和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

妙味がある。

2008-03-31 | Weblog
朝日の古新聞をもらって来ました。
社説やら、一面見出しやらは、戦争中の大本営発表の如くに、眉につばをつけて眺める必要があり。けれども、文化欄とかの各部門部門での活躍は、思わず下士官の働きに拍手を贈りたくなる時があるわけです。
今回はその下士官の腕前を、ぞんぶんに披露してもらった気分で読み甲斐がありました。たとえば、文芸時評。その昔から朝日新聞の文芸時評は定評のあるところでした。近頃はとんと読んでおらなかったのですが、2008年3月26日は、加藤典洋氏の最後だとあります。うん、ちょいと引用してみましょう。
「筆者の文芸時評もこれが最後。今回はまとめのつもりで書いてみる。」とはじめております。思わず私は、本の「あとがき」から読みはじめた気分になります。次にこう書かれておりました。
「いま考えるのに、一冊、出た時点で取り上げておくべきだったと思うのは一昨年の梅田望夫『ウェブ進化論』である。・・」
「もう一つ、批評で逸せないのは去年出た橋本治の『小林秀雄の恵み』。・・・」
と二冊を中心に、その日の文芸時評が展開されているのでした。

3月26日の全面広告「130朝日新聞 読者とともに130年」には福原義春氏の言葉が載せてありました。そこから後半の箇所を引用してみます。
「僕が会得した読み方の一つは、まず後書きから本を読み始めること。次に前書きを読み、それから本文を少し読む。その時点で自分が思っていた印象と食い違う場合は読むのをやめます。読みたい本は次々とあるわけですし、こうでもしないととても読み切れませんからね。・・・・」

うん。これは新聞を読む時も、参考になります。現に私は朝日の古新聞をもらって来て、そのように読んでいる自分に思いあたるのでした。

これは収穫だと思ったのは、3月15日の丸谷才一氏の文でした。題して「書評文化守るために」。たとえば「取り上げる本の種類も辞書や事典類が除かれているのは残念だけれど、それでも以前にくらべれば非常な盛況と言ってよかろう。」と書評文化の現状を解説しております。そして、おもむろに「書評は買物案内という用途のほかに評論という局面がある。単なるニュースではないところに妙味があるのだ。・・・佐藤春夫の描いた堀口大学『月下の一群』の書評が『海潮音』的訳詩の風潮を葬り去ったのも、この条件のせいだった。そのことでもわかるように、書評者が本を手に取ってから原稿を書きあげるまで、かなりの日数を要するのは当り前である。わたしの体験では大著を読むには一週間はかかるし、読み終えて二十四時間たってから書き出すのでないと、どうもうまくゆかないようだ。一冊の本という広大な世界とつきあうのは大変なことだし、その印象記をまとめるだけでも楽な話ではないのである。・・・・」


さてさて、こうした文化欄の文章を読んでいると、私は何とも得した気分になるのでした。

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あれっ?

2008-03-28 | Weblog
雑読してると、何がどこに書いてあったのか、思い浮んだ言葉を、もとの本までたどれないことがあります。たどれない本なら、しょせんそれまでの縁だったと、思えばよいのですが、それがなかなか吹っ切れなかったりします。
それとは、別なのですが、雑読で、不思議な結びつきを感じることもあります。
最近、大阪の杉山平一について(読んだなどとはいえないのですが)エッセイを読んでおります。それが四季派を内側から教えてくれているのでした。思いもしなかった、「四季」同人の姿を、親しげに語っておられるのでした。
それとこのブログで2008年2月14日「昭和十年代。」と題して書いたのですが、
それとが、結びつく交差点みたいな新書があったのです。

鹿島茂編「あの頃、あの詩を」(文春新書)。
それは、ただ教科書に載った詩のアンソロジーなのですが、
興味深いのは「まえがき」でした。
そこで鹿島さんはこう書いております。

「とにかく、団塊の世代が中学校の教科書で読み、感動し、そして暗唱し、記憶にとどめ、いまでも口に出して朗唱することのできる詩を聞いていると、多少なりとも、近代詩に通じている者としては、『あれっ?』という感じを受けたのです。なぜなら、それらは、世間一般に名詩とされて、アンソロジーに載っている作品とは、少し位相が違ったところに位置する詩のように思えたからです。それは文学史的に見ると、丸山薫、田中冬二、大木実などの『四季』派を中心とする昭和10年前後の自然鑑賞的叙情詩であり、千家元麿、百田宗治、八木重吉といった宗教的詩人の家族詩であり、大関松三郎や竹内てるよなど民衆詩人の労働・生活詩であり、フライシュレンやロングフェローの倫理詩であったりするのですが、いずれにしても、近代詩の保守本流とは別のラインにある詩であることは明らかです。・・・」

