和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「時に君とんだ事になったね」

2024-05-31 | 安房
「安房郡の関東大震災」で、ここには船形町を取り上げてみます。
「安房震災誌」の「海嘯及び火災」のはじまりにこうありました。

「海嘯は、富崎村西岬村の一部、即ち外洋に面した一小部分
 に襲来したのみで、内湾は方面は、平静であった。

 火災は、船形町が第一で、館山之れに次ぎ、北條町は、
 その次位に居るの順序である・・・   」(p204)

このあとに各町村の被害状況があがっておりますので、
そのなかの船形町の記述を紹介してゆきます。

「 海嘯は流言に過ぎなかったが、地震の混乱裡に
  町の西方から火災起り、吹き荒む西北風に煽られ、
  炎々たる紅蓮は家より家へと燃え移り、火焔は砂塵を捲き、
  風向火勢を伴ひ本町の大半を焦土と化した。

  折柄、海嘯襲来の流言頻りに到り、それに脅かされて、
  家財道具の一物をも持たず、子を負ひ老を助けて
  北方の丘をめざして避難した。・・・・・

  ・・避難したものも、一時の流言であったことが分かったので、
  家財の取纏めに帰ったが、余震が間断なく来るので
  畑の中でも、芝生でも鉄道の線路でもところ選ばず、
  板を敷き、戸を並べて其處に家財を積みかさねて
  神を祈り、佛を念じながら、濛々黒煙のうちに
  燃え行く町を見詰めて夜に入ったのであった。

  焼失戸数実に340戸に及んだ。   」(p208~209)


 さらに、田村シルト芳子さんの文には、
 この火元への言及があるのでした。

「 ・・折りしも秋鯖の節の火入れをしていた、
  西の外浜近くのいさばから出火。瞬く間に、
  炎火は西、仲宿、東地区の家々を次々と焼き尽くした。

  また、地は割れ、線路は曲がり、土地が隆起して海岸線は遠のき、
  新たな砂浜が出現し、ために港や堤防は機能しなくなった。・・ 」

  (  p58 編者「あとがき」より
      「安房郡船形町震災誌」船形尋常高等小学校編纂
      改訂版・2012年1月 編集・発行人 田村シルト芳子  )

 
別の本には、船形町長・正木清一郎氏のとった行動を記述した
「船形尋常高等小学校報」がありました。そちらも引用してゆきます。

「 正木清一郎翁は当時船形町長の要職に居られまして
  齢70歳に近きも意気は壮者を凌ぐ程であった。

  当日町役場より中食の為帰宅せられ暑さが厳しいので、
  羽織と袴を脱ぎ浴衣に着替へると、直ちにあの大震災に遭ひ
  翁の住家は勿論、土蔵其の他の建物は全部倒潰、
  翁は幸ひに家屋の下敷とならず逃れ出でたが、
  令夫人は不幸下敷となられたが幸にさしたる負傷もなく  
  助かりしことは不幸中の幸であった。

  学校や役場は勿論倒潰し、学校に於て私共職員下敷となれるもの
  数名あったが、これ亦幸に大なる負傷もなく
  倒潰直ちに逃れ出し者掘り出されし者あり、

  自分は夢の醒めし如く正気付きし時、
  始めて自らの両脚をひしがれて居ったことに気づき
  脚を抜き取らんと努めた。幸に余震の為空間出来しものか
  両脚を抜き取ることが出来た。
  倒潰せる校舎の棟に登りし時、

  責任観念の旺盛なる翁には早くも校門に現はれ、
  児童は職員は大丈夫かと叫ばれ・・・
  掘り出せし御真影を奉戴し居ると
  
  翁曰く海嘯との叫びがするから
  あなたは御影を・・大石正巳閣下の別邸に奉遷しなさい、

  僕が海岸に参って様子を見て来るからとの言葉、
  御老体のこと危険なるべきことを申上ぐると、
  決して心配はない海嘯は沖合に見えてから逃れることが出来るものだ。
  僕に心配なく閣下の別邸に避難するがよいとのことにて
  其の言に従ひました。

  間もなく翁は別邸に来り海嘯は最早来ない心配ない。
  只だ心配なのはあの大火災だ風向きによっては
  町の大部分は焦土と化してしまうと心配されて居られた。 」

 ( p910~912 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )


はい。この「船形尋常高等小学校報」は、まだ続きます。
ここでは、残りのほぼ全文を引用しておわることに。

「  ・・・其の夜は翁と共に御影を守護し奉りつつ
   町の火災の模様を眺め徹夜した。

   翁曰く、時に君とんだ事になったね、
   町の大部分は倒潰した其の上にあの大火災、
   純漁村のこの町では町民を活かす事が先決問題だ。
   全力をこの事に注がなければならない、
   如何にしようかとの御相談・・・

   又曰く、ああ咄嗟の場合よい考も出ないが
   明朝夜の明くるを待って学校の運動場に行き
   町会議員、区長、米穀商を召集し、其の善後策を講じませう。

   夜の明くるを待って校庭に行き使を遣はし
   名誉職並米穀商を召集し、協議の結果直ちに
   本町在米の調査を致せしに漸く1日を支へるに足るか否かの米、
  
   程なく直ちに役場吏員を派して、被害僅少といはれる
   瀧田村平群村より長狭方面に米の注文をさせ、
   為に他の被害地よりも早く米の供給を得、
   町民も安堵の色見えたのであった。

   而し一方負傷病者は医薬なく、発熱せるも氷なき状態を見て、
   之れ亦早く救済しなければならないとて
   町内の薬店より薬品を掘出させ、氷は
   町内昨年故人となられた翁の嗣子正木一作氏日東製氷庫を
   営み倉庫は倒潰火災に遭ひしも大量の氷が焼跡に残存せし故、
   負傷病者に無料給與せしに本町は勿論四隣の町村
   離れては北條館山両町よりも分與を申出づるもの多く、
   此の氷如何に人命を助けたか知れぬ。

  
   被害激甚の町なれば御慰問並視察の方々の来訪引きもきらず、
   翁は朝は月を踏み夜は星を戴き仮事務所に於て精勤せられ、
   御慰問並視察の方に対して被害の状況を町図を広げて諄々と説明し、
   其の救済の計画方法までも詳細に申上げ救助を求むるなど、

   老体の身を以てかく熱心に盡されて
   身に障害あってはと心配せざる人はなかった。

   其の暇には役場吏員、名誉職、各種団体員に給與、救済等に
   関し詳細注意を與へられしが翁の責任感の偉大さと熱心とに
   動かされ、皆吾が身を忘れて盡したのであった。  」(~p913)
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鏡ケ浦沿いの震災写真帖

