梅棹忠夫著「研究経営論」に
「人文科学において共同研究を提唱し、またそれを
強力に推進して、その方面におけるひとつの範例を
うちたてたのは、京都大学人文科学研究所における
桑原武夫教授の功績であった。桑原教授の
『人文科学における共同研究』という論文は、
この問題についての出発点となる古典的労作である。」
という箇所がありました。
以下は桑原武夫について。
実業之日本社に『最終講義』という題の本がある。
私はもちろん古本で購入したのですが未読でした。
いろいろな方々の、最終講義をまとめた一冊。
そこには、桑原武夫の「人文科学における共同研究」もある。
この本の最後は、加藤秀俊の「視聴覚文化時代の展望」でした。
本の解説は、坪内祐三。
齋藤清明著「京大人文研」(創隆社)には、
その時のようすが書きこまれておりました。
「1968年3月21日、筆者は桑原武夫のを聞いた。
会場は研究所ではなく、文学部の大講義室だったが、
学生だけでなく、教職員や市民もまじり、
満員の盛況だった。」(p244~245)
「桑原は『退官』の官というのはきらいだ、京大の先生
などというものはしょせん学問官僚なんだろうけど、
できれば『退職記念談話会』にしてもらいたかった、
と前置きして、『人文科学における共同研究』を演題に語った。」
(p246)
はい。この『人文科学における共同研究』は
実業之日本社「最終講義」。
「桑原武夫全集4」朝日新聞社。
「桑原武夫集7(1965~1969)」岩波書店。
などで読むことができます。
興味深いので、すこし引用。
「日本の学者は、精密に、まじめに勉強しているけれども、
学問的ひとりごとが好きになって、対話の精神を失って
いるのではないか。別のことばでいえば、自分の信じている
ことをふまえて他人と自由に討論する、そうすることによって
相互に作用し、自分が新しい考えをひらいてゆく、そういう意味での
対話を共同研究は助長すると思います。そのためには研究の参加者が
すべて対等であることが前提となります。大学の職階制では、
教授、助教授、講師、助手、などというものがあるのですけれども、
これを革命せよというのではありません。しかし、一たび
共同研究のテーブルにすわったら、そこでは対等でなければならない。
わかりきったことのようですけれども、それが必ずしもおこなわれて
いなかったと思うのです。教授が愚にもつかぬことを言っているのに、
助手が承詔必謹というような顔をしているのは、
学問を阻害するものだと思います。学問に忠実なら
すぐ切りかえさなければいけません。
いよいよ雑談めくようですけれども、私たちのチームには
結果において対等感をやしなうことになったことが若干ある。
私たちは共同研究をはじめたころに、同時に余暇利用として、
遊びとして、『日本映画を見る会』『小説を読む会』、
それから英語、フランス語の講習会というものもやりました。
映画鑑賞ですと、だいたいにおいて教授よりか助手のほうが、
知識も識見も上です。人間心理というものは微妙なものですから、
前の晩の映画談話会、ちょっとお酒をいれてやるのですけれども、
そこで教授を圧倒した助手は、翌日、こんどはルソーについて
見解を発表するというときでも、自信をもって発表する。
これは冗談ですけれども、そういう影響もありうると思いますね。
・・・結果は大変よかったと考えております。」
「桑原武夫集7」で28頁。
はい。もう一度読み直してみます(笑)。
ちにみに、斎藤清明著「京大人文研」には、
その後に、こういう記述があるのでした。
「・・・桑原が去るころからはじまっていた大学紛争は、
翌年、京大にも及ぶ、東大、日大などでの学生の反乱は、
東大の時計台の陥落で高揚期を過ぎるが、その直後の
1969年1月16日、京大でも学生部が封鎖され、燃えあがる。
たまたまこの日は、加藤秀俊が15年半つとめた人文研の助手から
教育学部の助教授に昇進し初出勤の日にあたっていた。
なんの因果か、加藤は紛争に巻きこまれ、
1年余りのちに京大をやめてしまう。同じころ、
永井道雄、川喜田二郎、鶴見俊輔、高橋和巳らも、
それぞれの大学をやめる。・・・・」(p248~249)