さて、このあとの鹿島茂さんの解釈が読みどころなのです。

「それは、おそらく明治の末から大正ヒトケタにかけて生まれて戦争をくぐり抜けてきた世代の編者たち(つまりわれわれの親の世代)が、自分たちが思春期(大正から昭和10年前後にかけての時期)に感銘を受けた詩を、まだ未来が輝いているように思えた昭和30年代に、自分たちの感情や思想を伝える言葉として子供の世代に託そうと思い、一生懸命に選別し、編纂し、教科書に載せたものであったということです。・・・」

「いわば、それは私たち親の世代と、私たち団塊の世代とが、昭和30年代の中学・高校の教科書という一回きりの出会いの場において、編者と読者という特別な役割分担で演じた奇跡の『コラボレーション』であり、両者で紡ぎ出した唯一の『共同幻想』ということになるのです。」
こうして16㌻からの具体的な詩の指摘が生きております。

私は団塊の世代よりも、あとの世代なのですが、団塊の世代を解く鍵をもらったような、気分にもなるのでした。

ところで、「まえがき」以外は、単なる詩のアンソロジー(教科書に載った)なのですから、詩の引用だけで、つまらないといえば、つまらない新書にも思えるのですが、この「まえがき」が貴重なのです。ある一時期の教科書の詩という、言葉の森へのガイドブックをもらったような気分で「まえがき」を読みこむと楽しめます。水先案内というのは、こういうことか。と思い知らされる「まえがき」なのでした。
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そつとつぶやく。

2008-03-26 | Weblog
萩原朔太郎著「郷愁の詩人与謝蕪村」(岩波文庫)を読んだら、
田中冬二著「サングラスの蕪村」(田中冬二全集第二巻)が興味深く読めました。しばらくして、「丸谷才一批評集第五巻 同時代の作家たち」(文芸春秋)にある
吉行淳之介の箇所が思い浮かんだのです。その文は一読印象深い味わいがありました。そこから、話をはじめましょう。
丸谷さんの文には注があり「吉行淳之介は1994年7月26日に亡くなった。この文章はその翌日に書かれた」とあります。題して「『暗室』とその方法」(p260)。その文の最後を丸谷さんはこう書いております。

「独創的とは言つたけれど、心に浮ぶ先行作品が一つある。『伊勢物語』である。断章が無雑作にはふり出されて、脈絡があるみたいでもあるし、ないやうでもあるあの趣は、『暗室』にどこか似ていゐる。そして吉行さんの文学に王朝の色好みに通じるものがあるといふのは、かなりの人の認めるところだろう。もつとも、影響などと言ふつもりはない。第一、『伊勢物語』など読んだことがなかろう。ここで一言、そつとつぶやくことにするが、まともな本をあんなにすこししか読まなくてしかもあんなに知的な人がゐるといふのは、わたしには信じがたい話である。」

さてっと、私は小説を読まないタイプなので、『暗室』のなんたるかを知らないわけです。ですが、それにしても丸谷さんの、この書きぶりが、鮮やかな印象として残っております。

そういえば、吉行淳之介は「田中冬二全集第三巻」の月報に書いているのでした。
こうあります。「昭和17年、田中冬二という詩人を、私は自分で見付けた。」「その詩は日本固有の風物を捉えてきて、それを珠玉の作品に定着させていた。・・・・それが土俗的でない感性で処理されているところが快かった。ただ、あの殺伐な時代に、田中冬二の詩を読むと、平和だった時代が懐しくなって心が痛むので、おもわず本を伏せたことが何度もあった。」「昭和29年に私が芥川賞を受けたときに・・友人たちが中野のモナミで受賞記念パーティを開いてくれた。私の隣りに田中冬二の席を設け、もう一方は高橋新吉であった。私は二人のはるか年上の詩人に挟まれて、小説家としてスタートした。」

田中冬二・高橋新吉・吉行淳之介という三人への補助線の結び目を、見つけるのは、難儀でも、なにやら魅力的な発見が待ち構えているような気がします。どうですか? と私は、ここまで。

最後に「『サングラスの蕪村』に関して」という田中冬二ご自身の言葉を引用しておきましょう。「私は詩を書いて来て五十余年、顧みればそれは詩を書いて来たというよりも、ロマンを追つたことのようだ。そしてそのロマンが詩をもたらしたのだ。・・・・私は老年であるが、エスプリは燃え上がる青春の日のままである。そうした一面にはまた独楽(こま)が澄みきつて廻つているような、しずかな心境を欲している。」

