和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

あやちゃん。

2009-04-28 | 幸田文
村松友視著「幸田文のマッチ箱」(河出文庫)を読みました。
編集者なのに、「私はその頃の幸田文さんに原稿を依頼することができなかった」という、そんな村松氏による、幸田文という糸口を大切にひも解いてゆく一冊。
あるいは、
幸田文という峰へは、こう登るのがよいですよ。
と耳元でささやいてくれているような一冊です。

たとえば、こんな箇所はいかがでしょう。
幸田文の親・露伴の看病の記録と思い出を綴った「父 その死」。それを読む松村氏自身を振り返った箇所なのです。

「文庫を、旅行などに持ち歩いていた。・・この作品の細部から自分の縁者の死に横這いしたり、文章から思いもかけぬところへ気持ちが飛躍したりして、百枚程度の作品がなかなかスムーズには読み進められなかった。そして、読んでは置き読んでは置きすることをくり返したあげく、私は読みかけの文庫本を機内に忘れてしまった。・・次の月に・・新しく買い求めた同じ文庫をバッグの底に入れて旅立った。・・・再読したが、最初の部分から初めて出会った文章のようで、私はまたもや文章に触発された自分の迷路をさまよってしまった。どうしてもスムーズに読み進められず、あみだくじのごとく横這いをつづけている・・・作品がそれだけ重層的な内容にみちていて、読んでは置き読んでは休むことを私に強いてきた・・・今年になって三冊目の『父 その死』の文庫本を読んだのだった。」(p166~168)

すこし先を急ぎすぎました。
第一章にもどりましょう。くりかえしになりますが、
そこにはこんな箇所があります。

「私はおこがましいが幸田文の友だちのごとき気分となり、一度も原稿をもらっていないのだ。それは、編集者としての詰めの甘さもあるのだろうが、幸田文の特殊な神経のありようを邪魔したくないという気持ちもあった。
『あたしは、自分が物を書かせてもらってるって気があるから、何かカラダを痛めないと申し訳なくってねえ』
『カラダを痛める・・・・』
『どこかへ旅に出るとか、山へ登るとかね、何かカラダを使わないと』
『ああ、そういうことですか』
・ ・・・・・・」(p13)
こうして幸田文との会話なども交えながら、
村松氏は「幸田文」という峰へ登頂をはじめるのでした。

さて、私が気になったのは「さん」と「ちゃん」とでした。

「私は、幸田文さんを『幸田さん』と呼んでいた。編集者時代、私はなるべく『先生』という呼称を避けていた。川端康成のような【親しくなくて偉い人】に対しては仕方ないとして、永井龍男、尾崎一雄、武田泰淳、吉行淳之介といった【偉くても親しみを感じる作家】は『さん』付けで呼んでいたのだった。女性の幸田文さんを苗字に『さん』付けで呼ぶのも味気ない気がしたが、『文さん』と呼ぶのも憚られて、けっきょく『幸田さん』になったのだった。カラダを使う、カラダを痛める・・・は、父上である幸田露伴の存在を強く意識した言葉だと、そのときも受け止めた。」(p15)

この本の最後の方に、村松氏が宮大工の小川三夫氏へのインタビューをしている箇所が引用されております。そこには「ちゃん」というのがありました。
その箇所をすこし引用してみます。

――幸田文さんの第一印象はどんなふうでした?
【小川】・・・会ったときは作業服姿で、まあまあキャンキャラ声の人やなあと(笑)。・・その頃、幸田先生は木に興味を持っている時期らしくて、何かを教えるとよろこんで。・・
――いつも作業服で見えたんですか。
【小川】作業服で来たり、着物で来たり。
――面と向ってもあやちゃんと?
【小川】そうでしたね。まあ、人がいるときは先生とか言いますけど、そうでないときはあやちゃんと。それを喜んでたような感じですよ。  (p224~225)


このあと、第九章の「語り口と文体」という箇所をとりあげたいのですが、これは、また別の機会に。

そうそう。宮大工職人ということで、思い浮かんだ対談がありましたので、
最後に、引用しておきましょう。

まずは松山巌氏が対談相手の青木玉氏へと話を向けております。
そこいらから。

【松山】・・文さんのものを読んでも、露伴はとにかく出入りの職人さんたちとよく話しをする。物事をこんなに学ぶ機会があるのにお前はなぜ話をしないんだ、といったと書かれてましたけれども、ああいうことは日常的にありましたか。
【青木】庭の手入れに来ている植木屋にも、必ず出てきて『どうだい』って、しばらくお喋りしてます。畳屋が来れば、『ご苦労だね』って言って声かけますし、同じ高さで一緒に座っているという形。向こうにしてみると、ひどく気ぶっせいで困るだろうと思いますけれど。
【松山】むしろ物を書いている人よりも、そういう仕事をきちっとしてる人たちのほうに、自分も親近感を覚えてる。
【青木】いや、物書く人たちの考えること、大概祖父考えちゃうでしょ。そうすると、それはあんまり面白くないんですよ。
【松山】それはそうですね(笑)。
【青木】それよりも、どうやって畳屋が肘でもってこういうふうにやるかっていうようなこと、風の吹いた時にどうやって畳持つんだとかね。
【松山】そっちのほうが、ずっと面白い。
【青木】そういうこと訊いてれば、自分で何かやった時に、実際に会得できますでしょう。
【松山】ああ、そうでしょうね。
   ( 以上は青木玉対談集「祖父のこと母のこと」小沢書店p76~ )

