和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

半年が。

2013-03-31 | 短文紹介
思い浮かんだのは、
小田嶋隆著「地雷を踏む勇気」(技術評論社)の
はじまりの言葉でした。

「東日本大震災から半年が経過しようとしている。
個人的には、3月11日からの半年間で、時代がすっかり変わってしまった感じを抱いている。震災以前の出来事は、たった1年前に起きた事件であっても、遠い昔の記憶であるように感じられる。不思議な感覚だ。
震災を契機として、具体的に何が起こって、われわれの精神のどの部分がどんなふうに変化したのかについては、今後、長い時間をかけて、じっくりと検証しなければならないのだと思う。が、細かい点はともかく、わたくしども日本人の時代認識が、震災を機に変わってしまったことは確かだ。」(p011)

あれから、東日本大震災から二周年が過ぎております。
わたしは、「じっくりと検証」しただろうか?
困ったなあ、この引用した言葉も、あれ、
どなたが言ったものだったかと忘れておりました。
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配列の工夫を見ること。

2013-03-30 | 本棚並べ
読み散らしたままだった織田正吉著「百人一首の謎」(講談社現代新書)を最後まで読む。
とてもわかりやすく、「はじめに」に登場する、昭和19年当時の中学の物理の山本昇十郎先生のことが、読み進みながらチラチラと思い浮かぶ不思議。読めてよかった。

どこを引用しましょうか。

「国文学を専攻する学生は別として、和歌についてごく一般的な常識は中学や高校で習う古典から得ている。あるいは、教養として読む名歌の選集から得る。名歌とされる歌を何首か抜き出して『鑑賞』するのがふつうであって、『古今集』や『新古今集』を巻頭から巻末まで歌集全体を通読する機会を持つ人はそれほど多くはないだろう。配列の工夫を見ることにこそ歌集鑑賞の妙味があるとわたしは思うのだが、ごく限られた研究者以外、配列に関心を持つ人は少ないようである。」(p125)

うん。まずは、手にはいる織田正吉の古本を手元に置くことにします(笑)。
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もののみかた。

2013-03-29 | 地域
KAWADE道の手帖「今和次郎と考現学」。
そこに今和次郎氏の「言葉の修業」という4頁の文あり。
そこから引用。

「青年時代に、柳田国男先生のお伴をして田舎を歩いたときに、先生は言葉の達人だったせいもあるが、『君はものをいわないで、目でものをみている男だね。じっくりと場面をみている。人の顔をみている。なかなか面白いところがある』と、いってくれたのが記憶にある。」(p48)

うん。ここまででいいや。
畑中彰宏著「柳田国男と今和次郎」(平凡社新書)という水先案内人が、できたので、まずは、畑中氏が引用している柳田国男の文から読み始めることにします。

ということで、今和次郎氏の著作はおあづけ。

そういえば、「柳田国男と今和次郎」に
柳宗悦が登場する箇所があったのでした。


「柳宗悦、浜田庄司、河井寛次郎らの『民芸運動』は、関東大震災をひとつの契機として生まれたものである。柳たちは、既存の美術界の審美眼ではないがしろにされていた日本の日用雑器に目を向け、そこに真の美を見出し、調査研究や紹介、収集活動を展開した。・・・・・民俗学と民芸の関係でいえば、それぞれのリーダーである柳田国男と柳宗悦の対談が、かみ合わないまま終わったことはよく知られている。今(和次郎)も後年、渋沢敬三とともに岩手県二戸郡荒沢村で農村調査をしたときの話のなかで、民芸にたいして批判的な意見を述べている。
 『参加したのが柳宗悦、浜田庄司、河井寛次郎の諸氏である。この一行のもののみかたは、すべて鑑賞のみにひたって、農民の具体的なくらしのことなどはそっぽを向いている。鑑賞におぼれてしまう態度だ。農民生活を学問的に、あるいは社会福祉的になどということはまるっきり縁がない。(「常民博物館を育てた渋沢さんの周辺」)』(p147~149)

