和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

紅茶をのんで。

2007-02-25 | 詩歌
杉山平一著「戦後関西詩壇回想」(思潮社)の表紙の帯に写真がプリントされておりました。そこには五人の男が並んで写っております。ビルの屋上でした。
五人は、井上靖・安西冬衛・小野十三郎・竹中郁・杉山平一。

ところで、井上靖といえば、谷沢永一著「紙つぶて 自作自注最終版」(文藝春秋)に取りあげられた、こんな箇所があります。

「・・第一詩集『北国』(新潮文庫)の『あとがき』に『私はこんど改めてノートを読み返してみて、これらの文章を書かなかったら、とうにこれらの詩は、私の手許から飛び去って行方も知らなくなっていたに違いない』と書き記した剛毅な謙辞を、『自選井上靖詩集』(旺文社文庫)の『解説』で大岡信は『近代日本の詩の歴史における難題のひとつに対する果断な一解答』と評価する。・・」

この次のページに谷沢さんは自作自注として、杉山平一の詩「旗」を引用しております。
その散文詩を引用したあとに、谷沢さんはこう書いております。
「四季派の抒情詩人たちは、人生の入口に立った時、ためらうことなく、自分の境遇を率直に受け入れ、職業に就く気構えがあったように思われる。彼等は必ずしも詩壇に色目をつかわず、市民生活の実直な世間人として生きた。・・・」


こうして、せっかく杉山平一が登場しているので、ここで彼の詩を二篇引用してみたいと思うのでした。

  単純について ――父に

 青い切手が
 手紙をとおく運ぶように
 小さな切符が
 私をはるかに運んで行きます

 切符には 
 あなたの言葉が
 刻印されています

 シンプル イズ ベスト
 単純は 最善だ と

 たとえ 乗り継ぎ
 乗り換えがあったとしても

 この切符を握りしめて
 私は行き 行き
 どこまでも行くでしょう



もう一篇は、短い詩です。


  辞書

 辞書の中に迷いこんで
 行きつけないで
 よその家へ上りこんで
 紅茶をのんで帰ってきた


二篇の詩で、私に面白いと思うのは。
「どこまでも行くでしょう」と
「行きつけないで」とでした。

そういう、動詞の楽しみが杉山平一の詩には、あるようです。
ちなみに、昨年の2006年11月。思潮社の現代詩文庫に「杉山平一詩集」が入りました。
その前の、1997年に全詩集上下が、編集工房ノアから出版されており、
その全詩集のあとがきを、杉山平一氏は、このように書いており印象深いのでした。

「・・・伊東静雄さんが、杉山は別の山にのぼってバンザイしているといわれた通り、自分は一周二周おくれではなく皆と別の場所を走っていたらしいという気がしてきた。
昔『ミラボー橋』を出したとき、鶴見俊輔さんからこれらを支えている思想は私などの思想とはちがうものです。しかし独自の場所を占めていることをみとめます。といわれたのをいまあらためて思い出す。・・・
篠田一士さんは、よく私をかげで評価してくださったが、晩年、そろそろ、全詩業をまとめては如何ですかと便りを下さった。詩集ではなく『詩業』といわれたのが強く印象に残っている。・・・」

どうでしょう。
「よその家に上りこんで
 紅茶をのんで帰ってきた」というような気分で
味わってみる詩が、ここには、あります。

ところで、杉山平一著「戦後関西詩壇回想」には、
伊東静雄を語ってこんな箇所があります。

「一番怖いのは伊東静雄だった。
『へっぽこでも、小説は五年十年書き続けていると、うまくなるものですね。しかし詩は、十年、十五年書きつづけても、ダメなものはダメですね』と人の眼をのぞきこむようにしていわれると、ギクリとする。・・・
私が散文詩風の『ミラボー橋』(1952)を送ったとき、もう入院しておられたが、見舞に行った友人にきくと大変いいといって下さったらしい。が、そのほめ方にドキッとした。二流の山のてっぺんにあがって、バンザイしていると。・・・」


山といえば思い浮ぶのですが、
この本の表紙帯に写っていた五人は、杉山さんの隣が、竹中郁でした。
郁さんには、「遠足」と題した詩があります。副題に「杉山静太先生に」とあります。
その詩のはじまりはというと、

  先生 杉山先生
  山はまだですか
  ぼく こんなにたくさん摘みました
  先生 あれ 鶯でしょう

  そのとき杉山先生は
  洋服の上衣を手にもって
  道草しないでさっさと行きなさい
  山はもうすぐそこです 疲れたんですかと
  ステッキの先でさされました

  ・・・・・・・・

そうして詩「遠足」の最後はというと、こう終わっておりました。

  ・・・・・
  先生 杉山先生
  空の遠くを指してください
  ぼくはそこまで歩くでしょう


もう少し続けさせてもらいます。
思潮社の現代詩文庫には「竹中郁詩集」も入っております。
ですが、そこには詩「遠足」は省かれております。
しかし、その文庫には解説で、西脇順三郎の「竹中郁 詩人の肖像」と題する文が掲載されておりました。西脇さんは、その文の最後に

