和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『退職記念懇談会』

2019-08-31 | 本棚並べ
梅棹忠夫著「研究経営論」に

「人文科学において共同研究を提唱し、またそれを
強力に推進して、その方面におけるひとつの範例を
うちたてたのは、京都大学人文科学研究所における
桑原武夫教授の功績であった。桑原教授の
『人文科学における共同研究』という論文は、
この問題についての出発点となる古典的労作である。」

という箇所がありました。
以下は桑原武夫について。


実業之日本社に『最終講義』という題の本がある。
私はもちろん古本で購入したのですが未読でした。

いろいろな方々の、最終講義をまとめた一冊。
そこには、桑原武夫の「人文科学における共同研究」もある。
この本の最後は、加藤秀俊の「視聴覚文化時代の展望」でした。
本の解説は、坪内祐三。


齋藤清明著「京大人文研」(創隆社)には、
その時のようすが書きこまれておりました。

「1968年3月21日、筆者は桑原武夫のを聞いた。
会場は研究所ではなく、文学部の大講義室だったが、
学生だけでなく、教職員や市民もまじり、
満員の盛況だった。」(p244~245)

「桑原は『退官』の官というのはきらいだ、京大の先生
などというものはしょせん学問官僚なんだろうけど、
できれば『退職記念談話会』にしてもらいたかった、
と前置きして、『人文科学における共同研究』を演題に語った。」
(p246)

はい。この『人文科学における共同研究』は

実業之日本社「最終講義」。
「桑原武夫全集4」朝日新聞社。
「桑原武夫集7(1965~1969)」岩波書店。

などで読むことができます。
興味深いので、すこし引用。

「日本の学者は、精密に、まじめに勉強しているけれども、
学問的ひとりごとが好きになって、対話の精神を失って
いるのではないか。別のことばでいえば、自分の信じている
ことをふまえて他人と自由に討論する、そうすることによって
相互に作用し、自分が新しい考えをひらいてゆく、そういう意味での
対話を共同研究は助長すると思います。そのためには研究の参加者が
すべて対等であることが前提となります。大学の職階制では、
教授、助教授、講師、助手、などというものがあるのですけれども、
これを革命せよというのではありません。しかし、一たび
共同研究のテーブルにすわったら、そこでは対等でなければならない。
わかりきったことのようですけれども、それが必ずしもおこなわれて
いなかったと思うのです。教授が愚にもつかぬことを言っているのに、
助手が承詔必謹というような顔をしているのは、
学問を阻害するものだと思います。学問に忠実なら
すぐ切りかえさなければいけません。

いよいよ雑談めくようですけれども、私たちのチームには
結果において対等感をやしなうことになったことが若干ある。
私たちは共同研究をはじめたころに、同時に余暇利用として、
遊びとして、『日本映画を見る会』『小説を読む会』、
それから英語、フランス語の講習会というものもやりました。
映画鑑賞ですと、だいたいにおいて教授よりか助手のほうが、
知識も識見も上です。人間心理というものは微妙なものですから、
前の晩の映画談話会、ちょっとお酒をいれてやるのですけれども、
そこで教授を圧倒した助手は、翌日、こんどはルソーについて
見解を発表するというときでも、自信をもって発表する。
これは冗談ですけれども、そういう影響もありうると思いますね。
・・・結果は大変よかったと考えております。」

「桑原武夫集7」で28頁。
はい。もう一度読み直してみます(笑)。

ちにみに、斎藤清明著「京大人文研」には、
その後に、こういう記述があるのでした。

「・・・桑原が去るころからはじまっていた大学紛争は、
翌年、京大にも及ぶ、東大、日大などでの学生の反乱は、
東大の時計台の陥落で高揚期を過ぎるが、その直後の
1969年1月16日、京大でも学生部が封鎖され、燃えあがる。

たまたまこの日は、加藤秀俊が15年半つとめた人文研の助手から
教育学部の助教授に昇進し初出勤の日にあたっていた。
なんの因果か、加藤は紛争に巻きこまれ、
1年余りのちに京大をやめてしまう。同じころ、
永井道雄、川喜田二郎、鶴見俊輔、高橋和巳らも、
それぞれの大学をやめる。・・・・」(p248~249)

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産経の指摘する「韓国のかたち」。

2019-08-29 | 産経新聞
産経新聞8月27日からの連載「韓国のかたち」。

それが今日で、3回目。ここでは、
1回目と2回目とを適宜引用。

「韓国紙、朝鮮日報によると
米国が公式の声明で、『韓国』とせず、
『文在寅政権』と呼ぶのは異例だという。
今回の決定の責任は文に帰することを
強調する意図があるという。」

「法相に指名された・・チョグクをめぐる
一連のスキャンダルが韓国社会を揺るがしている・・
韓国のネットメディア、ホワイト・タイムズは
『正義が失われた韓国社会で大学入試や司法試験
だけは公正であるべきだと思う国民は多い。
チョグクはその領域を侵した。この疑惑は
文在寅のレームダック化を加速させるだろう』
と非難した。」

2回目(8月28日)のはじまりは

「『米国も(われわれの決定を)理解した。
韓米同盟に影響はない』
韓国政府高官は日本との軍事情報包括保護協定
(GSOMIA)破棄を発表した際、こう胸を張った。

ところが数時間後に米当局は
『韓国政府の説明は事実ではない』ときっぱり否定。
『文在寅政権に強い失望と憂慮を表明する』
との声明を発表した。

米当局が公に、文政権が事実に反することを
言っていると明確にしたのは今回が初めてだ。
これまで韓国から事実とは異なる発表があっても
米国は『米韓は緊密に協議している』と認識の差が
あったことをにおわせる程度にとどめてきた。」


今年4月11日・・
ワシントンに出向いた文在寅の会談について


「韓国メディアによると会談は29分行われたが、
トランプは文を隣に座らせたまま、記者団との
やりとりを27分続けた。通訳をまじえた2人だけの
会談時間は正味たったの2分だった。

米国の方針と異なる内容が後にソウルで発表される
ことを回避するため、いわば公開の首脳会談とした
のだったと分析されている。

案の定、会談結果についてホワイトハウスは
『両首脳は両国の目標である北朝鮮の最終的で
完全に検証された非核化(FFVD)達成と朝鮮半島の
恒久的平和構築について話し合った』と
発表したが、
韓国の発表文にはFFVDの部分がなかった。」