え~と。昭和51年(1976)。田中冬二が82歳の時に詩集「サングラスの蕪村」は刊行されておりました。


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勝義の読書には。

2008-03-23 | Weblog
読書とは、「本を読むこと。」
と【三省堂国語辞典】にあります。
それでは、【新明解国語辞典】は、どう書いていたか。

「[研究調査や受験勉強の時などと違って]
 想(ソウ)を思いきり浮世(フセイ)の外に馳(ハ)せ
 精神を未知の世界に遊ばせたり
 人生観を確固不動のものたらしめたりするために、
 時間の束縛を受けること無く本を読むこと。
 〈寝ころがって漫画本を見たり
  電車の中で週刊誌を読んだりすることは、
  勝義の読書には含まれない〉 」。


 武藤康史著「国語辞典の名語釈」(三省堂)
 武藤康史編「明解物語」(三省堂)
 赤瀬川原平著「新解さんの謎」(文芸春秋)

というのを、あらためて、パラパラ読みしております。
あらためて、新明解国語辞典の「読書」を味わい直してみたりします。

たとえば、「新解さんの謎」では、[ブックメーカー]がひかれております。

ブックメーカー【bookmaker】 
  [金もうけのために](安っぽい)本をやたらに書く人。

赤瀬川さんは、こう引用したあとに、注釈しております。
「これである。ミもフタもない。
金もうけ、安っぽい、やたら、というのがびんびん輝いている。
どうも新解さんは金と文章とをくっつけたくないようだ。
本とか文章というものから、
金の粘液を全部洗い落したい気でいるのがわかる。」(p106)



ああ、そうそう。赤瀬川さんは【勝義】もちゃんと調べていました。

 しょうぎ【勝義】
    [転義や ひゆ的用法でなく]
    その言葉の持つ、本質的な意味・用法。
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景色のいい人。

2008-03-22 | Weblog
山野博史著「発掘 司馬遼太郎」(文藝春秋)で、司馬さんの藤澤桓夫への弔辞を、山野氏は「珠玉のことばがよどみなくつらなる、司馬遼太郎の弔辞の名品のひとつと信じて疑わない」と指摘しております。
その弔辞で司馬さんはこう語っておりました。
「先生のお話を伺っていてふしぎに思いましたのは、その言語でありました。私どもが生れる前の大阪の中学生の中学生ことばだったということであります。中学生ことばのまま、八十四年の生涯を通されたという一事だけでも、反俗的であります。先生は、天性、俗物を嫌っているかのようでありましたが、そのことは、決して〈おじさん〉になることのないこの言葉づかいによってでも知ることができます。まことに高雅なものでありました。行儀のいい青春のまま生涯を送られたというだけでも、数世紀にわたって、藤澤桓夫という知性以外に、たれを見出すことができるでしょう。この一事だけでも・・・」(p49)


( ところで、突然ですが、春の甲子園で、房総の安房高が、今日勝ちました。バンザ~イ。見てました。21世紀枠で初出場。一回戦を2-0で勝ち進みました。)

さてっと、山野博史著「発掘 司馬遼太郎」の「藤澤桓夫」では、最後の方に、平成元年6月13日の大阪版朝刊各紙(読売・朝日・毎日・産経)のすべてに追悼談話を載せている司馬サンを紹介して、読売新聞掲載分を引用紹介しておりました。そこからも孫引きしてみます。

「・・・大阪が好きで、言葉遣いは昭和初めの大阪の中学生ことばだけで一生を終わった人といえます。高校や大学で一緒だった長沖一さん、秋田実さん、小野十三郎さんなど、家のある住吉かいわいでのつき合いで終始したのは見事でした。生活圏を限定されており、その中から小野さんらが出て、いい感じのサロンだった。ちょっと離れて遠くから見ると感じのいい景色で、藤沢さんはすべての点で景色のいい人でした。」


うん。ここにも「言葉遣いは昭和初めの大阪の中学生ことばだけで一生を終わった人といえます」とあります。弔辞では、司馬さんは、そのことを語って「反俗的で」「まことに高雅なもの」と指摘しておられるのでした。


ここで、私が思い浮べたのは、板坂元氏の言葉でした。

「私たちが英文の百科事典を作るために書いた著者向けの執筆要領のことだ。英米の百科事典をいろいろと参考にして作った執筆要領の草稿は、日本のえらい先生からきびしい批判を受けた。その草稿の中に『高校一年生にも分かるように書いて欲しい』という箇所があって、そこが問題になった。『高校一年生とは情けない。せめてブリタニカ程度のものにすべきだ』という批評だった。これには閉口した。アメリカでは、百科事典を買うためのガイドブックが出ていて、それぞれの百科事典のレベルが示してある。それによると、ブリタニカやアメリカーナなどの有名なものは、すべて高校一年生以上に適するとなっている。私たちも、それにならったのだった。おそらく、えらい先生がたは、ブリタニカやアメリカーナが、大学生かそれ以上の知識人のためのものと信じておられたのだろう。高校一年生程度といっても、私の家では小学校五年の子と中学二年の子がブリタニカを毎日のように使っており、それほど難しがってもいない。だいたいその程度の子供にも読める文章なのだ。内容によっては、もちろん大学生にも理解しにくいものがあるけれども、英語のレベルは、そんなに高くない。・・・・英語で書いてあるものが程度の高いものに見える、というのは百科事典ばかりではないらしい。英語の原文で読むと分かりやすい本が、日本語の翻訳で読むと難しいことがよくある。・・・そろそろ、そういう後進国根性を捨てて、文章も読みやすく分かりやすいものにしてもよい時代ではなかろうか。」(p170~171「続考える技術・書く技術」)


