和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

地蔵盆の「よいさっさ」

2024-10-30 | 詩歌
駸々堂の「京わらべうた」(京都文庫・昭和47年)を以前
古本で買ってあり読まずにいたのですが、今日になってひらく。
いつもの、パラパラ読みですが、
「一丁まわり」の箇所を読むと、中川正文氏の文が印象深い。
たとえば、こんな箇所。

「 地蔵盆とは、
  子どもたちのために繰りひろげられる上方特有の盆なのだ。
  京都はむかしから地蔵信仰が篤く、子どもたちとの
  かかわりあいも、ことのほか深いものであった。

  もともと日本人は、
  現にじぶんたちが居住している区劃が現世であり、
  その区域以外のすべてを、奈落のようにひろがる
  暗いあの世だと考えていた。つまり一歩聚落から
  はなれれば最後、あの世だと思っていたのである。」(p19)

このあとに、地蔵盆で老女たちが繰り返していた地蔵和讃を引用し、
紹介しております。その後に、中川正文氏はこう指摘しているのでした。

「 数年まえ、わたしは青森、下北半島の恐山のイタコの和讃を
 テープにとって、その録音を軸に影絵劇に構成し、演出したことがあった。
 
 ところが会場である京都会館の客席が暗くなり、イタコのご詠歌が
 再生されて流れだすとどうであろう。客席のあちこちから、
 それに和す子どもたちの声がわきおこってきたのである。

 ・・・・わたしは照明を落した客席から唱和する京の子どもたちの、
 和讃の声に驚くとともに、京の町の歴史の深さというものを、
 いまさら実感として身にしみて感じとったものである。 」

はい。ここで、地蔵和讃へと触手をのばすと、拡がり過ぎちゃうので、
地蔵盆のわらべ歌へともどることにします。

「 それは盆の七日から始まった。夕暮れ刻ともなると 
  浴衣に着かえた数人の子どもたちが、竹ざおに提灯をとおし、
  それを両方から支えながら町内をねりあるくのである。・・・・

  ・・もちろん大人はひとりぐらいつく。
  町並みは日が暮れると、まったく暗くなる。
  ・・・灯をかかげながら、まわるのであった。
  町内を一めぐりすると八時すぎになる。
  このとき男の子たちの歌うのは、
  町内ごとに木戸のあった近世という時代を、
  よくあらわしている歌詞である。


     よいさっさ よいさっさ
     これから八丁十八丁
     八丁目のこぐりは
     こぐりにくいこぐりで
     頭のてっぺんすりむいて
     一貫膏薬 一貫膏薬
     それでなおらな
     一生の病いじゃ       」(~p25)


ちなみに、ネット検索してみると

  「 こぐり 」とは、
  潜り(くぐり)の訛り。潜りにくい潜り(木戸)


ということで、
このわらべ歌の内容にも興味をもつのですが、
それはそうと、いったい中川正文は、どなた。
というのが次の疑問となりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ねむり流し

2024-10-29 | 詩歌
「日本わらべ歌全集3」は「秋田山形のわらべ歌」の巻。
はい。方言が印象的。
はじめにある「秋田わらべ歌風土記」の解説に

「由利郡の方言で、秋田県ではそこにだけみられることばに、
 『 でろ 』がある。これは『 だろう 』の意を持つことばで、
 『 であろう 』が『 でろ 』に変化したものと考えられているが、 
 山形県庄内方言の影響だといわれている。 ・・・・   」(p22)


方言がふくまれる、わらべ歌ということで紹介するのは、
秋田の 『 ねんぶり流した 』 『 ねぷた 』 。

「田の草取りは夏の暑いさかりである。作業の途中でおそってくるのは、
 睡魔。眠けは作業にとって、いちばんのやっかいものだから、
 なんとか眠りを払おうとするわけで、そこから眠けを追いやる祭り
 が生れるのも当然というものであろう。

 それが鹿角市の『 ねぶた 』や、本荘市周辺の『 ねんぶり流し 』
 であり、7月7日の前後に行われる。
 県南の七夕行事や、秋田の竿灯(かんとう)も、もともとは、
 眠り流しの行事であった。『 ねぷた 』は、
 北秋田郡森吉町の周辺では、『 ねぶた 』と発音される。  」(p128)