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「幸田文」登山。

2009-04-25 | 幸田文
幸田文が亡くなってから、単行本の「木」「崩れ」「台所のおと」等の本を読みました。
とくに「木」の印象が深かった。もっとも、深かった印象の割には、私は、それ以上読もうとも思いませんでした。ひとつは、単行本の「台所のおと」を読んで、最初の「台所のおと」を読むところまでは、できたのですが、それ以降の文を読めなかった。つまらなかった。ということで、それっきりになっておりました。

でも「木」「崩れ」は気になる本でした。いつか幸田文を読める機会があればと思っておりました。それが今年になって平凡社から「幸田文の言葉」というシリーズで3冊が続けて出たのでした。私が読んだのは2冊「幸田文 しつけ帖」「幸田文 台所帖」。もう一冊の「幸田文 きもの帖」は、ちょっと読めないでおります。

そうそう。幸田文の「木」「崩れ」が出た頃は、ネットで古本を注文するという発想自体が、実際にもありませんでした。それから、現在です。今は興味を持てば、本をネット上で探せて、取り寄せられる。その幸せ。関連本がたぐり寄せられる幸せ。こりゃよい時代になりました。

え~と。ロッククライミングというのがありますね。岩登り。
室内クライミングというのもあるそうです。
手がかり足がかりをさぐりながら、岩を登ってゆく。
幸田文を読もうとしている私は、
「群盲象を評す」のたとえを思い浮かべます。
ある盲人は、象の足を手で撫でながら、象というのはこういう姿かと思い。ある盲人は、象の鼻を手で撫でながら、象というのは細長い姿かと思う。ある盲人は、象の耳を手で撫でながら、象というのは薄いペラペラの姿と思う。そう考える盲人のひとりに、私は例えられるのじゃないかと、思ったわけです。ここから、本を手がかりに、幸田文象へよじ登ることができるかもしれない。手がかり、足がかりはネットの古本屋が手助けしてくれます。こりゃ、楽しまないのは、もったいない。

まずは、「文藝別冊 総特集 幸田文 没後10年」
   「新潮日本文学アルバム 幸田文」
の2冊を取り寄せました。「文藝別冊」が他の足場を提供してくれておりました。
そこから、「幸田文の世界」(翰林書房)と
    林えり子著「東京っ子ことば抄」(講談社)へ。
  幸田文・金井景子編「ふるさと隅田川」(ちくま文庫)。

 あとは、村松友視著「幸田文のマッチ箱」(河出文庫)
 それに関連して「幸田文対話」(岩波書店)。
 坪内祐三著「考える人」(新潮社)

 何となく、思い浮かんだのが
 山本夏彦著「最後のひと」(文藝春秋)。山本夏彦著「生きてる人と死んだ人」(文藝春秋)

 平凡社新書の橋本敏男著「幸田家のしつけ」は、
ロッククライミングの足場情報入手の近道。読んでは味気なし。文章の味わいというのを考えさせられます。

どれも食い散らかし読みなのですが、
今は、小沢書店の青木玉対談「祖父のこと 母のこと」を反芻してみたい気分でいます。


岩登りというは、どのようなものなのでしょう。
途中で、あきらめることもあるのでしょう。
体力が持たなくなったり、足場を踏みちがえたりして、
断念することもあるのじゃないか。


そういえば、幸田露伴の幻談は、釣りの話なのに、まずは、山登りの話からはじまっておりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まあだだよ。

2009-04-24 | 幸田文
黒沢明映画監督の第30作記念作品という、映画「まあだだよ」。
たまたまなのですが、幸田文の関連の本を読んでいる時に、
ああ、この箇所は、そのままに映画「まあだだよ」の解説になっているなあ。
と妙に感心してしまう記述があったので、引用しておきます。

青木玉対談集「祖父のこと 母のこと」(小沢書店)にあります。
ちなみに、この対談集はいいなあ、魅力があるなあ、と私は思っております。

その最初に「母を語る」というのがあるのです。その26~27ページ。
では、引用します。

「・・・・でも露伴先生の前で酔っぱらうわけにはいかないから、もうお手洗が大変です。お手洗にかけこんで、吐いてまた何くわぬ顔をしてもどって飲んでらっしゃる。『あっ、吐いてるな』と思ったら、黙ってお冷やを持っていく。その呼吸、テンポが大事なんです。大変な酒席でした。でもお給仕してさがってくると、ウワーッてみんなが笑う声が聞こえる。露伴の座談というのは、そこへ来た方、面白かったんでしょう。やがて祖父が手を打って、『お帰りだよ』。お見送りに出ていくと、障子が開いて部屋の中から皆さんが『今夜は長居しちゃって』って言いながら、ドヤドヤと出てきたとき、温かい空気といっしょに、そこにあった賑やかさがパーッと外へ流れてくるんですね。『先生、お疲れになったでしょう』『こんな時間になってしまって』と口々に言いながら、皆さん、玄関でコートを着、襟巻を巻いたり、クツを履いたり、ザワザワッとした空気が玄関からスーッと外へ抜ける、門を出てむこうの角を曲がられたな、というところで、ようやく『あー、終った』と思い(笑)、とって返してあわてて客間の片づけをして、祖父の寝る布団を敷くんです。『お支度できました』『いやいや、ご苦労』。母が出てきて『お疲れでございました』ってどっちがお疲れなんだか、ちっとも分からない(笑)。
だけど、そういうときの賑やかさ、何ともいえない雰囲気というものがあって、それが終って、ウワーッと動いていくところの風情なんていうのは、そのよさったらなかったですね。芝居が終って緞帳が下りて、ライトがパッとつく、客席が一斉に動きだす、あれに似てます。その楽しい雰囲気が忘れられません。
・・・・・・」