「人文科学において共同研究を提唱し、またそれを
強力に推進して、その方面におけるひとつの範例を
うちたてたのは、京都大学人文科学研究所における
桑原武夫教授の功績であった。桑原教授の
『人文科学における共同研究』という論文は、
この問題についての出発点となる古典的労作である。」
という箇所がありました。
以下は桑原武夫について。
実業之日本社に『最終講義』という題の本がある。
私はもちろん古本で購入したのですが未読でした。
いろいろな方々の、最終講義をまとめた一冊。
そこには、桑原武夫の「人文科学における共同研究」もある。
この本の最後は、加藤秀俊の「視聴覚文化時代の展望」でした。
本の解説は、坪内祐三。
齋藤清明著「京大人文研」(創隆社)には、
その時のようすが書きこまれておりました。
「1968年3月21日、筆者は桑原武夫のを聞いた。
会場は研究所ではなく、文学部の大講義室だったが、
学生だけでなく、教職員や市民もまじり、
満員の盛況だった。」(p244~245)
「桑原は『退官』の官というのはきらいだ、京大の先生
などというものはしょせん学問官僚なんだろうけど、
できれば『退職記念談話会』にしてもらいたかった、
と前置きして、『人文科学における共同研究』を演題に語った。」
(p246)
はい。この『人文科学における共同研究』は
実業之日本社「最終講義」。
「桑原武夫全集4」朝日新聞社。
「桑原武夫集7(1965~1969)」岩波書店。
などで読むことができます。
興味深いので、すこし引用。
「日本の学者は、精密に、まじめに勉強しているけれども、
学問的ひとりごとが好きになって、対話の精神を失って
いるのではないか。別のことばでいえば、自分の信じている
ことをふまえて他人と自由に討論する、そうすることによって
相互に作用し、自分が新しい考えをひらいてゆく、そういう意味での
対話を共同研究は助長すると思います。そのためには研究の参加者が
すべて対等であることが前提となります。大学の職階制では、
教授、助教授、講師、助手、などというものがあるのですけれども、
これを革命せよというのではありません。しかし、一たび
共同研究のテーブルにすわったら、そこでは対等でなければならない。
わかりきったことのようですけれども、それが必ずしもおこなわれて
いなかったと思うのです。教授が愚にもつかぬことを言っているのに、
助手が承詔必謹というような顔をしているのは、
学問を阻害するものだと思います。学問に忠実なら
すぐ切りかえさなければいけません。
いよいよ雑談めくようですけれども、私たちのチームには
結果において対等感をやしなうことになったことが若干ある。
私たちは共同研究をはじめたころに、同時に余暇利用として、
遊びとして、『日本映画を見る会』『小説を読む会』、
それから英語、フランス語の講習会というものもやりました。
映画鑑賞ですと、だいたいにおいて教授よりか助手のほうが、
知識も識見も上です。人間心理というものは微妙なものですから、
前の晩の映画談話会、ちょっとお酒をいれてやるのですけれども、
そこで教授を圧倒した助手は、翌日、こんどはルソーについて
見解を発表するというときでも、自信をもって発表する。
これは冗談ですけれども、そういう影響もありうると思いますね。
・・・結果は大変よかったと考えております。」
「桑原武夫集7」で28頁。
はい。もう一度読み直してみます(笑)。
ちにみに、斎藤清明著「京大人文研」には、
その後に、こういう記述があるのでした。
「・・・桑原が去るころからはじまっていた大学紛争は、
翌年、京大にも及ぶ、東大、日大などでの学生の反乱は、
東大の時計台の陥落で高揚期を過ぎるが、その直後の
1969年1月16日、京大でも学生部が封鎖され、燃えあがる。
たまたまこの日は、加藤秀俊が15年半つとめた人文研の助手から
教育学部の助教授に昇進し初出勤の日にあたっていた。
なんの因果か、加藤は紛争に巻きこまれ、
1年余りのちに京大をやめてしまう。同じころ、
永井道雄、川喜田二郎、鶴見俊輔、高橋和巳らも、
それぞれの大学をやめる。・・・・」(p248~249)