和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「 一番始めは 」

2024-10-27 | 地域
弾みがついたので、この際と思い「日本わらべ歌全集」を注文。

それが届きました。「日本わらべ歌全集6下・千葉のわらべ歌」。
はい。さっそく引用。

「全国的に手まりやお手玉にうたわれる『 一番始めは 』に
 出てくる佐倉宗吾や成田の不動さんも・・下総のものである。
 成田市にある宗吾霊堂や成田山新勝寺は、香取神宮とともに
 下総の信仰の中心であるが、わらべ歌によって全国に知られる
 ようになったといっても過言ではない。 」(p19)


      一番始めは    ( 手まり歌 )

   一番始めは一の宮 二は日光の東照宮
   三は佐倉の宗吾さま 四はまた信濃の善光寺
   五つは出雲の大社  六つは村々鎮守さま
   七つは成田の不動さま 八つは八幡の八幡宮
   九つ高野の弘法さま 十は東京二重橋    (東金市宿)

 注: 【一の宮】昔の一国一番の神社。
        その所在地の地名となっている例も多い。
        千葉県下では、長生郡一宮町玉前神社(上総)
        佐原市香取神宮(下総)、
        館山市安房神社(安房)

         ・・・・・・

「 全国の有名な神社仏閣を数え歌にしたもの。
  お手玉歌としてもうたわれる。・・・・・

  佐倉宗吾は江戸時代初期、下総佐倉藩公津村の名主で
  本名は木内惣五郎と伝えられる人。
  重税に苦しむ農民を救うため郡奉行や国家老に嘆願していれられず、
  名主らと共に江戸に上って老中に訴えても却下され、ついに
  宗吾一人が将軍に直訴し、農民の要求はいれられたが、
  宗吾は直訴の罪により磔、子供4人も打首に処せられたという。
  今も成田市宗吾の東勝寺・宗吾霊堂は、その遺徳をしのぶ地として、
  多くの人が参詣する。・・・・    」(~p46)

佐倉宗吾といえば、斎藤隆介作の絵本『 ベロ出しチョンマ 』を
思い浮かべました。さっそくひらけばこんな箇所がありました。

「  去年も今年も洪水や地震や日照りやがあって、
   米も麦もロクロクとれないのに、
   殿様はネングを前よりもっと出せと言って来ている。
     ・・・・
  『 もうこうなったらハァ、ちょうさんだ 』
  『 いっそ打ちこわしでもやっか 』
  『 ごうそするか 』
  『 それよりだれかが江戸へじきそすれば―― 』

  父ちゃんを夜おそく訪ねて来るおじさんたちは、
  じょうだんとも本気ともつかない調子で
  そんなことを言ってはタメいきをついた。
  そしてまた声が低くなって、ヒソヒソ話はいつまでも続く。

  長松はたびたび聞いているうちに、
  聞き馴れない言葉もだんだん分かって来た。
  
  ちょうさん とは田んぼも家もほうり出して、
  よその国へ逃げていくこと、
  打ちこわしとは町の米屋へおしかけて
  米蔵をぶちこわして食う米を取ってくること、
  ごうそ とは殿様の所へおしかけること、
  じきそ は将軍様へ殿様のやり方を言いつけに行くことらしい。
  そしてどれもこれも、つかまってローヤに入れられたり、
  首を切られたりするおそろしいバツがあるらしいのだ。 」

ちなみに、絵本『 ベロ出しチョンマ 』のはじまりはというと、

「 千葉の花和村に『 ベロ出しチョンマ 』というオモチャがある。
  チョンマは長松がなまったもの。このトンマな人形の名前である。

  人形は両手をひろげて十の字の形に立っている。
  そして背中の輪をひくと眉毛が『 ハ 』の字に下がって
  ベロッと舌を出す。見れば誰でも思わず吹き出さずにはいられない。 」


はい。これは千葉県には実在しない人形で、斎藤隆介氏の創作のようです。
ちなみに、
関東大震災の翌年に、安房郡長大橋高四郎は、編纂を白鳥健氏に依頼して
おります。そして大正15年に『安房震災誌』が発行されております。
編纂した白鳥健氏はどのような方か調べていたら、県北で新聞記者をして
いたようでした。その著書に『佐倉宗吾』という本を出しているようです。

