弾みがついたので、この際と思い「日本わらべ歌全集」を注文。
それが届きました。「日本わらべ歌全集6下・千葉のわらべ歌」。
はい。さっそく引用。
「全国的に手まりやお手玉にうたわれる『 一番始めは 』に
出てくる佐倉宗吾や成田の不動さんも・・下総のものである。
成田市にある宗吾霊堂や成田山新勝寺は、香取神宮とともに
下総の信仰の中心であるが、わらべ歌によって全国に知られる
ようになったといっても過言ではない。 」(p19)
一番始めは ( 手まり歌 )
一番始めは一の宮 二は日光の東照宮
三は佐倉の宗吾さま 四はまた信濃の善光寺
五つは出雲の大社 六つは村々鎮守さま
七つは成田の不動さま 八つは八幡の八幡宮
九つ高野の弘法さま 十は東京二重橋 (東金市宿)
注: 【一の宮】昔の一国一番の神社。
その所在地の地名となっている例も多い。
千葉県下では、長生郡一宮町玉前神社(上総)
佐原市香取神宮(下総)、
館山市安房神社(安房)
・・・・・・
「 全国の有名な神社仏閣を数え歌にしたもの。
お手玉歌としてもうたわれる。・・・・・
佐倉宗吾は江戸時代初期、下総佐倉藩公津村の名主で
本名は木内惣五郎と伝えられる人。
重税に苦しむ農民を救うため郡奉行や国家老に嘆願していれられず、
名主らと共に江戸に上って老中に訴えても却下され、ついに
宗吾一人が将軍に直訴し、農民の要求はいれられたが、
宗吾は直訴の罪により磔、子供4人も打首に処せられたという。
今も成田市宗吾の東勝寺・宗吾霊堂は、その遺徳をしのぶ地として、
多くの人が参詣する。・・・・ 」(~p46)
佐倉宗吾といえば、斎藤隆介作の絵本『 ベロ出しチョンマ 』を
思い浮かべました。さっそくひらけばこんな箇所がありました。
「 去年も今年も洪水や地震や日照りやがあって、
米も麦もロクロクとれないのに、
殿様はネングを前よりもっと出せと言って来ている。
・・・・
『 もうこうなったらハァ、ちょうさんだ 』
『 いっそ打ちこわしでもやっか 』
『 ごうそするか 』
『 それよりだれかが江戸へじきそすれば―― 』
父ちゃんを夜おそく訪ねて来るおじさんたちは、
じょうだんとも本気ともつかない調子で
そんなことを言ってはタメいきをついた。
そしてまた声が低くなって、ヒソヒソ話はいつまでも続く。
長松はたびたび聞いているうちに、
聞き馴れない言葉もだんだん分かって来た。
ちょうさん とは田んぼも家もほうり出して、
よその国へ逃げていくこと、
打ちこわしとは町の米屋へおしかけて
米蔵をぶちこわして食う米を取ってくること、
ごうそ とは殿様の所へおしかけること、
じきそ は将軍様へ殿様のやり方を言いつけに行くことらしい。
そしてどれもこれも、つかまってローヤに入れられたり、
首を切られたりするおそろしいバツがあるらしいのだ。 」
ちなみに、絵本『 ベロ出しチョンマ 』のはじまりはというと、
「 千葉の花和村に『 ベロ出しチョンマ 』というオモチャがある。
チョンマは長松がなまったもの。このトンマな人形の名前である。
人形は両手をひろげて十の字の形に立っている。
そして背中の輪をひくと眉毛が『 ハ 』の字に下がって
ベロッと舌を出す。見れば誰でも思わず吹き出さずにはいられない。 」
はい。これは千葉県には実在しない人形で、斎藤隆介氏の創作のようです。
ちなみに、
関東大震災の翌年に、安房郡長大橋高四郎は、編纂を白鳥健氏に依頼して
おります。そして大正15年に『安房震災誌』が発行されております。
編纂した白鳥健氏はどのような方か調べていたら、県北で新聞記者をして
いたようでした。その著書に『佐倉宗吾』という本を出しているようです。