和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

出来損ないの豆腐のように。

2019-10-31 | 詩歌
鶴見俊輔・野村雅一対談集「ふれあう回路」(平凡社)。
この最後には
「1986年5月7日、6月6日、京都・栗田山荘にて対談」
とありました。

さて、その時の鶴見俊輔さんの年齢は、63歳。
鶴見さんは、こう語っております。
それは藤沢桓夫さんが読売新聞に連載していた
文のことを取り上げておりました。

「・・ちかごろ死んだ人がよく現れるというのです。
・・・自分とつきあいがあった時代のことをそのまま
思い浮かべるというんじゃないのですよ。
目の前に新しいものが出てくると、
それについて死んだ人と対話をするわけ、
だから死んだ人と昔の話じゃなくて、
今のことについて対話している。
死んだ人が生きてきて、生命の延長として
話しているわけね、フッと出てきて、
それが老人の感覚なんです。
死んだ人との共同体、死んだ人との共生という感じね。

この感じが私には、いま63になってくるとわかりますね。
死んだ人とともに見ているという感覚、
そういう感じが高齢社会になると、だんだん
社会の底にたまってくる。・・・」

このあとに鶴見さんは、
京都新聞に載った詩を引用しておりました。
天野忠の詩「父と子」

「  あの道を西へ曲がろうとする矢先き
  いつもうつむいて上眼づかいの
  父親に出逢う。

  めったに口をきかない。
  こっちも口をきかない。
  ぎこちなくもじもじしながら
  出来損ないの豆腐のように崩れて
  もやもやと散ってしまう。

  74歳の俺も
  60歳で死んだ親父も
  ユメのなかでは
  まだ頑固に恥ずかしがっている。  」

こうして詩を引用したあとに
鶴見さんは、こう指摘しておりました。

「・・・天野忠の詩は新聞にのっているわけですから、
若い人も見るでしょう。かなりの読者がいて、
この感じを保っていきますよ。日本の未来について
私が最も希望をもてるもの、コミュニケ―ションの場ですね。
それを理解する若い人もまた出てくるだろう。
できれば子どもも、という感じですね。」(p153~p155)

はい。京都新聞を読む、かなりの読者に、
私は属しておりませんでした(笑)。
でも、この対談で知りえたのでした。

ちなみに、この対談のp20にも
天野忠の詩が引用されておりました。
この機会なので、その箇所も引用。

「このあいだ多田道太郎氏が仲人になった結婚式があって、
花嫁、花婿は24歳、25歳、そこで彼がスピーチをした。
天野忠の『しずかな夫婦』という詩を引いて、それは

  結婚よりも私は『夫婦』が好きだった。
  とくにしずかな夫婦が好きだった。
  結婚をひとまたぎして直ぐ
  しずかな夫婦になれぬものかと思っていた。

というのですが、なかなかいいんだよね。・・・・」


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あれは不思議なものですよ。

2019-10-29 | 道しるべ
再読していて思い出したのですが、
鶴見俊輔の対談のなかに、
一読忘れられない箇所があったのでした。
そこを引用。

「昭和20年の大空襲のとき、私はその日に東京に帰ってきて、
大宮で汽車がとまっちゃったから、乗り換え、乗り換えして、
しまいに歩いて麻布のうちに戻ったんです。
雪がひざまで積もっていました。三月なんです。
ところが、向こうからものすごく陽気な、
笑いさざめくような声が聞こえるんです。それは
青山六丁目のあたりで、私は渋谷のほうから
歩いてきたんですが、麻布のほうからきて行き
会った人たちが明るい顔をしているんです。
それがうちを全部焼かれちゃった人たちなんですよ。
近所近辺、すべて焼かれちゃった人たちが歩いている。
それが一緒に焼けたときは、助け合いと連帯の気持が
底のほうから出てきて、何がなくてもお互いにいま
生きていることを喜び合う気持ですね。
快活な感情なんですよ。

それは亀井勝一郎も書いている。
『日月明し』というのですが、あのときの感動
というのは忘れられませんね。それはわずかな希望だな。
これから日本人が全体として暮らしが下がっていくときに、
みんなが一緒に貧乏になるならば、やはりあのときの
快活な助け合いの気分が帰ってくるんじゃないかという
希望です。あれは不思議なものですよ。・・・・」(p65~66)

これを読んだときは、1987年発行の本なので、私など、
簡単に本が届くようになることなど思いもしない、
ネット古書店での検索など知らない時代でした。
こんど読み返して、すぐにパソコンにむかって
検索したら
亀井勝一郎全集第15巻に収録された「日月明し」が
手に入る。うん。さっそく注文しました。