うん。柳宗悦まで視野にはいっていて嬉しいなあ。
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出発点にならぶ。

2013-03-28 | 本棚並べ
注文してあった本が昨夜届く。
まだ、読んでいない。
うん。うきうきした気分。

「池上彰教授の東工大講義 日本篇」(文藝春秋・2013年3月30日発行)
「今和次郎と考現学」(KAWADE道の手帖・2013年1月30日発行)

池上さんのは
「この日本で生きる君が知っておくべき『戦後史の学び方』」
というので、さきに世界篇が出ております。
どちらも「日経新聞」人気連載と帯にあるのでした。
とりあえずは、まえがき・あとがきを見る。
うん。私はそれだけで何というか満腹感あり。

「今和次郎と考現学」には、
加藤秀俊氏も書いておりました。
その文の最後を引用。

「大学の学問が、そのありかたについて根本的に再検討をせまられているとき、民衆学に投げかけられる期待は大きい。今和次郎は、きたるべき民衆学の時代のための巨大な出発点だ。わたしも非力ながら、その出発点にならぶ人間のひとりでありたいと思う。」(P173)
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賢く次善を選ぶ。

2013-03-27 | 短文紹介
新潮45に連載中の
坪内祐三氏の「昭和の子供だ君たちも」は
4月号で、第17回目。
そこに坂本龍一が登場しておりました。
その登場の仕方。

「新宿高校の坂本龍一と言えば前回触れた小林哲夫【高校紛争1969‐1970】(中公新書)に面白いエピソードが紹介されている。
『69年11月15日、都立新宿高校では全共闘が印刷物配布の許可制撤廃、試験の廃止などを訴えて校長室を占拠する。生徒会長の塩崎恭久(やすひさ)らが校長とやり合っていた。国語科を教えていた前中昭教諭は、全共闘メンバーだった坂本龍一が占拠に加わっていないのを不思議に思った。坂本は遅刻していた。前中は学校史で記している。』

そして都立新宿高等学校の『六十周年記念誌』(昭和58年)に記されている前中昭の文章が引用されている。

『坂本龍一だけは遅れてやってきた。「どうした?」と聞くと、「かあさんがネ、起こしてくれなかったノ。」と答えた。私は彼の足を蹴とばしていた。/差別を拒絶するという彼らの主張は、今も正しい。しかし、現実における差異の否定にまで短絡させては、いかなる賢者も答えようがない。/結局、ダダをこねるという形になった。そして、自由の意味を正しく捉えてこなかった。戦後民主主義の弱点が露呈したに過ぎなかった。/四、五日たって坂本が、「僕らは民主主義の申し子なんですヨネ。駄目ということですかネ。」と、ビールをのみながら、私の目をみて呟いていた。その時の私は、生徒と徹底して付き合うしか仕方がないと、愚かにも思っていた』

エコでロハスなオール電化生活を礼讃していた坂本龍一の反原発への『転向』を批判する人もいるが、坂本龍一はデタラメな人という点で一貫しているのだ。」(p245)

そういえば、
曽野綾子著「不幸は人生の財産」(小学館)のなかの、12年8月31日号掲載文に坂本龍一氏が登場しておりました。

「週末ごとに行われている総理官邸周辺のデモに私は行かないが、教えてほしいことがある。『焚き火も、化石燃料も、原発もダメならば、明日からどうしたらいいのか』ということだ。デモの指導者の一人、坂本龍一は『たかが電気』と言われた。・・・
しかし電気は偉大だ。医療の世界では、電気は命そのものだ。手術室は必ず予備の電源を備え、救急車は電話によって出動する。人工呼吸器も停電になったら終わりだ。金融システムも交通網も、電気によって死命を握られている。もっとはっきりしているのは、民主主義も電気によって守られていることだ。電気のない国で民主主義を完成し、継続している国は世界中に一国もない。
最善ではなく賢く次善を選ぶことに我々は馴れなくてはならない。」(p116)


うん。こういう箇所は、すぐ忘れてどこにあったのか、とんと、わからなくなるので備忘録がてら記しておきます。
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災害に向き合う民俗学。