その「よさったらなかった」という風情。
それを監督は映像として残したかったのじゃないか。
と、あらためて思ったりするのでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

森澄雄

2009-04-20 | 詩歌
読売新聞の月曜日。
読売歌壇・俳壇を楽しみにしております。
といっても、最近は歌壇へと、ついつい目がいっておりました。
今日は、今日とて、

 故郷の地名を探しその後に順に読みゆく歌壇俳壇
          草加市 斎藤宏遠

というのが、栗林京子選の三番目にありました。
【評】は、
「故郷は住む人が減りつつあるのかもしれない。紙上になつかしい地名を発見するうれしさ。歌壇俳壇のこんな楽しみ方もある。」

たしかに、知っている地名の投稿者だと、何か気になります。
歌よりも地名市名から先にざっと探していたりします。
そういえば、私は、歌壇俳壇のよき読者じゃないので、
あんまり投稿者の名前を見ていないところがあります。
どちらかというと、市名地名を見ていたりします。
ところで、この一首は、歌の中に詠まれている地名なのでしょうか。
私は、投稿者の市名地名だとばかり思っております。
( 投稿者の名前だけでなく、市名地域名を表示するのは、
昔からなのでしょうか? )

地名といえば、
読売俳壇の最初、森澄雄氏の選が思い浮かびます。
3月30日の最初の3句を紹介したくなりました。

 雪解の乙字ヶ滝の音たてて  柏市 佐藤茂三郎

【評】乙字ヶ滝は福島県須賀川市にあり、阿武隈川本流の滝。
増水すると約六十㍍の川幅に落瀑する。近くの滝見不動境内に
芭蕉の「五月雨は滝降りうづむみかさ哉」の碑が立つ。
雪解の滝が音をたてている。


 遠近に雪解水音雲巌寺   千葉市 笹沼郁夫

【評】雲巌寺は栃木県大田原市黒羽町にある。
芭蕉は「おくのほそ道」の途次、
仏頂和尚山居の跡を訪ね、
「啄木(きつつき)も庵はやぶらず夏木立」と
詠んだ。遠近に雪解水の音がしている。


 往くひとに見送るひとに春の雲  大阪市 松宮善之

【評】往く人に見送る人にぽっかりと
浮いている春の雲がある。


読売俳壇選の最初に名前があった森澄雄氏の名前が、
4月になってから、消えておりました。
かわって、矢島渚男氏の選になっております。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追悼上坂冬子。

2009-04-18 | Weblog
産経新聞2009年4月18日に上坂冬子氏の死亡記事。
一面の産経抄の隣に「ノンフィクション作家、正論メンバー 上坂冬子さん死去 78歳」という見出し。3面・23面に関連記事。ということで、そこだけを読みました。今日の産経は追悼号のような感じで読みました。

ところで、まずは、産経抄からにしましょう。
こうはじまります。「張本勲さんの日本最多安打記録を破ったイチロー選手の快挙・・・」
昨日のテレビを見ていたら、お祝いに張本勲さんが、イチローと対面する場面が映されておりました。選手控室に張本氏が待っている。イチローが現れる、簡単に張本氏がお祝いを述べ、それだけでもういいのだとでもいうように、張本氏自身が、その部屋をあとにして出て行かれたのでした。イチロー自身もあっけなさそうにしておりました。見ている私にしてから、私が張本氏なら、きっと私も張本氏のような行為をしていただろうというような、気分で身につまされるような感がありました。
ところで、話題はかわりますが、産経抄の言葉の引用で気になったのは
「68歳の張本さんは・・子供のときに手をヤケドしたハンディや、貧乏を背負っていた。『私らのころは、野球が駄目なら生活も駄目になった』と振り返っている。しかし野球に対する姿勢は真摯(しんし)で、常に明るくふるまおうとしていた印象が強い。」

さて、上坂冬子氏。
「上坂冬子さんが14日午前9時50分、肝不全のため東京都内の病院で死去した。78歳だった。通夜、告別式は近親者で済ませた。故人の遺志により、お別れの会などは行わない。」と一面にはあります。社会面はこうはじまっておりました。
「『人間の幸せの条件は愛と仕事』。14日に亡くなった上坂冬子さんが生前、この持論を曲げることはなかった。『自身の選択は』と問われれば、『私は仕事。愛は裏切ることがある。仕事は裏切らないから。失敗しても自分のせい』と答えた。ただ、その言葉に反し、『日本』という国をとことん愛し、そこに生きる日本人の矜持を守るためにささげた人生だった。」

「昨年12月の『産経志塾』では、『自分はこれをやりたいという【虫】を体の中に1匹抱えていないような人間は、大人になってもろくな人間にならない』と若者を諭した。」

「半世紀に及ぶ作家、評論活動のかたわら力をいれた北方領土問題・・・19年12月、変形性膝関節炎に悩まされながら、北方領土の返還を求めるデモに北海道の住民らと参加。足を引きずりながら、最後尾を懸命に歩いていた。その際、女性警察官に『失礼ですが、デモから抜けて歩道に上がれませんか』と声をかけられたという。上坂さんは昨年1月の本紙正論で、このエピソードに触れ、『国家的な意味がこめられていることを知らないとは、失礼ですむ話ではない』と憤りを訴える一方、『北方領土問題に対する一般の知識がこの程度だということに思いを致すべきだろう』とも説いた。」