はい。今日も産経新聞には
「韓国のかたち」の連載3回目が掲載されております。ちなみに、
詳しい題は「実録 韓国のかたち 番外編 こわれゆく国家」。


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仕方ないから『そうだ、そうだ』と。

2019-08-27 | 本棚並べ
雑誌WILL10月号。
ここに、鼎談が載っております。
室谷克実。松木國俊。小名木善行の3氏。
鼎談の最後には、「ウソのリスト」が100。
箇条書きに並んで圧巻。
韓国流ウソの凝縮本として価値がひかります。

鼎談の最後に

室谷】 ・・・今は亡き祖母から
『ウソばっかりついていると
 朝鮮人みたいになっちゃいますよ』
と叱られたものですよ。

小名木】そう言われました。(p259)


うん。さっそく『圧巻』の内容を
鼎談からランダムに引用してゆきます。



室谷】・・・文在寅がウソを言い出すと、まわりも阿諛追従です。
レーダー照射事件にしても『当局者』とか『関係者』とか、
名前のない幽霊のような存在が、ウソをどんどん喧伝していく。
韓流ウソの蔓延術の特徴と言えます。

  ・・・・
松木】 誰かが反日的なことを言い出したら一斉に火がついて、
誰も反論できません。同調しないと『日本の立場で言うのか、
お前は非国民だ』とレッテルを貼られてしまう。
仕方ないから『そうだ、そうだ』となる。それがいつの間にか、
韓国民の間で常識化する。そして、集団記憶の中に刻み込まれて、
『日本よ、過去を反省せよ』と迫ってくるのです。

小名木】ウソを喧伝して、『常識化』する風土がある。
(p240)


〇『論点ずらし』のテクニックも語られています。


室谷】韓国人は被害者になることが大好きです。
被害者コスプレ趣味集団ですよ。

小名木】どんな悪行を重ねても論点をずらし、
ありとあらゆる言い訳をする。その言い訳の中に
一つでも『え、そうなのですか』と誰かが同調してきたら、
そこに論点をずらして攻撃してきます。そして、いつの間にか、
韓国人が被害者の立場にいる。こういう構図です。

松木】レーダー照射問題なんて、まさにそのパターン。
『レーダー照射しただろ』と抗議したら、
いつの間にか、日本の自衛隊機に威嚇されたと言い出す。
今や韓国では『低空飛行威嚇問題』と名付けられています。

室谷】国内情報心理戦と言っていい。・・・・

松木】文喜相国会議長の発言の時も同じです。
彼は『元慰安婦に天皇陛下が謝罪しろ』と、
とんでもないことを言い出した。
『無礼だ』と責めたら
『謝罪する側が謝罪せず、私に謝罪しろとは何事だ。
盗っ人たけだけしい』と開き直った。そして、結局は
『日本は反省が足りない』という話になる。

小名木】ここでも論点をすり替えて、
被害者側に回っていますね。

松木】天才的としか言いようがない。

室谷】朴槿惠大統領時代、マーク・リッパート駐韓大使が
暴漢に顔面を刃物で切りつけられる事件が発生しました。
朴大統領は謝罪せず『これは韓米同盟に対する挑戦だ。
今回はアメリカ大使が犠牲になったが、私たちも被害者なのだ』
と居直ってみせた。(p243)


〇『いつの間にか脇役に回る』という指摘


小名木】いつの間にか被害者になるのみならず、
さらに厄介なのは、いつの間にか必ず脇役に回ることです。
朝鮮戦争はもともと南北で始まったのに、いつの間にか
連合国と中国の戦争になっていた。
李承晩はすることがなくなったため、
李承晩ラインを引いて、日本の漁民を拿捕(だほ)し始めました。
  ・・・・

松木】自国の問題を自分たちの力で解決することができません。
だから、外国勢力を呼び込み、代わりに戦ってもらう。
自分たちは何をしているかと言えば、傍観です。
ケンカの方法も同じです。相手に面と向かって言わず、
まわりに悪口を言うことで包囲していく。
ただその悪口もウソばかり。最終的に
どちらのウソが通るかの問題なのです。

小名木】典型的なのが慰安婦問題ですね。
世界中にウソ八百をまき散らしています。
像まで建てて、同情が集まると
『俺(ウリ)たちは被害者だ』と泣きわめく。

松木】国連の人権理事会の連中は
そうしたことが何もわかっていません。
韓国側はショートスピーチや意見書を
十年以上出し続けて、洗脳していったのです。
そして、歴史的事実になってしまった。
・・・・(p244)


まだまだ続きます全22ページ+「ウソ百名山リスト」2ページ
(鼎談は1ページが3段に活字が組まれてます)。
うん。韓国を知るために、これだけは知っておいていただきたい
そういう願いが込められている鼎談です。
これを読まないでボーッとしてんじゃないよ。
と、5歳のチコちゃんに叱られそうです。一読を。

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「良心的知識人」の名簿。

2019-08-26 | 本棚並べ
月刊Hanada10月号のつぎ、今日になって
月刊WILL10月号が届きました。
イウヨン(李宇衍)氏の文を昨日引用したので
もう一度イウヨン氏からの引用。

「歴史問題でも歴史を誇張、歪曲する
韓国の知識人らの無責任な言動だけでなく、
周知のとおり日本の『良心的知識人』の歪曲された
歴史観にも問題を大きくした原因がありました。」
(p56~57)

はい、これは韓国のイウヨンさんの指摘。
月刊Hanada10月号には西岡力氏の文に
ほかならぬ、「良心的日本人」の正体が
語られておりました。
西岡氏の文は、こうはじまります。

「日韓関係悪化に大きな責任がある和田春樹氏らがまた、
事態を悪化させるおかしなことをしている。和田氏らが
70名あまりの同調者と連名で、7月25日に、現在の
安倍政権が行っている対韓政策を非難する声明を発表したのだ。」

4名の写真入りと非難声明「呼びかけ人」(2019年7月29日)の
名簿78名の名前と肩書も一覧表にして(p43)掲載されています。
うん。この名簿だけでも、貴重で保存しておきます。

月刊WILL10月号では、西岡力氏が自身の連載で書いております。
そのはじまりはこうなっておりました。

「・・李栄薫ソウル大学前教授らが、韓国の反日について
激しく批判する『反日種族主義』という本を出した・・・
8月上旬、発刊から1カ月で同書は5万3千部が売れ、
ベストセラーになりつつある。
予想されたことだが、そのような李栄薫教授らの実証的な
研究を土台にした主張に対して、激しい攻撃が加えられ始めた。」