うん。「昭和初めの大阪の中学生の言葉だけで一生を終わった人」を語って、
「景色のいい人でした」と、そう司馬さんは表現するのでした。

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などと難ずる。

2008-03-19 | Weblog
武藤康史著「文学鶴亀」(国書刊行会)のなかに、読書日録とあります。ちょいと気になるので、どの本から取り上げられているか覗いてみたら、山野博史著「発掘 司馬遼太郎」(文芸春秋)からです。その箇所を、せっかくだから引用しておきましょう。そうしましょう。

「『発掘 司馬遼太郎』は早くから司馬遼太郎を買っていた人、古くからつきあいのあった人(海音寺潮五郎・源氏鶏太・藤沢桓夫・富士正晴・・・)の発言を掘り起こす。それだけでも大仕事だが、司馬遼太郎自身がその人をどう見ていたかもたどり、交流・交遊のほどをあぶり出す。近ごろはそういうことばかり並べて文学史とか文壇史とか称する御仁もおわするほどなり。ああいうのはどうも依拠資料があやふやでケシカランが、『発掘 司馬遼太郎』は資料を探索し、発掘し、出典をグイグイ明記しつつ並べる。このグイグイ明記するというところがむつかしい。『うるさい』とか『白ける』などと難ずる編集者がいるものだ。しかもそういう引用文を読み易く按排している。資料を博捜する人は多いが、それを読ませるようにする人はすくなし。」(p187)

ところで、
谷沢永一著「運を引き寄せる十の心得」(ベスト新書・2008年1月)の本文の終りに、その山野博史氏が語られております。次にその引用。

「彼(山野博史)は専攻は日本政治史なんですが、いま完全な司馬遼太郎の書誌を作るべく仕事にかかっています。」(p184)
「山野さんは司馬遼太郎書誌を作っています。この人もパーフェクト主義ですから、『書誌とはこういうものだ』という、立派なものができるだろうと思います。」(p188)

さて、このように語りながら、いよいよ本文の終りをしめくくるのでした。
そこをちょっと詳しく引用します。

「新潮社から出ている『司馬遼太郎が考えたこと』という、親版全十二巻、あれの60パーセントは山野博史が自腹を切って発掘した成果です。ほんとに草の根を分けるようにして。」その発掘のエピソードを、谷沢さんは幾つか指摘しておられるのでした。ここでは、ひとつのエピソードを引用してみます。

「司馬さんは弔辞の名人です。藤沢桓夫(たけお)さんが亡くなったときに、その弔辞は東京版には出なかった。司馬遼太郎のエッセイで産経、読売、朝日に出ているにもかかわらず、関西版にしか載らずに、東京版には載っていない。ということは、縮刷版に入っていない。その新聞を保存している近畿一帯の図書館を全部調べ上げて、大津の図書館にあるとトコトコ出かけていって、それを全部点検する。あれは十二巻に一千本のエッセイが入っています。そのうち六百本は全部、山野博史が自腹を切って発掘しました。」

引き続き、ここからこの新書の本文最後のページを引用いたします。

「そのときの内容見本に、初めは『資料提供 山野博史』と刷ってありました。それを全部破棄して、『山野博史』を削って新しい内容見本を作った。この著作権というものはまことに難儀なもので、司馬さんが亡くなると著作権がみどり夫人にあります。その夫人は何もできませんから、全部上村洋行という、みどり夫人の実の弟、この弟がいま司馬記念財団を牛耳っているわけです。これがまた、自尊心というか、虚栄心が人並み外れて強い人で、山野博史は、発見したものは当然、全部自分のところに持ってくるべきだというのが、彼の信念なわけです。ところが、そんなバカなことはしませんよ。今度は、山野博史が未刊行作品を発掘したこと自体が許せなくなった。それで、『一切山野博史の名前を出してはならん』ということで、削られたわけです。文芸春秋の司馬遼太郎短篇全集も山野さんが三割ぐらいは発掘しています。それも上村洋行の一言で『絶対に記してはならん』ということで、西山嘉樹文芸出版部長は、うるさい上村洋行をおだてて、なだめて、出版がスムーズにいくように何べんもやって来て、もううんざりして、口直しに僕を晩に呼び出して一杯飲むというようなことでした。」(p190)

