上田篤著「庭と日本人」(新潮新書)は、「日本人の心と建築の歴史」(鹿島出版会)の後に書かれておりました。
「日本人の心と建築の歴史」が2006年発行。
「庭と日本人」は2008年1月発行。
ということで、あらためて、「庭と日本人」をパラパラと読み返してみました。
「『京都では仏像より庭に人気がある』といった。
しかしそれは『京都では』であって『全国どこでも』というわけではない。とりわけ京都以上に古い歴史をもつ奈良の寺では、いまも仏像や建築に人気がある。逆に庭には人気がない。『庭に人気がない』というより、奈良の寺にはそもそも庭がないのだ。法隆寺や唐招提寺、薬師寺などの古寺をみてもわかることだが、境内には土と石と木と瓦の建築のほかには、わずかばかりの緑陰樹があるにすぎない。平安時代以降につくられた若干の庭をのぞけば、奈良の寺にはおよそ庭とよべるものがないのである。どうしてか?それは仏教の寺はもともと庭などに関心がなかったらだ。」(p92)
「はじめのころ京都につくられた寺には庭はなかった。それが平安時代の中ごろから、突然、かわりだす。かわったのは『末法思想』なるものの登場によってだ。それは『釈迦の死後2000年たつと社会がみだれ、仏の教えはすたれ、世は末法になる』という教えである。その末法にはいるのが日本では永承七年(1052)から、とされた。じっさい、そのころから前九年の役や後三年の役、延暦寺・園城(おんじょう)寺の僧兵の争いなどがおきて、世の中は騒然となっていた。そこで人々は『万人をすくうことを願いとする』阿弥陀仏にとびついた。極楽浄土におられる阿弥陀仏の像を安置する寺を各地にたてた。しかしそれだけではものたらず『極楽浄土』そのものをしめす池を寺のまえにほった。・・・・わたしはいままでのべてきたコンテキストにしたがい、それを『浄土の庭』という。」(p94)
ここから、こうつながります。
「このように、『浄土の庭』は乱世がつづいて人々が極楽浄土をもとめるたびに、その後もたゆまずつくられた。じっさい西芳寺の庭も、南北朝の動乱のころにつくられている。銀閣寺の庭も応仁の乱の直後だった。世の中がみだれて人々が現実世界に絶望するたびに『浄土の庭』は登場したのである。そして人々は夢中になって光かがやく阿弥陀さまをおがんだのだった。」(p102)
「人間に生きるエネルギーをあたえる空間は建物ではなく庭、すなわち自然だからだ。庭の木であり、草であり、花であり、苔であり、虫であり、鳥であり、わたる風であり、さしこむ日である。それらは自然であり・・・」(p134)
最後の方にはこうあります。
「日本人はホテルや旅館にいくとまず窓をあけて外をみるが、外国人は保養地でもないかぎりそんな行動をとらない。レストランでも日本人は窓際の席をとりたがるが、外国の高級レストランにははじめから窓などない。そういう窓にたいする日本人の思いは、戸外の自然を【神さま】【強いもの】【気合のあるもの】とする伝統からきている。日本人の最高のすまいは、野にねて【自然の気合】にふれることだ・・・・」(p199)
「野にねて【自然の気合】にふれ」ながら日本の文化を思う。なんとも、そんな雄大な気分を味わえるようなのです。
「日本人の心と建築の歴史」が2006年発行。
「庭と日本人」は2008年1月発行。
ということで、あらためて、「庭と日本人」をパラパラと読み返してみました。
「『京都では仏像より庭に人気がある』といった。
しかしそれは『京都では』であって『全国どこでも』というわけではない。とりわけ京都以上に古い歴史をもつ奈良の寺では、いまも仏像や建築に人気がある。逆に庭には人気がない。『庭に人気がない』というより、奈良の寺にはそもそも庭がないのだ。法隆寺や唐招提寺、薬師寺などの古寺をみてもわかることだが、境内には土と石と木と瓦の建築のほかには、わずかばかりの緑陰樹があるにすぎない。平安時代以降につくられた若干の庭をのぞけば、奈良の寺にはおよそ庭とよべるものがないのである。どうしてか?それは仏教の寺はもともと庭などに関心がなかったらだ。」(p92)
「はじめのころ京都につくられた寺には庭はなかった。それが平安時代の中ごろから、突然、かわりだす。かわったのは『末法思想』なるものの登場によってだ。それは『釈迦の死後2000年たつと社会がみだれ、仏の教えはすたれ、世は末法になる』という教えである。その末法にはいるのが日本では永承七年(1052)から、とされた。じっさい、そのころから前九年の役や後三年の役、延暦寺・園城(おんじょう)寺の僧兵の争いなどがおきて、世の中は騒然となっていた。そこで人々は『万人をすくうことを願いとする』阿弥陀仏にとびついた。極楽浄土におられる阿弥陀仏の像を安置する寺を各地にたてた。しかしそれだけではものたらず『極楽浄土』そのものをしめす池を寺のまえにほった。・・・・わたしはいままでのべてきたコンテキストにしたがい、それを『浄土の庭』という。」(p94)
ここから、こうつながります。
「このように、『浄土の庭』は乱世がつづいて人々が極楽浄土をもとめるたびに、その後もたゆまずつくられた。じっさい西芳寺の庭も、南北朝の動乱のころにつくられている。銀閣寺の庭も応仁の乱の直後だった。世の中がみだれて人々が現実世界に絶望するたびに『浄土の庭』は登場したのである。そして人々は夢中になって光かがやく阿弥陀さまをおがんだのだった。」(p102)
「人間に生きるエネルギーをあたえる空間は建物ではなく庭、すなわち自然だからだ。庭の木であり、草であり、花であり、苔であり、虫であり、鳥であり、わたる風であり、さしこむ日である。それらは自然であり・・・」(p134)
最後の方にはこうあります。
「日本人はホテルや旅館にいくとまず窓をあけて外をみるが、外国人は保養地でもないかぎりそんな行動をとらない。レストランでも日本人は窓際の席をとりたがるが、外国の高級レストランにははじめから窓などない。そういう窓にたいする日本人の思いは、戸外の自然を【神さま】【強いもの】【気合のあるもの】とする伝統からきている。日本人の最高のすまいは、野にねて【自然の気合】にふれることだ・・・・」(p199)
「野にねて【自然の気合】にふれ」ながら日本の文化を思う。なんとも、そんな雄大な気分を味わえるようなのです。