こうして、その状況が書きこまれております。
韓国内での攻撃がどのようなものであるのか、
それは読んでみる価値があると思います。
ここでは、すこしだけの引用は避けるべきでしょう。

月刊WILL10月号では
馬渕睦夫氏の連載記事が目からうろこ。
そのあとに、髙山正之氏と馬渕氏の対談もありました。

WILLでは、虎ノ門ニュースを活字化しております。
阿比留瑠比。ケント・ギルバート。居島一平。
ユーチューブで見てから読むか。
WILLで読んでから、見るか。
活字で読んでも、言葉が生きており、
十分に楽しめるのを改めて知ることができました。

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夏のソウルの本屋さん。

2019-08-25 | 本棚並べ
Hanada10月号が届きました。
イウヨンさんの7頁の文を、さっそく読む。
イウヨンさんは共著「反日種族主義」を出されて、
いま韓国でベストセラーなのだそうです。

うん。中身が詰まった7頁なのですが、
この箇所だけでも引用。

「いま夏休みの季節で、ソウルで一番大きな書店、
教保(キヨボ)文庫では売り上げランキングの
第1~3位までが旅行関連の書籍ですが、第4位が本書です。

韓国で社会学のジャンルの本がここまで売れるのは極めて珍しい。
17年前に作家のキムワンソプ氏が『親日派のための弁明』を書き、
日本でも話題になったと聞きましたが、韓国では有害図書として
立ち読みできないようラップで包まれ、書店の隅っこに目立たない
ように置かれていました。あの頃と比べても、韓国は明らかに
変わってきています。・・・」


「私は大学院生の頃から、韓国の学者や専門家が書いた
韓日関係の歴史書を読み漁ってきましたが、どれを読んでも
違和感を覚えるものばかりでした。私の専門は経済学で、
統計や数字などを客観的に分析し研究する学問です。
色眼鏡や主観で物事を判断しません。
 ・・・・
たとえば、1940年から45年の間に韓国の人口は約二倍に
増加しています。ところが書籍には『日本軍によって収奪、
略奪が相次いだ』と書かれている。それなら、なぜ人口が
二倍にもなるのか。統計上の数字と照らして明らかにおかしい。
そんななか、ソウル大学名誉教授のアンビョンジク氏の言動が、
韓国で『日本の統治時代を肯定している』などと批判を浴びる
騒動が起きました。
  ・・・・・・・
いま正しい史実を求める動きが韓国でも広がりつつある。
私はそれを肌で感じています。
まだ一般の国民が表立って声を大にして反日に異を唱えたり、
真実の歴史を語ることはなかなかできない状況です・・・

先日、3万部売れた印税で、私たちを批判する学者や政治家、
韓国挺身隊問題対策協議会などに公開討論会の開催を呼びかける
新聞広告を出しました。
『慰安婦と労務動員労働者の銅像設置に反対する会』の皆さんとは、
韓国の日本大使館前で毎週水曜日に開かれている『慰安婦デモ』に
反対するデモも計画しています。

このままでは韓国は発展できないばかりか、国が滅んでしまう。
そうした危機感が私にはあります。・・・・」(p58~59)


(拍手)

この機会なので、
すこし前の文も引用しておきます。
それは「日本の『良心的知識人』」を取り上げておりました。

「歴史問題も
歴史を誇張、歪曲する韓国人知識人らの無責任な言動だけではなく、
周知のとおり日本の『良心的知識人』の歪曲された歴史観にも
問題を大きくした原因がありました。いわゆる
徴用工問題でも慰安婦問題でも、彼らが史実ではないことを喧伝し、
韓日両国民に大きな誤解を与えてしまった。
そうした動きに対しても、
安倍政権は毅然とした対応を貫いています。
いわゆる徴用工問題で、文政権に韓日請求権協定の履行を
強く求めていますが、当然のことです。」(p57)


わずか、7頁の文ですが、読みごたえがありますので、
ぜひとも、立ち読みでもひらいてみられるとよいと思います。
はい。わたしはこれだけを読めてよかったと思っております。
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空き地の、こほろぎ。

2019-08-25 | 本棚並べ
このまえの午後7時頃。
部屋の床に、黒いもの飛んできて止まる。
こがね虫かなにか、だと思ったら、こほろぎ。

ということで、詩を引用したくなる。
そのまえに、「梅棹忠夫のことば」から、

「・・・頭のなかをいつでも白紙の状態にしておく・・
頭のなかにいっぱいものを記憶しているということは、
黒板にたとえると、いつもいっぱいなにか字がかいてある、
という状態にあたる。あたらしい字をかこうとおもっても、
まえの字が邪魔になってかけない、そういう状態になっている。
ところが、白紙状態であれば、いつでもかける。
そういうことだとおもう。そこで、いかにして
頭を白紙の状態につねにおいておくかということが、
重要な技術になってくる。」(p40・著作集第11巻p185)

ここに
「頭を白紙の状態につねにおいておく」とありました。
そういえば、大岡信の詩「こほろぎ降る中で」に、
「頭の中にきれいな空き地をしつらへて」という一行があったなあ。


ということで詩を引用。

     こほろぎ降る中で  追悼田村隆一

 田村さん 隆一さん
 あんなに熾(さか)んだつた猿滑りの花の
 鮮かなくれなゐも 薄れてしまつた
 蝉時雨に包まれてあんたが死んだ1998年も
 たちまち秋に沈んでゆく

 頭の中にきれいな空き地をしつらへて
 そこで遊ぶ名人だった隆一さん
 あんたは頭のまんなか 小さいやうで広大な
 空き地にまつすぐ 垂直に
 高い棒を立てて遊んだ芸達者


  ・・・・・・・・・・
  ・・・・・・・・・・


 こほろぎがばかに多い都会の荒地を
 寝巻の上へインバネス羽織っただけのすつてんてん
 あんたはゆつくり 哄笑しながら歩み去る

 大塚の花街に隣(とな)る料理屋育ちの
 折目正しい日本語と べらんめえの啖呵の混ざる
 あんたの口語は真似できさうで できなたつた
 沈痛な背高のつぽの色男にも 歯つかけの
 爺さんにもなれた人 大柄な詩人 さやうなら


