和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

その冒頭、桐壺の。

2021-11-27 | 本棚並べ
堀田善衛著「故園風来抄」(集英社・1999年)に、
「源氏物語について」という6ページほどの文があります。

はい。源氏物語は読まなくっても、
この堀田善衛の解説は忘れがたい。

「この物語は実に多くの驚くべき挿話を用意しているものであった。
その驚きは、まず物語開始早々の、その冒頭の、桐壺の巻にすでに
置かれていた。・・・・」(p81)

はい。『驚き』のまえに、まずはここから引用。

「・・・部分原文、部分現代語訳との混合の形にせざるを
えなかったことを、御諒承頂きたい。

 御局(みつぼね)は桐壺なり。あまたのお妃たちの御殿を
帝が素通りなさって、ひっきりなしのお通りに、お妃たちが
気をもまれえるのも、げにことわりと見えたり。
更衣が参上なさるにつけても、あまり回数がかさなる時には、
打橋、渡殿のここかしこの道に、あやしきわざをしつつ、
御送り迎への人の衣の裾、堪へがたく、まさなきこともあり。
またある時には・・・・。

ここで『あやしきわざをしつつ』というくだりは、
敢て現代語訳にはしなかったのであったが、
これは、けしからぬこと、というほどの意であり、
これにつづく文章と読みあわせると、これは
建物と建物をつなぐ板の橋や屋根つきの廊下などに、
汚物、つまりは糞尿を撒き散らかして、
桐壺更衣が帝のもとに通うのを妨害した、
というのであるから、誰にしても驚き、
かつ呆れざるをえない。

この当時は女御や更衣は大小便を箱にとっていたので、
召使たちもこのくらいのことはたやすく出来た筈である。」


 はい。もう少しつづけて引用しておきましょう。

「その筈ではたしかにあるのではあったけれども、
物語の開巻早々に巻き散らされた糞便に迎えられようとは、
何にしても驚きモモの木であった。・・・・・

『あやしきわざ』などのディテールのことはこのくらいにしたいが、
作者はやはりこの大作において、大作なればこそ、ディテールに
実に細心の注意を払っているのであった。
 ・・・・・・・

また、藤壺の気立てのよかったさまを語るについて・・・・
宮廷や貴族一般の経済のディテールにまで筆が及んでいるのであり、
この頃の物語において、彼等の経済基盤にまで言及したものは、
紫式部をおいては他に例を見ないのではなかろうか。・・・・

要するに官の補任や叙爵などがある毎に、
帝から給料が払われるのではなく、逆に宮廷へと
逆流して吸い上げる形になっていたもののようで、
まことに都合のいい仕掛けになっていたと見えるのである。

紫式部の目は、こういう宮廷経済の仕組みなどにも
たしかに届いていて、それはもう驚くというよりも、
当方の目がまるくなるほどのものであった。・・・」(~p85)

このようにして、堀田氏は、さまざまな日本の古典を
短く紹介してゆくのですが、この本の最後『一言芳談抄』が
未完で終っており、次のページの編集部による説明には

「『一言芳談抄』は、1998年5月20日に執筆されたが、
著者の病いのため未完のまま最後の文章となった。」
とあるのでした。
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青と黄色。

2021-11-26 | 本棚並べ
森岡督行著「荒野の古本屋」(小学館文庫・2021年1月)が古本で200円。
題名に惹かれて買いました。

パラリと、3章『「森岡書店」の日々』から読み始める。
茅場町で古本屋をはじめるのですが、売れない。
その心境を語られます。

「あるとき・・街の姿がいつもと違って見えた。
アスファルトは乾いた土の大地。ビルは赤茶けた岩山。
電柱は灌木。すなわち、見渡すかぎりの荒れ地。・・・・

私はそこに古本屋を開いてしまった。これでは、
昔の映画のタイトルではないが、まるで『荒野の古本屋』である。」
(p164)

それから、書店、ギャラリー、スタジオという仕事のあり方を
作り上げてゆくのでした。

荒野といえば、「2011年3月11日と写真展」「震災後再出発」
という箇所が続くのでした。ちなみに、
「文庫版の長いあとがき」は
「東日本大震災後・・」とはじまっているのでした。

う~ん。そういえばと本棚を捜して、
幅允孝著「幅書店の88冊 あとは血となれ、肉となれ」を
ひらいてみる。こちらは表紙カバーが青で、見返しの
きき紙と遊びが黄色。うん。なんだかアンリ・マティスの
切り紙絵の鮮やかな色彩を彷彿とさせます。
ということで、私はその表紙カバーでもって印象に残っていた一冊。