3面では正論編集部永井優子氏が書いている文の最後の方にこうありました。
「かつて夏の靖国神社を一緒に歩いたとき、『丘の上から景色を見るように、今になって戦争を知らない人が歴史認識だの侵略だのと論議するのは承認できない』とおっしゃっていた。・・・『あの時代』に生きた実感をもとに、戦後日本のありようを語れる人を亡くしてしまった。昭和という時代を見つめ続けた生涯だった。」

花田紀凱(WILL編集長)の談話も載っていました。
「30年来の付き合いです。若造のころからお宅に伺い、弟のようにかわいがってもらいました。周囲を気遣ったりしないで思ったことをはっきりおっしゃる、さっぱりした性格の方でしたね。文藝春秋で昭和史の連載をしていたとき、田中真紀子さんからインタビューを当日にドタキャンされたのですが、上坂さんは『冗談じゃないわよ、行きましょう!』と。一緒に目白御殿に乗り込むと、真紀子さんも面倒くさくなったようで取材に応じてくれたのですが、非常に面白い記事になりました。北方領土に行ったり、原発を見に世界中をまわったり、とにかく好奇心が強く、行動的な人でしたね。でも『物書きは生活が安定しないから』とアパートを買って生計の道を立てるとか、生活力をきっちり持った人でもありました。・・・・」


今日の産経新聞上坂冬子追悼は読み甲斐があります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思いがけない時。

2009-04-15 | Weblog
清水幾太郎著「私の文章作法」(中公文庫)に、こんな箇所がありました。

「子供は、四六時中、その世界だけ住んでいるわけではありません。学校の先生の話も聞きますし、友だちとの交際もあります。新聞も読みますし、自分の家庭での経験もあります。以前から私は信じているのですが、一度でも子供の眼の前を通り過ぎたもので、子供の心に痕跡をとどめないものはないのです。」(p173)

じつは、幸田文著「崩れ」を読んでいたら、何だか、私には似たような文だと思える箇所があったのでした。

「私ももう七十二をこえた。先年来老いてきて、なんだか知らないが、どこやらこわれはじめたのだろうか。あちこちの心の楔(くさび)が抜け落ちたような工合で、締まりがきかなくなった。慎しみはしんどい。締りのないほうが好きになった。見当外れなかりそめごとも、勝手ながら笑い流して頂くことにして、心の中にはものの種がぎっしりと詰っていると、私は思っているのである。一生芽をださず、存在すら感じられないほどひっそりとしている種もあろう。思いがけない時、ぴょこんと発芽してくるものもあり、だらだら急の発芽もあり、無意識のうちに祖父母の性格から受継ぐ種も、若い日に読んだ書物からもらった種も、あるいはまた人間だれでもの持つ、善悪喜怒の種もあり、一木一草、鳥けものからもらう種もあって、心の中は知る知らぬの種が一杯に満ちている、と私は思う。何の種がいつ芽になるか、どう育つかの道筋は知らないが、ものの種が芽に起きあがる時の力は、土を押し破るほど強い。」(単行本・講談社、p10)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

音楽的に。

2009-04-13 | Weblog
幸田文の「木」「崩れ」が出版されてから、青木玉氏の著作が出て、そんな時だったかと思うのですが、NHK教育の晩の番組に青木玉さんが登場して対談かなにかをしておりました。その言葉づかいが滑らかで、スラスラと語られて、ギスギスした感じが全くなかったのです。私は、いままでに、こんな喋り方など、聞いた事もなかったものですから、何と言いますか聞き惚れておりました。その癖なにを喋っていたのかなんて、あとで何一つ思い出せないのです。その感じはなんといいましょうか。音楽でも聞いていたような感じなのでした。そう、その感じだけは、いまでも覚えております。

平凡社の「幸田文 しつけ帖」「幸田文 台所帖」の2冊を読んでいる時に、そのことを、あらためて思いだしました。この2冊はエッセイを多く取り上げておりまして、それが文章というよりは、語り口をより彷彿とさせてくれる。

ちょっと、これは別の事なのかもしれないのですが、
産経新聞2009年4月12日の一面に葉加瀬太郎氏の文が掲載されておりました。
そこに、茂木健一郎氏との対談が書かれておりまして、引用します。

「間もなく彼はこんなことを言ってくださった。『葉加瀬さんのお話は心地いいですねえ。音楽みたいだ』と・・・彼はこうもおっしゃった。『人々は普段からもっと、自分の話す言葉が、相手に美しく音楽的に聴こえているか、を考えながら話すべきなんです』。心地いい音楽のような語り口。そういう美しい言葉は、普段の生活でもより人の心を動かすだろう。・・言葉と音楽は切っても切り離せない関係にある。・・・」


この葉加瀬氏の文は、どういうことなのか、私の思うこととは見当違いの場面を想定しているのかもしれませんが、それにしても面白く思いました。

さて「幸田文 台所帖」にこんな箇所があります。

それは辻さんとの対談でした。

「なんだかこのごろ舌が老いてきたような気がしましてね。それは味のことばかりでなく、言葉でもわかります。声も言葉もやわらかにでてきてくれません。そうでなくてもこのごろはデスデスでお話ししましょう。そのデスというのは強くきこえる言葉だから、その上、舌の先がかたくなっていると思うんです。人さまに悪い感じで聞こえやしないかという気がしますね。・・・」(p66)