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山車引き回し。

2024-10-14 | 地域
ここのところよい天気続き。
13日が山車引回し。今日の14日午前中がその後片づけ。
よい天気に恵まれ、たのしく過ごせました。
隣り地区との合同引回しが、6年ぶりなのだそうで、
祭りの時にしか会わない方々と、目礼したり声をかけたり。
輪になって踊る婦人部の方々をまえに、飲むビールも格別。
さてっと、秋祭りは終りました。練習日から引き続き、
休めず気を張っていた役員さん方ご苦労様でした。
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防災士出前講座の掲載。

2024-10-11 | 地域
わが町は、町村合併で市となったのですが、町に残る
支所から月一回発行で各家へと配布の連絡紙があります。
今月は令和6年10月10日発行。
その最後に、『 防災士出前講座のご案内 』を
載せていただきました。

とりあえず、支所へ掲載お願いにいった文面を引用しておきます。


        防災士の出前講座ご案内

『安房郡の関東大震災』をテーマとして、震災の出前講座をいたします。
ローカルな地震をほりおこし、身近な歴史として記憶にとどめておくことは、
とりもなおさず、これからの貴重な判断の指標となるものと思っております。

  出前講座は正味1時間くらいの予定。はい。無料です(笑)。
  午後6時半以降でしたら、〇〇町のどこへでも伺います。
  お申し込みは、地域やグループでだいたい5名まとまればOK。
  あらかじめ、人数分の参考資料を用意してうかがいます。

公民館講座での私の今年のテーマは『安房郡の関東大震災』でした。
地元に残された紙碑『安房震災誌』をもとに、紐解いてゆきます。
なにぶん出前ははじめて。関心のある方は、お気軽にご連絡ください。

                   住所 〇〇〇〇
                   電話 〇〇〇〇
                   氏名 〇〇〇〇


はい。以上の文面を、すこし修正して載せていただけました。
さてっと、連絡が来るものなのかどうか? 
これから、連絡を待つ時間となります(笑)。
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地域震災出前講座。

2024-09-23 | 地域
『安房郡の関東大震災』の題で、防災士として
出前講座をしようと思いました。

時間は、午後6時半以降ならOKです。
地区や、5人以上のグループの要望で出前うけたまわります。

        口 上

防災の日は、関東大震災(1923年)が発生した9月1日になっておりました。
その日の安房郡を焦点にして、関東大震災の記録と記述とを読み解きます。
さいわい『安房震災誌』などの紙碑が残されております。
防災士として、地元の安房の関東大震災を語りふりかえります。

  出前講座の予約は、電話〇〇〇〇へ
  参加人数分のプリントを用意してお伺いします。
  午後6時半以降でしたら、いつでも、
  講座は、正味一時間くらいの予定。
  ただし、金曜日のみ、午後7時半以降となります。 


はい。思いつくのはさまざまですが、
当ブログでは、思いつきをそのままに記録しておきます。
思いつきを実行するかどうかは、これはまた別とします。
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今年1年1回の講座終了。

2024-08-29 | 地域
昨日は、講座「安房郡の関東大震災」がありました。
まずは、お借りしている高校の先生による学校紹介が30分。
それから、私の番。
きちんと学校紹介されていた後の
私のずぼらな語りでしたので、
何より私自身が焦っちゃいました。
それでかもしれませんが、ペースが乱れて、
資料をあれこれと飛ばしながら進めました。
うん。支離滅裂な具合となりました。
途中、15分のトイレ休憩をはさんで、
そのあと、30分ほど話しました。
さいごに、『復興の歌』を歌って私の話はおわり。
その後に、学校の屋上にあがりまして、四方を見渡す。

そこで私は『復興の歌』の一番だけを一人歌っておりました。

  黒潮かおる東海に 朝日さやかに さしのぼる
  ああ 安房の国うまし国 我ら若きを歌わなん

ちょうど、皆さんが4階の上の屋上から、
太平洋をながめていたときに、歌いました(笑)。
唯一これが当日の私がホッとできたことでした。

われながら支離滅裂な講座だったのですが、
参加された皆さんを前に、とりあえず、
どの資料から語ろうとして無意識にでもとりあげた箇所を、
あらてめてもう一度反芻して、講座を振りることにします。