2024-05-30 | 安房
「安房震災誌」から、北條町・館山町などの家屋倒壊の状況を
あらためて、引用しておきます。

「震災当時に於ける、北條町の総戸数は1616戸であったが、
 そのうちの1567戸は、地震の為に、全潰、半潰、焼失の厄に遭った。・・

 館山町は当時総戸数1678戸で、その内の1663戸が、矢張り
 全潰と半潰と焼失とであった。・・・

 那古町も百分の98、船形町も百分の92といふ被害である。
 此等鏡ケ浦沿ひの町は、実に建物全滅といふ状態である 」(p265)

そのあとに、光田鹿太郎氏が、大阪へ資材を懇請しに出発する
9月11日までの状況が語られております。

「 従って、その応急手段として、小屋掛の必要なことはいふを俟たない
  のであるが、当時小屋掛材料の欠乏には、郡当局の頗る困却したところで  
  ある。罹災者の中には破れた戸板や、板切れなどで僅に
  雨露を凌ぐ用意をしたものもあったが、
  多数の罹災者は、それすらも出来なかった。

  雨のたびに折角取出した破れ残りの家財や商品などは、
  之を始末するの方法がなかった。

  殊に瀕死の病者や、産婦を持つ家では、
  せめて屋根の下で介抱しやうとしても、それが出来なかった。
  そして斯うした惨状が、つい10日もつづいた。

  中には郡衙に救護を頼んで来るものも少なくなかった。
  医薬、食料の大欠乏で大困却をした郡当局は、
  小屋掛材料の欠乏でも、亦たそれに劣らぬ
  大いなる困難を感じさせられたのである。  」(p266)

そして軍艦に乗船させてもらった光田鹿太郎氏が
館山湾を出航したのが9月11日、
館山湾へ帰還したのが9月28日だったのでした。

「安房震災誌」に「善行表彰」という章がありました。

「・・中に郡長より県に調査報告したいはゆる
  功績顕著なるものをここに掲げる。・・ 」(p339)

とあり、その最初にあるのが光田鹿太郎氏でした。
次には、震災当日県庁へ急使を買って出た郡書記重田嘉一氏。
その次、当日郡内平群、大山、吉尾へ急使に立った久我武雄氏。
この順に、記載があります。

どれも、郡長による、県への調査報告が正確にして躍如としております。
ここには、前回気になっておりました『 安房震災写真帖 』について、
その経緯が、この調査報告書に記してありましたのでそこから引用。

まず、前回引用した箇所はこうでした。光田鹿太郎氏が大阪府にゆき

「府当局及び府市の有志者から成る関東大震災救護に関する委員の
 会合があったので、それへ出席して、安房大震災に関する
 一場の講演を為し、且つ携ふるところの安房震災写真帖を示して、
 大阪人の前に安房大震災の惨状を開示した。・・・」(p267~268)

ここに出てくる『 安房震災写真帖 』について
郡長による調査報告から切り抜いてとりあげておきます。

「氏(光田)は大震以来一身一家の一切を放擲し八方に奔走して
 寧日なく今日に及ぶ事績の特に顕著なるもの左の如し。

 ① ・・・・
 ② ・・・・
 ③ 3日余震尚ほ甚だし此の時に当り
   震災の現況を撮影し置くは永久の紀念たるのみならず
   教育上、歴史上、科学上有効の材料たるべき旨を建策し   
   写真師を伴ひ危険を冒して其の撮影に努む

   此の写真は御差遣の侍従及び山階宮殿下の御目にかけたるに
   何れも好材料なりとて御持帰りあらせらる
   其の他地震学者等多数本部視察者に於て複製して参考に供せらる。 」

この写真帖作成は、光田氏による発案実行だったことがわかるのでした。
①と②はここではカットしますが、➃と⑤はひきつづき引用しておわります。

「➃ 災後数日にして医薬食品の配給稍や其の緒に就くや
   次に欠乏を感ずるは小屋掛材料殊に屋根材料なり
   屋根材料としては此際『 トタン 』を措て他に適当のものなし
  
   氏は大阪に知己あり多少該品の買付を為し得るの確信ある旨を
   通じ乃ち小官の依頼をうけ9月10日交通機関は依然破壊状態にして
   旅程困難なるに際し萬難を拝し方途を盡して大阪に赴き
 
   亜鉛板10萬枚、釘300樽其の他の買付を為すと共に、
   大に当地の惨状を説き同情を喚起し幾多慰問品の寄贈を得たり

   10月更らに第2回の亜鉛購入の為め下阪し
   大阪神戸の間に奔走し亜鉛板5萬枚、釘1200樽購入の任を全うす。

 ⑤ 11月下旬3たび大阪神戸に下り布団、毛布募集の大遊説を試み
   布団、毛布其の他千余の寄贈を受け家屋の焼失、流失者に分与し
   寒さと飢に泣く罹災者を救ふの途を講ぜらる。

 以上氏が真に罹災者を思ふの熱情と犠牲的精神の然らしむるものにして
 其の功績顕著なりと謂ふべし。   」(~p342)


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英断家と熱血家

2024-05-29 | 安房
「安房震災誌」をひらいていても、
安房郡長大橋高四郎の正確な年齢はわからないなあ?

そういえば、年齢がわかる人がおりました。
光田鹿太郎(みつだ・しかたろう)1880年(明治13年)生まれ。
ということは、関東大震災の光田氏の年齢は43歳くらい。

「安房震災誌」の中に、『英断家と熱血家』とあります。
英断家の大橋高四郎と、熱血家の光田鹿太郎ということらしい。

光田氏の名前をネット検索してみると、
「岡山生まれ。「福祉の父」と呼ばれる石井十次(1862〜1914)が始めた岡山孤児院で事務を執り、鎌倉・東京を経て、1916(大正5)年、北条町新塩場に千葉県育児園(県内初の孤児院)を開園。関東大震災で園は倒壊するが、孤児は助かる。神のご加護と感謝し、関西方面の知人を頼って救援物資依頼の演説会を各地で開催、布団など1千点余の支援を仰ぎ、熱意と犠牲的精神をもって被災者の寒さと飢えを救った。・・・」(「館山まるごと博物館」より)

