「松田道雄の本16 若き人々へ」(筑摩書房)
をひらくと、桑原武夫先生に関する文があった。
昭和23年に仙台から京都へと帰られた桑原武夫に
ついて、松田道雄との関連を紹介した文には、
「・・私はすでに先生の六人のお子さんの主治医
になっていた。私の診療所と先生のおうちとは
数百メートルしか離れていなかった。
お子さんが熱をだすたび私は自転車で往診したが、
診察を15分ですませて、あと先生と一時間も二時間も
話しこんでしまうのだった。話しこむといっても、おおかたは
先生が話されるのを私が相槌をうつようなことだった。
先生の話がはじまると座をたてなくなった。
それは学問の話にかぎられていたが、学問自身のことより、
その学問をしている学者の人物の話であった。・・・」(p37)
この3頁まえの、文のはじまりを、引用しなくては。
「かつて作家の中野重治さんが
桑原さんの文章の明晰を羨望をもってほめた。
その桑原さんの原稿の少なからずが口述筆記である。
話がそのまま文章になるという幸福の秘密は
桑原さんの座談のうまさにある。
うまいのは特別に文学的な表現があるのではない。
むしろ装飾的なことばを意識してしりぞけて、
卑俗な表現をされる。
話の表現がワイ雑にいたったときは、
話の内容がきわめて高いピークの一点に
きわまったときである。・・・」(p34)
そういえば、と「桑原武夫傅習録」を
今ひらくと、こちらにも、松田道雄の文がある。
けれども、こちらはちょっと
数百メートルしか離れていない距離とは、
ちがった場面が出てきます。
こちらも、興味深いので引用。
こちらは、昭和25年の京都の平和問題談話会の
場面を松田氏の目を通して書いておりました。
途中から引用。
「・・東京側と京都側との合同の会談が、
西園寺公の旧邸だったかであったときのように記憶する。
私ははじめて大学の先生たちが集って議論をする場
というものをみた。国際法の専門の学者とか、
憲法学者だとかの話をきいて・・二回、三回と
会に出るたびに私は気がおもくなった。そういうときに、
私を元気づけ、つづけて会に出るようにさせたのは
桑原さんの発言だった。
失礼だが、桑原さんは国際法だの憲法だのについて
専門的な知識をもっていられるとは見えなかった。しかし、
桑原さんは、どの会合でも黙っていられることはなかった。
何か発言された。そして桑原さんの発言は、
しめきった部屋の窓をあけるような感じだった。
専門家たちが、全面講和に反対する人たちを論理的に
とりひしごうとして晦渋のなかに踏みこみそうになるのに、
桑原さんは反対者の論理を感性的に増幅して、
滑稽なまでに幼稚な姿に描きだしてみせるからだった。
それが専門家たちに自信をあたえて、
論理がなめらかに動きはじめることも多かった。
それは、表現のたくみさに帰してしまえないものだった。
技術的なものよりもっと深いものであった。
それは、どんな議論も相手を説得しようとするなら
論理的であるだけでは足りないということ、
感性的なものを無視し切ることが、
実は論理そのものをどこかでゆがめるということである。
場合によっては感性的に十分にとらえた真実は、
専門知識の組みたてる論理よりも説得的であることを
桑原さんは、見せてくれた。
その時、桑原さんはいつも楽しそうだった。
・・・それからあと、私の学習に
もっともつよい影響をあたえたのは
この桑原さんの学問を楽しむ態度であった。」
この傳習録での松田道雄氏の文は
「桑原武夫全集」(朝日新聞社)の第五巻月報に
掲載され、題して「学問を楽しむ態度」。
ちなみに、この全集の補巻解説は、司馬遼太郎で
司馬さんの題は「明晰すぎるほどの大きな思想家」。
うん。松田道雄さんの「学問を楽しむ態度」を読んでから
司馬さんの「明晰すぎるほどの・・」を読むと、
入り組んだ司馬さんの文が飲み込めて、ラッキー(笑)。
桑原・司馬といえば、
「『人工日本語』の功罪について」と題する対談がありました。
そこで、司馬さんは面と向かってこう指摘しております。
司馬】・・わたしが多年桑原先生を
観察していての結論なんです(笑)。
大変に即物的で恐れ入りますが、
先生は問題を論じていかれるのには標準語をお使いになる。