谷沢永一氏の新書の題名は「運を引き寄せる十の心得」とあり、
運を引き寄せる人。運から見放される人を、ちゃんと実名で書いている本なのでした。
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相聞歌。

2008-03-18 | Weblog
新聞で岡野弘彦選の歌壇を読むのを楽しみにしています。
なんてことを語るのも、いいでしょ。

2008年3月17日の読売歌壇に

  送りくれし石見の寒の海苔を焼く君への想ひつのらせながら
                    横浜市 本多豊明

この岡野弘彦氏の選評はというと
「最近はゆかしく美しい相聞歌を見ることが少なくなった。石見の国の身にしみる潮風の海で育った海苔の香ばしさと、贈ってくれた人への思いは深い。」

3月16日の東京歌壇では

 君が剥く青き林檎を食みをれば外は大雪電車よとまれ
                 板橋区  福田力雄

この岡野弘彦氏の選評は
「白秋の『君かへす朝の鋪石(しきいし)さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ』が本歌であることは誰にもわかる。八十に近い作者の感性の若さが楽しい。」

「誰にもわかる」というのが、あいにく素人には分からないわけですが、こうして教えて下さっているのが分かるわけで、楽しめるのでした。
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さることながら。

2008-03-16 | Weblog
本を読みながら、その本の中で、引用され紹介されている本に、つい興味がそれていってしまうことがあります。私など、そんな場合は、本を途中で投げ出して、引用本へと好みが移ってしまう癖がある。すると往々にして最初のきっかけの本を忘れてしまうのでした。

ということで、木から木へ飛び移るように、本から本へピョンピョンと移動していると、もとの木へと戻れなくなっている自分に気づくことがあるのでした。それだからこそ、こうして書き込んでおくと、ある程度の筋道がたどれるかもしれない。
その筋がたどれる、けもの道。
山村修著「〈狐〉が選んだ入門書」(ちくま新書)で、まず最初に登場していた入門書はというと、武藤康史著「国語辞典の名語釈」(三省堂)でした。つい最近、読んでみたわけです。読み終わる頃に、ちょうど武藤康史著「文学鶴亀」(国書刊行会)が新刊として登場しておりました。てなわけで、順番に筋道をつけておきましょう。

山村修さんはこう紹介しておりました。
「武藤康史は1958年生まれ。文藝評論家ですが、私はその名を、はじめて安原顕編集の『マリ・クレール』や蓮實重彦編集の『リュミエール』などに載った書評文の筆者として知りました。なんて魅力的な文章を書くひとだろうと感嘆したものです。ゆたかな学殖のためでしょう、どんなにみじかい一文にも、かならず創見がふくまれている。あえて古めかしいことばやいいまわしを忍びこませ、それを厭みでなく、かえって新鮮に、おもしろくひびかせる。武藤康史は学殖のひと、文章のひとです。」(P15~16)

うん。この言葉はこのたび出版された「文学鶴亀」の内容紹介として使えそうです。「文学鶴亀」のはじめにで、「この二十年ほどのあひだに書いた文章・・あちこちに書き散らしたものを塩梅した。・・」とありますので、山村修さんが読まれた文も、ここには登場しているのだろうなあ、と思えるのでした。

さて、行き過ぎました。
武藤康史著「国語辞典の名語釈」から、せめて、一箇所ばかり引用しておきましょう。

「国語辞典は何しろ実用書の最たるものであるから、ちょっとした見た目の工夫によって(あるいは版型とか、値段とか、はたまた宣伝とか、そんな要素によっても)大いに売れたり、ちっとも売れなかったりする。そして内容もさることながら売れたものが勝ち、という面がある。そんなことはほかの何やかやにも当然ある話だろうが、辞書においても忘れてはならぬ要素で、内容さえよければ残るというものではない。」(p71)
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古来読まれ。

2008-03-14 | Weblog
藤井貞和著「古文の読みかた」(岩波ジュニア新書)の最後の方。
第三章「古文を読む」の終わりの方に、「徒然草(試験問題から)」という箇所があります。
疑問を持つのは始まりですが、それに答える方にまわる、というのは何時の段階からなのでしょう?ここに、すっきりと答えている藤井さんがおります。
「どういう古文を読んだらいいか、という相談をよく受けます。だいじな相談です。読書には計画性ということがたいせつです。何でもいいから手あたりしだいに読む、というのでは、自由な読書というより、放恣(ほうし)な読書であって感心できません。秩序のない乱読は乱雑な文化人を生みだすだけです。そういう意味で、すぐれた古典入門書はと聞かれたら、古来読まれつづけてきた『徒然草』や『枕草子』を第一に挙げることにためらいはありません。試験問題に『徒然草』から多く出題されるのも、皆さんにいちばん読んでほしい古典であるからではないか、と思います。」(p202~203)