まったくもって、ブログにあれこれと書きこんでゆくことと、くらべて、
時間をくぎり、その中で人前で語ることの相違を体験させてもらいました。
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8月28日本番。

2024-08-26 | 地域
今日を入れてあと2日。
1時間で伝える内容を選り分けようとするのですが、
思いつきは楽ですが、こういうのの、まとめは苦手。

とりあえずは、『安房震災誌』の本を紹介しながら、
まずは、そこに掲載された図やら一覧を配布して、
それにまつわる、あれこれを解説してゆくことで、
筋道をつくってゆけたならと、思うには思うのですが・・。

う~ん。こういうのは語り出すと支離滅裂になりそうで、
とりあえずは、配布する資料のあれこれを考えてみます。
はい。素材で勝負することに(笑)。


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委細かまわず、がんこに。

2024-08-24 | 地域
全体を俯瞰するのは難しいなあ。
そういうときに、思い出したように
読みたくなるのが寺田寅彦の「津波と人間」という
9ページほどの文章です。

4年ほどまえに、地域の震災碑文などを通してめぐりました。
そのときに、印象深く反芻したのも「津波と人間」でした。
そのときの、気になった箇所はここいらです。

「・・災害記念碑を立てて永久的警告を残してはどうか
 という説もあるであろう。しかし、はじめは人目に付きやすい
 ところに立ててあるのが、道路改修、市区改正等の行われるたびに
 あちらこちらと移されて、おしまいにはどこの山かげの竹やぶの中に
 埋もれないとも限らない。

 そういう時に若干の老人が昔の例を引いてやかましく言っても、
 たとえば『市会議員』などというようなものは、そんなことは
 相手にしないであろう。そうしてその碑石が八重葎(やえむぐら)
 に埋もれたころに、時分はよしと次の津波がそろそろ準備されるであろう。」

はい。碑文をめぐって少し歩いているのは大抵が旧道の
あまり車の通らない箇所でした。またよく聞いたのは
碑文は、以前はここにはなかったのだよ。ということでした。」

はい。今回再読していて、気になる箇所はここでした。

「しかし困ったことには『自然』は過去の習慣に忠実である。
 地震や津浪は新思想の流行などには委細かまわず、
 がんこに、保守的に執念深くやって来るのである。・・・

 科学の法則とは畢竟(ひっきょう)『自然の記憶の覚え書き』である。
 自然ほど伝統に忠実なものはないのである。・・・   」

「科学が今日のように発達したのは、
 過去の伝統の基礎の上に、時代時代の経験を
 丹念に克明に築き上げた結果である。
 それだからこそ、台風が吹いても
 地震が揺すってもびくとも動かぬ殿堂ができたのである。

 二千年の歴史によって代表された経験的基礎を無視して、
 よそから借り集めた、風土に合わぬ材料で建てた
 仮小屋のような新しい哲学などは、
 よくよく吟味しにとはなはだ危ないものである。

 それにもかかわらず、うかうかとそういうものに頼って
 脚下の安全なものをすてようとする、
 それと同じ心理が、正しく地震や津浪の災害を招致する、
 というよりはむしろ、地震や津浪から災害を製造する
 原動力になるのである。・・・・    」

はい。分かるようで分からないような表現なのですが、
何年か時間をおいてまた読んでみると、分るような気がしてきます。

ということで、そんな感じで、一年に一回の震災講座。
それを来週の8月28日(水曜日)におこないます。
それが、今度の台風でできなくなるかも(笑)。
 

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昨日は練習日でした。

2024-08-22 | 地域
地震講座の「安房郡の関東大震災」を
8月28日(水曜日)午前中おこなうために、
昨日は、その予行練習をかねて、10名の方の前で語りました。

うん。関東大震災を振返ってかたるのですが、
だんだんと、終りの方ではなんだか語るほうが滅入ってきて、
それでもって、講座本番の講習の最後の終わり方だけ決まりました。