詩の、はじまりと、おわりを引用しました。
部屋に
ゴキブリが飛んでくると、すぐ動作でしめすのですが、
こほろぎが飛んでくると、詩を思い浮かべたりします。





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アマチュアたる土民のだれかれの。

2019-08-24 | 本棚並べ
小長谷有紀編「梅棹忠夫のことば」(河出書房新社)。
この本は、ありがたい。
知的整理のカードシステムって、こんなふうな使い方をするのだ。
その見本のような一冊。そのままにして梅棹忠夫への水先案内書。
ページを開き、右頁が梅棹忠夫著作集からの拾われた言葉。
見開き左頁は、それにまつわる小長谷有紀氏の記載メモ。

ということで、引用。
第2章は「知の整理」。そのはじまり。
まず右頁から

「・・・知的活動が、
いちじるしく生産的な意味をもちつつあるのが現代なのである。
知的生産ということばは、いささか耳なれないことばだが、
これもそのような時代のうごきを反映しようとしたものとして、
うけとっていただきたい。また、
人間の知的活動を、教養としてではなく、
積極的な社会参加の仕かたとしてとらえようというところに、
この『知的生産の技術』というかんがえかたの意味も
あるのではないだろうか。」

はい。次は小長谷有紀さんの左頁のコメント。
うん。短文の、前半部分を引用。

「かつて、生産といえば農作物や工業製品を作ることであった。
たとえば本のように知にかかわることは、ほんの一握りの人たちが
生産する以外は、圧倒的に消費の行為である、と考えられていた。
しかし、21世紀の現代ではまったくさまがわりしている。

多くの人たちがブログを書いて、情報を提供し、意見を開陳している。
収入を得るかどうかではなく、(積極的な社会参加の仕かた)として、
知的生産にたずさわっている。だから、〈知的生産の技術〉とは、
いかに情報を整理するかという方法論であると同時に、情報発信を
通じていかに社会とかかわりながら生きるかという哲学でもある。
・・・」

はい。わたしは梅棹忠夫著作集を今年購入したものです(笑)。
それを読みはじめても、ついつい読書が脇道へとそれてゆく。
そんなときに、立ちかえるのに心強い本「梅棹忠夫のことば」
であります(笑)。

この本「梅棹忠夫のことば」の最後も引用。

右頁は、こうでした。

「最後にもう一ど、思想はつかうべきものである。
思想は論ずるためだけにあるものではない。
思想は西洋かぶれのプロ思想家の独占物ではないのであって、
アマチュアたる土民のだれかれの自由な使用にゆだねるべきである。
プロにはまかせておけない。アマチュア思想道を確立すべきである。」


はい。こうして、わたしも、ごく自然に、
「梅棹忠夫著作集」へとチャレンジができそうな気になります。



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梅棹流「白紙還元法」の技術。

2019-08-23 | 本棚並べ
加藤秀俊著「わが師わが友」のなかの、「社会人類学研究所」に
こんな箇所がありました。

「参加者のすべては、まえにみたように一家言をもっており、
めったに自説をゆずらなかったが、梅棹さんは、
のちに小松左京さんが命名した『白紙還元法』の名人であった。
つまり、はてしない議論がつづくなかで、
梅棹さんは突如として、それまでの議論がぜんぶまちがいである、
と論断し、すべてを白紙に戻して、梅棹見解で押しまくるのである。
そのうえ、梅棹さんのこの『白紙還元法』はタイミングがよかった。
通常、午後一時ころからはじまる研究会・・・・・・・
研究会に出てきても、しばしば、コックリと居眠りをなさる。
居眠りをなさりながらも、議論はきいている。だから始末がわるい。
われわれがくたびれ果て、さあ、このへんでおわりにしようか、
とおもいはじめる午後六時ごろ、梅棹さんは、にわかに目覚めて
『白紙還元法』をなさるのである。・・・・」(p89)


この箇所を読んで、思い浮かんだのは、
先頃読んだ、「座談・今西錦司の世界」(平凡社)。

それは、今西錦司を囲んでの12回の雑誌の連載座談会を
単行本にするにあたって、単行本の最後に解説にあたる鼎談。
そこに梅棹忠夫が加わっているのでした。
(はい。連載座談会のなかには、梅棹忠夫は加わっておりません)
鼎談は題して「今西錦司の世界を語る―――解説にかえて」。

この鼎談は司会進行・河合雅雄で、森下正明・梅棹忠夫の3人。
では、鼎談での梅棹さんの発言のさわりをじゅんをおって
ところどころ引用してゆきます。

梅棹】 ぼくはこのあいだの講談社の『今西錦司全集』の
解題の中では、『今西先生』と書いた。そしたら上山春平さんから
『きみはなんであんなことを書くねん。全然似合わへんで』
って言われて(笑)。

森下】あの『今西先生』と書いたのは、あんたえらく評判悪いのや。

梅棹】そのことね・・・・
やっぱり学問の世界では『今西先生』なんですよ。正直言うて
私は、この『アニマ』の連載座談会はその意味で大変気に入らない。
これは学問の話に傾き過ぎている。ヒマラヤやら山のことを語っている
ときでも、何かそういう傾きがある。・・・・

もう少し違う見方もたくさんあるのに、
どうもこの中には出てこなかった。
そういうことを私はひしひしと感じているね。
・・・私は一ぺんも今西さんの講義聞いたことない。

森下】それはぼくも、今西さんの講義なんて
一回も聞いたことない。

梅棹】それは弟子と違うんですよ。

河合】ぼくもないですね。
  ・・・・・・

河合】その違和感というのは・・・。

梅棹】まあ、たとえていうたら、
・・・・塾・・・
新しい、何か学校と違う接触があるんやね。
まあ、私らは今西塾で鍛えられてきたんや。

河合】なるほど

梅棹】私は正規の動物学の学生として入学した。
しかし、今西さんは、いわゆる正規の動物学の教授と違いますよ。
動物学教室にいやはったことは事実やけど、なんというかなあ。
あのとき・・無給講師や。月給あらへん。どっか変な隅っこに
いやはった。ぼくが入ったときは大津臨湖実験所にいやはったかな。
 ・・・・・