「安房震災誌」に登場する安房郡長と光田氏との箇所をここに引用しておきます。

「・・・郡当局は、屋根材料の供給に腐心してゐるところへ、
 偶々千葉県育児園主光田鹿太郎氏が訪て来た。

 氏は宗教家で安房に育児事業に従事してゐるものである。
 此の度の 大地震には、心身を捧げて罹災民の為めに盡してゐるものである。

 屋根材料の欠乏には、初めから確信があったらしく、
『 自分は大阪に大鐵工場を経営してゐる小泉澄と云う知己がある。
  此際のことだ、之れに懇請すれば、トタンとそうした材料は、
  多少手に入れることが出来る確信がある 』といはれた。・・・・

  そこで、郡長は
『 此の急迫な事情で県の指揮を仰ぐ余裕がない、
  全責任は自分一人で負ふ覚悟である。
  トタンと屋根材料一切の為めに、
  即刻大阪へ急行して貰ひたい 』と、・・光田氏に答へた。

 素より英断家と熱血家の、民を救ふか救わぬかの分かれ目の場合だ、
 話は忽ち一決して、愈よ光田氏は大阪へ急行と極まった。

 すると氏は一刻の猶予もなくその場から直ちに飛び出して、
 館山に行って、碇泊してゐた軍艦に事の次第を訴へて、
 大阪急行のことを頼んだ。光田氏の熱心は艦長の同情を喚起して、
 遂に即刻乗艦の許可を得た。
 
 —— 当時鉄道も汽船も、震災の為めに杜絶して、軍艦による外なかった。——
 そして、直ちに館山湾を出発した。それは9月11日であった。

 ・・・大阪に着くと、直ちに小泉氏を訪ひ、
 次で大阪府庁を訪ふて屋根材料のことを懇請すると同時に、
 偶々府当局及び府市の有志者から成る関東大震災救護に関する
 委員会の会合があったので、それへ出席して、
 安房大震災に関する一場の講演を為し、
 且つ携ふるところの安房震災写真帖を示して、
 大阪人の前に安房大震災の惨状を開示した。

 ・・・府庁では・・忽ちに『トタン』10萬枚と、釘300樽、鎹1萬本、針金2千貫。
 外にローソク、マッチ、衛生材料を取りまとめ、その上之れが輸送に要する
 汽船の提供までも尽力・・一刻も早く罹災者の急を救ふべく厚意を寄せられた。

 ・・・館山湾へ入港した・・時は実に9月28日であった。  」(p266∼268)


ここは、長くなるので、次回もつづけることにします。
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ねえ それが

2024-05-28 | 詩歌
さてっと、昨年の講座では、8月の夏休みに高校の教室を借りて
公民館便りで一般の方を募集し、10数人参加でおこないました。

ほとんどが、70代以上でした。実施日は水曜日なので
60歳代の方々は仕事をしています。そんなこんなで、
思い浮かんだのは、曽野綾子さんの言葉でした。

「今度の地震でも、比較的老年の人はほとんど動揺を示さなかった。
 多くの人は、幸福も長続きはしないが、悲しいだけの時間も、
 また確実に過ぎて行く、と知っている。

 どん底の絶望の中にも、常に微かな光を見たからこそ、
 人は生き延びてきたのだという事実を体験しているのである。」

( p20 曽野綾子著「揺れる大地にたって 東日本大震災の個人的記録」 )

そういえば、思い浮かぶ詩がありました。

       希望    杉山平一

   夕ぐれはしずかに
   おそってくるのに
   不幸や悲しみの
   事件は

   列車や電車の
   トンネルのように
   とつぜん不意に
   自分たちを
   闇のなかに放り込んでしまうが
   我慢していればよいのだ
   一点
   小さな銀貨のような光が
   みるみるぐんぐん
   拡がって迎えにくる筈だ

   負けるな

 (p12~13 杉山平一著「詩集 希望」編集工房ノア・2011年11月2日発行)



ちなみに、曽野綾子氏は1931年生まれ。
そうして、杉山平一氏は1914年生まれ。
さらには、柴田トヨさん1911年生まれ。

柴田トヨ詩集「くじけないで」(飛鳥新社・2010年3月発行)から最後に引用


      あなたに 

    出来ないからって
    いじけていてはダメ
    私だって 96年間
    出来なかった事は
    山ほどある
    父母への孝行
    子供の教育
    数々の習いごと
    でも 努力はしたのよ
    精いっぱい
    ねえ それが
    大事じゃないかしら
    
    さあ 立ちあがって
    何かをつかむのよ
    悔いを
    残さないために

   

コメント (2)
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墓碑銘を読みあげ

2024-05-27 | 地震
関東大震災の際に、母親から常に言われていた安政の大震災を
思い浮かべたエピソードがあったのでした。
  ( p878~879 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )

その回顧から思い浮かべるのは、
東日本大震災と、昭和6年岩手県田老村での大津波でした。


詳しくは、吉村昭著「三陸海岸大津波」(文春文庫)の
第二章「昭和8年の津波」にある「子供の眼」(p120~)にあります。
それはそうとして、ここに引用するのは、
東日本大震災の後に出版された、
森健著「『つなみ』の子どもたち」(文藝春秋・2011年)です。

吉村昭の本に、尋常小学校6年牧野アイさんの作文が載っておりました。
森健の本には、そのアイさんの現在を尋ねております。
一部分だけですが、この機会に引用しておくことに。

「 『 津波はおっかねえから、地震が来たら
   ( 津波 )警報を待たずに逃げろ、というのは、
   うちでは口酸っぱく言われたことでした 』

 栄子(アイさんの子)の記憶には、アイのこんな習慣が深く刻まれている。
 
『 母は津波を忘れないために、夜寝るときには、洋服をきちんと畳み、
  着る順番に枕元に置いておく。玄関の靴は必ず外向きにして揃えておく。
  
  避難の際は赤沼山への道を決めておく。また、
  お盆のお墓参りでは必ず墓碑銘を読みあげ、
  誰が津波で死んだかを口にしていた。

  どの振る舞いも母自身への津波への教訓であると同時に、
  私たち子どもたちへの防災教育でもあったのです 』

 吉村の本の中でも、アイは取材にこう答えている。

( 現在でも地震があると、荒谷氏夫婦は、
  顔色を変えて子供を背負い山へと逃げる。
  豪雨であろうと雪の深夜であろうとも、
  夫婦は山道を必死になって駆けのぼる。

 『 子供さんはいやがるでしょう? 』
  と私が言うと、
 『 いえ、それが普通のことになっていますから一緒に逃げます 』
  という答えがもどってきた。

  荒谷氏夫婦にとって津波は決して過去だけのものではないのだ。 ) 」

      ( p250~251 「『つなみ』の子どもたち」 )

もうすこし引用して、最後にします。

「 吉村昭が取材に来たとき、アイは49歳、功二(荒谷)は田老町の
  第一小学校の校長だった。またその子ども、四女の栄子は
  中学生だったという。 ・・・・・・