関東大震災の直後に、安房農学校の貴島憲先生が
生徒と共に歌う『復興の歌』を作詞して歌っております。
はい。8月28日の講習の最後は、皆さんでその『復興の歌』を
歌って終ろうとおもいます。

『安房郡の関東大震災』という題には、
副題に『安房郡長・大橋高四郎』とさせていただきました。
練習日では、その大橋氏は、ちょっとしか触れられませんでした。

それでもって、本番では、それを修正しておいてくださいと
丁寧に指摘してくださる方がいて、ありがたく拝聴しました。
いちおう、この題と副題とで募集をとっております。

さあ、来週の本番めざして、いまから修正とまとめをします。
本番は違う方が聴講にくるのですが受講予定者の上限は20名。
もうすこしでも、落ち着いて、誰にでも分かりやすく語れますように。

昨日は、あれから昼寝して、3時過ぎに枝や草刈をしました。
夕飯はビールを飲んですぐに寝ました。

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考えばえがする世の中。

2024-08-19 | 地域
昨日は日曜日でしたので、
8月21日の震災講座練習日の案内パンフをコピーして
近場の顔見知りの方に配る。といっても忙しそうで、
いないところはポストへ投函しておく。約20名の方に。
さてっと、数人でも来て下されば。バンザイ。

あと2日。資料作りを励むことにします。
地元の震災記録ですので、まずは地元の方に知っていただきたい。

そうすると、思い浮かぶのは、寺田寅彦の言葉でした。

「昔の日本人は子孫のことを多少でも考えない人は少なかったようである。
 それは実際いくらか考えばえがする世の中であったからかもしれない。」

寺田寅彦の「津波と人間」にある文句です。
さらに言葉はつづきます。

「・・困ったことには『自然』は過去の習慣に忠実である。
 地震や津波は・・・がんこに、保守的に執念深くやって来るのである。

 ・・科学の法則とは畢竟『自然の記憶の覚え書き』である。
 自然ほど伝統に忠実なものはないのである。・・ 」


はい。きちんと記録されている関東大震災の記述から、
その「 『自然』は過去の習慣に忠実である 」ことを踏まえながら、
もう一度、見直して、そこで多くを削って資料づくりをしてみます。

うん。資料つくりは後2日。
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伝えたいことの列挙。

2024-08-17 | 地域
〇 海岸隆起
  今年の能登地震の石川県輪島市黒島海岸の港近辺の隆起写真。
  関東大震災の館山湾の隆起の回想。鷹の島近辺についての写真。
  そこから、元禄地震のころの汀線(波打ち際)の状況をふりかえる。

〇 関東大震災の各町村の被害状況の比較図を頭に置いておく。
  活断層が、地震により同じ個所でまた繰り返される可能性を念頭に。
  その貴重な「安房郡震災被害状況図」を忘れずに示しておく。

〇 各町村の被害状況の数値一覧表を、
  分かりやすい表にしたもので引用しておく。
  ( 「安房震災誌」に載るのは漢数字だったり、手書きだったり )
  同じものでも、読みにくいかもしれないので、
  元資料は「安房震災誌」であっても、新しい一覧表にしたものを載せる。

〇 M7以上の地震が、関東大震災ではどのような頻度だったのかを
  武村雅之著「関東大震災がつくった東京」から図と共に示す。

〇 関東大震災の余震頻度を、
  吉村昭著「関東大震災」から引用して、毎日の余震に
  見舞われていたことを明確にしておく。

〇 安政の地震について、『安房震災誌』に安房郡にはその頃の資料が
  なかったこと、それに比して関東大震災の安房郡には資料があること。
  ( 郡長制度が、大正12年に廃止となり、大正15年まで残部整理と
   して存続されていた状態にあり、その最後の年に安房震災誌発行 )
  資料として記録をとる。後世に残すこと。後世がそれを活用すること。

〇 直接に直下地震を体験した記録として、回想を列挙しておく。


とりあえずは、練習日に以上の事を忘れずに指摘しておけるように
資料をまとめておきます。はい。まとめるのは苦手で、
いつものように、前日ぎりぎりになるかもしれない。