  先生 杉山先生!
  山はまだですか

と、詩の2行を引用して終わっておりました。ちなみに、
詩「遠足」を読みたければ、理論社の「竹中郁少年詩集 子ども闘牛士」に入っております。

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愚かさは議会の責務か。

2007-02-25 | Weblog
「諸君!」2007年3月号に、古森義久氏が「若宮啓文(朝日論説主幹)の毀れた『風向計』」と題して、分かりやすい論旨で、丁寧にどこが間違っているのか、指摘しております。これならば、高校生にも内容を把握できるのではないか、と思えるのでした。

それはそれとして、別の話をします。
毎日新聞2月18日に、こんな記事がありました。
「従軍慰安婦 日本に謝罪要求」「米決議案に官邸危機感」「問題飛び火、外交に支障も」とあります。古本陽荘と名前がある署名記事です。そこには米下院に提出されている、従軍慰安婦問題について書かれております。
「決議案は、日系のマイケル・ホンダ議員(民主党)らが下院外交委員会に超党派で提出した。日本政府は93年に『河野談話』で旧日本軍が慰安所設置に関与したことなどを認めて謝罪し、『アジア女性基金』を設立して償い事業を進めてきたが、決議案は①従軍慰安婦を公式に認める②首相の謝罪声明を発表する――などと要求。・・米下院には96年以降、慰安婦に関する決議案が計8回出され、すべて廃案となっている。相次ぐ提出の背景にはアジア系団体による議会への働きかけがあるとされる・・今回は過去の8回とは異なり『決議案が通ってしまう可能性がある』(首相周辺)との危機感が政府内に出ている。・・採択されても法的拘束力はないが・・そもそも、政府内には慰安婦問題とは無関係の米議会で決議案が繰り返し提出されることへの懸念もある。・・・」

これについて、2月24日産経新聞で、古森義久氏が「慰安婦決議案は愚か」と題してマリオン・ハリソン氏の論文を紹介しております。どのように考えてゆくべきかの、溜飲がさがるような、見事な紹介記事ですので、丁寧に引用したいと思います。

まず論文の所在。
「1977年に設立されて以来、草の根の保守主義運動と結びついて連邦議会の動向を研究しているシンクタンクの『自由議会財団』のマリオン・ハリソン所長は20日、同財団のウェブサイトに『愚かさは議会の責務か』と題する論文を発表し、議会下院にカリフォルニア州選出のマイク・ホンダ議員が中心となって提出した・・決議案を『宣伝を狙った米国の傲慢さの無意味な示威だ』と批判した。」
その論文の背景を引用するところは
「人類2000年以上の歴史で政府や軍隊は数え切れないほどの悪事を働いてきたが、そのうちの特定のいくつかだけを取り出して糾弾することは他の悪事の重みを軽くするという危険につながる」・・・「憲法上の議会の役割は自国のための立法措置であり、上下両院いずれも外国の主権国家に対して歴史上のミスを公式にどう償うかについて意見を押しつける立場にはない」と主張し、さらに「だれも祖先の間違った行動に対して責任をとらされることはない。そうした責任を求めての謝罪要求は愚かであり、とくに友好的な外国の政府に向かって歴史上のミスに関しての謝罪方法を教えるというのは愚かを越えている」と述べた。

具体的に、マイク・ホンダ議員らの決議案がばかげている理由を。

①米国の政府も議会も日本政府への管轄権を持っていない
②日米関係への悪影響
③米国議会は税制、移民、ミサイル防衛、社会福祉など、その管轄下の取り組むべき重要課題があまりに多い
④同趣旨の決議案は議会の前会期に失敗している
⑤日本の首相が2001年に慰安婦問題で謝罪の書簡を出している

などの諸点をあげております。
ここでも、古森義久氏の紹介記事で、米国下院の様子が、民主主義の愚かな側面とともに、具体的に実感をもって分かるように、マリオン・ハリソン所長の論文をもってくることで、示してくれております。
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読む。読まない。

2007-02-23 | Weblog
ブログに書き込みをして、読みたい本を並べるのでした。
ですが、私の場合、読みたいと思っている本は、読まずに終わる可能性が高い(笑)。

たとえば、ドナルド・キーン著「日本文学の歴史」(中央公論社)という十数冊の本があります。読みたいと思っているのですが、読んでいない。全集本は、ちょっと手が出しづらいですね。
そうするうちに、どなたか、この本について紹介している人がいないかと、そちらの方へと興味がいきました。谷沢永一著「いつ、何を読むか」(KKロングセラーズ)には、五十歳代で読みたい本として、小西甚一著「日本文藝史」五冊(講談社)を取り上げておりました。
う~ん。もし読むとすると小西甚一氏の本を読むのが、よいのかなあ。
けれど、小西さんの本は古本でも値段が高そうだし、第一に難しそうです。
それで、いったい谷沢永一氏は、ドナルド・キーン氏を推薦してるのかどうか。
たとえば、「紙つぶて 自作自注最終版」では、二ヵ所、キーンさんが登場します。
一ヵ所は名前だけ。もう一ヵ所はというと、これがスゴイのでした。
題して「理解できない作品を褒め上げる論法」(p672)。
その書き出しは「ドナルド・キーンの『日本文学史 近世篇』上下(徳岡孝夫訳、中央公論社)は、迎合的な前評判を裏切って、独自の発見や切り込みの殆ど見られぬ大味な通説随順の教科書調。・・・自分は『一代男』を読んでも納得評価できないのだが、文学史に君臨する名作には敬意を表しておかぬと都合が悪いので、お座なりの屁理屈で調子だけ合わせておこうという算段らしい。・・・我が国での受賞を心待ちにする遠い配慮は完璧だ。」とあります。

さて、困ったなあ。と思っていたのでした。
ところが、「山片蟠桃賞の軌跡 1982-1991」(大阪府)を開くと、
1982年の最初の受賞者ドナルド・キーンの記念講演が掲載されて、
そこにこんな言葉があります。
「ケンブリッジ大学にいた時分は、私の最大の目的は、もっとも尊敬されている学術雑誌のために一つの完璧な論文を書くことでしたが、日本でいろんな友達ができまして、彼らのおかげで、専門家のために書くことよりも、一般の読者のためにものを書くことにむいているということが分かりました。そして、その発見と同時に、一種の解放感もありました。自分のほんとうの可能性を発揮できることが、日本で初めて分かったのです。」(p43)
その講演のあとに司馬遼太郎のお祝いのことばがあり。
つづいて谷沢永一氏のお祝いのことばが掲載されておりました。
谷沢さんは「独創的な日本文学史観」と題したお祝いのことばをこう始めるのでした。

「さきほどキーン先生が、百科事典のために日本の文学者の中なら十名をピックアップせよと言われて、紀貫之の名をあげたとおっしゃいました。これはたいへんな見識でごさいまして、その当時、同時代の日本の国文学者を一堂に集めて、そして日本文学ベストテンをあげろといった場合、紀貫之をあげるというへそまがりはほとんどいなかったのではないでしょうか。しかし、『古今集』というものがどれほど日本の文学を規定し、大切な要素であったかということが、昭和四十年代から五十年代にかけまして、多くの俊才の研究の結果、大岡信さんの『紀貫之』が出たりしたこともありまして、おそまきながら日本の国文学者の気づくところとなりました。国文学者の大多数はいつも時代のずっと後からついていくものですが、それをキーン先生がさきに見抜いておられたということをいま承りまして、非常に感動したわけでございます。それでもどうしてそんなお考えができたかと言いますと、これは、日本でできている日本文学史の枠組みというものをキーン先生が頭から度外視してかかられたという、この勇断の結果であります。」
こうはじまっておりました。
終わりの方には、こうあります。
「キーン先生の『日本文学史 近世篇』を読みますと、ここに書いてある具体的な作家をもういっぺん自分の手で、自分の目で、読み直して、そして紙面を通じてキーン先生と対話してみたいと、そういう気持ちを猛然と起させる不思議な魅力がございます。近世文学史の特色は、近世において俳諧精神というものが文芸の中心をなしておりますが、この一大動脈をあらかじめバシッとつかんである・・・
キーン先生は、日本の文学史を縦に見る場合に、勅撰和歌集から俳諧へつないでいく、こういう連想文学の精神というものが、これが土壌をなしておって、そこからいろんなものがこんこんとわきでているのだという意味のことを書いておられます。あくまでも日本の文学の実際のダイナミックなエネルギーに即した、日本文学のための日本文学史観。それをまずうちたれられ、同時にそれを朗々と読むに値する文章で、読者に語りかける。日本で一般むけのとか啓蒙的とか言いますと、だいたい調子をおとしてある。あるいは孫引きの、誰か専門学者が書いたことをやさしくほぐしたという場合が多いんでありますが、キーン先生の場合はそうではございません。実はそうではなくて高度な内容を、平易に、しかし含蓄をもって書いたといこと。それを一般むけとおっしゃっているわけであります。・・・
つまり、あまり専門に偏したちんぷんかんぷんの、そしてまた、ひとりよがりのいわゆる専門学というものではなく、むしろ広く世界の人びとが、あるいは私ども日本人が逆に、さっきの紀貫之の場合と同じでありますが、『ああ、そういうふうに見たらおもしろい』と教わるような、しかもそれがほんとうに熟読玩味できるような文体をもって、書かれているかどうかであります。私どもは、キーン先生のお仕事をそのような観点から高く評価し、尊敬しているわけでございます。・・・」

よかった。「紙つぶて」の書きぶりと見事に違っておりました。

ちなみに、キーンさんの「日本文学史」は、のちにあらためて「日本文学の歴史」として書かれているようです。
大岡信著「しおり草」(世界文化社)には、そのドナルド・キーン著「日本文学の歴史」を評した文章が載っております。
はじまりはというと、
「文学作品は多彩で豊かなものだが、文学史は無味乾燥であり、それが当然だ、という一種の固定観念が存在する。たぶん日本だけではなく、広く世界各地にも似たような固定観念があるだろうと思う。・・」
「魅力的で啓発的な文学史は、一人のすぐれた学者が、全力をふるって書き切ったものにとどめをさす。その学者は、豊かで繊細な感受性の翼を思う存分ひろげ、学問的誠実さと批評的自信、そして責任感をもち、自らこの仕事を限りなく楽しみ、かつまた、この楽しみを独占することなく、人々とともに分かち合いたいという愛情と野心をいだき、したがって格調ある平易な言葉で書くことを当然の義務と考え、しかも一国の文学を、その発生の時点から現代にいたるまで、つぶさに読み、かつ知っている人でなければならない。
これではまるで、魅力的に語られた文学史がないのはなぜか、その諸条件を列挙しているようなものである。ドナルド・キーンの『日本文学の歴史』の完結が、日本文学全体にとっての一事件でさえあるのは、そのためである。彼はいま私が列挙した諸条件を具備しているほとんど唯一の例外なのだから。しかもこれは、日本人学者を含めての話である。」

「もちろんここで、小西甚一の大著『日本文藝史』全五巻を、キーン氏の業績に先立つ特筆すべき個人著者による通史として挙げておく必要があろう。キーン氏の親友でもある小西氏の著述は・・・古典文学研究の第一人者の、長期にわたる研究の総決算として書きあげられた、刺激的呼びかけにみちた著書である。
キーン氏の著書との相違を言えば、小西氏の著作は流麗な文章で書かれた通史だが、いわば『専門家に対する啓蒙書』といった理論書的性格を多分にもていて、そこがキーン氏の場合とだいぶ異質である。・・・・全体に高度に研究的であり専門的であって、読者にもある程度の高い教養を要求する。小西氏の仕事の先駆性がそこにある。
これに対し、キーン氏の著書は、いわば日本文学についての専門的知識も予断ももたない一般人向けの本である点が、ほとんどほかに類例を見ないという意味でも貴重である。外国人である無類の読み巧者が、万人に向って日本文学の魅力を語っている。そのこと自体のなかに、この仕事のまことに独特な魅力がある。・・・」

ちなみにドナルド・キーン著「日本文学は世界のかけ橋」(たちばな出版)には
キーン氏が小西氏の本を説明している箇所があります(P119~120)。




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一人でもじゅうぶんです。

2007-02-21 | Weblog
谷沢永一著「紙つぶて 自作自注最終版」(文藝春秋・2005年)の人名索引によると、大岡信の名は「紙つぶて」に4回登場しております。
ここでは、その初回の登場箇所。
題して「学問的講義の形式と内容」とあります。
まず、寺田透の講義の様子を引用しております。
「『パリの憂鬱』中の単語ひとつが訳出できず、教壇で頭をかきむしって立ち往生した」
「『赤と黒』の演習で、あるとき、学生が一生懸命に訳しているのに、寺田先生はそこでハッと気付いた難問題に自分で考えこみ、学生の報告を一言も聞いていなかった」
そして、谷沢さんは書いております。
「こんな場合、ノートをとるだけを目的の一般学生にとって、寺田は困った教師に見えるだろう。しかし、その場にいあわせた大岡信や塚本康彦にとっては、・・現場教育された忘れがたい体験だった」

このあとに、谷沢さんの自注が、次のページに書かれております。
それは、こうはじまっておりました。
「中村幸彦が、正式に大学の教壇に立たれたのは、昭和24年4月、38歳、天理大学教授の職に就かれた時である。・・さて、先生はこの登壇から、昭和54年3月の退隠まで、一回も欠かさず、書き下ろしの講義ノートを持参せられた。毎回が新しい内容であるから学生は緊張する。アドリブなどはない。内容は簡潔であるから時間が刻々と進む。ノートはそのまま雑誌に掲載できるほど纏まっている。・・」(p239)

ここから私は、ドナルド・キーンへと連想がつながるのでした。
ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」(文藝春秋)に、

「バン=ドーレン先生との出会いは、私にとっては決定的なもので、現在の私の講義は先生の講義をモデルにしている。書いた原稿を朗読せず、考えながら話す方式である。
講義の草稿がないと、場合によっては、言わなくても言いようなことを言ったり、言葉が多すぎることもある。そのかわり内容は新鮮で、十年、二十年の昔に書いた原稿とは違う。十年前の講義ノートに基づき、文字通り十年一日の如く適当なところで適当な冗談やゼスチャーをはさむ先生は、どの大学にもいる。そのような講義は、本にして発表したほうがいいのであって、講義の目的は知識を伝えることにはない。そのときまでに感じなかったこと、つまり主観的な文学の鑑賞を伝達することにこそ講義の存在理由があると、私は信じている。ときには、それまでに感じていたことでも、しゃべっているうちに別の角度から話すことがある。
学生が生きた学者と同じ部屋にいる、死んだ原稿ではなく生きた思考を伝達されている、というのが大切なのだから・・・」(p9)

そういえば、ドナルド・キーンさんは恩師角田柳作先生を、いろいろな箇所で回想しております。面白いのは、それが同一人物を回想してるのに、少しずつニュアンスが違っているのを感じながら読了できるのです。

   「日本との出会い」篠田一士訳・中公文庫
   「日本を理解するまで」新潮社
   「少し耳の痛くなる話」塩谷紘訳・新潮社
   「日本文学のなかへ」文藝春秋

と、簡単に角田柳作先生が登場する本をあげることが出来ます。
そこから、適宜引用してみたいと思うのです。
初めての出会いは、真珠湾攻撃(1941年12月)の3ヵ月前のことでした。
その年の9月は、ニューヨークのコロンビア大学の秋の新学期。
夏休みを利用して日本語の勉強を始めたばかりのキーン氏は、
友人から角田先生の日本思想史の講義はまれにみる名講義だと聞いて受講手続きをします。ところが、講義を正式に聞いているのはキーン氏一人でした。キーン氏は「受講させていただくのをよそうと思うのですが」と角田先生に申し出ます。その答えが「いや、心配ご無用。学生は一人で十分です」。
角田先生は、一回目の授業から、まるで超満員のクラスを抱えているような周到さで教壇に立たれた。毎回先生の教室に入ると、黒板にはすでに日本の書物から引用した語句が所狭しと書き連ねられており、先生の机の上には参考書が山と積まれていた。
必死になって黒板に書いてあることをノートに写し取ったが、先生が英訳してくださるまで、意味は皆目わからなかった。授業は日本の近世思想に的を絞って行われた。
一週間ほどすると、新たに三人の受講者がふえます。
角田先生の授業は毎週二回、二時から四時までだった。講義が定刻に終わったことは一度もなかったが、内容が余りにも濃密だったから、五時あるいは五時半まで続くことを私(キーン)は大いに歓迎した。他の学生たちは四時になると席を立つことがあったが、これはおそらく別の授業があったからだろう。彼らは五時になるとほとんど決まって戻って来て、最後まで先生の講義に耳を傾けたものである。角田先生は英語で講義された。そのころまでに先生は、コロンビア大学で少なくとも十二年は教えておられたし、アメリカにはゆうに三十年は暮らしておられた。だが、先生の発音はあまり上手ではなく、LとRばかりでなく、SEEとSHEも区別ができなかったし、その他にもたくさんの間違いを犯された。しかし語彙は豊かで、英語の細やかなニュアンスを実に的確に捉えておられた。初めのうち、先生のおっしゃることがときおりわからないことがあった。だが、その問題はほどなく解決し、講義を全神経を集中させて拝聴したものである。

そして、真珠湾攻撃の次の日でしょうか。
教室に出ると、かつて講義を欠かしたことのない角田先生が、いつまで待っても教室に姿を見せなかった。敵性外国人として抑留されたと後にわかった。


後年、キーン氏は第一回山片蟠桃賞を受賞し、その記念講演でこう語っております。
「日本思想史の組に学生は私一人だけでした。当時の日本は人気がありませんでした。教師であった角田柳作先生のことを気の毒に思いまして、『一人のために準備するのはもったいない、私はやめます』と言いましたけれども、先生は『一人でもじゅうぶんです』とおっしゃいました。その秋は、『江戸時代の思想』という課目でしたが、私一人のために、講義の準備をして毎回たくさんの本を教室まで運んでくださいました。なにか問題があると本を開けて調べて、講義は一時間のはずだったのに、だいたい二時間半は続きました。私一人のためだったのですが、ときどき日本人の聴講生も来ました。その時初めて、山片蟠桃という名前を聞きました。・・・」(「山片蟠桃賞の軌跡1982-1991」大阪府・p47)

その記念講演の終りのほうで、キーン氏のこんな言葉がありました。

「ある時、私は誰かに語った覚えがありますが、『大学から給料をもらっているけれども、給料なしで教えてもいい』と言いました。もう少し考えてから、『いや私が払ってもいい』とさえ言ったのです。私はそう信じていました。授業は実に楽しかったです。頭のいい学生――きょう、一人ここへ来ていますが――にめぐまれたら、教えることほど楽しいことはないんです。さらに大切なことは、教えながら、いろんなことを学生から学ぶんです。それは確実です。」(p58)


なんだか、とても昇華された、崇高な言葉を聞くような思いを抱きます。

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あれは何やろ。

2007-02-14 | Weblog
ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」の、第二章「日本への開眼」に、こんな箇所があります。

「角田先生に対するあたたかい気持も、宣長の偉大な思想も、日本文学そのものの美しさから私が受けた感動には、くらぶべくもなかった。とくに『徒然草』は、私の目を日本の伝統に向って開いた」

そして徒然草の第七段の一節を引用して

「・・この一節を、私は感動のあまり、日本語の全然わからない友人に読み聞かせた。・・むりに『音だけでもいいから聞いてくれ』と説得して読んでみた。・・言葉の響きの美しさ、文章のなめらかさは、人間ならわかるはずだと考えたのだった。『さだめなきこそ、いみじけれ』という美意識を、人は日本以外のどこに求めうるだろうか。・・」


ここで、キーンさんは「読み聞かせ」をしてる。
そういえば、キーン著「声の残り 私の文壇交遊録」(朝日新聞社・1992年)に
永井荷風を取り上げた4ページほどの奇妙な文があります。
それは、1957年ごろに荷風の家を訪ねた際のことを書いております。

「・・私たちが畳の上に座った時、もうもうたる埃の煙が、たちのぼったものだ。
間もなく荷風が、姿を見せた。荷風という人は、まことに風采が上がらぬ人物だった。着ている服は、これといって特徴のない服で、ズボンの前ボタンが、全部外れていた。彼が話し出すと、上の前歯がほとんど抜けているのが分かった。」

こうして、家や人物の様子をなぞったキーンさんが、
次に書き留めた言葉が忘れがたいのです。

「しかし彼の話すのを聴いているうちに、そうしたマイナスの印象など、いつの間にか、どこかへ、すっ飛んで行ってしまった。彼の話す日本語は、私がかつて聴いたことがないくらい、美しかったのだ。第一私は、日本語が、これほど美しく響き得ることさえ、知らなかった。その時彼が話したことの正確な内容、せめて発音の特徴だけでも、憶えておけたらよかったのに、と悔まれる。ところがその日は、前の晩の飲みすぎで、私はひどい二日酔い、荷風がなにをしゃべったか、記憶がまったく定かではないのだ。それにしても、彼の話し言葉の美しさだけは、あまりにも印象深くて、忘れようにも忘れられない。」

私は、これをどう感じたらよいのか、ちょっと戸惑うのでした。
たとえば、私は幸田文の子・幸田玉さんが、テレビで座談をしておられたのを、一度聞いたことがあります。なめらかな喋りで、言葉を聞いているのか、それとも響きを聞いているのか、どちらだったか忘れてしまいそうな、そんなゆったりとした気分になったことがありました。ひょっとすると、あんな感触なのでしょうか?

ここから、少し話を広げてゆきます。
司馬遼太郎と桑原武夫のお二人に「【人口日本語】の功罪について」と題した対談がありました。これは、桑原武夫対談集「日本語考」(潮出版社)にあります。あと手軽に手に入る本としては、「司馬遼太郎対話選集1 この国のはじめりについて」(文藝春秋社)が、たしか文庫本になっているかと思います。
そこで、司馬さんが桑原さんの語りを指摘する箇所があります。

「実をいいますと、いまの発言は、わたしが多年桑原先生を観察していての結論なんです(笑)。大変に即物的で恐れいりますが、先生は問題を論じていかれるのには標準語をお使いになる。が、問題が非常に微妙なところに来たり、ご自分の論理が次の結論にまで到達しない場合、急に開きなおって、それでやなあ、そうなりまっせ、と上方弁を使われる(笑)。あれは何やろかと・・・・。」

この桑原さんとの対談の続きを読むような気がしたのが、
田辺聖子著「一葉の恋」(世界文化社)にありました。
この本には、司馬遼太郎を追悼した文が掲載されております。
その最初は「司馬さんの大阪弁」と題しておりました。
こうはじまっております。

「司馬サンがふだんは砕けた大阪弁を使われた、というと、『えーっ』と若いひとたちはいう。」
「私はといえば、昔から司馬サンの大阪弁に親昵(しんじつ)しているために、司馬サンのどんなご本を読んでも、その底流に、やわらかな、品のいい大阪弁がひびいているような気がしてならぬのである。最初の出会いからして印象的だったのは司馬サンの柔媚(じゅうび)なトーンの大阪弁だった。・・・その大阪弁も品よく(というのは、どこの方言もそうだろうけど、ことに都市としての歴史の古い大阪弁は、ガラが悪くなるととんどん悪くなる、その段階の刻みが多い)喃々(なんなん)たる口調で、口をひらけば人は丸めこまれそうな温かみが感じられた。」

そういえば、今日の産経新聞(2007年2月14日)に
「12日、司馬さんをしのぶ『第11回菜の花忌シンポジウム』が大阪市中央区のNHK大阪ホールで開かれた」とあります。パネリストは田辺聖子・出久根達郎・岸本葉子とありました。ここでの田辺聖子さんはどんな話しぶりだったのでしょうね。そんなことを思いながら「一葉の恋」(世界文化社)を見てみると、1999年に田辺さんが講演した言葉が載っております。
題は「司馬さんの小説宇宙」。その最後はというと

「司馬さんのエッセーで、私たちはたくさんのことを教わります。ですけれども、やっぱりいちばん大きなものを教わったと思うのは、司馬さんのあのふんわかした人当たりのよさ、そして司馬さんの心の内なる温かさ、菜の花の黄色のように、なごやかな気分だったんじゃないでしょうか。・・・」

せっかくですから、その話し方を引用したくなるじゃありませんか。
田辺さんの文で気になったのは、司馬さんの忠告。
それは「浅葱裏(あさぎうら)――ある日の司馬サン」という文のなかです
(これも「一葉の恋」に載っております)。


【将来(さき)でな、芥川賞や直木賞の選考委員せえ、いわれてもやめたほうがええデ】
【いやー、そんなこと、あるはず、ないやん】
【いやそら、わからへん。将来(さき)はどんなことになるやら。しかしあンたもぼくも大阪ニンゲンやよって、そんなんは似合わへんのと違(ちや)うか、それにかしこい人は委員なんか、やれへん、井伏サンもやってはらへんやろ】

こうして、さらに掛け合い漫才風の受け応えが続くのですが、
引用が長くなるのでこれくらいにして、そのあとに田辺さんはこうつけ加えます。

「司馬サンは大阪を愛し、大阪人的発想を愛していられた。合理的で、平明で、勿体ぶらずに自然体で、それでいて【かしこく】て――このかしこいは、聡明、怜悧、叡知、そのどれでもない、限りなく肉体次元に近付いた精神的エネルギーをいう。それが光耀(こうよう)をもたらすほどの高みにまで引きあげられたのが、大阪人の【かしこさ】である。ご自身の裡(うち)のもそれをもっていられたから、肌ざわりが温かく、やさしいが、庶民でも大学の先生でも同じレベルでつきあい、人の佳(よ)きものを一べつで洞察された。・・・」

田辺聖子さんの話題は、ここから丁寧にエピソードを重ねていくのですが、
このくらいにしておきます。
ここで「選考委員」という言葉から、
私は「山片蟠桃賞」へと連想を飛ばしてみます。
この山片蟠桃賞は1982年から始まっております。
そのいきさつは、谷沢永一さんに語っていただきましょう。

「大阪府が何か賞を新しくつくりたい。それについて司馬先生はじめ小松左京さん、田辺聖子さんと私どもが招かれました。そのとき、初めは日本国内の無名作家の作品に何か賞を与えよう。それなら井原西鶴賞というネーミングはいかがであろうかというようなお話があったんでございます。司馬遼太郎先生が『それはあかん。大阪府がことし井原西鶴というビッグネームの賞をつくって、来年、即座に京都府が紫式部賞をつくったら、どちらも滑稽なものになりますな。そんな小さな考えはやめて、いま世界的に多くの外国の方々が、本当に大きな流れとして日本文化、日本文学の研究をなさっている。その皆様方の中から学術的に価値が高く、かつその表現力がすばらしいというものに賞を差し上げたらどうか』と、こういうことで山片蟠桃賞が決まったわけでございます。」【谷沢永一対談集「だから歴史は面白い」(潮出版社)・p257)


「それはあかん」という司馬さんの、かしこさが際立った瞬間です。
その山片蟠桃賞での、司馬さんは、それではどのようだったのでしょう。
それについても、谷沢さんに語っていただきましょう。

「大阪府の山片蟠桃賞の審査委員だった司馬遼太郎は、年に二回、会合に出席した。そして、終った後の夕食、それから地下のバーまで、あの忙しい人が十何年を通じて毎回、最後まで付き合った。途中で『ちょっと今日は』と帰っても当たり前、誰一人、不思議に思わないのだが、そういうことはしなかった。一回だけ、バーで『週刊朝日』の校正が来て、三、四十分、席を外したくらいである。一、二回、最後まで付き合うだけだったら『プレーしているな』と悪くとることもできる。しかし、一貫していて最後まで付き合っていた。これはプレーではなく、芯にそういう覚悟があって、自分の精神的骨格の通りに動いていたと言うより他にない。また、十数人の集まりのときのちょっとした座の持ち方は素晴らしかった。・・・・」
【谷沢永一著「人間の見分け方」(H&Ⅰ)・p30~31】


そう。その山片蟠桃賞の最初の受賞者が、ドナルド・キーンさんでした。












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角田柳作。

2007-02-08 | Weblog
前回の「名セリフ」で、山野博史さんが書き留めてくれていた司馬さんの言葉で終わったのでした。「なにもむずかしいことはないのです。山野さんだったら、あなたが毎日きちんと物学びに努め、学生さんにむけて全力を注ぎこめば、それでいいのですよ。どこでどんな仕事をしていても、そのような心がけを積み重ねれば、それが大きなかたまりとなって、この国へのせつないまでの愛情にふくらんでゆくにちがいないのです」。

ちなみに、これは平成二年一月の座談での言葉だったのでした。
それにね、この座談は山片蟠桃賞の二次会の席での会話だとあります。
そうです、山片蟠桃賞の最初の受賞者はドナルド・キーンさんでした。
ここから、ドナルド・キーンさんの恩師について連想がひろがりました。

週刊朝日・編「わが師の恩」(朝日新聞社・1992年)という本があります。
週刊誌に百回(1990~1992)連載され、百人の方々が恩師を紹介しているのでした。
そこにキーンさんも登場しております。現在、この箇所はドナルド・キーン著「日本語の美」(中公文庫)でも読めます。その短文の最後はこうでした。
「学者として私を育成した先生は三人であったと思うが、今それぞれに恩を感じている。最後に『わが師』として一人だけしぼれば、それは私を日本文学者として育ててくれた角田先生である」。ちなみに、この短文は「米国で私を育ててくれた『日本思想史』の角田先生」とあります。

ここで、早くも脇道へとそれますが、「司馬遼太郎対話選集3 日本文明のかたち」(文藝春秋)の解説・解題を関川夏央が書いております。そこにキーンさんと司馬さんの最初の出会いをお膳立てした編集者が登場しておりました。
「71年のはじめ頃、中央公論社の編集者岩田サヤカ(上に日、下に明の一文字)は社の会長であった嶋中鵬二に呼ばれていわれた。『ドナルド・キーンが三島由紀夫の自決にショックを受けている。安部公房などの仲間はいるが、本当の心の友がいない。キーンのケアをしてくれ』。三島由紀夫の自決はその前年70年11月25日・・・。中央公論社が洋上大学を主催したとき、講師としてのキーンを世話して以来の仲であった岩田さやかは、ともに美術館や音楽会をめぐるうち、やはり何か仕事をしてもらおうと思い立った。岩田さやかは司馬遼太郎との、古代、中世、近世、近代の四つのパートに分かれた長尺な対談を構想した。ふたりは事実上の初対面である。」

この対談が、中公新書として72年に刊行された『日本人と日本文化』でした。
2005年に出たキーン著「思い出の作家たち 谷崎・川端・三島・安部・司馬」(新潮社)に、その対談の時が語られておりました。
「私は司馬に惹きつけられるのを感じていたように思う――三回のうち二回目までの対談は明らかに緊張を強いられたが――彼には私の恩師、角田柳作(りゅうさく)先生をどことなく思わせるところがあったからだ。外見上、先生と司馬とはまるで似ておらず、まったく違う世代に属していた。さらに相違点をあげれば、日本の歴史や宗教への関心の示し方も決して似ているわけではなかったが、二人は共に、歴史上の事件の中で何が本当に重要であり、何が本当に記憶に値するのかを探究していた。ありのままの事実だけでは物事の理解に十分ではないと気づいた時には、二人は共に、直観に頼った。直観は危険な指標(ガイド)だが、時には直観にも敢えて従ってみるだけの価値があるのだ。直観に依存した著作は重大な欠陥を含みかねないが、単なる事実の堆積よりいっそう興味深く、ことによると、いっそう真実味がある。最初の対談は、編集者が大まかに立てた案に沿って始まったが、司馬と私が何を語り合うかについては特別の注文もなく、ある話題が別の話題を誘(いざ)なうように移り続けた。・・・」(p132)

一方の司馬さんは、どう思っていたのかというと、対談「日本人と日本文化」の「はしがき」と、「世界のなかの日本」(中央公論社)の対談の最後に載せられている「懐かしさ」とが二つして簡単に、単純に、さりげなく読めるようになっております。
それよりも、ここではもう少しキーンさんに語っていただきましょう。

キーン著「私の大事な場所」(中央公論新社・2005年)に「御堂筋を歩いた思い出 司馬遼太郎氏を悼む」という文があります。こうはじまっておりました。

「司馬遼太郎氏が亡くなったという知らせのFAXが入った時、しばらく唖然とした。
初めて司馬さんに会った二十五年この方の思い出が頭に浮かんできた。
中央公論の編集者に、司馬さんと私の対談を実現させることは長年の夢である、と言われた時は、かなり迷った。当時の私は無論司馬さんの名前をよく知っていたが、司馬さんの作品は一つも読んだことがなかった。何故なら当時も現在も、私は一般の読者と違い、いつも何かの目的があって本を読むという傾向が強い。退屈凌ぎに本を読むことはまずないし、また、ベストセラーや話題に上っている本を読むこともない。」

その時の対談で、幕末のオランダ人の医者ポンペ先生とその弟子を詳しく語る司馬さんを、忘れられない思い出として語るのでした。
この追悼文の最後はというと、徒然草第十二段を、この追悼文で3行ほど引用したあと。こう続けるのでした。
「司馬さんと『しめやかに物語』をするのは最高に楽しいことであった。誰も知らないような裏話(例えば、正岡子規に恋人がいたかどうか)も、おかしきことも世のはかなきことも、忘れがたい口調で語って下さった。ときどき意見や好みが違っていたために『ひとりあるここち』がしなかった。・・・」


角田柳作を語るはずが、最初から、どんどんと脇道へそれていきます。
けれど、角田先生については、繰り返しドナルド・キーンさんが書いており、
それは気をつければ簡単に読むことができます。私は私なりの読み筋をたどろうと思ったわけです。
ということで、この回は次に続く。

ちなみに、ネット検索によると、
今年2007年10月21日の早稲田大学創立125周年記念日の前後に「角田柳作展」が企画されているとありました。
催事として、シンポジウム・展覧会・「角田柳作記念文庫」の創設と公開が企画されているのだそうです。気になるけれど、出不精の私としては、結局は行かないだろうけれど、楽しみな企画ですね。

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