これで、鶴見俊輔の対談の背景が、ちょっとわかるかも(笑)。
ネット古書店で、古本を買えるありがたさを噛みしめる瞬間。

さて、この鶴見俊輔と野村雅一の対談には
こんな箇所もありました。
鶴見さんが、川喜田二郎氏を語った箇所です。

「彼はそれから文明論に向かうわけで、
その文明論は『季刊民族学』に『素朴から文明へ』
というのがありまして、ここではポンと飛んでこう言うのですよ。
『素朴よりも文明のほうがはたしてよいものとか、
価値が高いものかどうかなどということは、けっして
自明のこととして前提されてはならない』。
ここからあとは、評価がむずかしい問題だからわかりませんが、
彼は日本にはまだ見込みがあるのは、
日本はまだ文明じゃないからというんですよ(笑)。
素朴なものが残っているから、完全に文明化していくと、
小集団のなかでのやりとりがつぶされてしまうので、
血の通ったコミュニケーションがなくなってだめになる。
・・・」(p33~34)

「素朴から文明へ。価値的に文明のほうが高いと
考えないほうがいい。素朴から複雑へと変わっていって、
素朴が全部扼殺されたらそれで終わりではないか。
普通に相手を見て、相手がだれかを識別できるような、
その小さな集団で人間の創造は行なわれるので、
そこをこえてしまうと、一方的な伝達と模倣ばかりになって
しまって、生きがいとか愉快とか、レクリエーションという
意味での娯楽ですね、それから離れてしまう。
結局生きがいを喪失してしまうところに行くという、
そのおおまかな直観に共感します。・・」(p34~35)

うん。これで「亀井勝一郎全集」第15巻と、
季刊「民族学」27号・28号の「素朴から文明へ」を
同時に読める楽しみ。

さてっと、
「・・一方的な伝達と模倣ばかりになってしまって、
生きがいとか愉快とか、レクリエーションという
意味での娯楽ですね、それから離れてしまう。
結局生きがいを喪失してしまう」

というブログへとそれていかないように、気にしながら、
ネット古書店から、届く本を読みはじめられますように。






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ガンデンデンのお囃子。

2019-10-28 | 京都
ネット古書店から、
京都関係の安い本を注文している私です(笑)。
そうすると、
能と歌舞伎と文楽と伝統芸能があるけれど、
京都には、さらに、壬生狂言がある。

うん。うん。
グレゴリ青山著「京都『トカイナカ』暮らし」(集英社)。
これはマンガでした。
その「グ印京都ガイド」に、壬生寺が出てきます。
言葉を引用。

「壬生寺
新選組と壬生狂言で有名なお寺。
私は壬生狂言の観客席の下の
保育園に通っていて、狂言の日は
教室に«ガンデンデン»という
お囃子がよく聞こえてきたものでした。」(p10)

その言葉の下に、
壬生寺近辺の地図をグ印(グレゴリ青山)さんが描いています。
四条通・綾小路通・仏光寺通・高辻通・松原通・五条通と
通り名もちゃんとあり、阪急大宮駅そばには
餃子の王将第1号店も記載がある(笑)。

保育園の園児が
「あ、今日キョーゲンや」といえば
保母さんが
「今日は上からほうらくが落ちてくるし
外出したらアカンで」と
これも絵入りで紹介。

隣りのページには、
幸福堂の「金つば」とか
割烹料理「しんざん」
「サクラカンパニー」と
電話番号入りで紹介されております。

さてっと、壬生狂言です。
「梅原猛の京都遍歴・壬生狂言の魅力」(淡交社)
そのはじまりに、梅原猛の31頁ほどの解説があり、
壬生狂言の魅力が伝わってきます。
ということで梅原氏の文は、こうはじまります。

「京都に壬生寺(みぶでら)という寺があり、
そこに壬生狂言が伝えられていることは、
もちろん知ってはいたが、壬生寺について
さしたる興味を抱かず、壬生狂言も昨年の秋、
初めて観るまで全く観たことはなかったのである。

京都に住んで五十年、誠に怠惰なことといわねばならない。
・・・・日本の文化に関心を持ち、日本の歴史や宗教や
芸術について書物をいくらか書いている私にとっては
怠慢の謗(そしり)を免れ得ない。」(p22)

うん。本文が魅力なのですが、
引用していると、引用ばかりになる(笑)。
それで、梅原猛氏の文の最後を引用することに

「このような古い伝統を持つ劇が、
今日まで京都の町の人によって保存されてきたことは、
奇蹟といってもよいような気がする。」(p52)