この幅允孝(はば・よしたか)さんの本は第1刷発行が
2011年6月23日となっておりました。その青いカバーの本の最後の
ページには、『図書館 愛書家の楽園』という本からの引用が4行。

「  本を読む人の美点は、情報収集力にあるのではない。
   また、秩序だて、分類する能力にあるわけでもない。
   読書を通じて知ったことを、
   解釈し、関連づけ、変貌させる才能(ギフト)にこそある。」

う~ん。この青いカバーの本の「はじめに」は
こんな風にしてはじまっているのでした。

「 少なくとも僕にとっては、本を読むこと自体が目的ではない。
  その読書が、どう自らの日々に作用し、いかに面白可笑しく
  毎日を過ごせるかの方が重要だと思っている。言い換えると、
  本よりも人間や毎日の生活の方が好きなのだ。・・・」

はい。森岡督行著「荒野の古本屋」
   幅允孝著 「幅書店の88冊」

この2冊を並べて本棚に置くことに。
すこししたら、忘れて何でこの2冊が並んでいるのかなあ、
そう思うのだろうなあ(笑)。
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外山滋比古『失敗談』

2021-11-25 | 先達たち
ネットの古本を注文するのですが、
この頃は、新刊同様の本を手にすることが多くなりました。

外山滋比古著「失敗談」(東京書籍・2013年)が、
きれいで帯付き200円。はい。外山氏の著作は好きなので、
手元になくって古本で安ければつい買います。

はい。私には好きな落語家の噺を聞いているような、
そんな気分を味わわせてくださる方なのでした。

ああ、これも以前聞いたことがあるなあ。
そんなことを思いながら、パラパラとめくる楽しみ。
同じ話を聞いているのに、またしても頷いてしまう。
はい。今回もありました。そんな箇所を引用します。

「つくづくよく忘れる。
書いたこともすぐ忘れる。
5分前に書いたことも忘れ、
思いつくと、新しい考えのように思ってまた書く。
くりかえすつもりはなくてくりかえしている。

そういう原稿を集めて、本にして出版したことがある。
それを意地の悪い匿名書評家がおもしろがってとり上げて、
ケチョンケチョンにやられた。

酔っ払いがクダをまいているみたい、
くだらぬことをくりかえして、読んでいると、
ハラが立つという痛快な書評である。・・・」

はい。それについて、すこし続けたあとに、
こうありました。

「記憶のいいひとは、年をとると、
頭がいっぱいになって、はたらかなくなる。
すくなくとも新しいことを考える力を失ってしまう。
頭のいい学者は40歳ぐらいで学者バカになることが多いのは、
忘却力が弱いからである。

あまり勉強しないで、しかも、どんどん忘れて頭の掃除をすれば、
40や50で半ボケになったりする心配はない。年をとるにつれて、
もの忘れが多くなるのは、自然が頭の老化を防いでくれている
ようなものだと考えると、人生はいつも新鮮である。」

はい。まったく勉強をしなかった私などは
『あまり勉強しないで』などと語られると、
これをきっかけにして、つい笑いだします。
まだ、つづきますので引用をつづけます。

「忘れっぽい人間は、若いときには、
まわりからバカにされるが、年をとると、
地力を発揮しはじめる。若いときには、
よけいな知識がじゃまして見えなかったことが、
見えてくる。新しい知識なんかいらない。

自分の頭で考えを生みだしたい。
ひとのこしらえたものを借りたり盗んで、
わがもの顔をするのは知的欺瞞ではないか、
とふそぶくことができる。」


はい。そうだそうだと『うそぶく』私がおります。
えい。最後まで引用しちゃいましょう。

「ひとのまねをするのは、記憶がよすぎるのである。
忘れっぽければ、まねるものがないから安心である。
労せずして、オリジナルになれる。

そう考えるのが忘却型人間である。
忘却型人間の強味は、年も忘れることである。

何歳になっても、青年のように溌剌としていることができる。
ひょっとすると、年も忘れ、死ぬことも忘れかねない。」
(p153~156)

うん。寄席など入ることはない私ですが。
ついつい笑って、この箇所を読んだことも忘れてしまう私がいて、
きっとまた、新鮮な気分で読み直すだろうなあと思う読後感あり。