2013-03-26 | 短文紹介
畑中章宏著「柳田国男と今和次郎 災害に向き合う民俗学」(平凡社新書)を読みました。わかりやすく読み進められて、ありがたい新書一冊。ああ、そういうことなんだなあ。と納得しながら読みました。

ちなみに、KAWADE道の手帖(2013年1月11日発売)の一冊に、「今和次郎と考現学 暮らしの今をとらえた目と手」(\1680)が出ており、さっそく興味がわきます(笑)。

関東大震災で、帰国した柳田国男は

「ひどく破壊せられている状態をみて、こんなことはしておられないという気持になり、早速こちらから運動をおこし、本筋の学問のために起つという決心をした。」(p95)

と畑中氏は柳田国男の文を引用しております。

第3章の終りでは、今和次郎のことを引用して、印象に残ります。

「柳田から宿題に今(和次郎)が答えようとしたのは、すでに戦時下のことだった。
『今日これをふりかえると、震災当時はまだ余裕があったのだと思えるのです。そして今日は空襲下における大都市住民はどうあるべきかという一層深刻な場面に立たされていると考えられるのです。震災のときは、いかにして帝都を復興すべきか、という考えの下に総ての動きがあって、一面において朗らかさがあったわけですが、今日は、いかにして帝都の疎開を促進すべきか、という課題の上に動いているのです。そして空襲にさらされた場合の生活と住居がいかにあるべきか、ということの予想と準備に魂を打ち込んでいる情勢にあるといえる時なのです。住居の問題も深刻でしょうし、生活の問題も深刻なのです。(「暮らしと住居」あとがき)』
このあとがきが書かれた頃、柳田は灯火管制下で、子どもたちに向けて『火の昔』を綴り、戦後社会を見すえて『先祖の話』を書いていた。
柳田国男と今和次郎は、民俗学においてこの『非日常時』に交わっていたはずだ。天災や人災によって家を失ってしまうこと、故郷を離れてしまわざるをえないこと・・・。近代日本のなかで生まれた日本民俗学にとって最大の関心事であったはずの難問を、二人は生涯手放すことなく取り組み続けたのである。」(p228~229)


そういえば、方丈記も住まいへの言及につながっていたなあと、あらためて、そんなつながりを思ったりするのでした。
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柳田国男、今いずこ。

2013-03-25 | 短文紹介
日経新聞2012年7月21日文化欄に
「柳田民俗学 震災後を問う」とあります。
柳田国男が亡くなって、没後50年の記念行事にあわせての掲載なのでした。さてっと、そこにはこんな箇所があります。

「そんな柳田の姿勢を、よく示す例が、1945年4月から5月、東京の片隅で連日の空襲警報の中で書き継いだ『先祖の話』である。季刊誌『考える人』に『柳田国男、今いずこ』を連載している宗教学者の山折哲雄氏は、次のように書いている。『この廃墟のような大東京において、死者たちの魂はどこに行ってしまったのか。どのようなタマシイの通い路をたどって、あの先祖たちの憩う世界に還っていくのか、柳田の思いはしだいにその一点に収斂していったにちがいない』
日本の祖霊信仰の姿を説く『先祖の話』は、戦死者の霊を鎮め、動揺する人心を慰めたいという思いに支えられていた。・・・」

という箇所が気になっております。
それでは、これから未読の柳田国男を読み始めることができますように。
これを、キッカケにしてすこしでも読み始めたいと思うのでした。

畑中章宏著「柳田国男と今和次郎」(平凡社新書・2011年11月)は、副題が「災害に向き合う民俗学」となっております。
まずは、これからとひらくと、
紀行文「二十五箇年後」の引用がありました。
「たびたび津波災害に襲われた、唐桑半島の記録として価値をもつ」と指摘して引用されたその箇所を孫引き。