そのあとに民俗学の西川照子さんによる
「壬生狂言三十曲 その発生と発展」が続きます。
写真は井上隆雄。
淡交社のこの本は、平成9年3月初版発行とあります。





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千歳と万歳。

2019-10-27 | 道しるべ
ユーチューブで、安倍総理が新天皇陛下を祝い、
万歳三唱をする映像をみておりました。

「千代に八千代に」の言葉はラグビー選手が
歌う姿とともに、思い浮かぶのでした。

日本に生まれ。平和に暮らせる私の、
めぐまれている、めでたさを、万歳三唱に重ねあわせます。

「千歳」を簡単な辞書でひくと、読みは、
「センザイ・ちとせ」とある。意味は、
「千年、千載。遠い年月。・・」とある。

それでは、「千載一遇(センザイイチグウ)」の意味は、
というと、「千年の間に一回しか会えない、めったに
めぐり会えないよい機会。」とあります。

安倍首相の万歳三唱を、見て、その次の日に、
千載一遇という言葉を思い浮かべました。

首相夫婦主催の晩餐会も
ユーチューブで拝見しました。
そこで演じられた、古典芸能はステキでした。

そういえばと、能の本をとりだす。
私がひらいた本は、最初に、
「翁(おきな)」の解説が写真入りでありました。
そこを引用させていただきます。

「天下泰平、国歌安穏を祝う神歌で、
一般の能のように劇的な筋は一切ない。
朗々と謡い晴れやかに舞う。
神にささげる神聖な儀式だ。」

解説で気になった箇所を引用します。

「面箱が『面箱さばき』して翁の前に置き、
翁は舞台の上で面をつける。この面は白式尉(はくしきじょう)で
ご神体そのもの。この面をつけた瞬間から
翁は神となる。
   ・・・・
笛のヒシギ(高く激しい音)で小鼓が打ち出し
翁が『とうとうたらりたらりら』と謡い初める。

のびやかに、たからかに。千歳の若々しく華やかな舞い。
翁は面をつけて謡い出して立つ。
天下泰平、国家安穏を祈念する『翁の舞』ーー。
天地人の三拍子を踏む。

舞い上げて翁は
『千秋万歳の祝いの舞なれば一舞舞おう万歳楽』
と謡い扇をたたみ、白式尉の面をはずして、
再び拝礼して橋懸から幕に入る。
いわゆる翁還(おきなかえり)ーー。
人間に戻ったのだ。
 ・・・・」

ひきつづいて解説では、この能の歴史を
とりあげておられました。

「 この曲には特定の場所設定はない。
しかし、日本能楽史上、京都市東山区、
新(いま)熊野での室町幕府三代将軍足利義満の
大和猿楽能観覧は特筆される。応安7年(1374)
義満はこれまで田楽しか観覧しなかったが、
猿楽見物のためこの地にやってきた。

最初の番組は『翁』--。
シテは父・観阿弥が舞い、後に能の大成者となる
息子・世阿弥が『千歳』を舞ったのではと想像される。
世阿弥は当時、12歳といわれ、大変な美少年。
以後将軍の寵愛を一身に受け、四年後の夏、
祇園会(祭)の鉾を四条東洞院の桟敷で
将軍と同席で観覧した(後愚昧記)。

将軍との歴史的出会い、将軍の死、
六代将軍義教による佐渡への島流し。
世阿弥は過酷な政治と流行の浮き沈みを経験する。
 ・・・・・」
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お地蔵さんの場所。

2019-10-26 | 京都
鶴見俊輔の対談で、こんな箇所。

「・・私は東京に住まないで京都に住んでいるのは、
東京の風景を見るのがいやだから、
東京生まれだと耐えられないのね。
東京は私にとって一番の外国なんだ。
京都に住んでいると、小学校六年生の
ときに修学旅行で来たままの所が
まだあるからいい。・・・」(p56~57)

対談相手の、野村雅一氏は

「東京について最近ずいぶんいろいろ本が出ていますね。
ぼくは東京に行ったらすぐ逃げ帰ってくるほうで、
あまり関心もないのですけれど・・・・・
ぼくなんか『かなんなあ』という感じがするんです。
ぼくは大津のはずれに住んでいるのですけれど、
その大津はもちろんですが、京都の
たとえば京大のあたりでも、京大とか三高が
なかった時代の道が、今の道を見るだけでもわかりますね。
なにも専門の建築学者をよんでこなくても、だれでもわかる、
ここはこういう通りが前に走ってたんだなというのが、
お地蔵さんの場所とかでわかる。

東京とか大阪へ行くとどうしようもない。迷宮ですね。
それはもう風土などという言葉ではとても呼べない
ような環境になっているのですね。」(p61~62)

はい。以前ですが、
鶴見俊輔氏の対談本があると買っておりました。
ゆっくりと読めばよいものの、一度読んだら
次の本へと心移りをして、本という食べ物を、
よく噛まずに、ただ飲み込んでいたのでした。
そういえば、
この野村雅一氏との対談本は、
三題噺のエピソードとか、部分的に
残像として鮮やかな読後感があったなあ、
というくらいのことで、すっかり忘れておりました。