  津波に遭ったこと、また津波の地に戻ってきたこと、
  そしてもう一つ付け加えるなら、あの作文を書いたこと。
  この三つの出来事がアイの人生の大きな転機となっていた。
  津波で家族全員が失われた。その悲しみ、そして、
  津波の恐ろしさを伝えることが、アイにとって
  昭和8年以来80年近い年月の責務となっていた。・・・」(~p252) 
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下から来る地震はこはいよ

2024-05-27 | 地震
富津尋常高等小学校・八田知英の短文があり、
そこに、安政の大地震と関東大震災が語られておりました。
引用しておきます。

「・・・やがて下から持ち上げられる様な気持でドーンと来た、
 私は『 地震だ。出ろ 』と思はず叫んだ。

 広尾訓導は『 大丈夫だ 』と云った
( 其の大丈夫だと言ったのは倒潰することはない、
  夏休中に教室の柱を修理したからの意味で有った )

 私は『 何に出ろ 』と言って外へ出た、
 ころころと転げて畑の中まで転げ落ちた。

 頭を上げて見ると『 ガラガラ 』と砂煙りを上げて
 東側の校舎が倒れるのを見た。

 私も広尾訓導も命を拾った。
 児童も早く逃げ出して居った。

 私の父母は江戸で生まれ安政の大地震のとき恐ろしい目に遭った。
 
 母は常に『 下から来る地震はこはいよ 』と教へてくれた。
 今更に母の言葉の有難味を覚える、

 下から来る地震東京湾沿岸三、四尺も隆起したところから見ると、
 下からまくし上げたに違ひない。   」
 
       ( p878~879 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )
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人の言葉の散りやすさ②

2024-05-26 | 地震
「大正大震災の回顧と其の復興」上巻に
明尋常高等小学校報が載っておりました。
そこから今回は引用してみます。

明村(あきらむら)青年団とあります。
ちなみに、千葉県東葛飾郡にあった村で
現在の松戸市役所のあたりのようです。
この文のなかに「 為に救護団は自警団とかはり 」とある箇所を
途中から引用してゆきます。

「 明村青年団は挙って避難民を救助せんと準備した・・・
  炊事場、救護所等を急設して麦湯、ふかしいも、握飯等を用意した、

  刻々と避難民は押かけ何百人かを接待した、
  されど益々避難者は増加するので一層徹底的に救護せんものと
  2日午前5時支団一同協議した結果、救護所には本支団倶楽部(栄松寺)
  を当てて其の準備をした、

  午後になると不逞漢云々との流言蜚語盛に起り一層人心に不安を加へた、
  為に救護団は自警団とかはり、『不逞漢と見たらやってしまへ』の
  声起り伝来の日本刀まで持ち出して意気をあげてゐた、
  水も洩らさぬ警戒振りであった。 」(p900~901)

ここから、本支団顧問中村戒仙と自警団との話になります。

「 ・・(禅師)は自警団詰所に来り一同の様子に驚き何事ぞと問はれた。

  不逞漢に対する事情を話すと
『 それは以ての外である。無警察状態の折であるから何かの誤であらう、
  殊に彼らも尊き人類である以上、保護するのが当然だ 』

 と警告された、団員一同は軍人迄も之に当るの時に於て
 保護することは出来ないといって端なくも殺気立ち論争となった。・・

『 其れまでの覚悟ならば萬一不逞の徒が現はれたなら捕縛して
  おれの寺に連れて来い、此の事が静まるまでおれが保護の任に当る 』

 といって頑として動かなかった。
『 ・・・・其れが亦御佛の慈悲である、よし
  1~2の不心得者があったにしても、全部がさうとはいはれない 』

  と懇々と説かれたが、
  其の時は一同も殺気だって居たこととて、或者は
『 時に容れらざる説だ。我々の行為を邪魔する説だ。
  たとへ本支団の顧問だと云へ余り解らなければ真先にやってしまへ 』
  等といふ者もあったが、
『 成程 』と心の奥に感じさせられた者も少なくなかった。

 斯くして一日すぎ二日すぎ漸く平穏にかへった。

 一月も経ってから一同は全く彼の時はあはてたものだ、
 流言であった、蜚語であった、今になって顧みると

『 あの場合よくも和尚様はああいふ態度がとれたものだ 』

 と感心してゐる。お蔭で一同も悔を後に遺すこともなく、
 平素の修養の必要であることを切に覚った・・・・

 師の本支団顧問当時、大震火災満一周年には青年団として
 卒先死者供養塔を建立して盛大に供養された、
 そして和尚さんは当時の追憶談をしてくだされた。  」(~p902)
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人の言葉の散りやすさ

2024-05-25 | 安房
流言蜚語から、私は岸田衿子の詩の2行を思い浮かべます。

    人の言葉の散りやすさ
    へびと風との逃げやすさ

それはそうと、散らずに言葉をささえるという事例を以下に示すことに。

「安房震災誌」に、関東大震災の9月3日の晩の出来事が書かれています。

「 9月3日の晩であった、北條の彼方此方で警鐘が乱打された、
  聞けば船形から食料掠奪に来るといふ話である。

  田内北條署長及び警官10数名は、之を鎮静すべく
  那古方面へ向て出発したが、
  掠奪隊の来るべき様子もなかった。

  思ふに是れは人心が不安に襲われて・・・・
  何かの聞き誤りが基となったのであろう。  」(p220~221)

これに安房郡長大橋高四郎は、どう対処したのか

「 すると、郡長は、
 『 食料は何程でも郡役所で供給するから安心せよ 』
 
  といふ意味の掲示をした。可なり放胆な掲示ではあるが、
  将に騒擾に傾かんとする刹那の人心には、
  
  此の掲示が多大に効果があったのである。
  果して掠奪さわぎはそれで沮止された。  」(p221)

この大胆な掲示内容を守るべく、郡長は食料調達へと
力を注いでゆくことになります。

「 郡当局は、一方県に急報して、食料の配給を求むると同時に、
  他方旧長狭に駐在してゐた県の耕地整理課技手齋藤正氏に嘱託して、
  同地方の米を買収して、鴨川より海路北條に輸送するの計画をした
  ところが、米の買収は中々困難であった。

  それは、何時又重ねて大地震の来るかも知れないといふ懸念と、
  交通杜絶の為めに、今米をはなせば、生命をつなぐ途が絶える
  と悲観したからであった。

  ―― 此の時 徴発してはどうだ。 と、いふ話もあったが、
     郡長は頭からそれに反対した。それは、唯でさへ
     
     人心恟々たる折柄に、徴発でもやったら、
     事態容易ならぬこととなるからであった。 ――  」(p261)