「土筆(つくし)がどっさり出るんです。土筆が出ると東京では言います。出るなんて、そんな汚ないことを言わないのね。土筆が上がってきた。」(p63)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「崩れ」への招待。

2009-04-13 | 地震
村松友視(ネは示)著「幸田文のマッチ箱」(河出文庫)の解説は坪内祐三でした。その坪内祐三著「考える人」(新潮社)に取り上げられた16人のなかに、幸田文が入っておりました。その最後の箇所を引用しておきましょう。

「この時幸田文は72歳。そのあまりにも野性的な『見る人』(「考える人」)振りはとても感動的です。こうして、『木』がまさにリゾームのように増殖して行く形で、その生涯の最高傑作(しかし未完のままで放置された)『崩れ』が生まれたのです。・・・・紙数が尽きたからというわけではなく、私はあえて『崩れ』の具体的な内容は紹介しません。私の下手な説明抜きに、読者に、直接に、『崩れ』を見て、感じて、そして考えてもらいたいのです。」

「幸田文のマッチ箱」の文意を受け継ぐようにして、坪内祐三は、幸田文「崩れ」を「その生涯の最高傑作」と書いていたのでした。

それじゃ。「幸田文のマッチ箱」からも引用しておきます。

「幸田文は【崩れ】という生涯をくくる大テーマに出喰わした。・・【崩れ】はそれを書く前のすべての負の札に、すべての【崩れ】に輝きを与える幸田文の宇宙と言えるだろう。生れて『崩れ』を書くまでの72年間という時間のすべてが、この作品の中につまっているはずだ。・・・『崩れ』は、生前には上梓(じょうし)を見なかったが、この作品が陽の目を見て本当によかったと思う。それは、『崩れ』という作品こそ、幸田文が作家として残した、幸田文自身への真の意味での鎮魂歌だと思うからである。」(p260~261)


幸田文を読むには、「崩れ」を中心にたどってゆけば、迷ったときにも又もとの道へと出れるかもしれないと、思うのでした。とかく袋小路に入り込んで、お手上げになり、ほっぽり投げてしまいがちな私にとって、お二人による「崩れ」への讃歌は、よい指し示しになると思ったしだいです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

しらす。

2009-04-12 | 詩歌
深皿へすりおろしたる大根の白にまされり春のしらすは  太田市 正田健三郎

読売歌壇。栗木京子選の最初でした(2009年4月6日)。その評は
【評】しらすと大根おろし。清らかな白さが食欲をそそる。春だからこそしらすのおいしさが大根に一歩まさるのだろう。春という季節への挨拶とも言える一首である。

この一首から、村松友視(ネは示)著「幸田文のマッチ箱」(河出文庫)の
ある印象的な場面を、思い浮かべてしまうのでした。

「私は、東京に生れたが静岡県の清水、あの次郎長ゆかりの清水みなとで育った。駿河あたりでは生(なま)のしらすを生醤油(きじょうゆ)、酢醤油、生姜醤油、酢味噌などで食べる習慣がある。この生のしらす漁の解禁日が三月二十一日で、私はこの日になると何となく弾む気分になる。中央公論社につとめている頃も、休日の早朝に久能の浜のしらす小屋へ電話し、しらす漁の舟が出たことをたしかめると、アイスボックスを持って新幹線に乗る。静岡駅からタクシーでしらす小屋を往復し、ふたたび新幹線で東京駅へ戻る。そこからタクシーで何軒かに生のしらすを配って家へ向うということをよくやっていた。その何軒かの中に、あるとき小石川の幸田家入れたことがあった。
夕方近く、突然あらわれた私に、『あらまあ、今日はまた・・・』、笑顔と驚きの表情が入り混じる幸田文さんが、玄関で私の来訪の意味を探るように言った。私は、手短かに生のしらすと食べ方の説明をし、『それじゃ失礼します』と頭を下げた。すると幸田文さんは、『うーん・・・ちょっと待ってよ!』と手で宙を引っ掻く仕種(しぐさ)をし、足早やに奥へ入って、玄関に戻って来たときは小皿と醤油さしを両手に持っていた。
幸田文さんは、私が玄関に置いた生のしらすの入ったパックを開け、蓋の方に少し取って上から醤油を一滴(ひとた)らしすると、それを右手の指で素早く口へもっていった。そして、さっきと同じ笑顔と驚きの表情をつくって『おいしい!』と言い、私にペコリと頭を下げると、『ごちそうさまでした、はい、どうぞお次へお急ぎを』と右手を前へさし出して私をうながした。食べて見せ、ほめ言葉を与えてから私を帰さねば気がすまない・・・・幸田さんらしいと思った。」(p190~191)

うんまだまだあるのです。鯖の話。鰯の話。
それらはまたあとで。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

厄除け。

2009-04-11 | 詩歌
井伏鱒二著「厄除け詩集」(講談社文芸文庫)の最初に置かれている詩は「なだれ」なのでした。
 
   峯の雪が裂け
   雪がなだれる
   そのなだれに
   熊が乗つてゐる
   あぐらをかき
   安閑と
   莨(たばこ)をすふやうな恰好で
   そこに一ぴき熊がゐる