「・・智恵のある人は臆病になってしまったという。元の屋敷を見棄てて高みへ上った者は、それゆえにもうよほど以前から後悔をしている。これに反してつとに経験を忘れ、またはそれよりも食うが大事だと、ずんずん浜辺近く出た者は、漁業にも商売にも大きな便宜を得ている。あるいはまた他処からやって来て、委細構わず勝手な処に住む者もあって、結局村落の形は元のごとく、人の数も海嘯の前よりはずっと多い。・・・」(p62)

たしか、高山文彦著「大津波を生きる」(新潮社・2012年11月)にも、浜辺を選択した田老への言及があるのでした。

これをキッカケに、柳田国男全集に触れもせず、ということがないようにしたい。と、ここに書いておきます。

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評論書が色褪せて見える。

2013-03-24 | 短文紹介
「新潮45」4月号に
太田啓之氏による「ガンダムか司馬遼太郎か」という6頁の文があるのでした。

そういえば、谷沢永一著「紙つぶて 自作自注最終版」(文藝春秋)に
こんな箇所があったなあ。

「司馬遼太郎を論じた文章や著作は相当数に達する。なかには『司馬遼太郎と丸山真男』(平成10年)等という奇抜な組み合わせで、名高い二人を並べたら売れるだろうという顔付きの本もある。結局は向井敏の『司馬遼太郎の歳月』(平成12年)しかないのかと手を拱いていたところ、その構想と資料の捌(さば)き方に於いて、史上初めての巧緻な独創の本が出た。すなわち山野博史の『発掘 司馬遼太郎』(平成13年)である。司馬さんに心を寄せること深く、内容の味わいがひとしお身に沁みる本である。
山野博史は世間に通っている司馬論はすべて省いた。そして広く散らばっている断簡零墨のなかから、司馬さんの人柄、心情、友愛など、ココロの籠っている文章だけを集めた。
それからが文献探索の難所である。つまり親知らず子知らずを行く気持であって、先程見つけた司馬さんの呼びかけ辞句に、同じ相手が司馬さんを語った文章を探し出す。漸く見出した砂金を生かすため、息の通った二人の懇親を描き出す。それも今まで世に知られなかった文章を重要視する。だから、この本は司馬さんの外面(そとづら)ではなく、専ら親しみの情を内面から写しだす。それも非常な資料費を投じての成果である。こういう本を読むと、世間一般に通用している評論書が色褪せて見える。」(p129)


うん。もう一度、本棚のよく見える場所に『発掘 司馬遼太郎』を置きなおさなくちゃ。
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ありのままを。

2013-03-23 | 短文紹介
吉村昭著「三陸海岸大津波」(文春文庫)の
第二章「昭和八年の津波」にある「子供の眼」は、
子供たちの作文を引用している箇所なのでした。
その「子供の眼」の最後に、こんな箇所があったのでした。

「これらすぐれた作文は、田老尋常高等小学校校長木村清四郎をはじめ教員たちの指導でまとめられた貴重な記録で、同校生徒164名、2名の教員の死に対する鎮魂文でもある。
孤児となった牧野アイさんの話によると、担任訓導佐々木耕助氏から『ありのままを作文に書け』と言われた記憶があるというが、書く児童も書かせた教員たちも悲痛な思いだったにちがいない。
その教員であった佐々木氏は、同村の本間旅館で下宿していたが、同旅館内のただ一人の生存者であったという。『佐々木先生は短距離の選手で、丹前姿で後から迫る津波と競争して逃げ勝ったのですよ』と、アイさんは可笑しそうに笑った。」(p140~141)


毎日新聞2013年3月17日に、
その荒谷アイさんの現在の写真と、尋常小学校時代の佐々木耕助先生と荒谷アイさんとがいっしょの写真が掲載されておりました。
新聞には、こんな箇所があるので、引用しておきます。