「乱雑な文化人を生みだすだけ」というのは、ここでは徒然草・枕草子を読んでいない文化人を生みだしているのだと指摘しているようにも読めます。

またこんな箇所もありました。

「『徒然草』は、古文を読みはじめてばかりの中学生にも、本格的に古文を勉強しようとしている高校生にも、すぐれた入門書として、ずっと読みつがれて来ました。古典の名にふさわしい書物とは、長く読まれつづけて、人生の意義をおしえ、また指針をあたえてくれるもののことでしょう。『徒然草』は古典のなかの古典です。」(p200)

こうして指摘してくれる先生を、あなたは、お持ちですか?
ああ、いないのでしたら、この本が参考になるかもしれません。

どうようのことは、
藤井貞和著「古典の読み方」(講談社学術文庫)のp44~48にもありました。
そのはじまりは「もし読者が社会人で、いま初心に返って古典を読もうとしているとしたら、・・・何といっても『徒然草』を第一に推す」。

ああ。また徒然草を読み返したくなるなあ。
何かもう、すっかり忘れてしまったような気がします。
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ゲゲゲの女房。

2008-03-13 | Weblog
ゲゲゲの鬼太郎・悪魔くんを書いた水木しげる氏の夫人が、本を書きました。
昨日。その本を読み、そして何か書こうと思いながら寝てしまいました。

妖怪をはじめとするパンドラの箱をひっくりかえしたような水木作品を、正面から取り押えようとする作品論があるとすれば、この本は、袖から、そして背後から、水木しげるの背中ごしに語る人物論になっております。もちろん後方からですから、水木氏の手もとなど見えないのですが、それがかえって筋の通った、力みの無いすがすがしさを読者に提供してくれております。

本の最後の方にこうありました。

「以前、富士山の小屋に行ったときに、水木に聞いたことがありました。
水木は小首をかしげた後に、空を見上げ、ポツリといいました。
『よかったんじゃないか、おまえで、いつもぼんやりしていて』
『ぼんやり? 私、ぼんやりしてる?』
『とんでもなく、ぼんやりだ』
『そうかなあ』
『ああ。横を見ると、いつもおまえがぼんやりと立ってたな』
そういって、にやりと笑うと、右手で私の背中をバシッと叩きました。」(p238)

装丁が素晴らしくてね。
もし、本屋にあったなら、手に取ってみてください。
と、つい薦めたくなる一冊。
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ゆず花蕪村。

2008-03-11 | Weblog
杉山平一氏は、田中冬二についてこう書いておりました。
「最晩年の詩集『サングラスの蕪村』(これは田中冬二の世界を伝えてぴったりのしゃれた題名だと思うが)・・」(p223「戦後関西詩壇回想」)

与謝蕪村と田中冬二との取り合わせ。
萩原朔太郎著「郷愁の詩人 与謝蕪村」を、興味深く読んで、
つぎに田中冬二著「サングラスの蕪村」を読むとすんなり入っていけるのでした。まるで、過去から現在へと補助線のように続く参道をテクテクと歩いている気分になるのでした。
――「サングラスの蕪村」という題名自体が、それを暗示しておりました。

たとえば「サングラスの蕪村」のはじめの方に

「芭蕉の
 ――菊の香や奈良には古き仏達
菊の香と古き仏の対照 そのセレニテ そして奈良という地名
秋の気がひしひしと身に迫る
又蕪村の
 ――鮒鮓(ふなずし)や彦根の城に雲かかる
何というあかるいアクセントだろう
強いエーテルの波動に眼が痛くなるようだ
蕪村はフランスの画家カモワンやオットマンのようなカラーリストだ
芭蕉と蕪村この二人のセンスのフレッシュなことは驚くべきで
現代の詩人や俳人などの及ぶところでない」


「鄙びた田舎の粗末な川魚料理屋で、・・・・
膳に鯉の洗いの皿と、じゆんさいの酢のものの小鉢 
鯉の洗いの皿にはゆずの花が一つあしらいにあつた
そのゆずの花が蕪村を思わせ 
故人――郷愁の詩人蕪村が私に言う
――俳諧は俗語をもつて俗を離るるをよしとする 
詩もまたフィクションをフィクションらしからぬものにすることだと」

ちょいと、芭蕉・蕪村につきすぎるでしょうか。
それなら、こんな箇所はどうでしょう。


「セクシーなその女を思いながら
――好い女だなあ とひとり言の私に
――何ですの と家内が言うので
――好い陽気になつた とごまかす
庭に山ざくらの花が咲いている」


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春寒く。

2008-03-10 | Weblog
大岡信著「百人百句」(講談社・2001年)には、
その頃健在だった鈴木真砂女さんが語られておりました。
その真砂女さんの巻頭句としてあげられていたのが