私には、どうも、この詩が巻頭に置かれることの意味がわからずにおりました。
そして、分からずにいるからか、何となくも気になっていたようなわけです。
もしか、と思い浮かぶ文がありました。
さって、平凡社から最近「幸田文の言葉」というシリーズで3冊の本が出ております。最後は「幸田文 きもの帖」で、この4月6日が初版発行日となっております。そのあとがきは、青木玉。あとがきのはじまりは、こうでした。

   今年のお花見はいつになるだろう。
   ビルが立並ぶ東京の片隅に居て、
   季節の変化を直(じか)に知る便りとは、
   桜の開花ではないかと思う。
   冬のコートから身軽になって、
   滞っていた外に出る用に気が動く季節を知らせてくれる。
   ・・・・・・・

 「幸田文 しつけ帖」
 「幸田文 台所帖」
 「幸田文 きもの帖」
という3冊が、2月・3月・4月と月に一冊づつ発売になっておりました。
私は、最初の2冊を読んだのですが、魅力がありました。
そこで、あらためて幸田文著「崩れ」を読んだのです。

その「崩れ」の十一は「・・かねてから心組にいれていた、長野県北安曇郡小谷(おたり)の稗田山崩壊と、浦川姫川の暴れを見にでかけた」とはじまります。

さてっと、ここが肝心な箇所なので、状況を詳しく引用してゆきます。

「稗田山が突如崩れて、浦川ぞいに大土石流を押し出したのは、明治44年8月8日午前3時頃で、夏ではあってもまだ真夜中の熟睡時だったという。・・このときは連日快晴で、しばらく雨らしい雨はなかったという。ここがちょっと、気をつけておくべきところかと思う。長雨のあととか、集中豪雨とかいうのではなくて、お天気続きなのだから、雨による崩壊でないことは明らかでらう。
この崩壊は稗田山北側が楕円形に、長さ約八キロ、高さ河床から約三百メートルのところまで、ほぼ一キロの厚さですべり落ち、その莫大な量の土石が大音響とともに浦川の谷に落ちこみ、浦川はたちまち埋めつくされて新しい平原となり、稗田山はその北半分を失って全く原型をとどめぬ姿になってしまった。さらにこの新平原は下流に移動し、行手にあるものは田畑も人家人命も、すべて押しつぶし呑みこみ、下敷きとしつつ、姫川本流へと直角に殺到し、勢のあまり対岸の大岸壁に打当ると左右にわかれ堆積し、堆積の長さおよそ二キロ、高さ六十五メートルにも及び、ために姫川は堰止められて、湛水の長さ五キロという大きな湖を現出し、橋を壊し人家耕地をひたした。・・・崩壊からはじまって、二転三転、しつこく続けられた災害である。破壊家屋二十七、失われた人命二十三、十キロにもわたって変貌した土地。・・・」

こうして災害の状況を再現して書きすすめたあとに、
こうあります。
「だがここにそうした思いを、からりと晴れ上らせる、これまた感動の強い話をきいた。」として幸田さんの出会いが語られるていたのでした。

「ふと行ずりに逢った人である。足ごしらえをした働き支度で、背負子を負って、軽々と歩いていた。なにぶんにも人のすくない村道で、人に逢えばうれしい。こちらが小腰をかがめると同時に、あちらも会釈してくれた。ただそれだけで行過ぎたのだが、きけばこの人いま六十六歳、災害のときはお母さんの胎内だった。稗田山の崩れは午前三時でまだまっ暗、眠っていたお母さんはたぶん、ごうっという土石流の轟音でおどろいたろうが、その時はもう何が何だかわからないまま、その恐るべき土砂の流れに乗せられていた。どういうわけでそうなったのかはわからない。ただ、土石流の上に乗ったまま流されて、対岸に打上げられ、無事みごとに助かったのである。なぜ転々する土石の急流の上で、土中に捲きこまれることなく、ふわふわと上表にいることができたのか、万雷のような大音響の流下のなかで、どうして錯乱もせずに無事にいられたか、気丈でもあろうし、稀有な好運、奇蹟でもあろうか。こんなこわい目に逢ったのは、たいへんな悲運だが、それでいて無事に助かったのは、たいへんな隆盛運といえよう。凶が吉に転じるのを、この母と子はいのちをもって体験したのである。・・・・・崩壊と荒涼と悲惨ばかりを見歩いてきた私には、なにかしきりに有難くて、うれしくて、ほのぼのと身にしむ思いがあった。」

ここまで読んで来て、私は「厄除け詩集」の巻頭の詩を思い浮かべたというわけです。さて、幸田文は続いて、こういう言葉も引用しておりました。

「『そのとき埋まってしまった家々も、その家の人達も、いまもってそのままになっています。掘り起こすこともできないほど深く埋ったのです』自然のした葬り、とでもいえばいいのだろうか。言葉もない。指し示された方向へむいて、ひそかに冥福を念じた。・・・・」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

握り飯。

2009-04-04 | Weblog
2009年3月30日の産経抄はこうはじまっておりました。

「国文学者の尾形仂(つとむ)さんは戦後まもなく、昼食の握り飯を包んでいた新聞で、恩師の訃報を知った。恩師とは、近世文学研究の大家、頴原退蔵博士だ。戦前に東京文理科大学の学生だったころ、俳文学の指導を受けていた。尾形さんは卒業後海軍へ入り、当時は土木の仕事に就いていた。・・・・」