ここで、『徴発してはどうだ』という意見に
安房郡長は「頭からそれに反対した」とあるのでした。

安易な徴発が、さまざまに容易ならぬ事態を招くことを
郡長はきっと、経験知からして、判断を下していたのかも知れません。

たとえば、『米騒動』にかぎってみてゆくと、
「 騒動の第一期すなわち前駆期の事件のいちじるしい特徴 」
 が記録されているのでした。

「・・・富山県下のそれや岡山県の津山町、林野町、
 広島県の三次町、和歌山県の湯浅町などのように、
 自町村の米を他へ移出することを禁止する要求が
 事件のきっかけとなっている場合である。     」
         ( p105 「米騒動の研究」第一巻・有斐閣 )


うん。ここは、歴史的地理的に『米騒動』をめくってみます。
1918(大正7)年の米騒動は、
「それは、7月22日の富山県下新川郡魚津町の漁民の主婦たちの集会にはじまり、9月17日福岡県嘉穂郡明治炭坑の暴動で一応おさまるまで、
 すべての大都市、ほとんどすべての中都市、全国いたるところの
 農村、漁村、炭坑地帯など、一道三府三八県、およそ500ヵ所以上・・」
        (p1 「米騒動の研究」第一巻 )

この「米騒動の研究」第3巻には、千葉県の事例が新聞の記録から
とりあげられておりました。
安房郡勝山町と安房郡湊村とがとりあげられております。
ここには勝山町の記述を引用してみます。

「勝山町および船方町(船形?)では、
『 漁師の女房連も寄々町役場に話かけて、救護を願い出たるが 』
                    (万朝報、8・20)
『 ・・・形勢不穏の状を呈したれば、19日』(大阪朝日、8・21)
 朝、『成本北条署長は部下を従えて』(万朝報、8・20)、
『 同地へ急行し、その善後策を講じたるがため、平静に復せり 』
                  (大阪朝日、8・21)     」
                 ( p380 「米騒動の研究」第3巻 )


もどって、
『 食料は何程でも郡役所で供給するから安心せよ 』
といふ意味の掲示をした郡長の、そのあとも
「安房震災誌」に記述がありますので、
最後にそちらも引用しておきます。
安房郡内で米を現金で買入をしてからのことです。

「斯の如くにして、僅に集めた米は、
 焦眉の必要に応じて、それからそれへと配給して行ったが、
 
 日を経るに従って欠乏甚だしく、
 7日の夜に至っては、全く絶望状態に陥った。

 殊に・・『 食料は何程でも郡役所で供給するから安心せよ 』といった、
 各所に掲げた掲示で、人心を安定に導いてゐる刹那のことである。
  ・・・・・・・・・・

 郡長は・・翌8日の払暁、鏡丸に乗じて上県し、
 つぶさに郡民の窮乏を訴へ、而かも米の欠乏甚だしきを以て、
 直ちに米9千俵の急送を懇請したのである。

 すると県も之を容認して、米5千俵を給与するに決した。
 且つ輸送の為めに、館山湾に碇泊中の汽船を徴発すべく
 徴発令2通を交付された。

 そこで、郡長は9日直ちに帰任して、
 汽船2隻を徴発し、廻米の事に従はしめた。
 そして、その翌10日であった。
 突如、県よりは更らに米1千俵、増加配給する旨を通達された。
 此の通達は勅使御差遣あらせられた前日のことであった。

 震後人心に強い脅威を与へた食料問題も、是に至って
 漸くその眼前の急より救はるることを得たのである。  」
                (p262 「安房震災誌」 )


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9月6日、地震講の記念日。

2024-05-24 | 安房
関東大震災で被災した安房郡役所から、重田郡書記が徹夜疾走して、
9月2日の午後一時半頃に、千葉県庁へ到ります。

そこから、県内各地へと安房の状況が伝えられることになります。
その様子をたどってみます。

  本銚子町 ( 本銚子町青年団報 )より

「・・・翌2日に至って県下南部の震災も確実に伝へられ
  人心恟々たる内に郡役所より通牒あり。

  安房郡の震害甚しき故救護班を組織して出動せよとの事であった。
  仍て早速青年団員中より有志を募集して15名を得た。
  此の外に医師5名と総計20名で班は組織された。 」

       ( p1352 「大正大震災の回顧と其の復興」下巻 )

 以下には、北條に着くまでの様子が書かれておりました。

「 愈々出発となったが汽車は日向以西は不通と聞いて銘々自転車を
  準備して明朝を待った。

  翌9月3日早朝出発日向駅からは自転車で夜来の雨に
  道路泥濘幾多困難を凌ぎつつ漸く千葉に着いたものの
  西海岸も矢張り汽車不通已むを得ず其のまま
  巡査教習所に泊ることにした。不安と焦燥の一夜を明した。

  あくればもう4日である。
  今度は千葉駅前に自転車を預けおき、
  汽車で成東まで引返し更に勝浦までは汽車、
  之より自動車で天津へ着いた。

  最早日は暮れてゐるが
  前途が急がれて宿泊など出来ない。
  徒歩鴨川着、小学校の庭にしばし仮寝の夢未だ結ばぬ2時間計りにて
  又出発、和田町役場の庭に天幕あるを幸、
  ここに又1時間計りの仮寝をしたのは夜半であった。

  かくの如くにして漸く北條に着いたのは実に
  5日の午前11時頃であった。

  途中勝浦より千倉まで舟行された救護班小野田周齋外4名の
  医師及団員1名は茲に合体したのである。
  我等の班は救護班としては第一着であった。
  そして最惨害を極めた那古船形方面へ行くことになった。・・・」  
                         ( ~ p1353)

  旭町青年団報 より    (p1387~ )

「本団は9月4日正午県召集の緊急救護出動の命あるや
 団長は直に各支部に出動準備と人員の割当を通達せり。

 午后4時に至り各支部より確定報告あり。
 直に海上郡第二救護班医師4名団員12名、
 旭町青年団割当分の編成を終り
 警察分署を経て県に編成完了の報告をなせり。

 6日一番列車にて出発、成東大網勝浦を経て、
 途中困難と戦ひつつ鴨川に着き第一夜を明かし
 翌朝徒歩して北條警察署に辿り着く。
 
 直に警察並郡衙に到着報告をなし
 先発隊海上郡救護班銚子第一班と事務引継ぎを終り
 食糧部より給与の玄米を焚き夕食をとり
 案内さるるまま北條食堂に一泊す。  」