が、問題が非常に微妙なところに来たり、
ご自分の論理が次の結論にまで到達しない場合、
急に開きなおって、それでやなあ、そうなりまっせ、
と上方弁を使われる(笑)。
あれは何やろかと・・・。
ここで、
寿岳章子著「暮らしの京ことば」(朝日選書)を
私は思い浮かべたのでした。
それは、「京都は激しい政治風土でもある。」(p81)
という箇所のあとにでてきました。
そこをすこし引用していきます。
「 もともとことばというものは、
次のような機能や意図をもっている。
『ことばの機能』指示・表情・見出し・対人関係の調整。
『ことばの意図』表出・認識・通達・つながりを持つ・
感化・態度の形成・社会的調整。
共通語と方言とが二重構造になって
日本人の暮らしに食い入っているとき、
共通語はこの表のことばを使えば指示機能、
そして一方、表出、つながり、感化、態度形成、
社会的調整などの意図は、方言の有効な使いこなしに
よって所期の効果を果たすことがどんなに多いことであろう。
はげしい感情に襲われて、心の中の緊張をほっと外に
吐き出そうとするときの吐き出しことばは、大てい方言だ。
母親がこどものいたずらに腹を立てて思いきり叱りつけるとき、
誰が共通語で叱るだろう。
『そんなことしたらあかんがな、
ほんまにかなん子やなあ』
というふうにわめいてこそ、
親は叱ったという気がするだろうし、こどもにしても、
親は怒っているなという気になるだろう。
『そんなことをしたらだめですよ』などと言われても、
こどもは芝居でもみているようなもので、
きょとんとしてしまうのであろう。」(~p82)
このあとに、お笑い番組についての指摘が
ありますので、もうしばらくお付き合いください(笑)。
「まして選挙のような行動で、
一票を何とか獲得したいと願うとき、
どうして相手が心を動かすかについて、
ものを考える人であるなら、方言を適当に使うであろう。
それはきわめて賢明な方法だ。また、テクニックとして
それを採用する、というふうなつもりはなくとも、
一所懸命に隣りの人に自分の考えを理解してもらおうと
するとき、その一所懸命さに比例して方言が顔を出す
のではあるまいか。すなわち、説得という言語行動を
とるとき、人はよく方言を使うのである。
笑いを誘い出す場合も断然方言が活躍する。
端的なところ、私はお笑い番組が大好きで、
その手のものをよくテレビやラジオで見聞きするが、
どうしても関西弁の方がよく笑える。
おなかの底からけたけた笑うには、やはり、
私の所属する地域言語の系統の方がいい。
共通語系統では漫才も落語も
頭の範囲で笑っているという感じである。
フフフフとゲタゲタの違いである・・・」(~p83)
うん。笑いで終わらせるとまずいかなあ(笑)。
対談「『人工日本語』の功罪について」で
司馬さんに観察されていた指摘をうけたあと
桑原さんは、どう語っていたのかを
最後に引用しておきます。
桑原】 ぼくは標準語を使ってはいるが、
意をつくせないときはたしかにありますね。
そこで思うんですが、社会科学などの論文に、
もっと俗語を使って、『さよか』とか・・・(笑)。
司馬】 『そうだっしゃろ』とか・・・。
桑原】 『たれ流し、よういわんわ』というような言葉が
入るようになればおもしろいと思うんですがね(笑)。
司馬】 そうですな。
桑原】 わたし、この前北海道に行って、
地方文化の話をしたときに、
少し身もふたもないことをいいました。
いい音楽を聴き、いい小説を読み、うまいものを食う。
それはそれ自体結構なことだが、
それがその地方の文化を向上させることになるだろうか。
現代日本は好むと好まざるとにかかわらず
中央志向的な大衆社会になっている。
だから、東京とはちがう地方文化、例えば北海道や鹿児島で
独特の地方文化を持つのは無理至難なのではないか。
それを持ちうるのは、その地方の人々が
方言で喋ることを恥としない、あえて誇りと思わなくても、
少なくとも恥としないところにしか地方文化はない。
それがわたしの地方文化の定義です、といったんです。
そうすると、地方文化がまだあるのは上方だけです。