本棚にあったので、再読を始めたところです(笑)。
ちなみに、この対談本の最後には

「1986年5月7日、6月6日、京都・粟田山荘にて対談。」

とありました。
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ベランダの解放感。

2019-10-24 | 地域
台風15号で、二階のベランダの柵がとばされ。
そのままになっておりました。それを、エイヤア。
自分で修理(笑)。
まずは、柵なしでいくことに決める。
壊れた箇所から、雨が降ると、外壁ボードの裏側に
水が浸み込むので、それを避けるために、
廃材をつかって、柵のあとに、蓋をかぶせる要領で、
直接雨水が浸み込まないように、工夫する。
それだけ。それだけなのに、素人のかなしさ。
時間がかかる。昨日は、その廃材にペンキを塗る。
うん。これでおしまいにする。
風が強い時などは、かぶせたままなので、
その上に土嚢をのせたりしてふせごうと、思案する。

はい。これでおしまい。
柵がなくなったら、見晴らしがいい。
動物園の柵を取っ払った感じの解放感。
屋根にのぼって、見晴らす感じ。

夜はお風呂で、手のペンキをおとしておりました。
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屋根の雨漏り修理。

2019-10-22 | 安房
10月は、山車の祭があるのですが、
今年は、台風15号の影響で中止。
他地域では、祭礼を予定していたのですが、
結局は、台風19号と重なり中止。
ということで、こちらでは、
10月の祭はありませんでした。

祭なしの地域の集まりには、
話題が台風の話になります。
屋根へビニールシート掛けるのは、
自分でやったという方もおり、
50代の方の話をきくと、
瓦屋根で最初は及び腰で、
あとは、スラスラと自分流で掛けていたそうです。

うちでは、トタン屋根でして、
屋根の傾斜がゆるやかで、しかも、
二階の窓から、すぐに屋根にあがれる。
そんなつくりなので、抵抗なく
屋根には上がれるのでした。

屋根といえば、
鶴見俊輔氏の短文に、
屋根が登場する箇所があって、
思い出して探していたのですが、
ありました(笑)。

晶文社の「鶴見俊輔座談 全10巻」。
そのパンフレットに。その箇所はありました。

詳しくは、鶴見俊輔座談の第一回配本「日本人とは何だろうか」。
そのご自身による「あとがき 日本人になる前」に書かれております。

もう少し詳しくいうと、
パンフレットと「日本人になる前に あとがき」とは
おなじ箇所を取り上げていても、微妙に言葉の配分が異なりました。
それはそれで、おもしろいのですが、その微妙さははぶきます。

では引用。
あとがきには、こう表現されておりました。

「生涯の最初の時期の、日本人のわくの前の記憶・・・は、
私にとって、自分の思想をつむぐ時の導きの糸となった。

戦後に仕事をはじめたころ、ききがきをとりにまわった。」

こうして、若槻禮次郎氏をたずねた場面をふりかえり、
その次に、明治の社会主義者・石川三四郎氏をたずねます。
屋根の話は、石川氏をたずねた場面に登場するのですが、
ここでは、まわり道して、お二人とも引用してゆきます。

うん。ここでは、パンフレットから引用。

「戦争(大東亜戦争)が終わり、
若槻礼次郎さんに会いに、伊東の家を訪ねたことが
あるんです。暑い暑い日でした。

『ごめんください、ごめんください』何回いっても
誰もでてこない。長い間、怒鳴っていると、
ふんどし姿であらわれたんです。若槻さんでした。
細君は、いま、買い物に行って家には誰もいない、
という、使用人はいないんです。わたしは、家にあがり、
用意してきたカードを出して、筆記しました。
八十歳の若槻さんと二十三歳のわたしが対座したんです。
わたしの手作りの質問に、『捨て子であって両親は知りません』
という生い立ちから、話は始まりました。
『酒が好きなのに、戦争中は飲めなくて困った』とかね。

若槻さんの話を聞きとりながら、驚きをおぼえてきたんです。
十代のわたしをとらえていた、戦争の恐怖感にとらわれていない
人が、いま、こうして目の前にいる。それは、
どこからきているのだろうか。それを考えたのです。

日本というこの国のかたちが、まだ定まらないうちに
生を受け、国を作り変えるために生涯努力してきた人、
戦争中、政府によってつくられた『日本人』から
遠くはなれた人が、ここにいる。
スケールの大きさを感じたんです。

石川三四郎さんを訪ねたときも、そうでした。
ちょうどお昼でしたが、石川さんは屋根にのぼって、
雨漏りのするところを修理していたんです。
いまのわたしと同じ齢くらいの人がですよ。」

ちなみに、鶴見俊輔氏は1922年生れで、
この座談集が出るのは1996年。
ということは石川三四郎氏は74歳頃なんでしょうか?
うん。私が70歳を過ぎて、その頃に、また台風がやってきて、
屋根がどうにかなってしまい。その屋根を修理している
自分を思い描いてしまいます(笑)。
それはそうと、石川三四郎氏にもどります。