とりあえず、来週の8月21日は、練習日なので
安房郡長・大橋高四郎までは、とても言及できないだろうなあ。


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震災講座練習日案内。

2024-08-16 | 地域
8月21日(水曜日)午前9時45分集合の講座練習日。
その日のお話内容のパンフレット的紹介案内です。

大正13年9月1日に「震災記念碑」が
安房郡南三原村に建立されておりました。
現在は、和田町下三原の龍神社参道の
日露戦争記念碑に並んで建っております。

地震は、地区全体をまんべんなく巻き込むわけではなく、
その碑文に、こうありました。

   松田 海発 下三原 沼区 最激震
   白渚 中三原 一部被害稍(やや)軽微

関東大震災のちょうど一年後に建立されたこの碑文には
 
  死者22 負傷86  とあり
  倒壊・・住宅324 半壊・・住宅61 とあります。

その後の地震はどうだったかも記載されております。

 余震数百回 人心恟々(きょうきょう)

はい。余震におびえ半壊の住宅であっても入れない状況です。

「 或露臥樹蔭 或眠食假宿 」。ここを、私なりに現代語訳すると、
 「 あるいは露を避けて木の陰に臥し、そこを仮の宿として眠り食す 」

さて、百年後の現在なら、余震の間にどこを仮の宿とするかというと、
近場の耐震補強された公共施設へ、逃げこむことになるのでしょうか。

 海発地区にある安房拓心高校は、普段生徒がおりますので、
 かってに出入りはできませんが公共の避難場所に指定されております。
 
 その場所をかりて、講座「安房郡の関東大震災」をひらきます。
 今回その練習日として、8月21日(水曜日)をお借りしました。
 自由参加なので近場の避難訓練をかねたご来場を賜りますよう
 願っております。南三原の「震災記念碑」記述を踏まえながら、
 関東大震災の、安房のローカルな特色を語らせていただきます。
 
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講座参考本⑲

2024-08-12 | 地域
農文協「日本農書全集66」(1994年4月25日発行)は
「災害と復興1」とあり、その資料のなかに
「高崎浦地震津波記録(安房)長井杢兵衛」(p359~385)
が入っております。解題は古山豊。その解題のはじまりを引用。

「『高崎浦地震津波記録』は、千葉県安房郡富山町高崎の永井家に
 伝わる元禄地震・津波(元禄16〈1703〉年)の体験記録である。
 
 文書には長井とあるが、現在は永井という文字をあてている。
 長井氏・・成立年月日も定かではないが、体験者自らが
 被害の詳細を伝えているところから、地震発生直後に
 書きとめたものと推定される。

 筆者の長年にわたる元禄地震に関する調査で接した文書中、
 被害のようすをこれほど具体的に、かつこと細かな観察をもって
 記しているものはほかにない。その意味では一級の資料に属する。
 ・・・・・
 『高崎浦地震津波記録』は、現在の岩井海岸南部の高崎浦を
 中心とした地震の発生から終息までの、ほぼ三か月間の記録である。」

はい。記録の現代語訳も載っているのですが、
ここには、古山氏の文から引用をつづけます。

「地震による被害がとくに岩井海岸に集中している原因を分析すると、
 久枝川の存在が大きく関係していることが理解される。
 
 町村内に川があるか否かによ被害に大きな差があった例として、
 外房の鴨川市、九十九里浜南部の長生村や白子町などがあげられる。」

「元禄地震は、元禄16(1703)年11月23日の子の刻に発生した地震である。
 そして、丑の刻に津波が押し寄せたとこの地震の関係文書は記している。

 子の刻とは午後11~午前1時、
 丑の刻とは午前1~3時を指し、
 それぞれ2時間の幅がある。

 今日のように正確な時刻を確定できないのが残念であるが、
 永井家の文書には、他の文書にはない九ツ時分(午前0時~1時)と、
 かなり具体的に示されている。

 11月23日は、太陽暦で12月31日に当たる。
 つまり、真冬の夜中に地震があり津波が発生したことになる。
 ・・・・・
 地震がおさまったのは、永井家文書などによると
 翌年の2月中旬ころである。