梅棹】それからもう一つ、この座談会の私の違和感をいえば、いろいろ
いきさつの話が出ますがね。今西さん自身からも語られているし、
ほかに加藤泰安、鈴木信、藤田和夫、川喜田二郎というような、
かなり年代の古い人からいろいろ語られていますけれども、
私、やっぱりどうも気に入らんことが多いんです。これは違うと・・・。
つまりそれは、あまりにもきれいに整理され過ぎていて、
今日的な立場だけから語られているような気がする。
歴史としては、やっぱりもう少し違った糸が何本も何本も
あったように思う。こういう座談会では
そういうものはなかなか出せないでしょうけれども、
これは日本の科学史にとって大変大事なことである。
あるいはもうちょっとぼくの気持からいうたら、
日本の、大きくいえば文化史にとってですよね。
あるいはインテレクチュアルというものの形成史というようなもの、
あるいは社会史というようなものを考えるときに、
大変意義のあることがいっぱいあるんだ。
そこのところが全部落ちて、ただの学問になってしまっている
というところが不満なんです。(~p360)


こうして、まずは「白紙還元」をしてから、
梅棹忠夫の見解を、展開してゆくのでした。

ここからが、鼎談の本題になるのですが、
わたしは、梅棹流「白紙還元法」の技術、
そのさわりの部分を紹介。ここまで(笑)。
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今西流の学問のすさまじさ。

2019-08-22 | 本棚並べ
加藤秀俊著「わが師わが友」を、あらためてひらくと、
こんな箇所があったのでした。

「もつべきものは友だち、とよくいわれる・・・
そのなかで、とくにありがたいとおもっているのは
このグループなのである。」(p91)

これは「社会人類学研究班」の章にあります。
そこから詳しく引用。

「この今西流の学問のすさまじさをわたしはその後、
社会人類学研究班に参加することで思い知らされた。
とにかく、この研究会の議論たるや、ものすごいのである。
梅棹さんや藤岡さんはもとよりのこと、川喜田二郎、
中尾佐助、伊谷純一郎、上山春平、岩田慶治、飯沼二郎、
和崎洋一といった論客がずらりと顔をそろえ、
わたしと同世代の人間としては、米山、谷、それに
佐々木高明、といった人びとがいた。このメンバーは、
それぞれ頑固としかいいようのないほど自己主張がつよく、
第三者がみると、喧嘩をしているのではないか、
としかおもえないほど議論は白熱した。

だが、この人びとにはひとつの共通した特性があった。
それは、現地調査に出かけた人物がもたらす一次的素材
に関しては、絶対的な信頼を置くということである。

一般に学者の議論というものは、書物で得た知識にもとづいた
ものであることが多い。・・・しかし、そういう論法は
この研究会ではいっさい通用しなかった。
トインビーいわく、といった俗物的引用をする人間がいると、
誰かが、それはトインビーが間違っとるのや、あのおっさんは
カンちがいしよるからな、と軽く否定するのであった。
そのかわり、フィールド経験は最高に信頼された。・・・」
(p88~89)

「この研究会についてひとつつけ加えておくべきことがある。
それは、この研究会のメンバーの多くが、京大学士山岳会、
および京大探検隊の出身者であった、ということだ
・・・・共同の作業は一糸乱れずにすすめてゆくが、
『人情』というものではいっさいうごかされない・・・
そんなふうに、きっちりとケジメがついているからこそ、
人間関係はかえってさわやかだった。研究会がおわると、
それまで顔面蒼白になって論戦をつづけていた二人の人物が、
肩をならべて酒を飲みに出かける、といった風景も日常的であった。

学問上の自説は曲げない、だが、人間としてのつきあいは別だ
―――そのことを、わたしはこの研究会の人びとから教えられたのである。
学問上の見解あるいはイデオロギーのちがいから、個人的な
怨恨関係をもつようになった、という事例をわたしはいくつも知っている。
いや、日本の学界では、そういうことのほうが多い。
だが、この研究会のメンバーのわかちあう哲学は、そうではなかった。
・・・このグループの人間的つながりは、こんにちにいたっても、
なお強力にのこっている。・・・・
それを象徴するかのように、毎年二月の末には、
今西先生を中心に『洛北セミナー』という、いわば研究会OB会
がひらかれる。OB会といっても、当時をなつかしむ式の宴会ではない。
こんにちもなお、このときのメンバーは、かつてとおなじような
学術討論に夜を徹するのが習慣になっているのだ。」
(p90~92)

うん。まだまだ続くのですが、キリがない(笑)。
このなかで、加藤秀俊氏は

「もつべきものは友だち、とよくいわれるし、
わたしはさいわいにしてよき友にめぐまれているけれども、
そのなかで、とくにありがたいとおもっているのは
このグループなのである。」(p91)

と念をおしているのでした。
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駅前から烏丸通をまっすぐ北へ。

2019-08-21 | 地域
せっかく、一泊でも京都へ行ってきたので、
京都のタクシーについて。

3人だったので、近辺はタクシーの方が
手軽で安上がり、たとえば西本願寺から
タクシーで京都駅新幹線入り口へ向かってもらって
支払いは580円なり(笑)。

さてっと、
加藤秀俊著「わが師わが友」に、
「京都文化のなかで」という章がありました。

そこから引用。

「京都の会合が深夜におよんでも
たのしくつづけられることのできた最大の理由は、
京都という町が人間的スケールの町である、ということであった。
そのことは、藤岡喜愛さんに教えられて、
はじめて、なるほど、とおもったのだが、
たとえば祇園あたりで酒を飲んでいて、さて自宅に戻ろう、
ということになっても、当時の金で300円もあれば、
タクシーで帰宅できたのだ。自宅は、おおむね市内にあり、
距離はせいぜい8キロ以内。だから、べつだん終電車など
気にしなくてよかったのであった。じっさい、タクシー代がなければ、
歩いて帰ることだって不可能ではない。

なんのときだったか忘れたが、上山春平さんと多田道太郎さんが
上京することになり、わたしは山田稔といっしょに京都駅まで
送りに行ったことがある。・・・当時は、新幹線などという
便利なものものなく、上山・多田両氏は、夜行寝台列車に乗る
ことになっていた。駅に着いたら、列車の延着かなにかで、
一時間以上待つことになり、駅前の安酒場に入り、
したたかに、酒を飲んだ。・・・・山田とわたしは、
この先輩たちに扇動されてかなりいい気持になってしまったのである。

ところがやがて、列車が来て、旅立つおふたりはさっさと駅にむかい、
山田とわたしは勘定を払ったのだが、意外と値段が高く、
ふたりの財布を底まではたいて、やっと間に合った。
そして気がついてみると、もう市電はない。
タクシーに乗ろうにも、金がない。若さと酔いにまかせて、
それでは歩こう、ということになった。
駅前から烏丸通をまっすぐ北へ。
わたしの下宿は出雲路橋、山田の自宅は下鴨高木町。
結局、二時間ほど歩いて帰った。