「それから、家で飼っている山羊の乳をしぼって、
すすめられました。あとになって、戦争末期、
石川さんが近藤憲二さんに
『カーペンター翁の命日を二人で蘆花公園でやろう』
という誘いの葉書を平気で出していたことを知った。
これを知ったときも、感動しました。

対談という、もともとの伝統は、連句、座の文学なんですね。
戦国時代、城攻めのときは、待ち時間がものすごくあるでしょう。
そのとき、座興のために連歌師の宗祇のような人が、かたちを
つくったんです。それ以前には、男女が山や市などに集まって
お互いに歌を詠み交わす、歌垣のような『万葉集』のころからの
洗練された伝統があるんですね。・・・」

もどって、
この「鶴見俊輔座談」のパンフレットの言葉は(談)となっており、
「日本人になる前 あとがき」は5頁の文章です。

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京都の日常生活の近くに。

2019-10-20 | 京都
京都へは、修学旅行をふくめて
3回出かけました。
そのうち、2回は60歳を過ぎてから、
そのためか、京都を思うと、
あれこれ、考えが吸いよせられてゆくような、
そんな不思議な気がしてくるのでした(笑)。

さて、本のなかに京都という言葉があると、
もう、それだけで興味をもちます。

鶴見俊輔著「回想の人びと」(潮出版社)。
田村義也氏の装丁。

そのはじまりは安田武氏からはじまっておりました。
鶴見俊輔氏は安田武氏を語るのに際して、こうはじめております。

「京都に住んで51年になる。
この町には能楽堂が多い。
前を通りすぎたことは何度もあったが、
中に入ったことはなかった。

あるとき、たくさんの人たちの挨拶のなかで、
老齢の能楽師の声がよくとおるのに驚いた。
近代のベルカント歌唱法で自分をつくった
同じ年齢の歌い手ではむずかしいだろうとふと思った。

10年通った大学のすぐそばに河村能楽堂があり、
その家元が、よくとおる声で挨拶をした老人
(ただし私より若い)だった。
40年前、私がこの大学に勤めていたころには、
足を向けたことのないこの能楽堂に、
そのころから足が向くようになった。

私は東京の生まれで、東京に住むと、
他のことに眼をうばわれて、
能楽堂を近しく感じない。
京都に住むと、能は日常生活の近くにある。

夢幻能では、昔の人があらわれて
自分の見た同時代を語り、それをきく人は、
舞台の上では当時の人であるが、見ている私たちに
とってはききてもまた大昔の人である。
そういう形式が、すでに老人である私にとっては、
自然に感じられる。・・・・」


この文は9ページほどですが、
その最後の方からも適宜引用。

「終わりに近くなったころ、
彼は酸素テントの中に入って、
それでも見舞客と言葉をかわし、
自分では話せなかったので、
『ふくろのネズミだ』と書いて示した。
絶筆であろう。ここには
戦場のこだまがある。

井上八千代の80歳記念のおどりが、
三晩つづいて京都の祇園であったとき、
見に行きたいが行けないと彼は言い、
井上八千代さんとおなじ時代に生きたことが
自分の誇りだと言った。

それほどの人とおなじ京都に住んでいるのか、
と私は思い、この祝賀に彼にかわって参加した。
井上流一門の舞には、
家元の井上八千代はもちろんのこと気品を感じた。

戦地にいたころ彼のなかに育てたまぼろしが、
京都にはあるという思いこみが、おわりまで
彼のなかに生きつづけた。
祇園だけでなく、個人タクシーと彼は交際し
・・・・・」(p16)

コメント (2)
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生きる張合があるのだと。

2019-10-18 | 京都
宮本常一著「私の日本地図14 京都」の
読みなおしてみたかった箇所があります。

「本願寺というのは不思議な寺である。
京都の町の中に周囲を圧した規模で建てられておりつつ、
京都市民にはそれほど親しまれていない。・・・
この寺は地方の民衆の信仰に支持されている。
・・・・
東本願寺の信徒はだいたい京都から東、
西本願寺の信徒は京都から西というふうに区分されていて、
信徒の色彩にも差が見られ、
幕末の政治的な動きの中でも東本願寺は幕府、
西本願寺は勤皇をとなえて明治政府へも八万両を献金している。
それはそのまま地方民衆の心を反映していると言ってもよかった。
 ・・・・ 」(p96)

これからが面白いところなのですが、
つぎに行きます。p179~180をめくると、
写真が3枚興味深い。昔の時代劇には尺八を持つ
虚無僧がよく登場しましたが、今では
テレビの時代劇では見ることがなくなりました。
その虚無僧が家の前で尺八を吹いている後ろ姿。
畑のおば、が野良着で手拭をかぶり、その頭に荷を載せてる。
道者が通り過ぎる姿。
最後の道者の姿が忘れがたいのでした。