 ・・・・地震発生わずか4年後・・
 富士山八合目付近の南東の山腹から大噴火が起こった。
 これが宝永の富士山噴火といわれる・・・・ 」

まだ、引用したいのはやまやまですが、
あと、ここだけでも引用しておきます。

「・・元禄時代が豊漁期であり、かつ漁業の発展期でもあった
 点があげられる。紀州からの漁民が房総半島に漁法を伝え、
 しだいに定着してきたのがちょうどこの時期であった。

 しかも元禄時代は江戸時代第二期目の豊漁期に当たる。
 そのため、どの浦辺でもすぐに出漁できるよう
 海岸近くには納屋が設けられていた。
 
 本来納屋は、漁具の置き場として建てられた小屋であったが、
 豊漁期であったこの時期には、いつでも出漁できるように、
 しだいに漁師の生活の場へと変化した。
 そのため、磯辺には多くの人々が寝起きしていたため、
 津波の襲撃をまともに受ける結果となった。 」(~p380)


注:古山豊氏と紛らわしい名前に、古川力氏がおりました。こちらは、
「郷土研叢書Ⅳ 安房災害史 元禄の大地震と津波を中心に」(昭和59年)に
古川力の論文「古記録に見える元禄地震と九十九里浦」(p39~67)があり、
また、古川力著作集「九十九里の研究」(崙書房・昭和62年)もあります。
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こそ泥棒

2024-06-27 | 地域
主なき家へと、1カ月ぶりに2人して家と庭掃除に出掛けた際に、
玄関の戸は閉まっており、そのままに入ると、
『 あれ、探し物でもした 』という声。
居間の飾り棚の箱類があけられてソファーにひろげられている。
ポイントをしぼって狙っているらしく、家を見回すと、
引き出しとか戸袋とか、洋服ダンスとか、小物入れとかが開いたままに。
ようやくコソ泥に入られたとわかる。
居間の出窓の留め金のすぐ上のガラスが数センチ割られている。
それも閉めて、カーテンも閉めて引き揚げたらしく
ちょっと見には誰かが入ったのかもわからなかったのでした。

派出所の巡査に来て頂き、見てもらう。
靴を脱いではいったらしいこと、
手袋をしていたらしく、ガラスに指紋のあともないこと、
それらを巡査の方が説明してくれる。

普段使っていない家なので、お金は置いておりませんが、
箱に入ってモンブランとかのペンが抜き取られていたら、
それはペン先が金だと持ってゆくのだそうです。
贈り物の金杯は、メッキなのでそのまま裏返して残ってる。

ちっともこちらで確認もしなかった、たとえば
ネクタイピンとかの金属類もまとめてなくなっており、
こちらにしたら、何がなくなったのかもわからない始末。

古くて使っていなかった部屋も物色されておりました。
仏壇も本棚も、写真類も荒らされていなかったので、
来た時には、気づかなかったのでした。

こういうのは、又しても入られる心配があるのですが、
心配もほどほどに茂って来た雑草や庭掃除に汗を流す。

はい。そんなことがありました。
土足で入り込んで、あちこち部屋を滅茶苦茶にして
いったわけではないので、それが不幸中の幸いでした。

さいわい、ガラス屋さんがその日のうちに来て、
修理もその日のうちに終えることが出来ました。

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備蓄と民間防衛と経文。

2024-05-23 | 地域
曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社・2011年9月10日発行)。
そのなかに「スイスの『民間防衛』に学ぶ」(p107~)という箇所。
すこし引用してみることに。

「・・第2の理由として、私の頭の中のどこかには常に毎日の生活が
 崩れる日に備えて、幾ばくかの備蓄をするということは国民の義務
 だという観念があった。

 それを私に教えてくれたのは、スイス連邦法務警察省発行の
 『 民間防衛 』という本であった。・・・
 
 16歳以上の国民には、この『民間防衛』なる小冊子が配られる
 と聞いていた。今、私の手元にあるのは、1974年7月に原書房
 から発行された第2刷である。・・  」(p108)

そして、すこしあとに、こんな箇所がありました。

「 備品の中に聖書があるというのもスイスらしい。
  日本だったらもちろんお経文を持ち込む人もいるだろう。」(p 113 )