・・・・要するに、京都の町は、
人間的スケールでできあがっているのだ。
だから、いくらおそくなってもいい。それにひきかえ、
東京というのは、もはや人間的スケールをこえている。
湘南方面に帰る人もいるし、千葉・埼玉に自宅のある人もいる。
終電車というものが気になる。
だから、深更におよぶ議論というのは、期待すべくもない。
・・・やたらに値段が高く、しかもバカ話の場ではあっても、
議論の場にはならない。そういう点で、
京都というところは、まことにめぐまれているのだ。
そのうえ・・・・」
(p101~103)


今年は「梅棹忠夫著作集」全巻を安く購入したので、
このチャンスに、通読しようとしているのに、
またしても、それてしまいそうになる。
「駅前から烏丸通をまっすぐ北へ」歩いているつもりになって、
「梅棹忠夫著作集」へとたどりつけますように。
コメント (2)
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知的生産と「キツネつき」。

2019-08-20 | 本棚並べ
加藤秀俊著「わが師わが友」(中央公論社。C・BOOKS)。
この本のあとがきに、50歳にして著作集を出してもらえる。
という顛末が語られておりました。要するに若すぎるので、

「各巻の主題とかさねあわせながら、それぞれの時期に
お世話になった先生がたや友人たちにまつわる一種の
身辺雑記ふうの回顧を書くことにした。題して『わが師わが友』。
著作集の著者がわたしであり、各巻末の『あとがき』の筆者も
わたし、さらにその著作集につく『月報』までわたしが書く、
ということになってしまった。」

うん。「わが師わが友」の途中までしか読んでいないのですが、
さまざまな方が登場しております。
そういえば、と思い浮かんだのは実語教の文句でした。

「師に会うといえども学ばざれば、いたずらに
市人(いちびと)にむかうが如(ごと)し。」

この現代語訳は
「せっかくの良い先生と出会っても、学ぼうという
気持がなければ、ただの人と会っているようなものです。
それでは何も得られませんよ。」
(p58・齋藤孝「実語教」致知出版社)

加藤秀俊氏のこの本は、「市人に向うが如し」とは反対に、
多数の師友との濃密な「わが師わが友」との関係を重ねていく
文章が並んでいるのでした。

今回気になったのは、梅棹忠夫氏のキツネつきの箇所。

「北白川の梅棹邸には、わたしをふくめて、何人もが足をはこび、
夜更にいたるまで、きわめて雑多な議論をつづけた。・・
米山俊直、石毛直道、谷泰そして、ややおくれて松原正毅
いろんな人物が入り乱れた。そんなある晩、
突如として伊谷純一郎さんがとびこんできた。
何の論文だったか忘れたが、梅棹さんの原稿だけが
おくれているために本が出ない、早く書け、
というのが伊谷さんの用件であった。
梅棹さんは、大文章家であるが、執筆にとりかかるまでの
ウォーミング・アップの手つづきや条件がなかなか
むずかしいかたである。一種のキツネつき状態になって、
そこではじめて、あの名文ができあがる。
伊谷さんもそのことはご存知だ。ご存知であっても、
梅棹論文がなければ本ができないのであるから、
これもしかたがない。その伊谷さんにむかって、
梅棹さんは、あとひと月のうちにかならず書く、といわれた。
伊谷さんは、その場に居合わせたわたしをジロリと睨み、
加藤君、おまえが証人や、梅棹は書く、と言いよった。
おまえは唯一の証人やで、とおっしゃるのであった。
わたしは梅棹さんが、絶対に書かないという信念を持ちながら、
伊谷さんには、ハイ、と返事をした。
その原稿がどうなったか、わたしは知らない。」(p84)

そういえばと、あらためてひらいたのは、
藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」(講談社)。


「予定どおり原稿ができなくて四苦八苦しているとき、先生はよく
『原稿というもんはキツネがついてくれないとできんもんでな』
といわれる。・・・・わたしは先生の言い分を否定した。
それでも先生は、『いや、やっぱりキツネがつくのやで。
原稿用紙を前に、うんうんうなったって、かけんときはかけん。
それがあるとき突然かわる。いままで苦しんでいたのがウソみたいに、
文章がでけてくる。・・・ところがどうなってそうなるのか、
自分でもようわからんけど、とにかくできるときはすっとでけてしまう。
不思議というか、なんというか、
これはキツネがついたとしかいいようがないなあ。』」(p224)

はい。この雰囲気は、もう少し引用したくなります(笑)。

出版社の方が、催促に来ている箇所を引用。

「『・・・会社のほうでも、印刷屋の手をあけさせて待っていますし、
本文のほうは、もうとっくにできていて、あとは先生の解説だけなんですよ。
発売まであと二週間、もうぎりぎりのところまできています』

『ほんとに申しわけありません』
そういって、わたしが頭を下げたところへ、
『梅棹さんは?』といって、加藤秀俊先生がのぞかれた。
事情を話すとすぐ、わかったというしるしの笑いをうかべられて、
『また、いつものキツネ待ちですか。ごくろうさま』と、
編集者とわたしにねぎらいの言葉をかけて出ていかれた。」(p227)

「はいってきたのは、小松左京さんだった。・・・・
いつのまにか、梅棹先生の原稿ができあがらないことが、
みなさんに知れてしまった。小松さんが、

『いっぺん、みんなでシンポジウムをせないかんなあ。
【「知的生産の技術について」の筆者に原稿をかかせる
キツネについて】というテーマはどうやろ』といいだした。

『そらええなあ。そのときはぼく、
 一番前にいてきかしてもらいます』と先生。・・・」(p231)


はい(笑)。
論語には「鬼神を敬して、これを遠ざくる」とあるそうで、
梅棹忠夫著「知的生産の技術」に
「キツネつき」への言及は遠ざけられておりました。



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「なんにしまひょか」

2019-08-19 | 本棚並べ
京都のうどん屋さんに、
うどん品切れの表示がありました。

五条通を歩いていると、車道とは別に、
歩道と自転車道とがあるんですね。

京都駅から、東本願寺へと歩き始めると、
パチンコ屋がある。わたしが知るような、
地方市の駅前通りは、もうパチンコ屋は
珍しくなりました。郊外のバイパス近辺の
パチンコ屋なら、ちょくちょくお目にかかります。
ちなみに、わたしはパチンコをしないなあ。