わたしは場合によれば京都弁を喋る。・・・」
をひらくと、桑原武夫先生に関する文があった。
昭和23年に仙台から京都へと帰られた桑原武夫に
ついて、松田道雄との関連を紹介した文には、
「・・私はすでに先生の六人のお子さんの主治医
になっていた。私の診療所と先生のおうちとは
数百メートルしか離れていなかった。
お子さんが熱をだすたび私は自転車で往診したが、
診察を15分ですませて、あと先生と一時間も二時間も
話しこんでしまうのだった。話しこむといっても、おおかたは
先生が話されるのを私が相槌をうつようなことだった。
先生の話がはじまると座をたてなくなった。
それは学問の話にかぎられていたが、学問自身のことより、
その学問をしている学者の人物の話であった。・・・」(p37)
この3頁まえの、文のはじまりを、引用しなくては。
「かつて作家の中野重治さんが
桑原さんの文章の明晰を羨望をもってほめた。
その桑原さんの原稿の少なからずが口述筆記である。
話がそのまま文章になるという幸福の秘密は
桑原さんの座談のうまさにある。
うまいのは特別に文学的な表現があるのではない。
むしろ装飾的なことばを意識してしりぞけて、
卑俗な表現をされる。
話の表現がワイ雑にいたったときは、
話の内容がきわめて高いピークの一点に
きわまったときである。・・・」(p34)
そういえば、と「桑原武夫傅習録」を
今ひらくと、こちらにも、松田道雄の文がある。
けれども、こちらはちょっと
数百メートルしか離れていない距離とは、
ちがった場面が出てきます。
こちらも、興味深いので引用。
こちらは、昭和25年の京都の平和問題談話会の
場面を松田氏の目を通して書いておりました。
途中から引用。
「・・東京側と京都側との合同の会談が、
西園寺公の旧邸だったかであったときのように記憶する。
私ははじめて大学の先生たちが集って議論をする場
というものをみた。国際法の専門の学者とか、
憲法学者だとかの話をきいて・・二回、三回と
会に出るたびに私は気がおもくなった。そういうときに、
私を元気づけ、つづけて会に出るようにさせたのは
桑原さんの発言だった。
失礼だが、桑原さんは国際法だの憲法だのについて
専門的な知識をもっていられるとは見えなかった。しかし、
桑原さんは、どの会合でも黙っていられることはなかった。
何か発言された。そして桑原さんの発言は、
しめきった部屋の窓をあけるような感じだった。
専門家たちが、全面講和に反対する人たちを論理的に
とりひしごうとして晦渋のなかに踏みこみそうになるのに、
桑原さんは反対者の論理を感性的に増幅して、
滑稽なまでに幼稚な姿に描きだしてみせるからだった。
それが専門家たちに自信をあたえて、
論理がなめらかに動きはじめることも多かった。
それは、表現のたくみさに帰してしまえないものだった。
技術的なものよりもっと深いものであった。
それは、どんな議論も相手を説得しようとするなら
論理的であるだけでは足りないということ、
感性的なものを無視し切ることが、
実は論理そのものをどこかでゆがめるということである。
場合によっては感性的に十分にとらえた真実は、
専門知識の組みたてる論理よりも説得的であることを
桑原さんは、見せてくれた。
その時、桑原さんはいつも楽しそうだった。
・・・それからあと、私の学習に
もっともつよい影響をあたえたのは
この桑原さんの学問を楽しむ態度であった。」
この傳習録での松田道雄氏の文は
「桑原武夫全集」(朝日新聞社)の第五巻月報に
掲載され、題して「学問を楽しむ態度」。
ちなみに、この全集の補巻解説は、司馬遼太郎で
司馬さんの題は「明晰すぎるほどの大きな思想家」。
うん。松田道雄さんの「学問を楽しむ態度」を読んでから
司馬さんの「明晰すぎるほどの・・」を読むと、
入り組んだ司馬さんの文が飲み込めて、ラッキー(笑)。
桑原・司馬といえば、
「『人工日本語』の功罪について」と題する対談がありました。
そこで、司馬さんは面と向かってこう指摘しております。
司馬】・・わたしが多年桑原先生を
観察していての結論なんです(笑)。
大変に即物的で恐れ入りますが、
先生は問題を論じていかれるのには標準語をお使いになる。