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ユーモアのあるおおらかな。

2021-11-22 | 詩歌
久冨純江著「母の手 詩人・高田敏子との日々」(光芒社・平成12年)
を読めてよかった。いろいろと思うことがありました。
高田敏子の詩の舞台裏に案内されたような気分でした。

これは母・高田敏子と長女・久冨純江さんとのやりとりを通じ、
詩人・高田敏子の背景の深みを浮かび上がらせてゆく一冊です。
なんていっても、何もいっていないのにひとしいのですが(笑)。

読んでからしばらくすると、思い浮かぶ一箇所がありました。
そこを引用してみることに

「祖母・イトの妹で母(高田敏子)にとっては叔母にあたる
おとみおばさんが、78歳で詩のグループ『野火の会』に入った
と聞いたときには、その以外な組み合わせに驚いてしまった。

おとみさんは文学とは縁がなかったはず。・・・・・

おとみさんが『野火の会』に入ったのは昭和45年頃のことだが、
主人につづいて長男、戦後のシベリア抑留から最終船で帰還した
息子にも先立たれていた。姉のおイトさんも前年に失い寂しそう
にしていたので、母が詩を書くことをすすめたのだそうだ。

『そうねえ』というおとみさんのあっさりした答えに、
母のほうがびっくりする。『詩なんて、私などには書けないわ』
とか『いまさらこの年で』という返事が返ってくると思っていたのだ。
・・・・・

おそらく、法事か何かの席で久しぶりに会ったおとみおばさんに
母はいったのだろう。『詩はいいわよ。おばさん』・・・・・

明治24年生まれのおとみさんは会員850人ほどの『野火の会』の
最年長となった。自己流で作っていた短歌とは違って
『自由詩は難しい』と言いながらも、ぽつぽつと作品を発表し、
隔月に催される例会も楽しみに出席していた。具合のいいことに、
神楽坂の会場はおとみさんの家から歩いて行ける近さ。・・・・

詩を書き始めて6年目、84歳のおとみさんは『珊瑚の珠』という
詩集を出す。このときも、詩集にまとめたら、という母のすすめを
あっさり素直に受けたそうだ。
子どもや孫たちも出席した賑やかな出版記念会は、
大先輩の詩人・田中冬二も幼なじみということで駆けつけてくださり、
おとみさんの晩年に華やかな彩りを添えるものになった。

関東大震災と二つの大戦を経験して、喜びも苦労も味わった
老婦人の詩集。昔の思い出話や長男の死など過去の出来事が
主なテーマだろうと、正直なところ、私は少々気重な思いで
詩集を開いたのだった。

23の小篇は現在の日々の思いをあっさりとまとめたもので、
どれも素朴で明るい。私の知らないユーモアのあるおおらかな
おとみさんがいた。

おとみさんは詩集を出した後も
『書きたいことは、まだまだ、たくさんあるのよ』と、
気取らず、かまえず、子どものままの天心な心を
そのまま文字にしていった。90歳をすぎたおとみさんの
長寿の秘訣は、日々を率直な心で、喜びを見い出している
ところにあるのだろう、と母は言っている。

その後、足の弱くなったおとみさんは、
『野火』百号のお祝の会に次男に助けられ車椅子で出席した。
白髪の黒紋付の羽織姿は祖母そっくり。
母は腰をかがめておとみさんと言葉を交わしていたが、
会場の賑わいの中で、そこだけ、すっぽりと
真空パックに包まれたような懐かしい空間だった。」
(p148~p151)

うん。いろいろな場面が印象に残ったのですが、
ここだけを引用して満足することにします(笑)。


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力微なりといえども我々の学問は。

2021-11-21 | 先達たち
「臼井吉見を編集長とする思想文芸誌『展望』が筑摩書房から
創刊されたのは、終戦の年もおしつまった12月25日である。」
(p80・「編集者三十年」野原一夫著)

その創刊号には、三木清の絶筆に、永井荷風に、柳田国男が
目次にならんでおりました。
永井荷風の『踊子』については、こうありました。

「承諾を得たのは20年2月で、そのなかの一篇が『踊子』だった。
発表されるあてもない小説の執筆に、この老文豪はいのちを燃やし
ていたのである。しかし、戦時下の日本でこの・・原稿が日の目を
みるはずはなかった。・・・それがかえって『展望』のためには
さいわいした。・・・・