   春寒くこのわた塩に馴染みけり

鈴木真砂女さんは明治39年生まれ(1906~2003)でした。
そして、昭和32年から銀座で経営していた小料理屋「卯浪(うなみ)」も今年の2008年1月25日<閉店>したのでした。


大岡信氏は、「鈴木真砂女の句には料理の素材を扱った句が多い。」とまず指摘しておりました。そしてこう締めくくられておりました。「・・・生活感覚の新鮮さとは、生活してきたものを地道にしっかりと見つめて生きることからしか生じない。」

じつは、つい真砂女を思い浮べたのは、与謝蕪村の句からでした。
たとえば

   やぶ入(いり)の夢や小豆(あづき)の煮(にえ)るうち

《注》やぶ入り――奉公人が帰省を許される休日。
   一月十六日前後。

   命婦(みょうぶ)よりぼた餅たばす彼岸哉

 《注》命婦 ――五位以上の女官。
    たばす――賜わる。

蕪村の夏の句には、こんなのがあります。

   なれ過た鮓(すし)をあるじの遺恨哉

   鮓桶をこれへと樹下に床几哉

   鮓つけて誰待としもなき身哉

   鮒ずしや彦根が城に雲かかる

  
さてっと、萩原朔太郎著「郷愁の詩人 与謝蕪村」に一読忘れられない句があったのです。それも鮓(すし)が出てくるのでした。

   寂寞(じゃくまく)と昼間を鮓のなれ加減

この朔太郎の説明がふるっているのです。
「鮓は、それのスが醗酵するまで、静かに冷却して、暗所に慣らさねばならないのである。寂寞たる夏の白昼。万象の死んでいる沈黙の中で、暗い台所の一隅に、こうした鮓がならされているのである。・・・・とにかく、蕪村の如き昔の詩人が、季節季節の事物に対して、こうした鋭敏な感覚を持っていたことは、今日のイマジズムの詩人以上で、全く驚嘆する外はない。」(岩波文庫 p58)

この寂寞の句がですね。尾形仂校注「蕪村俳句集」(岩波文庫)に載っていないのでした。「蕪村俳句集」の最後の初句索引を見てもない。夏の部をめくってもない(笑)。素人の私にはわからないので、疑問はここまで、そのうちに分かるかもしれませんし。

そこで、私がつぎに興味の舵をとったのは、田中冬二の詩集「サングラスの蕪村」。
うんうん。蕪村を簡単に袖振り合う程度に、入門してから読むと楽しみがわかるのです。ということで、冬二のその詩集からすこし引用


詩作にウルトラシーを意識してはならない スタンドプレイも禁物だ


故人と道づれになつた
故人は途中 私を伴い菓子屋へ立ち寄り 私に菓子の一折を買つてくれた
  ――そんな夢を見た



以上。二個所引用しました。

鈴木真砂女。卯浪。与謝蕪村。そんな夢を見た。
昨夜も炬燵で寝ておりました。

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ハガキ一枚。

2008-03-09 | Weblog
司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」(文藝春秋)に
「弔辞 ―― 藤澤桓夫先生を悼む」という文が載っております。

杉山平一著「詩と生きるかたち」(編集工房ノア)に
「大阪の詩人・作家たち ――交友の思い出から」という文があり、
その最初が藤澤桓夫を取り上げておりました。
そのなかに「藤澤さんがなくなられたときに(平成元年)、司馬遼太郎さんが弔辞を読まれました。ちょっと遅れて来て、そして長い弔辞を読まれました。」とあり、その引用を半ページほどしたあとに「その存在そのものが光であった、という文句で長い弔辞を結ばれました。ほんとうにそのとおりなんですね。・・五十年間、一度も上京したこともない。藤澤さんの小説が戦後読まれなくなったのは、作中人物がみな善人だからじゃないでしょうか。俳句がとてもお上手で、《春の星 南の枝に見つけたり》というのがあります。いかにも明るい、藤澤さんの人格をそのまま現しているような気がいたします。」

さて、この文には、杉山平一氏が藤澤さんのところへ出入りするようになった頃の座談のおもしろさを語った箇所があり、印象に残ります。

「誰それの作家は、手紙の字がだんだん小さくなりよんねん、はじめ大きい字やったんがだんだん小そうなりよる。すると、とうとう死によったとかね(笑)。それから、ある新進作家が文体をプツプツ切る、そのことを批評家にたたかれた、それでその作家は文体をあまり短く切らんように直しよった。するとその作家はだんだん輝きが消えて、ダメになっていった。つまり、作家というのは悪いクセを直したらだめなんや、それはその人の生命なんやとか。まあ、いろいろおもしろいこといわれました。書き続けろ、何でもいい毎日書き続けろといわれました。それでないと、ハガキ一枚書くのにもしんどくなってしまう。文学は習慣だってね。非常にウィットに富んで、愛想がよくて、相手をそらさないように・・大阪人ですわね。」(p205~206)

