「安房郡の関東大震災」で、ここには船形町を取り上げてみます。
「安房震災誌」の「海嘯及び火災」のはじまりにこうありました。
「海嘯は、富崎村西岬村の一部、即ち外洋に面した一小部分
に襲来したのみで、内湾は方面は、平静であった。
火災は、船形町が第一で、館山之れに次ぎ、北條町は、
その次位に居るの順序である・・・ 」(p204)
このあとに各町村の被害状況があがっておりますので、
そのなかの船形町の記述を紹介してゆきます。
「 海嘯は流言に過ぎなかったが、地震の混乱裡に
町の西方から火災起り、吹き荒む西北風に煽られ、
炎々たる紅蓮は家より家へと燃え移り、火焔は砂塵を捲き、
風向火勢を伴ひ本町の大半を焦土と化した。
折柄、海嘯襲来の流言頻りに到り、それに脅かされて、
家財道具の一物をも持たず、子を負ひ老を助けて
北方の丘をめざして避難した。・・・・・
・・避難したものも、一時の流言であったことが分かったので、
家財の取纏めに帰ったが、余震が間断なく来るので
畑の中でも、芝生でも鉄道の線路でもところ選ばず、
板を敷き、戸を並べて其處に家財を積みかさねて
神を祈り、佛を念じながら、濛々黒煙のうちに
燃え行く町を見詰めて夜に入ったのであった。
焼失戸数実に340戸に及んだ。 」(p208~209)
さらに、田村シルト芳子さんの文には、
この火元への言及があるのでした。
「 ・・折りしも秋鯖の節の火入れをしていた、
西の外浜近くのいさばから出火。瞬く間に、
炎火は西、仲宿、東地区の家々を次々と焼き尽くした。
また、地は割れ、線路は曲がり、土地が隆起して海岸線は遠のき、
新たな砂浜が出現し、ために港や堤防は機能しなくなった。・・ 」
( p58 編者「あとがき」より
「安房郡船形町震災誌」船形尋常高等小学校編纂
改訂版・2012年1月 編集・発行人 田村シルト芳子 )
別の本には、船形町長・正木清一郎氏のとった行動を記述した
「船形尋常高等小学校報」がありました。そちらも引用してゆきます。
「 正木清一郎翁は当時船形町長の要職に居られまして
齢70歳に近きも意気は壮者を凌ぐ程であった。
当日町役場より中食の為帰宅せられ暑さが厳しいので、
羽織と袴を脱ぎ浴衣に着替へると、直ちにあの大震災に遭ひ
翁の住家は勿論、土蔵其の他の建物は全部倒潰、
翁は幸ひに家屋の下敷とならず逃れ出でたが、
令夫人は不幸下敷となられたが幸にさしたる負傷もなく
助かりしことは不幸中の幸であった。
学校や役場は勿論倒潰し、学校に於て私共職員下敷となれるもの
数名あったが、これ亦幸に大なる負傷もなく
倒潰直ちに逃れ出し者掘り出されし者あり、
自分は夢の醒めし如く正気付きし時、
始めて自らの両脚をひしがれて居ったことに気づき
脚を抜き取らんと努めた。幸に余震の為空間出来しものか
両脚を抜き取ることが出来た。
倒潰せる校舎の棟に登りし時、
責任観念の旺盛なる翁には早くも校門に現はれ、
児童は職員は大丈夫かと叫ばれ・・・
掘り出せし御真影を奉戴し居ると
翁曰く海嘯との叫びがするから
あなたは御影を・・大石正巳閣下の別邸に奉遷しなさい、
僕が海岸に参って様子を見て来るからとの言葉、
御老体のこと危険なるべきことを申上ぐると、
決して心配はない海嘯は沖合に見えてから逃れることが出来るものだ。
僕に心配なく閣下の別邸に避難するがよいとのことにて
其の言に従ひました。
間もなく翁は別邸に来り海嘯は最早来ない心配ない。
只だ心配なのはあの大火災だ風向きによっては
町の大部分は焦土と化してしまうと心配されて居られた。 」
( p910~912 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )
はい。この「船形尋常高等小学校報」は、まだ続きます。
ここでは、残りのほぼ全文を引用しておわることに。
「 ・・・其の夜は翁と共に御影を守護し奉りつつ
町の火災の模様を眺め徹夜した。
翁曰く、時に君とんだ事になったね、
町の大部分は倒潰した其の上にあの大火災、
純漁村のこの町では町民を活かす事が先決問題だ。
全力をこの事に注がなければならない、
如何にしようかとの御相談・・・
又曰く、ああ咄嗟の場合よい考も出ないが
明朝夜の明くるを待って学校の運動場に行き
町会議員、区長、米穀商を召集し、其の善後策を講じませう。
夜の明くるを待って校庭に行き使を遣はし
名誉職並米穀商を召集し、協議の結果直ちに
本町在米の調査を致せしに漸く1日を支へるに足るか否かの米、
程なく直ちに役場吏員を派して、被害僅少といはれる
瀧田村平群村より長狭方面に米の注文をさせ、
為に他の被害地よりも早く米の供給を得、
町民も安堵の色見えたのであった。
而し一方負傷病者は医薬なく、発熱せるも氷なき状態を見て、
之れ亦早く救済しなければならないとて
町内の薬店より薬品を掘出させ、氷は
町内昨年故人となられた翁の嗣子正木一作氏日東製氷庫を
営み倉庫は倒潰火災に遭ひしも大量の氷が焼跡に残存せし故、
負傷病者に無料給與せしに本町は勿論四隣の町村
離れては北條館山両町よりも分與を申出づるもの多く、
此の氷如何に人命を助けたか知れぬ。
被害激甚の町なれば御慰問並視察の方々の来訪引きもきらず、
翁は朝は月を踏み夜は星を戴き仮事務所に於て精勤せられ、
御慰問並視察の方に対して被害の状況を町図を広げて諄々と説明し、
其の救済の計画方法までも詳細に申上げ救助を求むるなど、
老体の身を以てかく熱心に盡されて
身に障害あってはと心配せざる人はなかった。
其の暇には役場吏員、名誉職、各種団体員に給與、救済等に
関し詳細注意を與へられしが翁の責任感の偉大さと熱心とに
動かされ、皆吾が身を忘れて盡したのであった。 」(~p913)