臼井が唐木順三といっしょに柳田国男を訪ねたのは10月12日である。
・・尊敬の念を抱いていたこの民俗学の泰斗に、できれば原稿を書いて
もらいたいと臼井は考えていた。」(P85~86)

その『展望』という雑誌とは異なるのですが、
柳田国男著『先祖の話』という本があります。
ちなみに、柳田国男略年譜をみると

1945年(昭和20)70歳 戦死していった若人のために
『先祖の話』を執筆(翌年刊)

とあります。その『先祖の話』には自序があり、
自序の最後の日付はというと、昭和20年10月22日。

その自序のはじまりは、こうでした。

「ことし昭和20年の4月上旬に筆を起し、5月の終りまでに
これだけのものを書いてみたが、印刷の方にいろいろの支障があって、
今頃ようやく世の中へは出て行くことになった。

もちろん始めから戦後の読者を予期し、平和になってからの
利用を心掛けていたのではあるが、まさかこれほどまでに
社会の実情が、改まってしまおうとは思わなかった。

  ・・・・・・・・・・・・

強いて現実に眼をおおい、ないしは最初からこれを見くびってかかり、
ただ外国の事例などに準拠せんとしたのが、今までひとつとして
成功していないことも、また我々は体験しているのである。
 ・・・・・
力微なりといえども我々の学問は、こういう際にこそ出て
大いに働くべきで、空しき咏嘆をもってこの貴重なる過渡期を、
見送っていることはできないのである。

先祖の話というような平易な読み本が・・・・・
まず多数少壮の読書子の、今まで世の習いに引かれて
知識が一方に偏し、ついぞこういう題目に触れなかった人たちに、
新たなる興味が持たせたいのである。

・・・・事実の記述を目的としたこの一冊の書物が、
時々まわりくどくまたは理窟っぽくなっているのは、
必ずしも文章の拙なためばかりではない。
一つにはそれを平易に説き尽すことができるまでに、
安全な証拠がまだ出揃っておらぬ結果である。

このたびの超非常時局によって、国民の生活は
底の底から引っかきまわされた。日頃は見聞することもできぬような、
悲壮な痛烈な人間現象が、全国のもっとも静かな区域にも簇出している。
・・・・・」
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ペロッとした一枚の紙切れ。

2021-11-21 | 先達たち
「梅棹忠夫語る」(聞き手小山修三)日経プレミアシリーズ。
はい。新書でした。そこで
小山さんが、アメリカやイギリスの図書館の様子を指摘しておりました。

小山】・・・アーカイブズの扱いの巧みさというものを見てきました。
パンフレットとか片々たるノートだとか、そういうものも
きちっと集めていくんですよね。

梅棹】 アメリカの図書館はペロッとした一枚の紙切れが残っている。

小山】 その一枚の紙が、ある機関を創設しようとかっていう
大事な情報だったりするんですな。それがきちっと揃っている。

 少しカットして、その次に

梅棹】 ・・・ほんとにおどろくべき話やけれど、わたしが
始めるまで、自分の書いたものを残すべしという習慣がなかった。
発表したものが全部どこかへいってしまうんやな。

もう古い話やけど、わたしが還暦のときに自分の著作目録という
ものをこしらえて、それを桑原武夫先生のところへ持っていった。
そしたら桑原さんは、『こんなもんつくって、大迷惑だ』って
言いながら『場外大ホームランや』って。・・・・・・・・・

・・・桑原先生は
『みんな真似しよう思っても、もういまさらでけへんやろ』って。
ほんとに信じられない話だけど、みな自分が書いたものを残して
なかったわけです。

自分でやらなければ、だれも残してくれない。
わたしは中学校のときのものから残っている。
ガリ版やけど、中学校のときのもあります。・・・・(p80~82)


ここに『ガリ版』が登場しておりました。

川喜田二郎著作集別巻には
「ある小集団の発生――梅棹忠夫君との交友から」(p64~67)
がありました。この別巻にはまたこんな箇所があるのでした。

「1964年に愚著『パーティー学』で、
次いである仲間の集会で暫定的に『紙キレ法』と称して説明したら、
同席の友人梅棹忠夫さんが、私の用意したガリ版刷り資料の
一隅に自筆した『KJ法』という一語を指さし、『これにせよ』と
すすめてくれたのである。それに端を発し、
翌年1月にこの名を正式に定めた次第だった。・・・」(p252)

