつき虫になって、
 どこへなりとも運ばれていってくれ。」

はい。この本の「あとがき」の、はじまりが印象に残ります。

「注文原稿には、何について書くか先方がきめてくるもの、
何についてでもよろしいと放任されているもの、この二手がある。

いずれにせよ、私にとってはすべて冒険なのに変りはない。
冒険とは大げさに聞こえるかもしれないが、うまく対応できるか、
いつでも、いくつの年齢(とし)になっても不安になるのだから、
危険を冒すことに変りはない。

・・・事柄が解決していないままを書こうとすると、
それはこんなふうな経過をたどる。

入口のドアがどうしても開かない。
耳を当て聞き耳を立てる。
うまくドアがあいて、なかに入ったはいいが、
こんどはドアが動かなくなり、そとに出られない。
いずれのときも切羽詰って、ドアに書きつける。・・・」
(p260~261)

そういえば、日経新聞の「半歩遅れの読書術」に
杉本氏が4回連載のコラムを書いたときのはじまりが
昨夜読んだばかりなので浮かんできました。

「出版されたのが半歩どころか百歩も千歩も万歩も後方でありながら、
読めば今に新しく、少しも古びていない書物を読みたい。
そうねがう人があるかぎり、読書が絶えることはない。
そして本を読む幸福を知れば、人に話さずにはいられないのが人情。
こうして独りはけっして独りではおわらない。

・・・・読めば読むほどに本が本を呼び、
多方面にひろがるから、濫読者はやがて人それぞれ、
物それぞれの良さをあるがままに見る人になる。

狂信が専門職、技術者に取りつくのは本を読む幸福から遠いところで
専門書、技術書の壁に囲まれているからである。
光のなく影のないところに住みなれていると、
わずかな影にもおびえることになる。狂信はすぐ近い。

一方、濫読家は、むつかしいところに出会っても
びっくりしたり怖じ気づいたりはしない。
いずれ分かるさ、とつぶやいて、
むつかしいところに長く立ちどまらない。
思わぬところで光が射す、そのときの
腑に落ち加減の快さを知っているからである。・・・」(p135)


はい。『・・切羽詰って、ドアに書きつける』なんてのも、
何が何だか分かったようで、よく分からないままだけれど、

『いずれ分かるさ、とつぶやいて・・長く立ちどまらない』
ように心がけたいと、思わず思ってしまうのでした。
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長寿の賀会。病中見舞い。

2021-04-18 | 本棚並べ
以前、杉本秀太郎の本を読もうと思い。
何冊か買ってあったのに、買った後で、
興味は、そそくさと他へと移り未読本
のまま本棚にありました。

それが、この頃になって読み頃を迎えました。
まずは、めでたい。以前に買った本のなかに、
「杉本秀太郎文粋」(筑摩書房・1996年)の、
第1巻目がありました。新刊購入でしたので、もう
25年も前になります。うん。そのとき読めなかった。
読んでもスジを追うだけで精一杯だったと思います。
それがいまなら、楽しめる。

さてっと、その時に買ってあった本に
杉本秀太郎著「太田垣蓮月」(小澤書店・昭和57年)が
ありました。こちらも未読のままでした。
「太田垣蓮月」の、第四章は「蓮月と鉄斎」とある。
うん。第四章をパラリとひらいてみる。

ちなみに、
「宗達、光琳、鉄斎は、いずれも生まれつき京都の市井の人である。」
(杉本秀太郎著「見る悦び」p18)とある。

まずは、京都の市井の人をイメージしながら
第四章をひらいてみました。

「・・そういう経路で盛んになったものに
長壽の賀會がある。人びとが相集って、
一人の人の長寿を祝う歌を詠じる。
そういう面では、これは歌会というものの変形である。
・・・・
また、長寿を祝うもう一つの形として、
文人雅客の書画の寄書き帖を人のもとに贈る
ことも盛んであった。」(p202)

ページを、さきに急いでp210に、こんな箇所がありました。

「めでたい歌のついでに、鉄斎がむれ亀を描いたのに
蓮月が画賛して詠じた歌があるので引いておきたい。
・・・『亀あまたかけるかたに』と詞書があり、
四、五句が『とりつどへつつ君をかぞへん』となっている。
かたは絵のこと。いろぞよは、漢字で書けば萬世である。


  むれがめのひとつひとつの
      いろぞよをかきあつめつつ君ぞかぞへん


画賛をした蓮月は『七十七』と書付けているので、
合作の年は慶應三年(1867年)であり、鉄斎は32歳である。
この画は、神光院の月心和尚の病中見舞にと、蓮月が頼んで
描かせたもののようで、鉄斎あての手紙に、蓮月は次のように
報じている。月心は恢復し、四年ののち明治三年、71歳で歿した。

『 此間はかめの御画御したため被下、
 月心隠居様大におおいによろこび、
 まづかりにかけおき、くるほどの人に
 ふいちやう(吹聴)して、この人おやに孝行にて、
 とうじ(当時)ならびなき好人物、
 おもしろしおもしろしと日々をたのしみ、・・・・
   ・・・・
 かめのてい(態)むふんべつ(無分別)に見へて、
 ことの外おもしろく候よし、日々たのしみ病気も
 おひおひ快方に候』


このときの亀の画を、幸野楳嶺が明治7年に描いた
『丁稚女中遊戯図』と見くらべると、二つは同じ構図に依拠して
いるのがよく分かる。構図は百兒文(ひゃくじもん)のヴァリアントで、
圓山派の手持ちの図柄である。群衆をむれがめに置換したところに
鉄斎の発明があった。無邪気な発明である。だが、みずからの画技が
精神と歩調を合わせて熟するにつれ、鉄斎はありとあらゆる粉本を
この無邪気な発明の力によって一新し、
晩年のあのおそるべき独創を実現する。」(p210~211)