さてっと、思い浮かんだのは、
加藤秀俊著「わが師わが友」(中央公論社)。

時は、1953年。東京にいる加藤秀俊さんは、
京都大学人文科学研究所の助手の募集にひかれます。

「『思想の科学研究会』をつうじて、鶴見俊輔さんを知り、また
多田道太郎さんを知っていた。このふたりの人物の話をきいていると、
ときには漫才のごとく、ときには形而上学のごとく
(もっとも、このふたつは似たようなものかも知れぬ)、
話題はあちらこちらにとび、わたしは、ただ、
あれよあれよと呆気にとられるだけであった。
その鶴見さんが人文の助教授、多田さんが助手。・・・
こういう人たちといっしょに勉強できるなら、
人生はたのしかろうとおもっていた。その人文からの公募である。
わたしには、いささかのためらいもなかった。」
(p43)

 そして、面接もうけたあとでした。

「多田さんがそこで待っていてくれた。疲れたでしょう、
うどんでも食いに行きましょうか―――
多田さんはわたしにほほえみかけてくれた。
 ・・・・・・・黙って歩きつづけ、
銀閣寺の橋本関雪邸のちかくのうどん屋にはいった。
おかみさんがなんにしまひょか、と注文をとりにきた。
わたしは壁にかけられたいろがきを見て、
『たぬきうどん』といった。なにしろ、
貧乏暮らしがつづいていたので、東京では、
あこがれの天ぷらうどんなど食べる余裕がなく、
もっぱら、天ぷらのあげ玉をのせた『たぬきうどん』を
食べつづけていたから、かなしい習慣で、
自動的に『たぬき』と反応したのであろう。しかし、
やがてはこばれてきた『たぬきうどん』なるものは、
東京でいう『あんかけ』であった。
関東の呼称法と、関西のそれとのあいだに、たいへんな
落差があることをわたしはそのときはじめて発見した。」
(~p46)

 助手に採用されてからでした。

「日が暮れて、さあ帰ろうか、という時分になると、
多田、樋口(謹一)両氏のいずれかが、右手の親指をまげ、
ちょっとやらへんか、とおっしゃる。要するにパチンコ
なのである。・・よくパチンコに出かけた。・・・

このパチンコで、わたしは
京都文化というものに開眼したような気がする。
それまでわたしの生活していた東京では、
およそパチンコなどというものは『庶民』のする、
おろかな娯楽であり、知識人というものは、
そんなものに手をふれるべきでない、
そんなムダな時間があるなら、本でも読むべきである、
といったスノビズムが支配的であった。・・・
ところが、京都では、身分は助手であっても、
いやしくも文部教官という肩書きをもった人たちが、
ごくあたりまえにパチンコ屋に堂々と出入りする。
パチンコ屋のなかで顔をあわせても、どうですか、
入りますか、などとやりとりをしている。
その、ごくしぜんなのびやかさが、
わたしにはうれしかった。」(p48)


はい。「たぬき」と「パチンコ屋」でもって
京都文化への開眼をはたした一節でした(笑)。


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夏の京都一泊。

2019-08-18 | 道しるべ
16日と17日。一泊で京都へ。
お昼の新幹線で東京から京都へ。
五条の壬生近くの宿泊施設へ。
帰りは12時35分の新幹線で京都から東京へ。
夜は飲んでしまったので、出歩くことも億劫で
そうそうに寝ました(笑)。

余った時間に京都見物したかったのですが、
京都駅から五条の宿泊施設の近辺ということで、
西本願寺と東本願寺とを歩いてみてまわりました。

東本願寺は、17日午前中にまわりました。
すこし時間があったので、そばの渉成園という庭園にもよる。
庭園の建物には、入れないので、日差しのなかを歩くのみ。
夏の庭園だからなのでしょうか。雑草がけっこう伸びています。
うん。日本全国雑草の季節でした(笑)。

夏休みの時期で、京都駅は子供たちを連れた家族連れも多く。
リュック姿の旅慣れた外国人も行きかう、
そして、私みたいなお上りさんも(笑)。

帰りは、間違えないように早めに京都駅にきて、
あまった時間を京都駅ですごす。伊勢丹が入っている
空を見上げる長い階段を、エスカレーターで上ってみたり、
エレベーターで下がってみたり、
水ナスの漬物をかったり。
新幹線の中でのお弁当を買ったりして。
それでも、新幹線ホームへは30分ほど前についちゃいました。
お昼時のせいか、五分おきに東京駅ゆきが止まります。
間違えないようにして指定席に乗り込みました。
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「学園紛争」と「知的生産の技術」。

2019-08-15 | 本棚並べ
加藤秀俊による
梅棹忠夫著「知的生産の技術」解説
(「ベストセラー物語」下)のはじまりのページに、
こうあります。

「1969年の夏、日本ではなにが起こっていたか。
いわゆる『学園紛争』である。わずかの例外をのぞいて、
日本の大学では全共闘が結成され、白や赤や黒のヘルメットを
かぶった学生たちが鉄パイプの棒を持って・・・」(p69)

さて、加藤秀俊氏は、
この全共闘と「知的生産の技術」とをむすびつけて
ベストセラーの解説をはじめておりました。
ちなみに、その文は、「知的生産の技術」から
の引用をもってはじまっておりました。
どんな引用だったかというと、こんな引用からでした。

「『うけ身では学問はできない。
学問は自分がするものであって、
だれかにおしえてもらうものではない』」


こうしてはじまる加藤氏の文は、
次のページに、こう指摘されております。

「そうかんがえてみると、
全共闘と梅棹忠夫は、ほぼ同時期に、
まったくおなじ教育への批判をこころみていた、
というふうにもみえる。もちろん、
全共闘は、わけのわからない泥沼のなかにふみこんで、
不定形な感情の発散をくりかえすことになり、
あまり生産的な貢献をすることができなかった。
それにたいして、梅棹忠夫は、きわめて具体的、
かつ説得的に、いまの日本の知的訓練の欠陥を
この本をつうじて指摘している。その点では、
両者のあいだには大きなちがいがある。
 ・・・・・・・・
べつのいいかたをしよう。もしも、
日本の教育のなかで、知識はどんなふうにして
あつめたらいいのか、ノートはどう使うべきか、
じぶんで発見した事実はどうまとめたらよいのか、
といったような、学問をするにあたっての基本技術が
じゅうぶんにゆきとどいていたならば、『学園紛争』は
あんなふうにひろがることもなかっただろうし、また、
『知的生産の技術』がベストセラーになる、といった
事態もありえなかっただろう・・・」