はい。ガリ版についてはこれまでにして、最後に、
川喜田二郎氏による梅棹忠夫について、引用しておくことに。

「梅棹君と私とは、お互いに対照的なほどちがっていた。
中学時代の登山では、彼はチームワークがうまく、私はへただった。
・・・梅棹君は文学青年で私は哲学青年だった。
彼は万事スッキリ好みなのに反し、私や後輩の川村俊蔵君などは
万事ゴツゴツと野暮ったかった。
彼は気分の高揚するときと落ちこむときとの波の上下が極端だった。
・・・・・・・・

しかしその彼が、国立民族学博物館の仕事にかかり出してからは、
高揚したレベルのまま安定しているようである。
それに、時おり話しあっていると、ずいぶん人間的成長が感じられる。

やはり人間は誰しも、自分が真剣に取り組んでいる仕事を通じて
成長するものだと思わずにはいられない。・・・」(別巻・p66)
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石碑の読み聞かせ。

2021-11-18 | 地域
東日本大震災のあとでした。
そうだ、近所に震災記念碑があったなあ。
そう思って、その石碑の漢字を読んでみたことがあります。
関東大震災の記念碑でした。

その内容を話したことがあったのでした。
それを聞いていてくれた方がありました。
もう10年ほども前になります。今年になってこの11月に
聞いてくれた方が、公民館主催で、地域の石碑めぐりをしたいから、
石碑ガイドをしてみませんかとさそって下さいました。
5基の石碑をめぐる半日の歩きコースです。

はい。触手が動きました。三カ月前に依頼があったので、
町史などをひらいている時間がふえました。
11月10日9時集合12時半解散で、参加者は13名。
他に役員と私を加えると全員で18名。
70歳代の方が多かったのでした。
御夫婦で参加されている方もおられました。
はい。皆さん歩きなれた方で、スムーズに進み
解散が12時になりました。
資料として、20ページほどの解説をコピーして
お渡しして、歩きながら、石碑を説明しながら、
そのプリント冊子一冊分を語ることができました。

終わってみれば、
子どもに絵本の読み聞かせがあるように、
おとなに石碑の読み聞かせをしていたのだと合点しました(笑)。

さてっと、今日起きたら、
うん。わたしのブログを読んでくださっている方に
このプリント冊子を差し上げようと思い浮びました。
期間は11月いっぱい。
欲しい方は、・・・・・・・ へと
メールにご住所をお送りください。
折り返しプリント冊子をお送りします。はい。無料です。

はい。ちなみに、
プリント冊子は、最後の数ページは、参考文献にあて、白黒ですが、
絵や写真もコピーして、それだけで開いても楽しめるようにしました。
あとは、石碑の碑文をたどる読み方を自分なりに工夫してみました。



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終戦後、新聞やラジオで。

2021-11-16 | 先達たち
野原一夫著「編集者三十年」(サンケイ出版・昭和58年)が古本200円。
はい。買ってパラパラめくると柳田国男氏が登場する場面がありました。

場面は、終戦の年、雑誌『展望』を創刊するところでした。

「臼井(吉見)が唐木順三といっしょに柳田国男を訪ねたのは
10月12日である。・・・・

柳田国男は、これからさき、自分が世の中の
お役に立ちそうな仕事は三つほどあると言った。

一つは国民固有の信仰。
これが、どんなふうに歪められているか、
それを証拠をあげて明らかにしたい。

もう一つは、人の心を和らげる文学。
それについても考えてみたい。

第三には、国語の普通教育。国語を、今後の
青少年にどう教えるのがいいかということだ。

よく口のきける少しの人と、
うまく物が言えない多くの人が、
いりまじるようなことになれば、どうなるか。

みんなが黙りこくっていた時代よりも、
不公平がひどくなるかもわからない。
自由には均等が伴わなくてはならない。

あの戦時下の挙国一致をもって、ことごとく
言論抑圧の結果と考えるのは事実に反している。

利害に動かされやすい社会人だけでなく、
純情で死をも辞さなかった若者たちまで、
口をそろえて一種の言葉だけをとなえつづけていたのは、

強いられたのでも、欺かれたのでもない。これ以外の
考え方、言い方を修練する機会を与えれなかったからだ。

こういう状態が、これからも続くならば、
どんな不幸な挙国一致が、
これからも現れてこないものでもない。

その柳田国男の言葉は臼井に深い感銘を与えた。
まさにこれは重大事で・・・・

現に新聞やラジオでとりかわされている言葉には、
『よく口のきける少しの人』の、ハンコで押したような
一種の、これまでのそれの裏返しみたいな、
どぎつくわかりいい考え方、言い方が出て来て、
あちこちで、その口真似がはじまっていた。