「作文を書かせた佐々木耕助先生とは、どんな人物だったのか。私は大船渡市に住む五男の啓(とおる)さん(65)を訪ねた。『物静かな父で、いつも陸上の本を読んでいた。音楽教師の資格も取り、小学生にピアノを教えていました』。啓さんによると、耕助先生は1910(明治43)年生まれ。22歳のとき、初任地の田老尋常高等小で津波に襲われる。翌年まで田老に残り、その後は陸前高田や大船渡の学校で体育を教えた。01年に90歳で生涯を閉じた。時々、家で昭和大津波の話をしたという。『走って逃げたが波に追いつかれ、丸太につかまり助かった』『今生きてるのはおまけみたいなもんだ』。地震が来ると家族で一番怖がり、一人で裏山へ登った。啓さんは『山へ逃げることなんてないのに』と思ってきたが、東日本大震災で自分が向かった先は、かつて父が逃げた山だった。・・・」

ちなみに、毎日新聞の記事は安高晋記者とあります。
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出来上がりました。

2013-03-22 | 短文紹介
谷沢永一追悼集(浦西和彦・増田周子編)の第一部「悼む」のはじまりは、丸谷才一氏の文でした。

「数多い著作のうち代表作とも言うべきものは、初期の『大正期の文藝評論』と後期の『文豪たちの大喧嘩』であろう。」と丸谷氏は指摘しております。
ハハハ。私は2冊とも読んでないや。

ところで、谷沢永一著「紙つぶて 自作自注最終版」(文藝春秋)に、第4回毎日書評賞の新聞切抜き(2006年1月)をはさんでおいたのでした。そこには山崎正和氏の「選考を終えて」があり、「受賞者に聞く」もあるのでした。
そうでした。「紙つぶて 自作自注最終版」は毎日書評賞を受賞しておりました。
その「受賞者に聞く」の最後を引用。

「・・・この本の執筆は、友人の開高健が取り持つ縁で知り合った編集者・萬玉(まんぎょく)邦夫さんの提案で始まりました。萬玉さんがおととし(04年)に亡くなり、あきらめていましたが、遺志を継いだ編集者と文藝春秋により実現しました。半生をかけた仕事が1冊になり、どなたかに『私という人間を見てください』という時に差し出したいと思えるものが出来上がりました。(聞き手・手塚さや香)(写真・西村剛)」

しばらく、パラパラとめくる、
その緊密な愉しみのために、
この「紙つぶて」を、机の脇に置くことに。
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ぴったりの格言。

2013-03-21 | 本棚並べ
昨日は、外山滋比古氏について触れたのでした。
うん。いつかまとめて外山滋比古氏の著作を読みたいと思っている私なので、もうすこし触れて、本棚の外山氏の古本を読み直すきっかけとなればと思うのでした。

竹内政明著「『編集手帳』の文章術」(文春新書)に
外山滋比古氏が登場する箇所があります。
そこを引用。

「新聞の一面コラムは毎日たべても飽きない白いご飯が理想です。個性の味つけが強いチャーハンや五目ご飯では読者がうんざりしてしまいます。何度も繰り返し濾過して個性を取り除き、真水にする。真水にしたつもりでも、書き手特有の匂いはほのかに残る。それがほんとうの個性というものでしょう。濾過する努力もせず、『××節』などと自分の名前を冠した呼び方をされて喜んでいる記者に、まともな文章の書ける人はまずいません。英文学者、外山滋比古さんの随筆集を読んでいて、ぴったりの格言を教わりました。外山さんの自作だそうです。

 われを去る。ゆえに、われあり。
          『ことばに遊ぶ』(毎日新聞社)

デカルトの《我思う、ゆえに我あり》のもじりですが、新聞記者の文章作法にもあてはまります。・・・」(p151~152)

このあとの153ページには、敬愛する文章家を列挙されておりまして、それも興味深いのでした。
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グッド・モーニング。

2013-03-20 | 短文紹介
「新潮45」2013年4月号。
外山滋比古氏の連載「右顧左眄」が最終回。

真ん中に、こうあります。

「近代文化がどことなくか弱く、冷たく、批判的であるのは、夜の思想のせいである。明朗、闊達ということを忘れ、陰々滅々の風を高尚のように誤解して、それに気づくこともない。夜型文化は若ものには好都合だが、社会全体がそれに引きずられるのは情けない。」