ところで、頴原退蔵(えばらたいぞう)博士というのは、いったいどのような方なのでしょう。
読んだことがないのですが、林望氏の文に、そういえば登場しておりました。
ちょっと少し前から引用してみます。

「私は学者の世界に長くいたけれども、学者たちが書く文章は、ほんとうに下手くそなのが多い。それも気取りに気取って、生半可で不消化な外来の哲学用語などを鏤(ちりば)めつつ、いってみれば自分以外誰にも分らないような晦渋な文章で書いて得意がってるなんて人がいくらでもいる。『なんでこんなに難しく書くのだろうか』と、いつも首を傾げつつ、それでも難儀して読んでみると、案外内容は貧弱だったりするのだった。そういう若いころの経験にすっかりこりごりしてしまっているので、私は学者先生の書く学術論文というもは、ほんとうに読みたくない。なかには、戦前の古典学者池田亀鑑(きかん)博士や、近世文学の頴原退蔵博士のように、高度な内容を分かり易く面白く書ける先生もいたけれど、それは例外で、現代ではほとんどそういう人は見かけなくなった。・・・」(p125~126・「日本語は死にかかっている」NTT出版)

話をもとにもどして産経抄。
尾形さんは遺族にお悔やみの手紙を送ったことが縁となり、頴原氏の次女、雅子さんと結婚、学究生活に戻ったのだそうです。その続きを引用してみます。

「頴原氏にはやり残した大きな仕事があった。江戸時代の言葉を網羅した辞典の完成だ。昭和10年ごろから、用例を集めてカード作りを始め、その数は10万枚に達していた。【江戸語辞典執筆半ばに父逝きて用例カード空しく遺りぬ】。雅子さんは自らの歌集『夜の泉』のなかで、父の無念をうたっている。やがて夫婦は静かに年輪を重ねていった。・・・尾形さんの脳裏から、義父の辞典のことが離れることはなかったようだ。古希(70歳)を迎えたのを機に、教え子たちに呼びかけ、完成をめざした。【用例の乏しき中より語意を汲むと腐心の夫に父が重なる】。そんな夫を見守ってきた雅子さんは、辞典の完成を見ることなく、平成18年に79歳で亡くなった。『江戸時代語辞典』(角川学芸出版)が、「構想70年」と銘打たれて刊行されたのは、昨年11月のことだ。【妻雅子に対し、やっと約束を果たすことができた】。辞典の前書きの欄外に、小さな文字で記した尾形さんは26日、雅子さんの待つ浄土に旅立った。89歳だった。天寿を全うするとは、このことをいうのだろう。」

産経抄のほとんどを引用してしまいました。
ところで、尾形仂ご夫婦をむすびつけたところの「握り飯を包んでいた新聞に」という箇所に興味を持ちました。
新聞紙でじかに包んでいたのでしょう。
そういえば、お祭りなどの屋台で、焼きソバ屋は、昔は新聞紙の切ったのが皿の代わりになっておりました。
終戦直後のようすは、どうだったのか。
「幸田文台所帖」(平凡社)にこんな箇所がありました。

「戦争のおにぎりは、新聞紙のおにぎりだ。木の葉ならばいさぎよいものを、新聞でじかに包んだおにぎりには、紙のケバがくっついて活字のあとがしみていた。印刷のおにぎり、文字のめしである。それをたべてしまうのだった。印刷おにぎりを超満員の列車の便所の扉に押しつけられながらしみじみ眺めていて、同行のある出版社の青年は『無条件か、―――」とわんぐり食いついた。・・・・」(p36)

むろん推測なのですが、尾形仂氏の「昼食の握り飯を包んでいた新聞」というのも、そんな感じだったのではないでしょうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どっこいしょ。

2009-04-03 | 詩歌
岡野弘彦短歌選に

 老いづけばなにかにつけて「どっこいしょ」その言霊に元気いただく
              前橋市 矢端桃園
『評』はこうでした。
「万葉集に歌があるように古代人は言霊(ことだま)を信じた。
言霊論などというとむつかしいが、生活の実感から言えば老人の
『どっこいしょ』など、まさしく言霊の助けである。」(読売新聞2009年2月10日)

ということで、万葉集巻第五の山上憶良をひろげてみました。

「神代より 言ひ伝て来らく そらみつ 倭(やまと)の国は 皇神(すめがみ)の 巌(いつく)しき国 言霊の 幸(さき)はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人も悉(ことごと) 目の前に 見たり知りたり 人多(さは)に 満ちてはあれども 高光る 日の朝廷(みかど) 神(かむ)ながら 愛(めで)の盛りに ・・・・」

神が出てきたので、神父に連想がいきました。
ジェームス・ハヤット神父について曽野綾子氏が書いております。
(雑誌「Voice」4月号・連載私日記第112回)

「一月十四日・・・・
 夕方、京都三条のカトリック教会のマクドネル神父から電話で、長い間日本でテレビやラジオによるキリスト教の宣教に働かれたジェームス・ハヤット神父が、今朝方肺炎で亡くなられたという知らせがあった。『暗いと不平を言うよりも、進んであかりをともしましょう』という言葉で始まる息の長い番組である。今でもこの言葉は、胸に迫る力を持っている。世の中、不平を言っている人がいかに多いか。・・・ハヤット神父は、八十六歳。最近数年は車椅子のご生活だったから、驚きはしなかったが、一生を或る仕事に捧げるとはどのような重いものか、私は少し知っているつもりだ。私は誰よりも息子ジェームスを遠い日本のために捧げてださった神父のご両親に感謝したい。・・・・」(p252)