最後には、その『 ねむり流し 』を引用。

      ねんぶり流した   ( ねむり流し )

   ねんぶり流した 流したよ
   さあ流した 流したよ
   今年豊年 七夕まつり オオエヤ エヤヤ
   ろうそく出せ 出せや
   出さねばぶっちゃくど おまけにかっちゃぐど
   ねんぶり流した 流したよ
   さあ流した 流したよ       ( 本荘市中横町 ) 


注:  ねんぶり流した = 眠り流した 
    ぶっちゃぐど  = 打ち裂くぞ ( 「ぐ」は鼻濁音ではない )
    かっちゃぐど  = 引っかくぞ


        ねぶた   ( ねむり流し )

    ねぶたが流えろ
    家さ行(え)て どんぶひ    ( 鹿角市八幡平 )


 注: どんぶひ = 「胴伏せろ」の秋田訛り。寝なさいの意。
           「 ひ 」は「 しなさい 」の意の秋田方言。


          ( p126~128 「日本わらべ歌全集3」柳原書店 )
     
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ねかせ歌。

2024-10-28 | 詩歌
「埼玉神奈川のわらべ歌」は「日本わらべ歌全集8」(柳原書店)でした。
パラパラとわらべ歌をめくります。子守歌を引用してみます。

       子守りゃ楽なようで   ( ねかせ歌 ) 

   子守りゃ楽なようで してみりゃつらい
   おっかさんにしかられ 子に泣かれ
   雨が降るときゃ 宿がない

このあとに『類歌』というのが載っておりました。

〇  子守り楽のよで、してみりゃつらい、
     あま(姉)さんのおしえたおめざ唄。
            ( 「神奈川県民俗芸能誌」続編 )

〇  泣くな成田のお不動さま、
   ねんねこ信濃の善光寺、
   ねなけりゃ楽なよでつらいもの、
   旦那にゃ叱られ 子にゃ泣かれ。
           ( 神奈川=薮田義雄著「わらべ唄風土記」 )
          以上は、神奈川( p330 )。


地域性を歌った子守歌は、あとから注を読むと、ぐっと身近に感じます。
ということで、まずは歌から。

       いか採り舟の歌     ( ねかせ歌 ) 

    沖に見えるは いか採り舟か
      さぞや寒かろよ 冷たかろ ヨーイヨイ

    嫁に行くなら 西町(にしちょ)はおよし
      のぼりくだりのよ 水かつぎ ヨーイヨイ

    早く日が暮れ はや夜が明けて
      三月二日がよ 来ればよい ヨーイヨイ

    三月二日も 近寄りました
      旦那おかみさんもよ お世話さま ヨーイヨイ

    お世話さまとは 言いたいけれど
      長々みじめによ あいました ヨーイヨイ

    子守り叱んなんな  子守りはだいじ
      子守り叱ればよ 子にあたる ヨーイヨイ

    子守りゃ楽なようで してみりゃつらい
      子守し叱ればよ 子にあたる ヨーイヨイ
                       ( 逗子市小坪 )

今回の最後には、その注を引用しておわります。

〇 井戸の一つしかなかった当時の西町では水にとても不自由し、
  朝早く起きて水を汲みに行く仕事は嫁にまかされていた。
  そんな苦労を娘にさせたくないという親心がしのばれる。

〇 奉公人、嫁は三月三日のひな祭りには里へ帰ることが許されていた。
  また二日は子守り奉公の年季明けの日であった。

〇 お世話さまと礼を言いたいが、随分とつらい思いもさせられ、
  大変だったという気持も一言いいたい守り子の心境であろう。

〇 いか採りの沖の漁火を見ながら子守りをしたことから
  このような題がついているものでこの地区だけの題名であるという。

                            ( ~p334) 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歌詞も変わる。メロディーも。

2024-10-27 | 詩歌
「日本のわらべ歌全集」の本の帯の文を引用。

「 わらべ歌はいつでもどこでも変わる。
  アメーバーのように歌詞もメロディーも変わる。
  だからわらべ歌の記録は山のように必要だ。
  この全集はそれにこたえる大きな山になるだろう。 」
          ( 小島美子・日本音楽史 歴史民俗博教授 )