その国語教育の問題を、随想のかたちで我々の雑誌に
連載していただきたいと臼井はたのんだ。
柳田国男は快諾した。」(p86~87)


柳田国男をいつか読もうと思ったのは、あれは、
いつだったのか。それがいまだに読まないまま。
こうなりゃ、読まなくてもいいパラパラめくる。
題名だけでも、目次だけでも、めくりましょう。
はい。そうしましょう。
コメント (2)
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たらんと垂れた垂乳根の。

2021-11-15 | 本棚並べ
だんだんと、寒くなります。
私は寒がりで足首から冷えるのでした。
レグウォーマが冬の必需品となります。
うん。湯たんぽはまだ登場してません。

夏は汗をかくので、お風呂。
冬は温まるために、お風呂。

うん。とりあえず。お風呂に関する本。
ということで、思い浮かぶ本を並べる。

写真集として楽しめそうなのが

「京都極楽銭湯読本」林宏樹(淡交社)
「京都極楽銭湯案内」林宏樹・写真杉本幸輔(淡交社)

はい。どちらも古本で購入。
銭湯といえば、
林望著「ついこの間あった昔」(弘文堂・平成19年)
に「混浴という美風」(p180~)という箇所がありました。
うん。そこにある1枚の写真が忘れられません。
そこで林氏はこう指摘しておりました。

「たとえば八岩まどかさんの書かれた『混浴宣言』という本
(これは、ほんとに名著です。じつに素晴らしい本ですから、
みなさんぜひお読みください)・・」とありました。

八岩まどか著「混浴宣言」(小学館)を、この冬は読んでみたい。
そのまえに、林望さんのこの本なのですが、
「混浴という美風」のひとつ前に「羞恥のありどころ」という文。

はい。ここはぜひとも引用したくなります。

「昭和42年、西暦1967年の夏のことである。
私は・・大学1年に入ったばかりで、・・・
ギタークラブに入って活動していたのだが、
夏休みになると間もなく、合宿があった。
その年の合宿は那須高原で行われ、最初の夜は
那須湯本の温泉宿に泊った。そのころ、
那須湯本温泉はひどく鄙びた湯の町で、
温泉宿なども軒の低い木造の昔風であった。
街道筋に何軒も湯宿が軒を並べていたが、
その宿々の前に、縁台が置かれていて、
夕方になると、そこには三々五々涼みの人が出た。
その涼みの人たちは多く地元のオジサンオバサンという
感じだったが、」


はい。お待たせしました。
ここから本題となります。

「私が目を疑ったのは、なんとオバサンたちは
ほとんど湯文字一つを身に纏っただけで、
上半身は裸だというこの事実であった。

農家のおかみさんたちの湯治だったかと思うのだが、
豊かな乳房を夕風になぶらせながら、のんびりと団扇
などを使いつつお喋りに時を過ごしている人たちには、
すくなくとも胸を露わにしていることに対する
羞恥心などは皆無であった。・・・・・」(~p175)

この文にも、1枚の写真がさりげなくあったのでした。
その写真を説明する箇所がありました。

「この写真のおばあさんなんかは、胸を出しているのは、
腕を出しているのと別に意識上の違いは無く、要するに
暑いから出しているというだけのことである。
このたらんと垂れた乳房こそは、
『垂乳根(たらちね)の母』としての女の、
いわば勲章のようなもので、別にこそこそと
隠し立てする理由も必要もなかったのだ。」(p177)

え~と。何だったっけ。そうそうお風呂でした。

橋本峰雄著「くらしのなかの仏教」(中公文庫)のなかに、
「風呂の思想」という文がはいっております。
その文の最後を引用しておくことに、

「今日、混浴の是非どころか、銭湯の衰退と
風呂の個人主義化とが進んでいる。

混浴の是非は社会の『性』意識の如何によろう。
一方では肉体の露出、他方では混浴の忌避
―――現代日本人の性意識、とくに若い女性のそれは
大きなひずみを押しつけられているといわざるをえない。

混浴の是非をいうまえに、『おおらかな性』の文化形成のために、
現代日本人の『性』意識の帰趨を見守らなければならないだろう。
・・・」(p171)

ちなみに、橋本峰雄氏の「風呂の思想」は、初出一覧を見ると
昭和52年10月の「現代風俗’77」に掲載されたものでした。







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