ところで、司馬さんの弔辞の方は、「以下、無用のことながら」と「司馬遼太郎が考えたこと 14」との両方にあり、共に文庫本になっておりますので、どなたでも気軽に手にして読めるのでした。この杉山氏のエピソードを読みながら、司馬さんの弔辞を読むと、読み流していて気づかなかったことに、あらためて気づかされるのでした。

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炬燵に転寝。

2008-03-08 | Weblog
萩原朔太郎著「郷愁の詩人 与謝蕪村」(岩波文庫)を読みました。
よかった。蕪村について、どなたかの本を読みたいと思っておりましたので、
なおさらよかったのかもしれません。その序には「著者は昔から蕪村を好み、蕪村の句を愛誦(あいしょう)していた」とつづく素敵な言葉が並んでおります。
そして、本文中にもこうありました。
「俳句の如き小詩形が、一般にこうした複雑な内容を表現し得るのは、日本語の特色たるテニヲハと、言語の豊富な連想性とによるのであって、世界に類なき特異な国語の長所である。そしてこの長所は、日本語の他の不幸な欠点と相殺される。それ故に詩を作る人々は、過去においても未来においても、新しい詩においても古い詩においても、必須的に先ず俳句や和歌を学び、すべての技術の第一規範を、それから取り入れねばならないのである。未来の如何なる『新しい詩』においても、和歌や俳句のレトリックする規範を離れて、日本語の詩があり得るとは考えられない。」(p51)

全体に解説的なくどくどしい説明がなく。蕪村俳句のリリシズムに相対する語感で萩原朔太郎は、蕪村を読み解いてゆきます。そして時に、大胆さをさりげなく書きこんでいたりします。
たとえば、こんな箇所はどうでしょう。
「芭蕉は『漂泊の詩人』であったが、蕪村は『炉辺の詩人』であり、ほとんど生涯を家に籠って、炬燵に転寝をして暮らしていた。時に野外や近郊を歩くときでも、彼はなお目前の自然の中に、転寝の夢に見る夢を感じて・・・」(p101)

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遠く・遠き。

2008-03-07 | Weblog
読売俳壇2月25日の小澤實選。その最初に

  降る雪や明治生れがまだ居るぞ  八王子市 石井白峰
 
【選評】「降る雪や明治は遠くなりにけり  草田男」を踏まえた。昭和の始めに詠まれた句だが、最近は「昭和は遠くなりにけり」という一節も眼にする。対して白峰さんは明治生まれの我はまだまだ元気と声を挙げる。

この句と選評とが楽しかったのでした。
ちょうど、最近読んだ萩原朔太郎著「郷愁の詩人 与謝蕪村」(岩波文庫)が気になっておりましたので、それと結びつけて、何か書きたくなりました。


中村草田男句集「長子」の目次は、春夏秋冬とわかれておりました。
その冬の部に「降る雪や明治は遠くなりにけり」がありました。

萩原朔太郎著「郷愁の詩人 与謝蕪村」の目次はというと、
「蕪村の俳句について」があり、それから春の部・夏の部・秋の部・冬の部。そして春風馬堤曲。さらに附録芭蕉私見と続きます。
さて、春の部の最初は

  遅き日のつもりて遠き昔かな

その後に、萩原朔太郎は「蕪村の情緒。・・・特に彼の代表作と見るべきだろう。」とはじめておりました。つぎの句は、

  春の暮家路に遠き人ばかり

また、まとまった句がつづくなかに

  花に寝て我家遠き野道かな

というのもあります。ここに「遠き」という言葉があるんですね。
草田男の「遠く」と、蕪村の「遠き」をむすびつけたい私がおります。

蕪村の春の部には

  閣(かく)に座して遠き蛙(かわず)をきく夜哉(かな)

これを朔太郎は
「『閣』というので、相応眺望の広い、見晴しの座敷を思わせる。情感深く、詩味に溢れた名句である。」と書いております。

ちなみに、蕪村の「春風馬堤曲」を萩原朔太郎は
「この長詩は、十数首の俳句と数聯の漢詩と、その中間をつなぐ連句とで構成されてる。こういう形式は全く珍しく、蕪村の独創になるものである。・・・」と書いております。その春風馬堤曲の最初の2行はこうはじまっておりました。

   やぶ入りや浪花を出て長柄川
   春風や堤長うして家遠し



こうくると室生犀星の「小景異情」から引用したくなるじゃありませんか。


   ふるさとは
   遠きにありて思ふもの
   そしてかなしくうたふもの
   よしやうらぶれて
   異土の乞食(かたい)となるとても
   かへるところにあるまじや

   ひとり都の夕ぐれに
   ふるさと思ひ涙ぐむ
   その心もて
   遠き都にかへらばや
   遠き都にかへらばや


「遠く・遠き」連想でした。
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