 ということで、ふたつの手まり歌を並べて引用しておくことに
     『 一番最初に一の宮 』( 赤穂市坂越 )
     『 一番始めは  』   ( 東金市宿 )


     一番最初に一の宮 二で日光東照宮
     三で讃岐の金毘羅さん 四で信濃の善光寺
     五つ出雲の大社(おおやしろ) 六つ村々地蔵さん
     七つ成田の不動さん 八つ八幡の八幡さん
     九つ高野の弘法さん 十で所の氏神さん
      ・・・・・


     一番始めは一の宮 二は日光の東照宮
     三は佐倉の宗吾(そうご)さま 四はまた信濃の善光寺
     五つは出雲の大社 六つは村々鎮守さま
     七つは成田の不動さま 八つは八幡の八幡宮
     九つ高野の弘法さま 十は東京二重橋


ちなみに、帯にはもう一人の言葉もありました。


「 全曲に楽譜のついたわらべ歌の全集が出るとは有難い。
  監修の浅野(健二)さんは、『わらべうた』の編集で
  定評のある方、あのような行き届いた解説が期待できる
  とはまことに学界の大慶事である。  」
          ( 金田一晴彦 言語学・歌謡学者 )


 赤穂市坂越で採集した「一番最初に一の宮」の歌詞のあとには
 こうありました。

「  曲はフランス人ルルー作曲の『抜刀隊』から借りたもので、
   全国的にうたわれてきた。所によってはお手玉歌として遊ばれる。
   うたい替えが多く、類歌はその一例。  」
          ( p72 「日本わらべ歌全集18上」兵庫のわらべ歌 )

はい。本をひろげていると、愛読者カードの葉書がはさまっております。
差出有効期限昭和64年4月30日までとあり、受取人の住所は京都でした。

        京都市西京区川島北裏町74
              柳原書店 資料係行
     
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「 一番始めは 」

2024-10-27 | 地域
弾みがついたので、この際と思い「日本わらべ歌全集」を注文。

それが届きました。「日本わらべ歌全集6下・千葉のわらべ歌」。
はい。さっそく引用。

「全国的に手まりやお手玉にうたわれる『 一番始めは 』に
 出てくる佐倉宗吾や成田の不動さんも・・下総のものである。
 成田市にある宗吾霊堂や成田山新勝寺は、香取神宮とともに
 下総の信仰の中心であるが、わらべ歌によって全国に知られる
 ようになったといっても過言ではない。 」(p19)


      一番始めは    ( 手まり歌 )

   一番始めは一の宮 二は日光の東照宮
   三は佐倉の宗吾さま 四はまた信濃の善光寺
   五つは出雲の大社  六つは村々鎮守さま
   七つは成田の不動さま 八つは八幡の八幡宮
   九つ高野の弘法さま 十は東京二重橋    (東金市宿)

 注: 【一の宮】昔の一国一番の神社。
        その所在地の地名となっている例も多い。
        千葉県下では、長生郡一宮町玉前神社(上総)
        佐原市香取神宮(下総)、
        館山市安房神社(安房)

         ・・・・・・

「 全国の有名な神社仏閣を数え歌にしたもの。
  お手玉歌としてもうたわれる。・・・・・

  佐倉宗吾は江戸時代初期、下総佐倉藩公津村の名主で
  本名は木内惣五郎と伝えられる人。
  重税に苦しむ農民を救うため郡奉行や国家老に嘆願していれられず、
  名主らと共に江戸に上って老中に訴えても却下され、ついに
  宗吾一人が将軍に直訴し、農民の要求はいれられたが、
  宗吾は直訴の罪により磔、子供4人も打首に処せられたという。
  今も成田市宗吾の東勝寺・宗吾霊堂は、その遺徳をしのぶ地として、
  多くの人が参詣する。・・・・    」(~p46)

