駸々堂の「京わらべうた」(京都文庫・昭和47年)を以前
古本で買ってあり読まずにいたのですが、今日になってひらく。
いつもの、パラパラ読みですが、
「一丁まわり」の箇所を読むと、中川正文氏の文が印象深い。
たとえば、こんな箇所。
「 地蔵盆とは、
子どもたちのために繰りひろげられる上方特有の盆なのだ。
京都はむかしから地蔵信仰が篤く、子どもたちとの
かかわりあいも、ことのほか深いものであった。
もともと日本人は、
現にじぶんたちが居住している区劃が現世であり、
その区域以外のすべてを、奈落のようにひろがる
暗いあの世だと考えていた。つまり一歩聚落から
はなれれば最後、あの世だと思っていたのである。」(p19)
このあとに、地蔵盆で老女たちが繰り返していた地蔵和讃を引用し、
紹介しております。その後に、中川正文氏はこう指摘しているのでした。
「 数年まえ、わたしは青森、下北半島の恐山のイタコの和讃を
テープにとって、その録音を軸に影絵劇に構成し、演出したことがあった。
ところが会場である京都会館の客席が暗くなり、イタコのご詠歌が
再生されて流れだすとどうであろう。客席のあちこちから、
それに和す子どもたちの声がわきおこってきたのである。
・・・・わたしは照明を落した客席から唱和する京の子どもたちの、
和讃の声に驚くとともに、京の町の歴史の深さというものを、
いまさら実感として身にしみて感じとったものである。 」
はい。ここで、地蔵和讃へと触手をのばすと、拡がり過ぎちゃうので、
地蔵盆のわらべ歌へともどることにします。
「 それは盆の七日から始まった。夕暮れ刻ともなると
浴衣に着かえた数人の子どもたちが、竹ざおに提灯をとおし、
それを両方から支えながら町内をねりあるくのである。・・・・
・・もちろん大人はひとりぐらいつく。
町並みは日が暮れると、まったく暗くなる。
・・・灯をかかげながら、まわるのであった。
町内を一めぐりすると八時すぎになる。
このとき男の子たちの歌うのは、
町内ごとに木戸のあった近世という時代を、
よくあらわしている歌詞である。
よいさっさ よいさっさ
これから八丁十八丁
八丁目のこぐりは
こぐりにくいこぐりで
頭のてっぺんすりむいて
一貫膏薬 一貫膏薬
それでなおらな
一生の病いじゃ 」(~p25)
ちなみに、ネット検索してみると
「 こぐり 」とは、
潜り(くぐり)の訛り。潜りにくい潜り(木戸)
ということで、
このわらべ歌の内容にも興味をもつのですが、
それはそうと、いったい中川正文は、どなた。
というのが次の疑問となりました。