村松友視著「幸田文のマッチ箱」(河出文庫)を読みました。
編集者なのに、「私はその頃の幸田文さんに原稿を依頼することができなかった」という、そんな村松氏による、幸田文という糸口を大切にひも解いてゆく一冊。
あるいは、
幸田文という峰へは、こう登るのがよいですよ。
と耳元でささやいてくれているような一冊です。
たとえば、こんな箇所はいかがでしょう。
幸田文の親・露伴の看病の記録と思い出を綴った「父 その死」。それを読む松村氏自身を振り返った箇所なのです。
「文庫を、旅行などに持ち歩いていた。・・この作品の細部から自分の縁者の死に横這いしたり、文章から思いもかけぬところへ気持ちが飛躍したりして、百枚程度の作品がなかなかスムーズには読み進められなかった。そして、読んでは置き読んでは置きすることをくり返したあげく、私は読みかけの文庫本を機内に忘れてしまった。・・次の月に・・新しく買い求めた同じ文庫をバッグの底に入れて旅立った。・・・再読したが、最初の部分から初めて出会った文章のようで、私はまたもや文章に触発された自分の迷路をさまよってしまった。どうしてもスムーズに読み進められず、あみだくじのごとく横這いをつづけている・・・作品がそれだけ重層的な内容にみちていて、読んでは置き読んでは休むことを私に強いてきた・・・今年になって三冊目の『父 その死』の文庫本を読んだのだった。」(p166~168)
すこし先を急ぎすぎました。
第一章にもどりましょう。くりかえしになりますが、
そこにはこんな箇所があります。
「私はおこがましいが幸田文の友だちのごとき気分となり、一度も原稿をもらっていないのだ。それは、編集者としての詰めの甘さもあるのだろうが、幸田文の特殊な神経のありようを邪魔したくないという気持ちもあった。
『あたしは、自分が物を書かせてもらってるって気があるから、何かカラダを痛めないと申し訳なくってねえ』
『カラダを痛める・・・・』
『どこかへ旅に出るとか、山へ登るとかね、何かカラダを使わないと』
『ああ、そういうことですか』
・ ・・・・・・」(p13)
こうして幸田文との会話なども交えながら、
村松氏は「幸田文」という峰へ登頂をはじめるのでした。
さて、私が気になったのは「さん」と「ちゃん」とでした。
「私は、幸田文さんを『幸田さん』と呼んでいた。編集者時代、私はなるべく『先生』という呼称を避けていた。川端康成のような【親しくなくて偉い人】に対しては仕方ないとして、永井龍男、尾崎一雄、武田泰淳、吉行淳之介といった【偉くても親しみを感じる作家】は『さん』付けで呼んでいたのだった。女性の幸田文さんを苗字に『さん』付けで呼ぶのも味気ない気がしたが、『文さん』と呼ぶのも憚られて、けっきょく『幸田さん』になったのだった。カラダを使う、カラダを痛める・・・は、父上である幸田露伴の存在を強く意識した言葉だと、そのときも受け止めた。」(p15)
この本の最後の方に、村松氏が宮大工の小川三夫氏へのインタビューをしている箇所が引用されております。そこには「ちゃん」というのがありました。
その箇所をすこし引用してみます。
――幸田文さんの第一印象はどんなふうでした?
【小川】・・・会ったときは作業服姿で、まあまあキャンキャラ声の人やなあと(笑)。・・その頃、幸田先生は木に興味を持っている時期らしくて、何かを教えるとよろこんで。・・
――いつも作業服で見えたんですか。
【小川】作業服で来たり、着物で来たり。
――面と向ってもあやちゃんと?
【小川】そうでしたね。まあ、人がいるときは先生とか言いますけど、そうでないときはあやちゃんと。それを喜んでたような感じですよ。 (p224~225)
このあと、第九章の「語り口と文体」という箇所をとりあげたいのですが、これは、また別の機会に。
そうそう。宮大工職人ということで、思い浮かんだ対談がありましたので、
最後に、引用しておきましょう。
まずは松山巌氏が対談相手の青木玉氏へと話を向けております。
そこいらから。
【松山】・・文さんのものを読んでも、露伴はとにかく出入りの職人さんたちとよく話しをする。物事をこんなに学ぶ機会があるのにお前はなぜ話をしないんだ、といったと書かれてましたけれども、ああいうことは日常的にありましたか。
【青木】庭の手入れに来ている植木屋にも、必ず出てきて『どうだい』って、しばらくお喋りしてます。畳屋が来れば、『ご苦労だね』って言って声かけますし、同じ高さで一緒に座っているという形。向こうにしてみると、ひどく気ぶっせいで困るだろうと思いますけれど。
【松山】むしろ物を書いている人よりも、そういう仕事をきちっとしてる人たちのほうに、自分も親近感を覚えてる。
【青木】いや、物書く人たちの考えること、大概祖父考えちゃうでしょ。そうすると、それはあんまり面白くないんですよ。
【松山】それはそうですね(笑)。
【青木】それよりも、どうやって畳屋が肘でもってこういうふうにやるかっていうようなこと、風の吹いた時にどうやって畳持つんだとかね。
【松山】そっちのほうが、ずっと面白い。
【青木】そういうこと訊いてれば、自分で何かやった時に、実際に会得できますでしょう。
【松山】ああ、そうでしょうね。
( 以上は青木玉対談集「祖父のこと母のこと」小沢書店p76~ )