さて、民俗学者の宮本常一氏らしい視線が
味わえる箇所となっております。

「京都という町は単に京都市民によって
支えられた町ではなく、京都をとりまく
田舎の人びとによっても支えられていたのである。
本願寺が田舎の人たちに支えられているのもその一例であり、
京都の伝統的な産業も田舎の人たちによって
支えられているといってもいい。

私は時折、京都駅前の旅館案内所へいって
安い宿を紹介してもらうことがあった。
もう20年も前の話であるからそういう宿が
どうなっているか知らないが、尋ねていって
みるとたいてい町の中にあって、
外観も中も普通の町屋である。
部屋もふすまで仕切られているだけで、
たいてい合宿(あいやど)である。
昔の宿はみなこうであった。
その宿が京都の町の中には多かった。・・・
見知らぬ人といっしょに泊るのだが、
相客の方は何度もその宿にとまっていて、
宿の人とは心安くしている。

田舎から京都の寺へまいる人、
あるいは行商の人が多かった。
あるときは本願寺へまいる北国の人といっしょに
なったこともある。そしてその人たちと
夜ふけまで話したことがあった。
その中には80歳をすぎた老人も交っており、
そういう人から昔の話をきいていると心をうたれたり、
考えさせられたりすることが多かった。

北国人たちの真宗信仰は熾烈なものがあった。
徳の高い上人様が本願寺の大きな借銭を支払うための
寄付集めに北陸へ巡錫(じゅんしゃく)したことがある。
そのとき信者たちは上人のはいった風呂の湯を争って飲み、
またその中にういていた〇〇を今も肌身離さず身につけて
お守りにしているものがあるという。

今の人がきいたらあきれるようなことだし、
馬鹿もそこまでになるとつける薬がないとも言った。
それほどのことがわかっていて、
なお御本山まいりをしている。

自分の家は小さいあばら屋だが、
そういう家に住んでいて、
山のような大きな本願寺へ参るたびに
寄付していくという。
私はその言葉にひどく心をうたれた。

終戦後も本山には大きな借銭ができた。
このままだと本願寺がつぶれる。
信仰もつぶれるといわれて、
みな本気になって
寄付してその借銭を払った。

ほんとうに馬鹿だと思うが、
馬鹿なことにでも一生懸命になれるので
生きる張合があるのだと、
その老人は話してくれた。・・・」(~p181)


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解体中の本圀寺。

2019-10-15 | 古典
水濡れで、ページがひらけなくなった
宮本常一著「私の日本地図14・京都」を古本で注文。
それが届く。
この本、ほぼ各ページに写真があり、
それ用の用紙をつかっているためか、
乾いても、ページがめくれない(笑)。
こうなると、読みたくなるもので、
さっそく注文したというわけです。

届くとさっそく、気になっていた箇所をひらく。
本圀寺(ほんこくじ)について書かれた箇所でした。
引用。

「西本願寺のすぐ北に本圀寺という寺があった。
・・・りっぱな寺であった。本願寺が参拝者も多く
活気にみちているのに、この寺は何となくひっそり
としていた。しかし私のすきな寺で、時折ここに詣でていた。
・・・・その寺が次第に荒れてゆくのが目についた。
まず築土塀がこわれていった。よく見ると、それは築土ではなく、
竹でコマイをかいて、それに土をぬって壁にしてもので、
一角がくずれかかると、人びとが面白がってこわしていったようである。
寺があれてゆくのはこういうものであろうかと思った。・・
昭和41年6月・・ついでにいつものように京都の町をうろついて、
この寺の前まで来た。そのときはもう庫裡は空家になり、
また本堂は屋根瓦をおろし、土壁をとり、
柱と桁梁のみになっていた。・・・・
このようにしてこの地から一つ寺が消えてゆくのかと
暗然とさせられた。」

その時に宮本さんが撮影した写真が8枚(p105~111)に
載っているのが印象的でした。解体中の本堂や境内には
解体した瓦が丁寧に積み上げられていたりして、
骨格だけのお寺がそこにありました。
そして、文章はこう続いておりました。

「檀家を持たぬ寺は弱い。
経済的に支えてゆくものは何一つない。
寺の境内に特別の流行神や流行仏でもあればよい。
また文化財を持っていても力強い。そういうものを
何一つ持たぬ場合は生きのびることはむずかしい。
そして経済的な圧迫にたえかねてほろびていった寺も
多かったはずであり、本圀寺の現状もそれにあたるものであろう。

いま栄えている知恩院なども明治初年の窮迫は
甚しいものであった。明治20年頃、約43万円の
借金に山門を売るという話もあったという。
それを信徒の寄付によって立ち直ったという。
宇治の鳳凰堂が乞食のねぐらになったり、
奈良興福寺の五重塔が売りに出されたりしながらも、
民衆がもう一度寺の方を振り向いてくれることに
よって生きのびてきたのである。
・・・」(p105)