以前には、銚子青年団の活躍を引用したことがあったので、
ここには、旭町青年団の記述をつづけて記録しておきます。

「 一行は東天明けぬ内に、那古町に行き茲にて2班に分れ
  医師2名団員6名船形町へと急行す。

  船形町も全滅同様の惨状にて立てる家一戸とてなく
  寂寞荒れ果てたる廃墟の如く夜間は総て燈火なく全く暗黒たり。

  到着早々治療準備を行ひ8時より診察す。
  団員は主として受付手伝及各種の伝令、衛生材料運搬食糧分配等で
  那古町は観音堂下船形町は船形クラブで不眠不休の活動を為し、

  夜間は主として重患者を館山水産試験場へ彼の湊川を徒渉し、
  駆逐艦川風よりの探照燈を唯一の頼りとし輸送す。又水の運送等も行った。

  救護人員の計813名にて船形町は内科の48名外科の414名、
  那古町は内科の35名、外科の316名の多数であった。
  右総て延人員にて本職等の余り知る所にあらざれど
  受付簿に依り記載す。

  9日午後3時交代者来るにより引上げ命令あり。
  引継をなし郡役所並北條警察署に完了の報告を済し
  帰郷する旨を告ぐ。

  一行は出発以来不眠不休の活動にて加ふるに
  飲食物さへ不充分なるため皆やせ心身の疲労甚し。

  8時漸く雨は止んだ。風浪高きも出帆すとの報あり。
  帰心矢の如き折柄、元気は百倍せども
  前日正午夕食を摂りしままにて空腹と疲労は増すばかり
  漸く乗船す風浪高く皆船酔せり。

  午後4時木更津沖へと着く。
  上陸し5時30分に乗車し千葉にて乗替10時に佐倉に下車一泊す。
  翌朝一番にて帰郷することにした。
  重任も果し出発以来初めての入浴に心身の疲労一時に増し
  初めて布団の上に眠る事が出来た。

  一同記念撮影をなし地震講を組織し、
  9月6日を記念日とし、茲に目出度解散するを得た。 」(~p1389)




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備蓄と民間防衛と経文。

2024-05-23 | 地域
曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社・2011年9月10日発行)。
そのなかに「スイスの『民間防衛』に学ぶ」(p107~)という箇所。
すこし引用してみることに。

「・・第2の理由として、私の頭の中のどこかには常に毎日の生活が
 崩れる日に備えて、幾ばくかの備蓄をするということは国民の義務
 だという観念があった。

 それを私に教えてくれたのは、スイス連邦法務警察省発行の
 『 民間防衛 』という本であった。・・・
 
 16歳以上の国民には、この『民間防衛』なる小冊子が配られる
 と聞いていた。今、私の手元にあるのは、1974年7月に原書房
 から発行された第2刷である。・・  」(p108)

そして、すこしあとに、こんな箇所がありました。

「 備品の中に聖書があるというのもスイスらしい。
  日本だったらもちろんお経文を持ち込む人もいるだろう。」(p 113 )


今回は、この『お経文』という箇所が気になりました。
私事。5月20日21日と葬儀に親族としておりました。
日蓮宗の坊さんに通夜と本葬と、
『妙法蓮華経』のお経本の読経をしていただき。
二日にわたって、その読経について声を出しておりました。

  開経偈(かいきょうげ)からはじまり
  妙本蓮華経。方便品。第二 とつづき
  欲令衆(よくりゃうしゅ)は、漢字と平仮名でした。

まだ、読経はつづくのですが、ここには
欲令衆にふれることに。

通夜では、「欲令衆」の一部を全員で読経し
本葬では、「欲令衆」の全文をお坊さんが、立ち一人で読経されておりました。

その通夜での一部読経された「欲令衆」の箇所を、ここに引用しておきます。

「  三界(さんがい)は安き事無し。
   猶(なお)火宅(かたく)の如し。

   衆苦充満(しゅうくじゅうまん)して甚だ怖畏(ふゐ)すべし。
   常に生老病死(しょうろうびょうし)の憂患(うげん)あり。

   是(かく)の如き等(ら)の火、熾然(しねん)として息(やま)ず。
   如来(にょらい)は已(すで)に三界(さんがい)の火宅を離れて、
   寂然として閑居(げんこ)し、林野(りんや)に安處(あんじょ)せり。 

   今此三界(いまこのさんがい)は、皆是れ我有(わがう)なり。
   其中の衆生(しゅじょう)は、悉(ことごと)く是れ吾子(わがこ)なり。
   而(しか)も今此處は、諸(もろもろ)の患難多(げんなんおほ)し、
   唯我一人(ただわれいちにん)のみ能く救護(くご)をなす。  」


はい。「欲令衆」の三分の一ほどを、通夜の席で読経しました。
「欲令衆」の文は漢字と平仮名まじり、私にも理解しやすい。 
はい。それに、漢字にはきとんとフリガナがありありがたい。


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それから丁度4年目のこと。

2024-05-20 | 安房
『安房震災誌』は、大正15年3月31日発行とあります。
そして、編纂兼発行者は千葉県安房郡役所とあります。

すこし、郡制の廃止にふれておきます。検索すると、

「 1921年(大正10年)4月12日に
          『 郡制廃止ニ関スル法律案 』が可決され、
  1923年(大正12年)4月1日に郡制が廃止された。
           郡会は制度の廃止と同時に無くなったが、
           郡長および郡役所は残務処理のため
  1926年(大正15年)7月1日まで存置された。        」


はい。宮沢賢治が稗貫郡立稗貫農学校教諭となったのが大正10年でした。
のち、大正12年4月に郡立稗貫農学校は、県立花巻農学校となっております。

安房では、大正11年2月に郡立安房農業水産学校の創設が認可され。
大正12年4月25日、県立安房水産学校の設置が認可されたので、
水産科を廃して千葉県立安房農学校と改称した。


こうして、関東大震災の大正12年9月1日には、
ちょうど、郡制度が廃止された年だったのでした。

    郡会は制度の廃止と同時に無くなったが、
    郡長および郡役所は残務処理のため
    1926年(大正15年)7月1日まで存置された。 

この残務処理の期間に、関東大震災がおこったのでした。そして、
大正15年までの期間内で『安房震災誌』が発行されておりました。

郡制については、こうありました。

「 この郡制に、府県で処理するには小さく、
  町村で処理するには大きい事務を処理させるため、  
  両者の中間に位置する行政・自治団体としての機能を
  付与したのが法律としての『郡制』である。 」