編集者なのに、「私はその頃の幸田文さんに原稿を依頼することができなかった」という、そんな村松氏による、幸田文という糸口を大切にひも解いてゆく一冊。
あるいは、
幸田文という峰へは、こう登るのがよいですよ。
と耳元でささやいてくれているような一冊です。
たとえば、こんな箇所はいかがでしょう。
幸田文の親・露伴の看病の記録と思い出を綴った「父 その死」。それを読む松村氏自身を振り返った箇所なのです。
「文庫を、旅行などに持ち歩いていた。・・この作品の細部から自分の縁者の死に横這いしたり、文章から思いもかけぬところへ気持ちが飛躍したりして、百枚程度の作品がなかなかスムーズには読み進められなかった。そして、読んでは置き読んでは置きすることをくり返したあげく、私は読みかけの文庫本を機内に忘れてしまった。・・次の月に・・新しく買い求めた同じ文庫をバッグの底に入れて旅立った。・・・再読したが、最初の部分から初めて出会った文章のようで、私はまたもや文章に触発された自分の迷路をさまよってしまった。どうしてもスムーズに読み進められず、あみだくじのごとく横這いをつづけている・・・作品がそれだけ重層的な内容にみちていて、読んでは置き読んでは休むことを私に強いてきた・・・今年になって三冊目の『父 その死』の文庫本を読んだのだった。」(p166~168)
すこし先を急ぎすぎました。
第一章にもどりましょう。くりかえしになりますが、
そこにはこんな箇所があります。
「私はおこがましいが幸田文の友だちのごとき気分となり、一度も原稿をもらっていないのだ。それは、編集者としての詰めの甘さもあるのだろうが、幸田文の特殊な神経のありようを邪魔したくないという気持ちもあった。
『あたしは、自分が物を書かせてもらってるって気があるから、何かカラダを痛めないと申し訳なくってねえ』
『カラダを痛める・・・・』
『どこかへ旅に出るとか、山へ登るとかね、何かカラダを使わないと』
『ああ、そういうことですか』
・ ・・・・・・」(p13)
こうして幸田文との会話なども交えながら、
村松氏は「幸田文」という峰へ登頂をはじめるのでした。
さて、私が気になったのは「さん」と「ちゃん」とでした。
「私は、幸田文さんを『幸田さん』と呼んでいた。編集者時代、私はなるべく『先生』という呼称を避けていた。川端康成のような【親しくなくて偉い人】に対しては仕方ないとして、永井龍男、尾崎一雄、武田泰淳、吉行淳之介といった【偉くても親しみを感じる作家】は『さん』付けで呼んでいたのだった。女性の幸田文さんを苗字に『さん』付けで呼ぶのも味気ない気がしたが、『文さん』と呼ぶのも憚られて、けっきょく『幸田さん』になったのだった。カラダを使う、カラダを痛める・・・は、父上である幸田露伴の存在を強く意識した言葉だと、そのときも受け止めた。」(p15)
この本の最後の方に、村松氏が宮大工の小川三夫氏へのインタビューをしている箇所が引用されております。そこには「ちゃん」というのがありました。
その箇所をすこし引用してみます。
――幸田文さんの第一印象はどんなふうでした?
【小川】・・・会ったときは作業服姿で、まあまあキャンキャラ声の人やなあと(笑)。・・その頃、幸田先生は木に興味を持っている時期らしくて、何かを教えるとよろこんで。・・
――いつも作業服で見えたんですか。
【小川】作業服で来たり、着物で来たり。
――面と向ってもあやちゃんと?
【小川】そうでしたね。まあ、人がいるときは先生とか言いますけど、そうでないときはあやちゃんと。それを喜んでたような感じですよ。 (p224~225)
このあと、第九章の「語り口と文体」という箇所をとりあげたいのですが、これは、また別の機会に。
そうそう。宮大工職人ということで、思い浮かんだ対談がありましたので、
最後に、引用しておきましょう。
まずは松山巌氏が対談相手の青木玉氏へと話を向けております。
そこいらから。
【松山】・・文さんのものを読んでも、露伴はとにかく出入りの職人さんたちとよく話しをする。物事をこんなに学ぶ機会があるのにお前はなぜ話をしないんだ、といったと書かれてましたけれども、ああいうことは日常的にありましたか。
【青木】庭の手入れに来ている植木屋にも、必ず出てきて『どうだい』って、しばらくお喋りしてます。畳屋が来れば、『ご苦労だね』って言って声かけますし、同じ高さで一緒に座っているという形。向こうにしてみると、ひどく気ぶっせいで困るだろうと思いますけれど。
【松山】むしろ物を書いている人よりも、そういう仕事をきちっとしてる人たちのほうに、自分も親近感を覚えてる。
【青木】いや、物書く人たちの考えること、大概祖父考えちゃうでしょ。そうすると、それはあんまり面白くないんですよ。
【松山】それはそうですね(笑)。
【青木】それよりも、どうやって畳屋が肘でもってこういうふうにやるかっていうようなこと、風の吹いた時にどうやって畳持つんだとかね。
【松山】そっちのほうが、ずっと面白い。
【青木】そういうこと訊いてれば、自分で何かやった時に、実際に会得できますでしょう。
【松山】ああ、そうでしょうね。
( 以上は青木玉対談集「祖父のこと母のこと」小沢書店p76~ )