が、問題が非常に微妙なところに来たり、
ご自分の論理が次の結論にまで到達しない場合、
急に開きなおって、それでやなあ、そうなりまっせ、
と上方弁を使われる(笑)。
あれは何やろかと・・・。
ここで、
寿岳章子著「暮らしの京ことば」(朝日選書)を
私は思い浮かべたのでした。
それは、「京都は激しい政治風土でもある。」(p81)
という箇所のあとにでてきました。
そこをすこし引用していきます。
「 もともとことばというものは、
次のような機能や意図をもっている。
『ことばの機能』指示・表情・見出し・対人関係の調整。
『ことばの意図』表出・認識・通達・つながりを持つ・
感化・態度の形成・社会的調整。
共通語と方言とが二重構造になって
日本人の暮らしに食い入っているとき、
共通語はこの表のことばを使えば指示機能、
そして一方、表出、つながり、感化、態度形成、
社会的調整などの意図は、方言の有効な使いこなしに
よって所期の効果を果たすことがどんなに多いことであろう。
はげしい感情に襲われて、心の中の緊張をほっと外に
吐き出そうとするときの吐き出しことばは、大てい方言だ。
母親がこどものいたずらに腹を立てて思いきり叱りつけるとき、
誰が共通語で叱るだろう。
『そんなことしたらあかんがな、
ほんまにかなん子やなあ』
というふうにわめいてこそ、
親は叱ったという気がするだろうし、こどもにしても、
親は怒っているなという気になるだろう。
『そんなことをしたらだめですよ』などと言われても、
こどもは芝居でもみているようなもので、
きょとんとしてしまうのであろう。」(~p82)
このあとに、お笑い番組についての指摘が
ありますので、もうしばらくお付き合いください(笑)。
「まして選挙のような行動で、
一票を何とか獲得したいと願うとき、
どうして相手が心を動かすかについて、
ものを考える人であるなら、方言を適当に使うであろう。
それはきわめて賢明な方法だ。また、テクニックとして
それを採用する、というふうなつもりはなくとも、
一所懸命に隣りの人に自分の考えを理解してもらおうと
するとき、その一所懸命さに比例して方言が顔を出す
のではあるまいか。すなわち、説得という言語行動を
とるとき、人はよく方言を使うのである。
笑いを誘い出す場合も断然方言が活躍する。
端的なところ、私はお笑い番組が大好きで、
その手のものをよくテレビやラジオで見聞きするが、
どうしても関西弁の方がよく笑える。
おなかの底からけたけた笑うには、やはり、
私の所属する地域言語の系統の方がいい。
共通語系統では漫才も落語も
頭の範囲で笑っているという感じである。
フフフフとゲタゲタの違いである・・・」(~p83)
うん。笑いで終わらせるとまずいかなあ(笑)。
対談「『人工日本語』の功罪について」で
司馬さんに観察されていた指摘をうけたあと
桑原さんは、どう語っていたのかを
最後に引用しておきます。
桑原】 ぼくは標準語を使ってはいるが、
意をつくせないときはたしかにありますね。
そこで思うんですが、社会科学などの論文に、
もっと俗語を使って、『さよか』とか・・・(笑)。
司馬】 『そうだっしゃろ』とか・・・。
桑原】 『たれ流し、よういわんわ』というような言葉が
入るようになればおもしろいと思うんですがね(笑)。
司馬】 そうですな。
桑原】 わたし、この前北海道に行って、
地方文化の話をしたときに、
少し身もふたもないことをいいました。
いい音楽を聴き、いい小説を読み、うまいものを食う。
それはそれ自体結構なことだが、
それがその地方の文化を向上させることになるだろうか。
現代日本は好むと好まざるとにかかわらず
中央志向的な大衆社会になっている。
だから、東京とはちがう地方文化、例えば北海道や鹿児島で
独特の地方文化を持つのは無理至難なのではないか。
それを持ちうるのは、その地方の人々が
方言で喋ることを恥としない、あえて誇りと思わなくても、
少なくとも恥としないところにしか地方文化はない。
それがわたしの地方文化の定義です、といったんです。
そうすると、地方文化がまだあるのは上方だけです。
わたしは場合によれば京都弁を喋る。・・・」