朝日の古新聞をもらって来ました。
社説やら、一面見出しやらは、戦争中の大本営発表の如くに、眉につばをつけて眺める必要があり。けれども、文化欄とかの各部門部門での活躍は、思わず下士官の働きに拍手を贈りたくなる時があるわけです。
今回はその下士官の腕前を、ぞんぶんに披露してもらった気分で読み甲斐がありました。たとえば、文芸時評。その昔から朝日新聞の文芸時評は定評のあるところでした。近頃はとんと読んでおらなかったのですが、2008年3月26日は、加藤典洋氏の最後だとあります。うん、ちょいと引用してみましょう。
「筆者の文芸時評もこれが最後。今回はまとめのつもりで書いてみる。」とはじめております。思わず私は、本の「あとがき」から読みはじめた気分になります。次にこう書かれておりました。
「いま考えるのに、一冊、出た時点で取り上げておくべきだったと思うのは一昨年の梅田望夫『ウェブ進化論』である。・・」
「もう一つ、批評で逸せないのは去年出た橋本治の『小林秀雄の恵み』。・・・」
と二冊を中心に、その日の文芸時評が展開されているのでした。
3月26日の全面広告「130朝日新聞 読者とともに130年」には福原義春氏の言葉が載せてありました。そこから後半の箇所を引用してみます。
「僕が会得した読み方の一つは、まず後書きから本を読み始めること。次に前書きを読み、それから本文を少し読む。その時点で自分が思っていた印象と食い違う場合は読むのをやめます。読みたい本は次々とあるわけですし、こうでもしないととても読み切れませんからね。・・・・」
うん。これは新聞を読む時も、参考になります。現に私は朝日の古新聞をもらって来て、そのように読んでいる自分に思いあたるのでした。
これは収穫だと思ったのは、3月15日の丸谷才一氏の文でした。題して「書評文化守るために」。たとえば「取り上げる本の種類も辞書や事典類が除かれているのは残念だけれど、それでも以前にくらべれば非常な盛況と言ってよかろう。」と書評文化の現状を解説しております。そして、おもむろに「書評は買物案内という用途のほかに評論という局面がある。単なるニュースではないところに妙味があるのだ。・・・佐藤春夫の描いた堀口大学『月下の一群』の書評が『海潮音』的訳詩の風潮を葬り去ったのも、この条件のせいだった。そのことでもわかるように、書評者が本を手に取ってから原稿を書きあげるまで、かなりの日数を要するのは当り前である。わたしの体験では大著を読むには一週間はかかるし、読み終えて二十四時間たってから書き出すのでないと、どうもうまくゆかないようだ。一冊の本という広大な世界とつきあうのは大変なことだし、その印象記をまとめるだけでも楽な話ではないのである。・・・・」
さてさて、こうした文化欄の文章を読んでいると、私は何とも得した気分になるのでした。
社説やら、一面見出しやらは、戦争中の大本営発表の如くに、眉につばをつけて眺める必要があり。けれども、文化欄とかの各部門部門での活躍は、思わず下士官の働きに拍手を贈りたくなる時があるわけです。
今回はその下士官の腕前を、ぞんぶんに披露してもらった気分で読み甲斐がありました。たとえば、文芸時評。その昔から朝日新聞の文芸時評は定評のあるところでした。近頃はとんと読んでおらなかったのですが、2008年3月26日は、加藤典洋氏の最後だとあります。うん、ちょいと引用してみましょう。
「筆者の文芸時評もこれが最後。今回はまとめのつもりで書いてみる。」とはじめております。思わず私は、本の「あとがき」から読みはじめた気分になります。次にこう書かれておりました。
「いま考えるのに、一冊、出た時点で取り上げておくべきだったと思うのは一昨年の梅田望夫『ウェブ進化論』である。・・」
「もう一つ、批評で逸せないのは去年出た橋本治の『小林秀雄の恵み』。・・・」
と二冊を中心に、その日の文芸時評が展開されているのでした。
3月26日の全面広告「130朝日新聞 読者とともに130年」には福原義春氏の言葉が載せてありました。そこから後半の箇所を引用してみます。
「僕が会得した読み方の一つは、まず後書きから本を読み始めること。次に前書きを読み、それから本文を少し読む。その時点で自分が思っていた印象と食い違う場合は読むのをやめます。読みたい本は次々とあるわけですし、こうでもしないととても読み切れませんからね。・・・・」
うん。これは新聞を読む時も、参考になります。現に私は朝日の古新聞をもらって来て、そのように読んでいる自分に思いあたるのでした。
これは収穫だと思ったのは、3月15日の丸谷才一氏の文でした。題して「書評文化守るために」。たとえば「取り上げる本の種類も辞書や事典類が除かれているのは残念だけれど、それでも以前にくらべれば非常な盛況と言ってよかろう。」と書評文化の現状を解説しております。そして、おもむろに「書評は買物案内という用途のほかに評論という局面がある。単なるニュースではないところに妙味があるのだ。・・・佐藤春夫の描いた堀口大学『月下の一群』の書評が『海潮音』的訳詩の風潮を葬り去ったのも、この条件のせいだった。そのことでもわかるように、書評者が本を手に取ってから原稿を書きあげるまで、かなりの日数を要するのは当り前である。わたしの体験では大著を読むには一週間はかかるし、読み終えて二十四時間たってから書き出すのでないと、どうもうまくゆかないようだ。一冊の本という広大な世界とつきあうのは大変なことだし、その印象記をまとめるだけでも楽な話ではないのである。・・・・」
さてさて、こうした文化欄の文章を読んでいると、私は何とも得した気分になるのでした。