どうやら、この本。
宝の持ち腐れとならずにすみました。




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そら豆の花咲き。

2021-04-17 | 本棚並べ
わたしの本への興味は、打ち寄せる波のように、
来たかと思うと、いつの間にか、す~と引いてしまいます。
けれども、杉本秀太郎氏への興味は、まだ続いております。

ネット「日本の古本屋」の検索で『杉本秀太郎』と打ち込むと、
いろいろとでてくる。そのなかには、掲載された雑誌名とか、
他人の追悼本や、他人の対談本も、検索にひっかかるのでした。
そんな一冊に青木玉対談集『祖父のこと母のこと』(小沢書店・1997年)
がありました。この対談集は、私は好きな本なので幸田文の棚にあります。

さっそく、とりだしてくる。対談集の最後にありました。
栞がはさまっているので、読んだ形跡はありますが、しっかりと
忘れております。対談の題名は「西の育ち、東の育ち」とある。
あれこれと多岐にわたって、そのたび興味は尽きないのですが、
どうもしかたなく、一箇所引用するとなると、これかなあ。

青木】・・杉本さんは短歌や俳句にお詳しくいらっしゃいますが、
どんな歌がお好きでいらっしゃいますか。

杉本】 幕末の女の歌人で、太田垣蓮月という人が好きで、
若かったころ蓮月について一冊書いたんですけど。

蓮月が何で好きかというと、45歳年下の富岡鉄斎を育てたから
ということなんです。鉄斎が極貧の生活をしていたときに、
蓮月は、たくさん自分の歌を書いた、余白のたっぷりある紙を
いっぱい鉄斎におくって
『あんた、お金に困ったらこれに絵をかいてお売りなはれ』と。
それで合作がたくさん残っているんですね。

鉄斎は大器晩成な方でしょう。いま私は66歳ですが、
その頃からいい仕事が始まるんですよ。それを思うと、
俺もがんばらないかんという気はします(笑)。

まあ、あの人は天保七年生まれの古い人ですけどね。
今頃の時期に必ず思い出す蓮月さんの歌は、
『思ふこと書きもつくさぬ筆ににてつくつくしつつ春も暮らしつ』
という面白い歌です。

青木】なるほどねー。
そういうのが、こともなく出てくるんでしょうね。
一生懸命苦労して出てくるものとは違う心の動きですねえ。

杉本】 青木さんのお好きな歌は?

青木】 今頃ですと祖父が好きだった句に
『そら豆の花咲きにけり麦のへり』(「芭蕉七部集」)
というのがありまして、田園風景ですね。
そら豆を見ると毎年思い出されます。(p243~244)


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ゆれゆく。ゆれ来る。

2021-04-16 | 詩歌
古本で『窪田空穂百首』(短歌新聞社・平成5年)が
400円なので買ってあります。
序は窪田章一郎氏で、そのはじまりはこうでした。

「窪田空穂の短歌百首を百人の執筆者が一首ずつ解説、
鑑賞する企画のもとに、これまでに無かった一冊の本が
刊行されることになった。・・・・

空穂は明治10年6月8日、長野県松本平の農家に生まれ、
松本中学を卒業して上京、東京専門学校(現在の早大)に
学んで卒業するまでの青春の十年間は、日清、日露の戦役に
はさまれる時期であった。・・・・

第一歌集『まひる野』を刊行したのは、38年、29歳の時であった。
そして昭和42年4月12日、91歳で病没するそれまでの60余年、
広い分野で文学活動をするが、つねにみずからを歌人といい、
23冊の歌集をとどめ・・・・・

・・空穂の歌集刊行の年齢を参考までに列挙すると、

『まひる野』 29歳
『明暗』   30歳
『空穂歌集』 36歳
『濁れる川』 39歳
『鳥聲集』  40歳
『土を眺めて』42歳
『朴の葉』  44歳
『青水沫』  45歳
『鏡葉』   50歳
『青朽葉』  53歳
『さざれ水』 58歳
『郷愁』   61歳
『冬日ざし』 65歳
『明闇』   69歳
『茜雲』   70歳
『冬木原』  75歳
『卓上の灯』 79歳
『丘陵地』  81歳
『老槻の下』 84歳
『木草と共に』88歳
『去年の雪』 91歳
『清明の節』 91歳

    ・・・・・     」

さて、百人が選んだ百首の最後は
大岡信氏でした。せっかくですから、
その大岡氏のはじまりを引用しておわります。

「  四月七日午後の日広くまぶしかり
       ゆれゆく如くゆれ来る如し

空穂没後に刊行された最終歌集『清明の節』に
『四月八日』と題して収められた二首のうちの一首。
絶詠である。他の一首は、

  まつはただ意志あるのみの今日なれど
          眼つぶればまぶたの重し

空穂が永眠したのは昭和42年4月12日の夜である。
満90歳に二か月足らない年齢だった。もっとも
空穂自身は日ごろ数え年を用いるのが常だったので、
それでいえば91歳の長寿だった。

この歌は逝去四日前の作だが、
歌われているのはその前日の心象である。病床に臥してすでに数か月。
命を支えるものは、生きんとする意志だけである。
しかし死は容赦なく迫っている。
病む人は外のまぶしい春の日射しに思わず眼をつぶる。
たちまち眠りが忍び寄ってくる。自分の意志がもはや
いかなる意志によっても呼び戻すことのできない境へと
漂い出ようとしているのを感じながら、
空穂はその状態そのものを歌にしようとした。
驚くべき作歌意志の持続である。・・・」

このあとに、最初に引用の短歌の説明があるのですが、
私は、ここまでとします。

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