加藤秀俊氏の指摘はつづきます。

「・・この本には、いささかうんざりしながら、
それでも、見るに見かねて書いているのだ、
という著者の気分がみなぎっているように見うけられる。
なにをいまさらこんなことを、といった著者の
つぶやきが行間にきこえるような部分もいっぱいある。
 ・・・・・
ほんとうは、この本に書かれていることの大部分は、
大学の一年生のときに、
ひと月ほどでやっておくことのできることである。
その、あたりまえの基礎ができていないから、
やむをえず、梅棹忠夫はこの本をかいた。」
(p70)


はい。この機会に川喜田二郎編著『雲と水と』(講談社)。
紛争の団交のノウハウを、当事者として体験させられており、
そこからの引用。

「すでに彼らいわゆる団交に類したものをご経験の方には
めずらしくないでしょうが、光景はざっとつぎのようなものです。

まず教壇にあたるところが、
ツルシ上げ兼アジテーターの活躍舞台です。
それに向かいあったたくさんの机椅子のうち、
前のはあらかじめほとんど、ツルシ上げ側・・・。
だから反対派や中立派は、後のほうに追いやられており、
ツルシ上げられている人びとを助ける方法がありません。

つぎに、一方的に議長団を独占するのが、
いわゆる『団交』計画者側の、欠かせない条件です。
こうしておいて、・・一方的にわれわれを
ツルシ上げようとしたのです。
彼らの質問に答えることのみゆるされ、
反対質問はゆるされないのです。
また質問に答えないと罵倒のかぎりをつくされ、
答えても彼らの気にくわない答えだとヤジ、罵声で
聞えないぐらいやられてしまうのでした。

このような舞台セットの中で
一方的にやられると、どんな人間もバカに見えてきます。
そして何か悪いことばかりしているかのような印象を、
傍観する第三者にも与えることができます。

それに人間は、わずかないいそこないや
表現のしぞこないもなしに応答することは、ほとんど不可能です。

そのわずかのエラーをも見逃さず、
議長団は切りこんできます。そのうえにもっと
ひどいことすら行われることもあります。
たとえば、
『私が文部大臣だったら、その意見には同意するかもしれない』
といったとしましょう。・・・彼らは、
『私が文部大臣だったら』とか『かもしれない』の部分は切りすて、
私が『同意した』というふうに、意図的にヒン曲げて勝手に
確認したことにします。そしてそれを踏み台にして、
『同意しておきながら、どうしてコレコレのことが認められないのか?』
と、また迫ってくるわけです。一言でいうなら、
意図的に自分たちに都合よく曲解して聞くわけです。

いずれにしても、こんなやり方でやられていると、
本人も頭がおかしくなってくるばかりでなく、
第三者にもツルシ上げられている人間が
ほんとうに悪者で、追及されてボロをだして
きたように映ずるものです。・・・」
(p18~19)


う~ん。『都合よく曲解して聞く』ひとたち。
日本の『都合よく曲解して聞く』報道機関を、
選別できる『知的生産の技術』を身につける。
はい。『うけ身では学問はできない』という、
梅棹忠夫の指摘は、現在でも生きております。
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「わたしにも写せます」という健康さ。

2019-08-13 | 本棚並べ
朝日選書「ベストセラー物語」下。
ここに、加藤秀俊氏が、梅棹忠夫著「知的生産の技術」を
とりあげておりました。8頁の文で
副題は「情報時代への具体的指針」。

わかりやすい箇所を引用。

「『かんがえる』ということを、
特別にえらばれた人びとの天才的能力の問題だ、
と信じていた多くの日本人にとって、
それを『技術』と断定したこの本は、
たぶんひとつの大きなショックであった。

この本に先行して、『わたしにも写せます』という
8ミリ撮影機のコマーシャルがあったが、
この本も、思想的には、このコマーシャルとおなじ
健康さをもっている。
世のなかにはむずかしいこともたくさんあるけれども、
どんなにむずかしいものであろうと、あるいは
むずかしくみえるものであろうと、手つづき順序を
まちがえずに一歩ずつ練習してゆけば、おおむねできる―――
その原則を、思考の世界にもちこんでみよう、というのだから、
この本は、『かんがえる』ことの不得手な多くのアマチュアにとって、
それまで夢みたこともなかった大きなはげましであった、とおもわれる。」

このあとに、加藤秀俊氏は、
いささか疑問に思う読者に対して
『著者はふたつの方法でこたえた。』と指摘しております。
はい。わたしは、その第一番目だけを引用してみることに、

「その第一は、みずからの体験をそのまま一人称単数の
主語で語ってゆくやりかたである。こうしたらできるだろう、
という推測のかわりに、こうすればできる、あるいは、できた、
という体験にもとづく事実命題がこの本にはみちあふれており、
また、普遍的な一般原則のかわりに、おびただしい数の
個別事例がずらりとならんでいる。こころみに、
この本の数ページをランダムにひらいてみて、
1ページあたり、『わたし』という主語が何回使われているか、
をしらべてみたら、平均3・5回、という結果が出た。
『わたし』、つまり筆者梅棹忠夫が、たとえばタイプライターを
どう使っているか、ファイリングについてどんなくふうをしてきたか、
筆記具としてはなにをえらんだか―――
命題は、つねに『私』を主題にして組み立てられている。
『わたし』を主語にした文学に『私小説』というジャンルがあるが、
そのひそみにならえば『知的生産の技術』は『私論文』ないしは
『私評論』とでもいうべきカテゴリーにぞくする、
ということにでもなろうか。」(p73)


あとは、この本の卓抜な題名について
加藤秀俊氏は、こう指摘しているのでした。

「そもそも『かんがえる』というのはどういうことなのか
―――それを梅棹は『知的生産』というみごとなことばで表現し、
そのための手つづきを『技術』ということばでしめくくった。
『技術』というのは、そのやり方さえわかれば誰にでもできる
領域のことである。自動車の運転、写真のうつしかた、
そしてご飯の炊きかた―――よほど愚鈍でないかぎり、
こうした一連の技術は訓練によって身につけることができる。
きっちりと使いかた、うごかしかたの教則本にのっとって
やってみれば、誰にだってできる。
梅棹は『かんがえる』という行為も、そのすくなからぬ部分は、
『技術』に還元できる、とみた。
それがこの本の卓抜な題名に集約されたのである。」
(p72)

ふう。これだけで私は満腹(笑)。




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