今回は、この『お経文』という箇所が気になりました。
私事。5月20日21日と葬儀に親族としておりました。
日蓮宗の坊さんに通夜と本葬と、
『妙法蓮華経』のお経本の読経をしていただき。
二日にわたって、その読経について声を出しておりました。

  開経偈(かいきょうげ)からはじまり
  妙本蓮華経。方便品。第二 とつづき
  欲令衆(よくりゃうしゅ)は、漢字と平仮名でした。

まだ、読経はつづくのですが、ここには
欲令衆にふれることに。

通夜では、「欲令衆」の一部を全員で読経し
本葬では、「欲令衆」の全文をお坊さんが、立ち一人で読経されておりました。

その通夜での一部読経された「欲令衆」の箇所を、ここに引用しておきます。

「  三界(さんがい)は安き事無し。
   猶(なお)火宅(かたく)の如し。

   衆苦充満(しゅうくじゅうまん)して甚だ怖畏(ふゐ)すべし。
   常に生老病死(しょうろうびょうし)の憂患(うげん)あり。

   是(かく)の如き等(ら)の火、熾然(しねん)として息(やま)ず。
   如来(にょらい)は已(すで)に三界(さんがい)の火宅を離れて、
   寂然として閑居(げんこ)し、林野(りんや)に安處(あんじょ)せり。 

   今此三界(いまこのさんがい)は、皆是れ我有(わがう)なり。
   其中の衆生(しゅじょう)は、悉(ことごと)く是れ吾子(わがこ)なり。
   而(しか)も今此處は、諸(もろもろ)の患難多(げんなんおほ)し、
   唯我一人(ただわれいちにん)のみ能く救護(くご)をなす。  」


はい。「欲令衆」の三分の一ほどを、通夜の席で読経しました。
「欲令衆」の文は漢字と平仮名まじり、私にも理解しやすい。 
はい。それに、漢字にはきとんとフリガナがありありがたい。


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アンケート。

2024-02-05 | 地域
水曜日は、私が自由に使える日。
公民館の推進委員の方がみえて、講師をしませんかと話された
のがキッカケで去年までに3回お話をさせていただきました。
はい。いずれも、一年一回。水曜日に限りました。
はい。歩いたり。歌ったり。お話したり。

参加人数はいたって少なく、私もあがることもなくお話ができます。
たとえば前回は高校の教室をかりて、創立期におきた関東大震災の
『復興の歌』に、新しい曲をつけてもらい参加者全員で歌いました。

その時のテーマは『関東大震災と「復興の歌」』としました。
当日の参加は14名。終わって、アンケートに記入されたのは
そのうちの10名。はい。平日であり、ほとんどが70歳以上。
うん。たいていの60歳代は仕事をもっていて、平日は無理。

お見かけすると、ほとんどが、私より年上に見えました。
参加者は、女性8人・男性6人。「公民館だより」が参加の情報源。

アンケートに「 どのようなテーマの講座に興味がありますか 」
という項目がありました。『郷土歴史』への興味が10名おります。

さて。『 企画してほしい講座等を具体的に 』という質問に
私に気になる回答がありました。それはこうです。

「 関東大震災の内容をくわしく講習してほしい。
  地域の受災状況をくわしく知りたかった。  」

その回の講座の題を「関東大震災と・・」としてあったので、
てっきり地域の関東大震災の際の状況を教えてくれる講座だと
思って参加されたのだろうなあと想像しました。
その方に、私は肩すかしをしてしまったのかもしれない。

そうして、アンケートの回答を見ているうちに
今年の講習のテーマが浮かび上がってきました。

とりあえず。今年の講座に仮題をつけておきます。
『 安房郡の関東大震災 ・・ 郡長大橋高四郎 』

できるだけ、安房地域の地名を登場させながら、
地図を開き、震災や登場人物の推移を図上再現。
というのが、いま思い浮かべているところです。

はい。講座としては、ほんの1時間ほどで終わるでしょうが、
こうして、それについてのあれこれを思い描く時間は楽しい。

今年は、当ブログであれこれと思い描く時間を記録してゆきます。






コメント (4)
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