暗いと不平を言うよりも、どっこいしょ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸時代人。

2009-04-01 | Weblog
司馬遼太郎著「風塵抄二」に「世界の主題」という文がありました。
その最後は、というと
「【袖ふれあうも他生の縁】とか、【情は他人のためならず】というのは、日本思想の上では非常に重かったことばなのである。」とあります。
う~ん。なかなか、マスコミ報道を基準にしていると、ピンとこない言葉でもあります。
この5ページほどの短文の中ほどには、
「【因縁が一つちがえば自分もそうだ】という【他生の縁】の感覚は、江戸時代人にとって日常のものだったことを思えばいい。」とあります。

ちょっと私には分りづらい言葉なのですが、
それでは、現代の【袖ふれあうも】というのは、
どんな場合があるのかと、思ったりします。


新刊、渡部昇一・養老孟司対談「日本人ならこう考える」(PHP)のまえがきで、養老さんが「無縁というわけではない」と書いておりました。そこを引用。

「渡部先生との共通点はないと述べたが、私は中学・高校が栄光学園で、上智大学と同じイエスズ会の経営である。その意味では准カトリックみたいなところがあって、まったく無縁というわけではない。
とくに私はこだわる性質なので、思春期に受けた教育について、いまでもあれこれ考えることがある。ということは、要するに若いときの教育の影響を受けるということなのである。いまでは、そういう『あとを引く』教育が少なくなったのではないか。その点、さすがにイエスズ会の教育は、歳をとってみて気がつく長所を持っている。
世界を旅して『どこで英語を習った』と、たまに訊かれることがある。『イエスズ会の学校だ』と答えると、それで相手が納得する。それ以上、なにも訊かない。英語に限らない。イエスズ会は教育では『世界的な』定評があるとわかる。それを普遍、つまりカトリックというのである。渡部先生はご自分では表立ってカトリックの肩は持たないと思うので、半分よそ者の私が宣伝しておく。」


何で、司馬遼太郎氏は、江戸時代人について語りながら題名を『世界の主題』としたのだろうと思っていたのです。引き続いて思えば、「日本人ならこう考える」と題して、なんで養老孟司氏はイエスズ会に言及したのだろうと思ったのでした。


以下は蛇足。
じつは「風塵抄」のなかに「他生の縁」について書かれている箇所があったなあと、探してみたのですが、すぐには見つからない(笑)。それでもって、khipuの書評に書き込みをしてあったなあと検索したら、すぐにわかりました。ついでに、そのときの書き込みを以下引用しておきます。
2002年11月6日の書き込みでした。




北朝鮮に拉致されていた方が、24年ぶりに故郷に帰られております。そのお一人曽我ひとみさんが帰郷にあたって、

東京から新潟までの新幹線の車中で綴った文章がありました。


  みなさん、こんにちは。

  24年ぶりに古里に帰ってきました。

  とってもうれしいです。

  心配をたくさんかけて

  本当にすみませんでした。

  今、私は夢を見ているようです。

  人々の心、山、川、谷、

  みんな温かく美しく見えます。

  空も土地も木も私にささやく。

 「お帰りなさい、がんぱってきたね」。

  だから、私もうれしそうに

 「帰ってきました。ありがとう」

  と元気に話します。

  みなさん、

  本当にどうもありがとうございました。


    (毎日新聞10月18日「拉致被害者5人と家族帰郷会見詳報)


これを新聞で見て、しばらくして思い浮かぶ言葉がありました。

芳賀徹著「詩歌の森へ」には、新井白石自伝「折たく柴の記」から引用した文が紹介されております。題は「父にておはせし人」。もうひとつ、司馬遼太郎著「風塵抄二」に「世界の主題」と題された文があります。そこにも「折たく柴の記」。以下司馬さんの文から引用。


「父にておはせし人」という語法が、その冒頭にある。

“私の父は”といえばすむところをこのように持ってまわっていうのは、どの国の言語にもないらしい。この語法には虚空(こくう)がある。・・・

たとえば、江戸時代の法制における盲人救済のやり方が世界史のなかでもすぐれたものだったことが最近注目されはじめている。

おそらく江戸時代の盲人救済の思想的根底に“ひとごとではない”という仏教渡来以来の感覚が息づいていたのに相違ない。

“因縁が一つちがえば自分もそうだ”という“他生(たしょう)の縁”の感覚は、江戸時代人にとって日常のものだったことを思えばいい。・・・・・

以上は、人道的行為と人権擁護という、こんにちの世界の主題についてのことを頭におきつつ、考えてみた。キリスト教なら自明のことなのだが、われわれアジア人はそうはいかない。

日本の場合、古い思想の収納箱の底をかきさがしてみると、以上のような--近代では銹びついてしまったが--回路が出てきた。

人権擁護や奉仕、救援という政治や社会の思考にすこしはお役に立つかと思うが、結論のほうは、読者にゆだねたい。『袖ふれあうも他生の縁』とか『情(なさけ)は他人(ひと)のためならず』というのは、日本思想の上では非常に重かったことばなのである。



報道の取材は別にしても、親族、知人、友人たちと拉致されて帰ってこられた方たちの交わりを思っていると、そこに司馬さんの言葉が思い出されました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする