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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

わくわくしてくる。

2019-01-27 | 書評欄拝見
読売新聞の読書欄がいいですね。

はい。私は一月の一ケ月だけの試し購読。
うん。読売新聞の読書欄はいいなあ(笑)。

今日も今日とて、
読売新聞の読書欄をひらいて、
二冊注文してしまいました(笑)。

一冊は
加藤徹氏が書評をしている西村智弘著
「日本のアニメーションはいかにして成立したのか」
(森話社)。
はい。加藤徹氏の書評の最後はこうでした。

「漫画アニメとアート志向のアニメーション作品に
対する位置づけが、日本と世界で逆転している、
という著者の指摘は興味深い。アニメも日本文化も、
過去100年、予測不能の進化を続けてきた。
さて次は。本書を読むと、わくわくしてくる。」


はい。どう逆転しているのか?
さて、どうわくわくしてくるのか?
気になるじゃありませんか(笑)。

あと一冊は
藤原辰史氏が書評している
多田朋孔、NPO法人地域おこし著「奇跡の集落」
(農山漁村文化協会)

さてっと、書評のはじまりとおわりとを引用。

「新潟県十日町市の池谷集落の『奇跡』を描いた本である。」

書評の終わりは、というと

「ところで、私が本書を選んだ最大の理由は、
彼の配偶者の秀逸なエッセイである。
『猛吹雪、虫刺され、無謀、話すのも嫌、
外堀固められる、迷惑な話』・・・・・
移住先と夫への反発や違和感を、
この集落の魅力とともに妻が淡々と書く。
この作業が実は最も大事なのかもしれない。」

はい。
最も大事な「この作業」を読んでみたくなりました(笑)。


新年のひと月は、新刊本代を気にもせず。
晴れ晴れと(笑)。


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孫へ語った戦中・戦後。

2019-01-26 | 道しるべ
以前に気になって、
録音されたインタビューを活字におこしたことがあります。

そのインタビューは、二十歳のお孫さん(女の子)が、
おじいちゃんの若い頃を、いろいろ聞いているのでした。

お孫さんは、おじいちゃんと喋るのは、
親しげな、ため口なんです。
その質問に、おじいちゃんは、丁寧に答えてゆきます。

インタビューの真ん中辺に
こんな箇所がありました。

「・・なんだかんだ、二十分ぐらい話したので。
   次の質問いいですか。」

おじいちゃん
「そんなので、いいの?」

「うん。ぜんぜんいいよ。あとは、
 最近よく思い出すことって?」

おじいちゃん
「思い出すことはねえ。・・・
とくに印象にのこっているのはね。
3月10日のね。東京空襲だよ。・・・・

市川まで行ったの、千葉で乗り換えて国電でね。
市川までしかいかないといって降ろされちゃった。
・・もう想像以上の状態だからさ。
で、市川橋をわたってみたの。
そうしたら、もう死人だらけだものね。
爆撃で。で、路線にみんな、
燃えていて熱いので、避難してきた人。
なんていうのかなあ。あれ燃えちゃってるから
線路にみんな来て、そこに倒れちゃって、
みんな死んでいるんだね。
で、道路へいけば、道路は水道が破裂しちゃっているから
全部水浸しだよね。そこへと死人が浮いてる。
だから、そのなかを歩いて、やっとのことで、
御茶ノ水の駅まで、歩いたのだよ。線路づたいに、
何時ごろになったのか、よく記憶にないんだけれども
そこからは電車がでていた。」

 「そうか。それを最近思い出す?」

おじいちゃん
「あんまり、人に話したくない。
 気持ちの上では・・」

 ・・・・・・

 「最近も地震があったけど」

おじいちゃん
「一人二人そこいらに亡くなって死んでいるのを見れば
気持ちわるいけれど、そんな感覚全然ないもの。」

 「そういうこと思い出しちゃう?」

おじいちゃん
「そう。そういうことを時々思い出す。ことあるよね。
だけども、人にあまり話したくない。」


 「じゃ、今回は貴重な・・・」



以上のような孫とのやりとり。
録音は以前のものだったので、
当時、85歳の時の話しということから、
2011年の録音とわかります。
すると「最近も地震があったけど」というのは、
どうやら、東日本大震災ということになる。

その。おじいちゃんが今年の1月21日に93歳で亡くなり。
葬儀が昨日ありました。活字おこししてあった、
このインタビューをそのまま
「孫へ語った戦中・戦後」と題して
お通夜、葬儀へと来て頂いた方々へ、
簡単なコピーでの冊子にしてお配りしました。

  

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せっせと、ブログを(笑)。

2019-01-21 | 詩歌
外山滋比古著「伝達の整理学」(ちくま文庫)は
2019年1月10日第一刷発行でした。

その最後の方に、こんな箇所

「かつて、人々はしきりにハガキを書いた。」(p208)

はい。それなら、今はどうなのか。
つい、こう書いてみたくなります。

「いまは、人々はしきりにメールを打つ。」(笑)

それはそうと、
外山氏の次の行はこう続きます。

「『ハガキも書けぬ』
というのは恥ずかしいことであった。
用件がなくても、おりおりのあいさつをした。
それがいまも年賀状や暑中見舞として残っているが、
心のこもっていない印刷のハガキでは趣きがない。

むかしの人は、せっせと、ハガキを書いた。
ハガキ一枚というが、
もらってありがたいハガキを書くには、教養がいる。
手紙を書くのとは違った心づかいが必要である。
いいハガキをもらうと、読みすてるのが惜しくて、
読みさしの本のしおり代わりにして
おりおり見なおす若者もあった。・・・」(~p209)

そのあとに、
「・・・小さい字を書きならべてハガキを書く人が
いまもあるけれども、やはり、間違い。
せいぜい六行どまり。言ってみれば、
俳句をつくるような気持ちがほしい。
俳句の花の咲いた日本である。・・・」(~p210)


さて「伝達の整理学」では、もう一箇所
ハガキが登場する箇所が、前の方にありました。
そちらも引用。

「小学校低学年だったT少年が、正月に、
おじさんのところへはがきを書いた。
父親にそれを見せると、よく書けているが、
書き方がよくないと言われる。
『原っぱへ遊びに行きましたが、
だれもいませんでした・・・』
とあるところをとらえて、正月早々、
こういう淋しいことを書くものではない。
 ・・・・
いい年になって、やっと、
ことばづかいというのは相手に合わせることで、
たとえ本当のことでも、自分中心にものを言ってはいけない。
それが文化というものであるということがわかったという。
ことはば相手の気持ちや立場に合わせてつかうもので、
自分勝手なことを言ったり書いたりするのは、幼稚である。
そういうことを一生知らずに終わる人が多いために、
なくてもいい、トラブルなどがおきる。

ウソには、よくない黒いウソと、
ものごとをおもしろく、楽しくする白いウソがある、
ということを、知るのは貴重である。」(p39~40)


さてっと、前置きが長くなりました。
これじゃ、私はハガキは書けない(笑)。



う~ん。たのしい歌集を最後に引用。


「橘曙覧全歌集」(岩波文庫)から「独楽吟」の箇所。



 たのしみは めづらしき書(ふみ) 人にかり
        始め一(ひと)ひら ひろげたる時


 たのしみは 紙をひろげて とる筆の
         思ひの外に 能くかけし時


 たのしみは 妻子(めこ)むつまじく うちつどひ
          頭(かしら)ならべて 物をくふ時


 たのしみは 物識人(ものしりびと)に 稀にあひて
          古(いに)しへ今を 語りあふとき

 
 たのしみは そぞろ読みゆく 書(ふみ)の中に
             我とひとしき 人をみし時


 たのしみは 三人(みたり)の児ども 
       すくすくと 大きくなれる 姿みる時

  
 たのしみは 人も訪ひこず 事もなく 
        心をいれて 書(ふみ)を見る時
         
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貧乏マンガの傑作。

2019-01-20 | 本棚並べ
今日の読売新聞読書欄に
津野海太郎著「最後の読書」が取り上げられてる。
よし。書評の話題に乗らなきゃ(笑)。
というので、あらためて「最後の読書」をひらく。

「最後の読書」はどんどんと補助線が引かれて
本がイモずる式に掘り出されてくるのですが、
なあに、著者の手繰り寄せに付き合わずに、
自分の興味に限定すれば、お気楽な
楽しみが待っております。

今回、私があたらしく興味をもったのは、
第11章の「現代語訳を軽く見るなかれ」。
そこに登場する伊藤比呂美さんの数冊の本が
気になり、さっそく古本での注文をする。

こういう場合。たとえ本棚にそのまま
納まってもいいや。という気持ちで購入する(笑)。

さてっと、「最後の読書」の最後は
第17章「柵をこえる」。そのはじまりは

「1953年に、北原怜子の『蟻の街の子供たち』・・刊行された。」
(p241)
とはじまっておりました。この章にも漫画が登場する。

「そういえば、いま思いだしたぞ。
『蟻の街』の活動をフォローしつづけた『サンデー毎日』で、
加藤芳郎の貧乏マンガの傑作『オンボロ人生』の連載がはじまった。
あれがやはり1954年のことだったのです。」(p252)
  

よいしょっと。
筑摩書房の「現代漫画」シリーズに「加藤芳郎集」(1969年)が
入っていて、その本の最後の「作家と作品」を鶴見俊輔が書いてます。
そこにこんな箇所。

「『オンボロ人生』は、
加藤芳郎の社会思想をよく見せてくれる作品で、
これは戦後の東京にうまれバタ屋『蟻の街』を
理想化した長編漫画とも考えられるが、
『オンボロ人生』の女主人公は、『蟻の街』の
マリア北原玲子にくらべるとはるかに
ユーモアのある性格で、殉教者などではない。
作者の回想によると、『オンボロ人生』のヒントは、
むしろ、戦前東京都防衛局、戦後に東京公園緑地課につとめていたころ、
毎日あっていた中年のつとめ人たちから得たという。

小学校卒業後、加藤は、昼間は東京私立駒込病院につとめながら、
府中六中(今の新宿高校)にかよって卒業した。
その防衛局と緑地課と二つの役所づとめが、加藤に、
無能で平凡と見られている中年サラリーマンの中にひそむ、
もう一つの人生への希望を観察させた。
少年のころから、大人たち、老人たちの見はてぬ
夢にたいして心やりのある人だったのだろう。
こういう人が、みずから中年をむかえると。
『モテモテおじさん』という愉快な主人公をつくりだした。
モテモテおじさんのイメージは、おそらく
ステテコという戦前的な下着からわいたのだろう。
ある若い女優が、ステテコをはいた中年男を見ると、
ぞーっとすると言ったことが、
新聞や雑誌をにぎわしたことがある。
このような若い世代の非難にたいする、
中年の世代からのゆっくりした応答になっているのかもしれない。

とにかく、少年のころから
中年、老年の同僚に思いやりのあったこの作家は、
自分が中年になった時にも、
若さにたいするねたみをもたない。
おれはもう若くないのだという口惜しさから来る
意地悪な方法によってでなく、
何となくふんわりとした感じで、
中年・若年の男女関係をえがいている。・・・」
(p312)

うん。今回注文してあった文庫をひらくと、
「鶴見俊輔全漫画論②」(ちくま学芸文庫)に

「戦時下に養われたマンガの精神 ー- 加藤芳郎」
という文(p418~420)があるのを見つける。
『悼詞』に掲載されたとあり、こちらは毎日新聞の
夕刊(2006年1月17日)に載った追悼文でした。
その追悼文の最後も引用しておきます。

「焼け跡から出発したマンガの技法は、
『オンボロ人生』で一つの完成に達し、
高度成長と好景気の時代に通じにくくなった。
金支配の圧力を、彼はひしひしと感じて、
それと取り組むマンガを工夫した。
それは彼流の抵抗として、バブル景気時代の
新聞記者の心に訴え続けた。」

鶴見俊輔氏と加藤芳郎氏との関連にも
触れられている文なのでした。

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受信可能。発信不可能。

2019-01-19 | 本棚並べ
本にはさまっていた
「新潮社新刊案内 2018年11月刊」をひらくと、

黒川創著「鶴見俊輔伝」と
津野海太郎著「最後の読書」と
この2冊が11月30日発売として並んでおりました。

その「最後の読書」のはじまりに、
鶴見俊輔が、登場しておりました。

そこに引用されている鶴見さんは
こうです。

「2011年10月27日、脳梗塞。言語の機能を失う。
受信は可能、発信は不可能、という状態。
発語はできない。読めるが、書けない。
以後、長期の入院、リハビリ病院への転院を経て、
翌年四月に退院、帰宅を果たす。
読書は、かわらず続ける。
2015年5月14日、転んで骨折。入院、転院を経て、
7月20日、肺炎のため死去。享年93歳。」(p12)

こう引用したあとに津野海太郎さんは
こう記しております。

「名うての『話す人』兼『書く人』だった鶴見俊輔が、
その力のすべてを一瞬にして失ったということもだが、
それ以上に、それから三年半ものあいだ、
おなじ状態のまま本を読み続けた、
そのことのほうに、よりつよいショックを受けた。」

「ただし、なにかのためでなく、じぶんひとりの
『習う手応え』や『よろこび』を得るためだけの読書。
『団子串助漫遊記』に熱中した三歳児のころを考えてみよ。
かつて私はそのようにして本を読みはじめた。
とすれば終わりもおなじ。・・・・」(p15)

これが、第一章の「読みながら消えてゆく」。
つぎの、第二章は「わたしはもうじき読めなくなる」。

第二章では、幸田露伴が語られておりました。
幸田文からはじまり、露伴の晩年へと至るのですが

ここでは最後の方をすこし引用。
塩谷賛(土橋利彦)著『幸田露伴』からの引用。

「白内障は全く見えなくなれば手術ができるが
露伴はとにもかくにもまだ見えていたし、それに、
糖尿病があっては手術はかなわぬのだそうである。
それでも手術がしてもらえるかどうかという確かめに、
文子に連れられた形で東大へ行った。(略)
診察を丁寧に受けたあと、
『手術はやはりできませんですなあ』と言われた(略)
タクシーの便がないので眼科から正門まで歩かなくては
ならなかった。・・・・
露伴は額に薄く汗を掻いていた。そのくせ木陰で休んでいると、
『肌寒い感じがする』と言うのであった。そのとき、
『目が衰えると気も衰えるものだね』と感慨を洩らした。」

こうして引用したあとに、津野海太郎氏はこう書きます。

「書けないこともだが、それ以上に読めないことがつらい。
文さんの随筆『結ぶこと』には、
『眼もひどく薄くなってきているから、
生きているうちの見える時間は有効に使いたい。
書くより読むことのほうが大事でもあり、楽しい』
という露伴のことばが記録されている。
白内障が決定的に悪化するまえの内輪での
宣言みたいなものだったのだろう。」(p27~28)

そうして、鶴見俊輔と露伴とを比較しております。

「ただし露伴にはもう読み書きする力がない。
書けない、話せない、でも読める。それが最晩年の鶴見俊輔だったが、
視力を失った幸田露伴は、読めない、書けない、でも話せる。
そこで口述筆記。それと調べ物とを助手の土橋にゆだねることになった、
と幸田文の『雑記』にある。」(p29)


はい、私はここでもう満腹。
もう、これ以上読み進めません(笑)。
次は、鶴見俊輔の漫画論を読むのだ。
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九の坂。

2019-01-18 | 道しるべ
1月16日(水曜日)に、床屋へ行きました(笑)。
同級生がやっているので、話がはずみます。
好きなことを喋ってくるのですが、
葬式の話がはさまります。

そこの床屋の常連のお坊さんがいて、
その坊さんに聞いた話だそうですが、
「九の坂」というのがあるそうです。

たとえば、59歳。69歳。

う~ん。と思いながら帰ってきました。

今日になって、思い出して、
津野海太郎著「最後の読書」(新潮社)の
はじめの方をひらく。

はじまりは鶴見俊輔をとりあげておりました。
そこに鶴見さんの言葉が引用されております。


「  七十に近くなって、
   私は、自分のもうろくに気がついた。  
   これは、深まるばかりで、抜け出るときはない。
   せめて、自分の今のもうろく度を自分で
   知るおぼえをつけたいと思った。    」


こう鶴見俊輔氏の言葉を引用したあとに
津野海太郎氏は、すぐ続けておりました。


「このときかれの正確な満年齢は六十九歳と八か月――。
私も体験があるのでわかるのだが、この年ごろになると、
体力、記憶力、集中力など、心身のおとろえがおそるべき
いきおいで進行し、それまであいまいに対していた老いの到来
――鶴見さんいうところの『自分のもうろく』ぶりに、
いやおうなしに気づかされるをえなくなる。
 ・・・・・
なにしろいちども経験したことのない事態だから、
このさき老いの急坂をどう下ってゆけばいいのか、
さっぱり見当がつかない。その点では、われわれ
凡人にかぎらず、鶴見さんのような度外れに賢い
人だって、なんの変わりもなかったみたい。
 ・・・」(p8~9)



床屋の70代過ぎのお客さんに言わせると、
60代は、まだまだ若く元気なのだそうです(笑)。

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小才子の思い上り。

2019-01-17 | 本棚並べ
昨日は本を読まず(笑)。
そういう際には、
その前に読んだ本のことが思い浮かぶ。

ということで、
外山滋比古著「伝達の整理学」(ちくま文庫)を
あらためて思ってみます。

うん。画家が自画像を描いていくように、
1923年生まれの外山滋比古氏は、自画像を繰り返して
描いているみたいです。そんな風に新刊を読んだのでした。
そう思うと、外山氏の指摘する第四人称。第五人称。
というのが、私にもすこし理解できるような気がしてくる。

まあ、それはそうと、一箇所引用。

「従僕に英雄なし
という。世人が評価する人物も、側近のものには、
そのよさが見えないから、尊敬することを知らない。
近すぎるのである。

従僕でなくとも、近くにいる人たちは、
すぐれた人物をすぐれていると認めることが難しい。
欠点ばかり洗い出して、いい気になっている。
誤解されてこの世を去る人は、古来どれくらいあるかわからない。

目の前に山は高くても、山麓にいるものには、見えない。
目につくのは、石ころばかり、ロクに花も見られない。
あちこち見にくい赤土が顔をのぞかせている。
とてもとても尊敬する気にはなれない。
英雄は英雄になることがなくこの世を去る。
そして、三十年もするとかつての人物が中景の存在となり、
あちこちがかすみ、消えて、まろやかになる。
近景の人物が中景の人物に変ずる。
なんということなしに、心ひかれるようになる。

ここから、歴史的変化がはじまる。
不幸にして、それがおこらない場合、
中景になりそこなったものは、遠景になることなく湮滅する。

大悪人のように言われた政治家が、三十年、四十年すると、
案外、偉大だったかもしれないなどと言われ出す。
それに引きかえ、近景で羽ぶりのよかったのが、声もなく消える。
近景だけ見て、わかったように思うのは、小才子の思い上りである。
人間の世界には中景というものがあって、歴史も、そこから生まれる。
・・・」(p49~50)


このあとに、外山滋比古氏の著作をお読みの方はおなじみの
夏目漱石の例の一件が紹介されているのでした。


さてっと
「人間の世界には中景というものがあって、
 歴史も、そこから生まれる。」とあったのでした。

外山滋比古氏は、その中景を握りしめ、
自由自在に言葉を組み立ててゆかれる。
今年も健筆でありますように。そして、
我々読者を楽しませてくれますように。
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一人前の読者のスタイル。

2019-01-15 | 道しるべ
外山滋比古著「伝達の整理学」(ちくま文庫)を購入。
はい。新刊・2019年1月10日第一刷とあります。
帯には「待望の文庫書き下ろし」とある(笑)。

読ませていただきました。一箇所引用するとすれば
この箇所かなあ。

「本を読むのも受け手である。
それなのに、読者はみずからの受容のスタイルをもたない。
著者、筆者と完全に一体化することを理想とするが、
そんなことのできるわけがない。・・・・

一人前の読者は、みずからの読みのスタイルを
もっていなくてはならない。できれば
みずからの読みのスタイルが
どういうものかを自覚していたい。
そういうことを考えない読者にとって
読書は、知識習得には役立っても、人間としての
知性を高めることは困難である。
心ある読者は、創造的理解をもつことによって
文化を生むことができる。
モノマネに終わる読者、学習は、
スタイルを欠いた受容から生まれる。
・・・新しい価値を生むには、
創造的読解が有力な手がかりになる。

受け手のスタイルがほとんど顧慮されていない社会で、
受容のスタイルを確立する意義は小さくない。
・・・」(p87~88)


外山氏の言葉は、毎回各パーツは同じように見えて、
まるで、同じ積み木をばらしては、まったく新しい
積み木の家を、こしらえているかのように読めてくる不思議。
今回、『みずからの読みのスタイル』を問われているようで、
何だか途中で読むのをやめるわけにもいきませんでした(笑)。

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古本屋の詰める新聞紙。

2019-01-14 | 短文紹介
古本を注文して、
小さい段ボール箱に二冊はいってくる。
そのクッション材として、この古本屋さんは
新聞をクシャクシャとまるめ、空きスペースを埋めて
くれておりました。

はい。古本屋さんが詰める新聞紙(笑)。
この頃、これが気になります。
さっそく新聞紙のクシャクシャを均してひろげる。
朝日新聞2018年11月24日。そこに
山折哲雄氏の連載がある。
さっそく読み始めると、
こんな箇所

「そんなとき、たまたま長谷川和夫先生の
『認知症ケアの心』(中央法規、2010年)という
本にふれる機会があった。お名前はきいていたし、
日本における認知症治療のパイオニアであることも
承知していた。・・・
とくに胸打たれたのはつぎのような言葉だった。

認知症患者にはさまざまなタイプがあり、
その進行の度合いも濃淡の差がみられるが、
さきにもふれたように自分の居場所がわからなくなる。
時間と空間を認識するのがいちじるしく困難になる。
そうなった人に接するときは、
家族であろうと見知らぬ人であろうと、
そのような相手の状態を『ありのまま』に受けとめて
ケアにつとめることが大切になるのだ、という。
認知症の苦しみの中にいる本人は、
いってみれば『今、ここ』という存在になっている。
だから家族もまたできるなら微笑みを浮かべ、
本人の『あるがまま』のすべてを受け入れて寄りそい、
介護と看護をつづけるのが望ましい、と。

  そのまま
  そのまま
  あるがまま

である。ああやはりそうか、そうなのか、
難しいなあ、と思わず嘆息がもれてくるのである。」


う~ん。こういう時に私は、どうするか?
読んでも読まなくても、気になったら、
安い古本なら、注文することにしています。
古本屋さんの、クシャクシャ新聞紙の御縁。


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歯痛と詩痛。

2019-01-13 | 詩歌
昨日の晩に泊りがけの来客。
そうです。連休です(笑)。
うん。家で楽しくビールが飲める。
と思っていたら、残念。

こちらへ来る前に、
歯医者の予約があって、寄ってきたとのこと。
お酒を飲めないどころか、
食事もままならない。という(笑)。

しかたない。楽しみにしていたお酒を
遠慮してこちらも頂かないことに。

う~ん。その余韻が今日になっても残る。

そういえば、歯痛をとりあげた詩が
たしか、田村隆一の詩集にあったはずだと、

 河出書房新社の田村隆一詩集を本棚から

 「詩集1946~1976」「詩集1977~1986」

この2冊を出してくる(ちなみに、全詩集は未購入)。


はい。気晴らしにパラパラとめくる。

「おれの耳のなかで
 歯科医の機械針が電気ドリルのような
 ひびきをたてた」

というのは、詩集「緑の思想」のなかの
詩「秋津」のはじまりの3行。
詩集「死後」の詩「夜間飛行」の始まりは

 はげしい歯痛に耐えるために
 高等数学に熱中する初老の男のエピソードが
 「魔の山」という小説のなかにあったっけ
 そして主人公の「単純な」青年の葉巻は
 マリア・マンチーニ

 どうして葉巻の名前なんか
 ぼくはおぼえているのだ 三十三年まえに
   読んだドイツの翻訳小説なのに
 ぼくも歯痛をこらえながら詩を書いてきた
 歯痛に耐えるためにと云うべきかもしれない
  ・・・・歯痛には
 いつも新鮮な味とひびきがあって
 生れたときから何回も経験してきたくせに
 この痛みの新鮮さに
 いつもぼくは驚かされる
 
 ・・・・・


はい。これは「詩集1946~1976」から引用。
「詩集1977~1986」にはそのまま
「歯」と題した詩がありました。詩集「五分前」から。

   歯
 
 歯の痛み
 痛みのない歯もある
 ある日 その歯がポロッと
 とれるときがある

 歯は茶褐色になっていて
 その色に感謝しなければならない

 その色を見ていると
 歯をかみしめた味 くいしばった味が
 ぼくには
 見えてくるのだ
 歯のおかげで
 ぼくらは養ってもらってきたのだ
 その歯が
 ある日 ポロッとぬけたとき
 痛みのない痛みに
 ぼくは痛みを感じるのさ

 あの痛み


はい。短いので、つい詩全文を引用しました。
もう最後にしましょう。詩集「ワインレッドの夏至」
にある詩「今日の午後は」のはじまりの4行

 歯痛
 というのはいつも新鮮で
 その痛みを幼年期から経験しているくせに
 痛みが去ったあとはきれいに忘れてしまう


さてさて、お客さんは、もう一晩泊まるのでした。
今晩は、私だけお酒を飲みながら、
この田村隆一の詩を朗読しましょうか(笑)。

「この痛みの新鮮さに いつもぼくは驚かされる」
という箇所は数度繰り返してもいいなあ。



追記
けっきょくお酒を飲まず。
それでもって、
詩を朗読せずでした(笑)。
14日午前中来客帰る。

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非売品の追悼文集「一山行盡」。

2019-01-12 | 本棚並べ
芳賀幸四郎著「禅語の茶掛 一行物」を古本で購入して、
気になり、ネット古書で検索すると、
非売品の「芳賀幸四郎追悼文集」(一山行盡刊行委員会)というのがある。
うん。素人の私には、こういうのが格好の入門書となる。
そう。古書を検索していると、なにげなく、非売品というのに出くわす。
これ。新刊書店では探せない楽しみ(笑)。

というわけで、例によって一番安い古本屋に注文(笑)。
それが、今日届いたばかり。はい。きれいな本でした。
あれれ、驚いたのは「序」を小西甚一氏が書いている。

ここでは、小西甚一氏の「序」の最後を引用。

「このたびの追悼文集は、いかなる世間的顕彰よりも、
わたくしにとっては感動的であった。わたくしが内閣の一員で
あったと仮定(ないし仮想ないし夢想)するならば、
さっそく勲一等に叙するという発議をしたいところだけれども、
考え直してみると、この追悼文集は、勲一等の勲章に相当するぐらい
の輝きをもつ。金属製の勲章じたいは無言であり、何も語ってくれない。
しかし、この本は、勲章以上に輝いている。この輝きは、
わたくしの残生を通じて変わらないであろう。そして、ゆかりの
皆さんにとっても、やはり永世不変であろうことを疑わない。」


また、「刊行にあたって」は芳賀徹氏。
文中に亡父とあるので、芳賀徹氏の御父上らしい。
 
未読ながら、子弟関係の追悼文といった信頼・親密感。
黒澤明監督の「まあだだよ!」の世界が展開されてい
るのだと思います。こんな内容紹介で、それでもって、
興味を持たれる方におすすめの一冊だと思います(笑)。


おっと、題名は
「一山行盡(いっさんこうじん)」(芳賀幸四郎追悼文集)。

古書ワルツに注文540円にレターパック510円で、1050円なり。
今刷り上がったような新刊なみの一冊がとどきました。
りっぱな装幀なので、見たらデザイン・装幀は芳賀徹とあります。

はい。本文を読むまえに、もう満腹感(笑)。
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数珠つながりに展開していく。

2019-01-11 | 道しるべ
村田喜代子著「エリザベスの友達」(新潮社)が届き、
数十ページで放り投げる(笑)。

「ボーッとしてんじゃないョ」というテレビは、
ボーッとしてても、見つづけていられるけれど、
ボーッとしてては、活字を追っていけない(笑)。

ありがたいことには、
「エリザベスの友達」の最後に、
「この作品を書くにあたり・・三冊の本に多くの啓発を得ました」
とあり、三冊の本の題名と出版社と著者名とがあげられておりました。
その三冊目の方へと興味がうつる。

さっそく注文。
六車由美著「驚きの介護民俗学」(医学書院)。
その「おわりに」から、ちょこっと引用。

「・・大学に勤務していたころ、
せっかく民俗学を専門に勉強してきてもその専門性を活かせる
博物館や資料館の学芸員の枠はあまりにも狭く、多くの学生たちが
志を抱きながらも仕事に活かすことを断念せざるを得なかった現実を、
私は目の当たりにしてきた。そうした学生たちに、彼らの
可能性を開くひとつの選択肢として、介護現場を勧めたいと思うのだ、
そして彼らの存在によって、閉塞的な介護現場のケアの在り方も、
より豊かに開かれている可能性があると考えている。

しかし、学生たちを介護現場に誘導するには、
職場環境があまりにも過酷であるという現実はある。
やりがいと充実感は確実にあるが、それに対する対価で
あるはずの賃金も社会的評価もきわめて低い。
それによって介護施設の職員の離職率は高く、
現場は常に人手不足の状態にある。

すると、高い理想をもって働いている介護職員たちも、日々、
『食事・排泄・入浴』という三大介護に手いっぱいになり、
肉体的にも精神的にも疲弊してくる、これが現状である。
だから、たとえ民俗学を学んだ学生たちが志高く
介護現場に入ったとしても、現場は聞き書きをする時間を
与えてくれる余裕はないだろう。

  ・・・・・・・

学生たちを介護現場へと胸を張って誘えるようになるためには、
高齢者介護とその仕事に対する人々の理解を深めてもらうことが
何よりも先決であり、結果的に介護施設の職場環境が整備されて
いくように、私にも、社会へと働きかけていく責任があると言える、
その意味でも私は、しばらくは『介護民俗学』という冠を掲げて、
介護の現場で活動をしていきたいと思う。

それと同時に切実に思うのは、
介護現場が社会へと開かれていく必要性がある。
・・・個人情報保護や家族からのクレーム、
さらに感染症予防等への配慮から、施設側は
利用者を過剰なほど保護しているため、
彼らが研究者の調査やマスコミからの取材を
受けることについては消極的だからである。

ここにも、利用者が常に守られる側にあることが
よく見てとれる。百年近く生きてきた利用者の内には、
ある程度のことには耐えうるたくましさが培われているはずだが、
それに対する評価はあまりにも低いのだ。

私は、ムラに調査に入った学生たちが、
『そのことだったら、○○老人ホームにいる△△さんに聞いてみろ』
(聞き書きでは、ある話者から別な話者を紹介されて
数珠つながりに展開していくことはよくある)
と紹介されて、老人ホームへとその利用者に会いに行き
聞き書きができるような、そんな環境ができたら
どんなにかよいかと思う。
そのことだったらあのじいちゃん、
このことだったらあのばあちゃん、
と高齢者がその経験や知識ゆえの必要とされ、
たとえ要介護状態にある老人ホームの利用者であっても
その必要に応えられるような環境こそが、
暴力性のジレンマからケアを解放していく
ことにつながるのではないだろうか。」



作品の最後に、数冊でも参考文献の掲載があれば、
私みたいに飽きやすい者にとっては、救いのページ
となることがしばしばあるのでした。
あらためて、放り出した本を拾い、読み直す。
そんな可能性をひめた参考文献(笑)。

これも、それ。ネットで古本を手軽にスピーディに
手にすることが可能となったおかげです。
そのおかげで、本から本へと楽々と飛び移れる愉しみを、
満喫できる。本年がそうした喜びに満ちていますように。
ということで、
「数珠(じゅず)つながりに展開していくことはよくある」
という言葉が、あらためて浮かび上がってきます。

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どこかで蝉がないている。

2019-01-09 | 本棚並べ
何となくですが、今年ネット注文した古本。

芳賀幸四郎著「禅語の茶掛 一行物」(淡交社・昭和48年)。
そのはじまりは
「禅語一行物について」でした。
途中を引用。

「江戸時代になって墨蹟尊重の風がすこぶる高揚し、
ことに大徳寺派禅僧の筆になる一行物が茶室の掛物の
主流をなすようになったことは、かくれもない事実であるが、
この変化をもたらした原因はいったい何であろうか。
その原因は種々あるが、その一つは茶の湯が・・・
大徳寺派の禅と緊密に結びついて発達し、
桃山時代から江戸初期にかけてその大徳寺派に・・
多くの傑僧が輩出し、しかも彼らがみな
利休・古田織部・小堀遠州・千宗旦らと親しく、
かつ自らも茶の湯に深い関心をもつ一流の茶人でもあった
ということである。しかし、これにもまして
大きな原因として、つぎの事情が考えられる。
すなわち江戸時代になって茶の湯がいよいよ普及し、
茶会が頻繁に開催されるようになり、それだけに
掛物に対する需要が増加した。しかし中国伝来の
絵画や墨蹟はもともとその数は多くなく、それに
その大部分は将軍家や大名、あるいは豪商らの占有に
帰していたため、それらに代る掛物の出現が強く
要求されていた。そしていわばその代用品として
登場してきたのが、一つは折からの和様趣味にも
投じた歌切の類であり、もう一つが当時の
大徳寺派の禅僧の書、わけても一行物なのであった。」
(p11)


う~ん。面白いなあ。
一行物という茶室の世界。
日本語の一行の奥深さ(笑)。

ちなみに、64ページまでは
墨蹟鮮やかな掛け軸がそのままに
載っておりまして、それからが
解説となっておりました。

家で味わえる「禅語の茶掛 一行物」。
はい。この「一行物」をひらいていたら、
空想の中、茶室に坐っている自分がいて、
茶掛の世界、茶掛の宇宙へと思い広がり、
身近に、思い浮かんできた詩があります。

   蝉  山村暮鳥

 わたしの掌には
   河がある
 ながいおおきな河がある
 河と河とのあいだには
   山がある
   畠がある
   たんぼがある
   森がある
   村がある
   町がある
 どこかで
   蝉がないている


毎年年賀はがきを書くのですが、
自分の字のゾンザイさをまのあたりにします(笑)。

私は字がいつになっても下手。
そう思っているので、この機会に一緒に買った古本はというと、
「教師のためのきれいな字を書く1週間レッスン」(旬報社)
といっても、私は教師ではありません(笑)。
この題名にひかれて購入しました。なんとなく、私でも、
簡単に、きれいな字を書き始められそうな一冊です(笑)。


はい。1月のネット古本購入は何となく注文したのが、
「教師のためのきれいな字」と
「大徳寺派禅僧の筆になる一行物の茶室の掛物」
という組み合わせになりました(笑)。
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人間の目利きになろう。

2019-01-07 | 本棚並べ
気がつけばですが、
磯田道史の新刊は買うようにしています。
ということで、新刊の
磯田道史著「日本史の探偵手帳」(文春文庫)を購入。
文庫の最後に「本書は文春文庫オリジナルです」とありました。

どこからでも面白いので、
パラリとひらいたところを引用。

「『名将言行録』は古今稀にみる名著といっていい。
著者は岡谷繁実(おかやしげざね)。幕末から明治の人である。
引用書目が多すぎて記事に出典がないのが、玉に瑕だけれども、
古典に通暁した明治人が死に絶えた今日、こんな書物はもう作れない。
・・・・・
『名将言行録』には、武田信玄の部将・高坂弾正と曾根内匠(たくみ)
の問答として、こんなことが書いてあって、私は大いに勇気付けられた
のを憶えている。曾根が高坂に問うていった。
良い大将にお行儀の悪い者がいて、
愚かな大将にお行儀の良い者がいる
ということが世間にはある。これはなぜか。
高坂はこう答えたという。良将というのは、
扇・鼻紙のような、どうでもよいことは忘れる。しかし、
刀脇差のような本当に大切なことは忘れない。たとえば、
織田信長は『行儀荒しといえども、人の目利き上手』であって、
『信長、扇・鼻紙をば忘れて刀脇差を忘れぬ心あり』、だから強い。
一方、山口の大内義隆は『行儀善けれど、人の目利き下手』であり、
取り立てた侍は十人中九人までが役に立たず、
家老の陶晴賢(すえはるかた)に国を掠め取られて殺された。
義隆はお行儀は良かったが、
扇・鼻紙のような、どうでもいいことにこだわって、
本当に大切なことが何かわかっていなかったのだ。
学校の図書室でこれを読みながら、私は(鼻紙は忘れてもいいが、
人の観察は忘れず、絶対に、人間の目利きになろう)などと、
大げさなことを考えはじめた。『名将言行録』には
こういう話が山ほどのっていて、私は人生に大切なことは、
この本から教わったように思う。」
(p240~241)


はい。「人間の目利きになろう」と大げさに考えはじめた人の、
その人の本を楽しみしている私は一人です。

うん。ここを読んだだけで私は満腹。
後の頁は、鼻紙に思える不心得(笑)。

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新年「本のよみうり堂」。

2019-01-06 | 書評欄拝見
1月だけ読売新聞を購読することにして、
今日は日曜日。読書欄がある日。

さっそく、書評に魅せられて、
新刊2冊注文してしまう(笑)。


読売新聞の書評欄で
小説など読まない私なのに、
村田喜代子著「エリザベスの友達」(新潮社)が
岸本佐和子さんの書評で掲載されており、気になる。
気になるので、ネット注文。
岸本さんの書評の
はじまりは、

「結婚してすぐ天津に渡り、敗戦とともに
苦労して引き揚げてきた97歳の初音さんは、
今は九州の有料老人ホームで暮らしている。
訪ねてくる娘たちを『誰だこの女』という目で見、
名を問われれば『エリザベス』と答え、
夕方になると『それではお暇いたします』と
どこかに帰ろうとする、
まあ立派な認知症老人だ。」


この書評の最後は、

「読みながらずっと考えていたのは、
一昨年他界した自分の父のことだ。
父も最後のほうは郷里の丹波篠山にいるつもりになって、
言動がいろいろとシュールだった。
ひどくうろたえたけれど、
あれもきっと自由になっていたのだな。
あの時に戻っていろいろと訊ねてみたいけれど、
親は一度しか死んでくれない。」


もう一冊。
加藤徹氏が書評しておりました。
中島恵著「日本の『中国人』社会」
(日経プレミアシリーズ・850円)。

こちらも書評を紹介。
はじまりは

「在日中国人の数は、高知県の人口と同じだ。
約73万人で、なお急増中である。
フリージャーナリストである著者は、
多数の在日中国人に取材し、
その生き方や本音を紹介する。・・・
『日本の教育はゆるすぎる』
『中国のほうが数学や理科の授業は進んでいる』
という親の声は、耳が痛い。
『日本にいればマイホームを持つという
夢を比較的簡単に実現できる』
という中国人が考える理由も示唆的だ。
中国のGDPは日本の約3倍になったが、
大都会のマンション価格は日本より高くなり、
戸籍による差別も残る。
日本は平等で、中国人でもローンを組める。
・・・・・」


はい。新年の書評で、本をネット注文。


そういえば、私は地方に住んでおります。
ちょっと昔、新刊を注文して1週間はかかっておりました。
すぐに読みたければ、都会へと買いにでかける。

そんなことをしている頃に、IBMのコマーシャルがあった。
ネットで本が地方にいても簡単に届く手軽さを宣伝してた。
日本でも、そんな社会が身近になるんだなあ。
そう思っていたら、いつのまにかそうなっている。

そんな、ちょっと昔のことが思い浮かぶ、新年です(笑)。


そうそう。私は産経新聞を定期購読しております。
今日の、産経新聞の読書欄をひらくと、
こちらにも、村田喜代子著「エリザベスの友達」
と「日本の『中国人』社会」の二つとも
書評が挙げられておりました。
けれども、産経の書評では、買おうという気になれなかった。
ちなみに、「日本の『中国人』社会」は
産経では、無署名の小さい紹介書評なのでなおさら。

うん。産経の書評をけなすのも何なので、ほめます。
産経の「この本と出会った」のコーナーはよかった。
建築家・伊東豊雄氏が武満徹著「音、沈黙と測りあえるほどに」
を紹介しておりました。そこで伊東氏は、
その出会いを、こう指摘しておりました。

「他人に語りかけると言うより、自ら熟考を重ね、熟考の末に
自らに語りかけているような文章に強く惹かれた。」


新年早々、このような言葉を新聞に拾えるよろこび。
これも、一月は、新聞を二紙購読の御利益かも(笑)。



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