2頁の文の最後は、こうでした。

「・・・この春、新しい社会人になるという知人の孫の青年に、こんな長話をした。はなむけのことばのつもりである。グッド・モーニング。」(p273)


ちなみに、この雑誌の今回の特集は「新入社員諸君!」とあります。
未読。
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弟橘の物語。

2013-03-19 | 本棚並べ
門田隆将著「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の500日」(PHP)が、本立てにあったので、この本から思いつく3冊。

美智子著「橋をかける 子供時代の読書の思い出」(すえもりブックス)
司馬遼太郎著「風塵抄二」(中央公論社)
「震災後のことば 8・15からのまなざし」(日本経済新聞出版社)

まずは、「橋をかける」から

「父のくれた古代の物語の中で、一つ忘れられない話がありました。・・・倭健御子(やまとたけるのみこ)と呼ばれるこの皇子は、父天皇の命を受け、遠隔の反乱の地に赴いては、これを平定して凱旋するのですが、あたかもその皇子の力を恐れているかのように、天皇は新たな任務を命じ、皇子に平穏な休息を与えません。悲しい心を抱き、皇子は結局はこれが最後となる遠征に出かけます。途中、海が荒れ、皇子の船は航路を閉ざされます。この時、付き添っていた后、弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)は、自分が海に入り海神のいかりを鎮めるので、皇子はその使命を遂行し覆奏してほしい、と云い入水し、皇子の船を目的地に向かわせます。この時、弟橘は、美しい別れの歌を歌います。

 さねさし相武(さがむ)の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも


・・・・・・・・
古代ではない現代に、海を静めるためや、洪水を防ぐために、一人の人間の生命が求められるとは、まず考えられないことです。・・・しかし、弟橘の物語には、何かもっと現代にも通じる象徴性があるように感じられ、そのことが私を息苦しくさせていました。・・・・
まだ、子供であったため、その頃は、全てをぼんやりと感じただけなのですが、こうしたよく分からない息苦しさが、物語の中の水に沈むというイメージと共に押し寄せて来て、しばらくの間、私はこの物語にずい分悩まされたのを覚えています。」

「震災後のことば 8・15からのまなざし」に
山折哲雄氏の語りがあるのでした。そこから犠牲について語っている箇所。


「近代化も含めて、文明というのは、生活の向上、豊かな社会を享受するように発達していったと思うんですけれども、その場合そこでは、必ず犠牲を伴うということが、政策なり、思想なりの前提になっていたと思うんです。犠牲なきところに文明の発達はなかった。それが『ノアの方舟』の物語に象徴的にあらわれています。神が人間の悪行を懲らしめるために、地上に大洪水をもたらす。ただノアだけは木の方舟をつくり、一族を乗せて生き延びることができた。地上に残された生き物はすべて息絶えて死んでしまった。旧約聖書の創世記にでてくるこの物語は、救命ボートと犠牲に基づく生き残りの物語です。それが、西欧文明の根幹を貫いている。日本人は戦後それに乗っかって、近代化に直進していき、豊かな社会をつくりあげてきた。ところが一方で、その進歩によって犠牲になった部分、犠牲になった人々のことを、考えることをしなかった。その余裕がなかった。
アングロサクソン流の考え方というのは、そうした場合、つねに、犠牲を意識していたと思うし、物事のすべては、それを前提にして考えている、そういう精神的な伝統の中で生きてきたのではないか。それだからだったと思うのですが、あの福島原発の事故が起こったときに、『フクシマ・フィフティーズ』というわれわれにたいする独特のメッセージが、でてきたわけでしょう。
あの言葉には、現場の作業員にたいして、命をかけてでも被害をくいとめてほしいという本音が隠されていました。だから、危険を顧みないで仕事にあたる五十人の人たちは、英雄であるとたたえたのです。あれは、犠牲を前提にしたメッセージだったわけです。あの話を、日本のメディアは、その後、扱わなくなった。・・・」(p130~132)