こうして解体中の本圀寺の写真を見ながら読むと
独特の感じを味わいます。

ちなみに、この本には附録マップがあり、
そこには、本圀寺もきちんと入っておりました。
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台風19号。

2019-10-14 | 地域
台風19号。
私たちの地域では、豪雨でなく、強風でした。
台風15号を体験しておりましたので、事前に
食品の買い出し、ガソリンの給油等が混んで、
心して台風19号をむかえました。

東の風から、だんだんと南風となり、
強風は台風15号と同じだと思えました。
ですが、時間帯が今回は短くて、
夜の2時ごろには、もう台風が
この地域から通り過ぎておりました。
その頃には、丸い月が停電の夜を明るくしておりました。
3時前に、外へ出て被害を調べる。無風で、台風一過。
今回は屋根も飛ばずに過ぎ、ホッとしました。

13日も停電。よい天気でしたので、
台風15号の際の被害箇所の補修を夕方までしておりました。
それから、隣りの館山市に行くと電気が通じており、
テレビを見て、他の土地の被害状況を知ることができました。

電気が通じている館山市で、シャワーを浴び、
食堂で夕食をとって帰ってきました。

ラグビーの後半のはじまり頃に
電気が自宅でも通じ、あらためて
他地域の被害の大きさを知りました。


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窓と段ボールとベニヤ。

2019-10-12 | 地域
台風19号が接近中とニュースでわかるので、
やれることをしておく。
雨戸がないガラス窓があり、
段ボールを窓枠にはめ込む。
これを昨日おこなう。

台風15号で飛ばされた屋根を
解体したあとに、ベニヤが四枚。
ちなみに、台風のあとに、
分別ごみとして、
トタンと木材はわけて、
廃校になった小学校校庭へと出しました。
瓦や畳や、木や竹や、きちんと
わけて地区の皆さんは出されておりました。

その際に、トタンを丁寧に釘をぬいて
仕分けしていたら、角材とベニヤが
わりかしいい感じで取り出せたので、
せっかく汗をかいて分別したので、
廃材に出すのを見合わせておりました。
そのベニヤと角材の出番がやってきました。

うん。出入りできる大きなガラス窓に
押さえとしてベニヤを並べることに、
ちなみに、昨日、近場のニトリへと
出かけると、もうベニヤの在庫がなくなって
うすいベニヤが数枚残っているくらいでした。

今日の午前中は、そのベニヤで窓の補強。
といっても、家の内側に窓枠にあわせて
ベニヤをおき、そのベニヤを重い家具でおさえるだけ。
釘などはつかいません。

これで台風19号への準備はおしまい。
あとは、通り過ぎてくれるのを待ち、
なにかあったら臨機応変に対処です。
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篠原常一郎登場。

2019-10-11 | 道しるべ
台風15号が去って、私の地域では4日後に電気が通りました。
情報は3~4日ぐらいは遮断される。ということを思いました。
さてっと、
電気が通じてから、ユーチューブを見ております(笑)。
房総の台風被害を映像でたどれるのはありがたい。
そのうちに、
篠原常一郎氏が房総に台風の被害を調べに来られて、
南房総市白浜のホテルに泊まって、そこから状況を
報告されている場面を見ておりました。
篠原氏といえば、
このところ、月刊雑誌HANADA10月号から
篠原常一郎氏の発言に注目しております。
ユーチューブでは、何度でも、繰り返し見れるのがいいですね。
ちょっと時期が古くなっても、古びない発言を聞ける楽しみ。
つい、何度でも見ていたりします。

また台風が近づいております。
今度は、どんな被害が起きるのでしょう。
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優しくて誠実な女の子だが。

2019-10-08 | 産経新聞
産経新聞2019年10月5日の記事が印象に残る。

印象に残るので引用しておきます。
短い文なので、まずは引用。
【ロンドン=板東和正】とあります。

「学校を休んで地球温暖化対策を訴えてきた
スウェーデンの環境活動家、グレタ・トゥンベリさん(16)
とロシアのプーチン大統領の応酬が話題になっている。
 ・・・・・・
ロイター通信などによると、プーチン氏は2日に
モスクワで開催されたフォーラムに出席した際、
『がっかりされるかもしれないが、トゥンベリさんの
発言に感動する人たちに共感はしない』と話した。

『誰も彼女に世界の複雑さや多様性を教えなかったのだろう』
と指摘し、『途上国に太陽光発電を強要するとコストの問題は
どうするのか』などと訴えた。その上でトゥンベリさんを
『優しくて誠実な女の子だが、情報に乏しい』と批判した。