こうして、安房郡長・大橋高四郎の時代的な背景がわかります。
さいごに、『安房震災誌』の序文にある、大橋氏の文のはじまり
を引用しておくことに。

「 私が安房郡に赴任したのは、
  大正9年12月のことで、まだ郡制時代のことであった。
  大正12年9月の関東大震災は、それから丁度4年目のことである。  」


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郡長と、宮澤賢治に貴島憲

2024-05-19 | 安房
資料の裏付けがない癖して、身近で、
あれこれ結びつけたくなるのでした。

今日思い浮かぶのは、米騒動と農学校設立でした。

米騒動が、1918(大正7)年にあったということでした。
それでは、大橋高四郎はそのころどうしていたのか?
取敢えず、山武郡の郡長をしていた頃と重なるような気がします。
そこでの、大橋高四郎は農学校の創立に尽力されていたようです。
そうして、大正9年12月、大橋氏は安房郡長として赴任し、
安房では、安房農学校の設立にかかわることになります。

ここでもって、思い浮かべるのが、宮澤賢治でした。

1920(大正9)年・・盛岡高等農林地質学研究科を終業した賢治でした。
1921(大正10)年9月、妹トシの病報を受け花巻に帰ってきます。

「そういうとき・・郡長の葛(くず)博、農学校校長の畠山栄一郎が
 賢治を農学校教諭にむかえたいといってきた。・・ 」
         ( p187 堀尾青史「年譜宮澤賢治伝」中公文庫 )

1921年12月3日 25才になる賢治は、稗貫郡立稗貫農学校教諭となる。

賢治が農学校の教諭になるさいに、
郡長からどのような言葉をかけられたのか、わからないながら気になります。
貴島憲が安房農学校の教諭になる、そのキッカケならば、
安房農学校の記念誌に、貴島氏の回顧文が載っておりました。

今回は、その回顧文を引用しておわります。

「 大正10年の春、時の安房郡長の大橋さんの電報で、
  私ははじめて北条の郡役所にやって来た。
  そこが安房農業水産学校の創立事務所になっていた。

  郡役所の玄関の前に大きな辛夷が一ぱいに花をつけていたから
  3月の中旬の事であったであろう。

  そこで大橋さんから学校に関して色々なお話を承った。
  何でも此の新しい学校は、今度新に文部省で制定された
  五ヶ年制実業学校として、全国に率先して創立されたもので、
  其期する処は、従来の様な不徹底な到底役に立つ筈のない
  下手な技術員養成でもなく、又それかと言って今の中学の様な
  ・・・・ものでもなく、将来社会の中堅として役立つべき青年に
  直に基礎的な普通教育を与へる学校、つまり農村的漁村的公民学校
  というべきものでなければならないという事であった。

  私はどうもこれはむつかしい仕事だと思った。
  併し同時に大変大切な事で、もしそれが全国に普及し
  よく運用されたなら、かの豆粕程のデンマークをして
  世界に重きをなさしめた国民高等学校のような働き、
  此の行き詰まった貧乏国家を一新せしめるような
  働きをなさないものでもない、
  吾々もまあ精々椽の下の力持を勤める事にしようと考へた。

  大橋さんの清新溌溂たる精神に感服すると共に、
  私自身も大に愉快になってきた。     」
       ( p76 「千葉県立安房農業高等学校創立五十周年記念誌」)
 
  
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椀に、われ鍋・破れざる。

2024-05-18 | 安房
「安房震災誌」に、
「米の欠乏と罹災者の窮状」という箇所があります。
そのはじまりは、

「安房郡の全体からいふと、米は平年に於て、自給自足の土地である。

 此の大体論から推察すると、安房は大震災があっても・・・
 米の欠乏は左まで甚だしくない筈である。と、思はれるのである。
 ・・・然し・・・外観上の皮相論に過ぎない。 」(p258)

こうして、実際の窮状を指摘しておりました。

「 9月1日の震災の当時まで持越されるやうなものは
  大体に於て、殆ど総てが籾(もみ)米である。

  籾米が即刻の役に立たぬのはいふまでもない。
  加之ならず、籾摺器も、収納舎も、悉く地震で破壊されて了ったのだから
  手の着けやうがない。それでも、純農家の方は、辛くも一時の
  凌ぎやうもあらうが、被害の激甚な土地は、

  鏡ケ浦沿ひの市街地であり、漁村である。

  平素に於て、農村地から米の供給を仰いでゐるのである。
  多少の買置き位は兎も角も、それすら、倒潰家屋の下敷となって、
  物の役に立つべきものがない。

  突如として起った大震災である。・・激震地に米のないのは不思議はない。
  
  その上に道路も橋梁も破壊されて、
  米の輸送の途は絶対に断たれて了ってゐる。

  安房は自給自足の國だなどとの悠々閑々たる皮相論は、
  此の大震災に直面しては、何処へも通用ならぬのである。
  米騒動の起らなかったのが仕合であった。  」(p259)


ここに、『 米騒動 』という言葉が出てきておりました。

井上清・渡部徹編「米騒動の研究」第一巻(有斐閣・昭和34年)の
「騒動の構造」のなかに、いくつかに分けられる構造のひとつが
印象に残ります。そこを引用。

「・・・・この型では・・市町村当局や有力者に生活救済を嘆願するが、
 家屋や器物の破壊など暴動にはならない。・・・・

 また富山県下では、女の集団が椀をもって資産家の門前に立ちならび、
 救済要求の沈黙の示威をしている例もあるが、この形は同地方では、
 この年以前にも何回かおこなわれている。

 ・・古い例では、富山県ではないが、佐渡の相川で明治維新前にもあった。

  『 安政元治の交(1854~64年)米価暴騰のさい、
    窮民の婦女ら数十百人相集まり、
    人毎に椀一個を持ちて役所の前に集まり、
    組頭役の出庁を伺い、之を囲繞して
    無言にて椀をささげ飢餓の状を訴え・・ 』(「相川町史」)。  」
           ( p105~106 「米騒動の研究」第一巻 )  

はい。あらためて思い浮かんで来たのは
『安房震災誌』のこの場面でした。それをまた引用して終ります。

「 9月2日3日と、瀧田村と丸村から焚出の握飯が
  沢山郡役所の庭に運ばれた。・・・・・・・

  兎角するうちに肝心な握飯が暑気の為に腐敗しだした。
  郡役所の庭にあったのも矢張り同然で、
  臭気鼻をつくといったありさまである。

  そこで郡長始め郡当局は、・・・・
  その日の握飯の残り部分は、配給を停止したのであった。

  ところが、われ鍋や、破れざるなどをさげた力ない姿の
  罹災民が押しかけて来て、
  
     腐ったむすびがあるそうですが、
     それを戴かして貰ひたい。

  と、いふのであった。
  それは、多くは子供や、子供を連れた女房連であった。
  その力なきせがみ方が如何にも気の毒で堪らなかった。
  ・・・・・・・         」(p260「安房震災誌」)
    