「風塵抄二」には持衰(じさい)と題した文があります。
そこには、弟橘媛にもふれながらも、こんな箇所がありました。


「日本は、英雄の国ではない。
アレクサンドロス大王やチンギス・ハーンを推戴し、その指令に従うという経験をもったことがない。戦前の軍隊でもそうだった。欧米の歩兵は将官が部隊の先頭近くにいるが、日本の歩兵の場合、後方もしくは中どころにいた。源平時代にさかのぼっても、そうである。
行政組織もそうだった。
たとえば、江戸幕府は武権でありながら、意志決定はつねに遅く、いつも衆議主義で、例外なく突発事態にはおろおろした。・・・
明治になってからの内閣制度も、首相一人に英雄的な大権限をもたせるというふうではなく、そのあたり、江戸時代に似ていなくもない。
【持衰】の気分になってみると、そのなまぬるさがよくわかる。・・・」

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本立て。

2013-03-18 | 本棚並べ
机の上の本立て。
最近、そこに並んでる本は

山文彦著「大津波を生きる」(新潮社)
曽野綾子著「不幸は人生の財産」(小学館)
曽野綾子著「この世に恋して」(WAC)
モンサラット・吉田健一訳「怒りの海」上下巻(新潮社)
門田隆将著「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の500日」(PHP)
日下公人著「日本精神の復活」(PHP)
中西輝政著「賢国への道」(致知出版社)
渡部昇一著「取り戻せ、日本を。安倍晋三・私論」(PHP)
小川榮太郎著「約束の日 安倍晋三試論」(幻冬舎)
仲新城誠著「国境の島の『反日』教科書キャンペーン」産経新聞出版)
宮崎駿著「本へのとびら」(岩波新書)
柴田トヨ著「くじけないで」(飛鳥新社)
柴田トヨ著「百歳」(飛鳥新社)
森銑三・柴田宵曲著「書物」(岩波文庫)
岩井克己著「天皇家の宿題」(朝日新書)
「新潮45」2013年3月号。



そして、今日「新潮45」4月号発売。

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短いゆえの。

2013-03-17 | 短文紹介
谷澤永一追悼集「朝のように花のように」(論創社)の
第一部「悼む」をパラパラとひらく。

そこに
「ジャーナリストの徳岡孝夫さんも言う。
『書きっぱなしでなく、変化を追っていました。短いゆえの切れがあるコラムが持ち味。箴言のようでした』」(p11)

うん。長年「紳士と淑女」の巻頭コラムを手がけた徳岡孝夫氏の言葉として、拝聴。

「教え子たちには
『いつ死んでもいいように、仕事は後回しにするな』と激励していたという。」(p10)

この言葉はp13にもありました。

「『いつ死んでもいいようにしておけ、後で書こうと思ってはダメだ、と言われたことが強く印象に残っています』(浦西さん)」

ここも引用しておかなければ。

「食通で名酒を愛した。ただし森本さんによれば、不器用でネクタイひとつ結べず、メカ音痴。唯一使える《IT機器》はファクスだけだったという。
生涯の著書は160冊近くに及ぶ。『読むことと書くことしかできない人でした。入院中も《頭の中で原稿を書いているんや。もう単行本二冊くらいはできたやろうなあ》と・・・』と妻の美智子さん。
東日本大震災直前の3月8日、心不全のため死去、81歳。・・・・」(p27)

ちなみに、あとがきには

「書名『朝のように 花のように』は開高健のことば『朝のように 花のように 水のように』から採った。」(p219)とあります。


そうそう。坪内祐三氏による追悼文には、谷沢永一著『紙つぶて 自作自注最終版』への言及があるのでした。
最終版には索引があるので、簡単にその箇所をさがせます。
それは、唯一、坪内祐三氏が登場する箇所なのでした。
そこからすこし引用。

「・・書評や書物随筆の醍醐味は、取り上げた一冊にこだわらず、それに関連する読書の話題を、適宜に繰り出す手法にある。この要点を忘れたら筆致が痩せ細って味気ない。」(p421)
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