トゥンベリさんはすぐさま反応。・・・・」

同日の産経新聞の産経書房欄
「花田紀凱の週刊誌ウォッチング」。
こちらにも、グレタ・トゥーンベリさんが登場しておりました。
ならべて引用しておきます。

「9月23日、小泉進次郎新環境相も出席した
国連の『気候行動サミット』。

『私たちは絶滅にさしかかっているのに
あなたたちが話すのは金のこと』
『あなたたちは«悪»だ』
『決して許さない』
と大演説をぶったスウェーデンの16歳の少女、
グレタ・トゥーンベリさん。

周囲を睨みつけるあの表情、実に嫌な感じがした。
が、そういうことは指摘もしにくいし、
大メディアは一切報じない。どころか、
朝日などは社説で持ち上げる始末だ。
 ・・・・・
呉智英さん(評論家)の意見。
〈「仮に人間の生活が化石燃料を軸とするものから、
クリーンなエネルギーによるものに変われば、
そこに莫大な利権が生まれます。
たとえばグレタさんが純粋な気持ちで活動していても、
背後には虎視眈々と利権を狙うエコロジストや
エネルギー企業のビジネスマンが控えている。
結局、グレタさんの意見は先進国の一部の人間に
とって都合の良いことばかりなのです。

さらに、エコロジーは限りある資源をどう分配するか
という問題に行き着く。これは極めて政治的な課題で、
綺麗ごとではなく妥協と忍耐で解決するしかありません。
 
・・・・・・」

ということで、
週刊新潮(10月10日号)の見出しには
「世界が賞賛する16歳活動家『グレタさん』への違和感」。


何年かして、またグレタさんの消息が
新聞に載ることがあるのでしょうか?

10月5日の産経新聞一面は首相所信表明とあります。
「第200臨時国会4日召集され、安倍晋三首相は
衆参両院の本会議で所信表明演説を行った。
首相は少子高齢化の克服を『最大の挑戦』と位置付けるとともに、
憲法改正に向け国会の憲法審査会での議論を進めるよう促した。
 ・・・・」
4面には所信表明演説全文。
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ビニールシート。

2019-10-03 | 地域
出かけたついでに、台風被害の様子を車でたどりました。
東京行の高速バス乗り場脇の、枇杷倶楽部では、
三階ほどの高さに、シンボルの塔があり、
鉛筆のとがった先のような屋根のトタンがきれいにはがれ、
骨組みがあらわ。半キロほどはなれた富浦体育館の屋根も
角の方がはがれておりました。
普通に見過ごせば、通り過ぎてしまうのでしょうが、
屋根にビニールシートかぶせてあり、その多さに気づかされ、
被害が内陸の方まで及んでいたのがわかります。

枇杷倶楽部の周辺のビニールハウスでは骨組みがグニャリ。
富浦駅前通りは、台風の通り道だったのでしょう。
両側が均等に被害が及び、健在だった新家屋が、
私には、かえって被害のいたましさを思わしめます。

そのまま、鋸南町の方へと道沿いに車でみてゆくことに
漁港では、屋根ごと吹き飛ばされた箇所もあり、
あるセブンイレブンでは、内部がきれいにとりはらわれて
解体作業をしている最中。
場所によっては、ファミリーマートが1キロほど先にあって、
そちらは、営業中(ドアの脇のガラスがふさいでありました)。

それらに比べると、わたしの町内では、被害は少なかったと
いえるかと思います。
わたしの家は、ベニヤにして6~7枚ほどの二階の屋根が
飛ばされて二階のベランダの手すりも根こそぎでした。
地元の大工さんが、ここは屋根が飛んだからと
優先して直していただき、9月中にそれが完了。
トタン屋根で、大工とトタン屋さんと二人で
きちんと仕事をしていただきました。

大工さんによると、トタンは、在庫がこれで最後だと
いうことで、しばらくは入荷待ちとなるそうでした。
ありがたい。これで雨漏りから解放。

それとともに、いまだビニールシートでの家が多々あるので、
ひとり喜ぶわけにもいきません。
天井はところどころ抜けてやぶけていますし。
畳は上げたままになっております。
晴れた日は、窓を開け放して風通しをよくし。
などと心がけております。

今日、隣りでは、業者にたのんで、
畳の処分を決めたようです。

ちかくのガソリンスタンドのおやじさんに
聞いたのですが、ご自身の自宅は、
スタンドの裏に瓦屋根の二階屋があり、
そこに飛んできた屋根が二階の瓦にあたり、
二階の窓をこわし、一階の瓦と窓とを
こわしてしまったそうです。

おやじさんの話では、一階の雨戸とガラス戸とが
われて、室内にガラスが散乱し、
雨どいが飛んでしまったので、
屋根から落ちてくる雨などが風の勢いで
室内に勢いよく打ち寄せていたそうです。
朝まで動くに動けず、一人ですごしていたそうです。

近くに息子さん夫婦がいたので、幸いでした。
ガラス屋さんもかけつけ、戸袋をふくめて
メチャクチャだったと言っていたそうでした。

とりあえず、雨戸を修復された家を見せていただきました。





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