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嘆き、悲しみ、怒ること。

2024-05-17 | 安房
曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社・2011年9月10日発行)の
副題は「東日本大震災の個人的記録」とありました。

この本のはじめの方には、
新約聖書の聖パウロの書簡に出てくる
『ところどころに実に特殊な、『喜べ!』という命令が繰り返されている。』
という箇所を指摘したあとに、曽野さんは、こう書いておりました。

『人間は嘆き、悲しみ、怒ることには天賦の才能が与えられている。しかし
 今手にしているわずかな幸福を発見して喜ぶことは意外と上手ではないのだ。』

それであるから、聖パウロの書簡にある『喜べ!』というのは、
『喜ぶべき面を理性で見いだすのが、人間の悲痛な義務だということなのだ』

曽野さんのこの本は、この言葉から始まってゆくのでした。

『安房震災誌』に登場する安房郡長大橋高四郎の震災に直面して
発した言葉を時系列で列挙してゆくのは、それだけでも価値があります。
きちんと、それをしてみたいのですが、それはそうとして、
流言蜚語も言葉であり、『喜べ!』も言葉なのでした。

ここでは、吉井郡書記と能重郡書記の回顧の言葉を引用しておくことに。

「 『 あの時若し死んだならば 』といふ一語は、
 私共には総ての困難な場合を切りぬけるモットーとなってゐる。

 震災直後に、大橋郡長が、庁員の総てに対して訓示せられた、

『 諸君は此の千古未曾有の大震災に遭遇して、一命を得たり。
  幸福何ものか之に如かん。宜しく感謝し最善の努力を捧げて、
  罹災民の為めに奮闘せられよ 』

 には何人も感激しないものはなかった・・・・・

『 あの時若し死んだならば 』といふ一語は、
 今日ばかりでなく、今後私共の一生涯を支配する重要な言葉である。
 言葉といふより血を流した体験である。・・・・    」(p319~320)


『安房震災誌』の震後の感想のはじまりに郡長大橋高四郎から聞いた
という言葉が記載されておりました。最後にそこを引用。

「氏(大橋高四郎)はいふ、
 此の大震災に就て、自分が身を以て体験したところを一言にして
 掩ふならば、唯だ『感謝』といふ言葉が一番当ってゐるやうに思ふ。
  ・・・・・・・・
 ・・・次は郡の内外の切なる同情である。
 それと又郡民と郡吏員の真面目な、そして何処までも忠実な
 活動振りである。どちらから考へても、『感謝』であって、
 そして『感謝』の内包をもう少し深めたくなるのである。

 それで一人一人で考へて見てもよく分かることだが、
 此の前古未曾有の大震災の中で、大部分の人々が
 或は死に、或は傷いてゐる中に、
『 自分は一命を全うしてゐるといふこと自体が
  ≪ 感謝 ≫すべき大きな事実ではないか。 』
 自分はどうして一命が助かったか。
 と、ふりかへって熟々と自己を省みると、
 ≪ 感謝 ≫の涙は思はず襟を潤ほすのである。
 実に不思議千萬な事柄である。不思議な生存である。
 ありがたい仕合せである。

    生命の無事なりしは何よりの幸福なり。
    一身を犠牲にして、萬斛の同情を以て
    罹災者を救護せよ

 と、震災直後、郡役所の仮事務所に掲示して
 救護に當る唯一のモットーとしたのも
 此の不思議な生存観から出発した激励の一つであった。
  ・・・・・・                 」(p313~314)
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大正大震災『青年団の力』

2024-05-16 | 安房
『安房震災誌』に、「青年団の力」という言葉がありました。
その箇所を引用してゆきたいと思います。

「 今次の震災に當て、青年団が団体的にその大活躍を開始したのは、
  平群、大山の青年団が、1日の夜半、郡長の急使に接して、
  総動員を行ひ、2日未明、郡役所在地に向け応援したことに始まり、
  遂に全郡の町村青年団の総動員となったのである。・・・・・・・


  青年団の第1段の仕事は、
  死傷者の処理であった。
  同時に医薬、衛生材料、食料品の蒐集であった。

  2日の如きは、市中の薬局の倒潰跡に就て、
  死体及び此等諸材料の発掘に大努力をいたされた。
  ・・・・・

  第2段の仕事は交通整理であった。
  地震に打ち倒された家屋の瓦や柱や、板や、壁などが一帯に、
  道路に堆積して、通交の不能となってゐるは勿論
  路面の亀裂、橋梁の墜落など目も當てられない中に、
  之れを整理して、交通運搬の途を拓いたのは、
  実に青年団の力である。
  ・・・僅かに一軒の取片付でさへも容易の業でないが、
  幾千百の倒潰家屋である。而かも運搬が自由でない。
  いはゆる手の着けやうのない様であったのである。

  第3段の仕事は、
  救護品、慰問品、斡旋品などの陸揚、配給は勿論、
  各町村への伝令等であった。

  あの大量な救護品、慰問品、斡旋品の殆んど全部の配給は、
  実に青年団の力である。若し青年団がなかったならば、
  救護事業の多部分は、あの通り敏活には処理出来なかったであろう。

  要するに、地震のあの大仕事を、誰れの手で斯くも取り片付けたか。
  といったならば、何人も青年団の力であった。
  と答ふる外に言葉があるまい。・・・・

  ところが、青年団には、何の報酬も拂ってゐない。・・・
  然るに報酬どころか、何人も当時にあって、
  渋茶一つすすめる余裕さへもなかったのである。

  それどころか、飯米持参で、而かも団員は自炊して、時を凌いだのであった。

  ・・・当時は雨露を凌ぐべき場所とては、
  北條町では僅かに北條税務署とゴム工場、納涼博覧会跡の一部に過ぎなかった。
  そして税務署以外は、何れも土間である。

  折柄残暑で寒くこそはなかったが
  湿気と蚊軍の襲来には、安き眠も得られやうがなかった。
  加之ならず、何れも狭隘の上に、多人数である。
  分けて雨の晩などは雨漏で寝所がぬれて立ち明かしたこともあった。
   ・・・・       」(~p286)

  その記述の次には、大正13年1月28日調べの
  「他町村救護に盡したるもの」の町村団体名の延べ人数一覧が載っております。
  そして、p289~290には、「郡外よりの救護団体」が記されてあります。
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