佐倉宗吾といえば、斎藤隆介作の絵本『 ベロ出しチョンマ 』を
思い浮かべました。さっそくひらけばこんな箇所がありました。

「  去年も今年も洪水や地震や日照りやがあって、
   米も麦もロクロクとれないのに、
   殿様はネングを前よりもっと出せと言って来ている。
     ・・・・
  『 もうこうなったらハァ、ちょうさんだ 』
  『 いっそ打ちこわしでもやっか 』
  『 ごうそするか 』
  『 それよりだれかが江戸へじきそすれば―― 』

  父ちゃんを夜おそく訪ねて来るおじさんたちは、
  じょうだんとも本気ともつかない調子で
  そんなことを言ってはタメいきをついた。
  そしてまた声が低くなって、ヒソヒソ話はいつまでも続く。

  長松はたびたび聞いているうちに、
  聞き馴れない言葉もだんだん分かって来た。
  
  ちょうさん とは田んぼも家もほうり出して、
  よその国へ逃げていくこと、
  打ちこわしとは町の米屋へおしかけて
  米蔵をぶちこわして食う米を取ってくること、
  ごうそ とは殿様の所へおしかけること、
  じきそ は将軍様へ殿様のやり方を言いつけに行くことらしい。
  そしてどれもこれも、つかまってローヤに入れられたり、
  首を切られたりするおそろしいバツがあるらしいのだ。 」

ちなみに、絵本『 ベロ出しチョンマ 』のはじまりはというと、

「 千葉の花和村に『 ベロ出しチョンマ 』というオモチャがある。
  チョンマは長松がなまったもの。このトンマな人形の名前である。

  人形は両手をひろげて十の字の形に立っている。
  そして背中の輪をひくと眉毛が『 ハ 』の字に下がって
  ベロッと舌を出す。見れば誰でも思わず吹き出さずにはいられない。 」


はい。これは千葉県には実在しない人形で、斎藤隆介氏の創作のようです。
ちなみに、
関東大震災の翌年に、安房郡長大橋高四郎は、編纂を白鳥健氏に依頼して
おります。そして大正15年に『安房震災誌』が発行されております。
編纂した白鳥健氏はどのような方か調べていたら、県北で新聞記者をして
いたようでした。その著書に『佐倉宗吾』という本を出しているようです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遊びに変え、歌に変える術。

2024-10-26 | 詩歌
だいぶ前、古本で見つけて買ってから、未読のまま埃をかぶっていた
「熊本宮崎のわらべ歌」(「日本わらべ歌全集25」柳原書店・昭和57年)
を取り出してくる。

はい。この古本はきれいで、めくられた形跡がありませんでした。
それを買ってから、私もまたそのまま、めくらずにいたのでした。

本の最後のページをひらくと高橋政秋氏のあとがきがありました。
そこから引用。

「・・・それに、むかしの子供たちの生活の、
 なんと音楽的であったことか。遊びはもとより、
 苦しかった生活でさえ、てらいもなく歌になっていたこと、
 つまり、生活そのものを遊びに変え、歌に変えるような術を、
 むかしの子供たちは身につけていたのだろうか。

『 親の手伝いだけで歌などうたっているひまはなかった 』と
 言う人でも、採集者の誘いに多くの歌が出てくるのである。
 生活が歌でくるめとられていた感がある。

 当節、歌はどこにも氾濫している。しかし、果して生活の中に
 どれほどの歌があるだろうか。あるのは商品化され、流通に乗せ
 られている歌が大部分なのではなかろうか。
 採集を終えての車の中、この思いがよく頭をもたげたものである。

 しかし、わらべ歌を伝える人たちは、確実に少なくなっていく。
 それとともに消えていく歌も多い。・・・・       」(p456)

それはそうと、この本、辞書をひくように
『 あんたがたどこさ 』をさがしてみる。

人吉市瓦屋町永田とあります。そこで採集したようです。
その下に、採譜・尾原昭夫とあり、楽譜も載っています。

それでは、目的の手まり歌を、忘れないうちに引用しておきます。


    あんたがたどこさ 肥後さ
    肥後どこさ 熊本さ
    熊本どこさ 洗馬(せんば)さ
    洗馬川には えみさがおってさ
    それを漁師が 網さでとってさ
    煮てさ 食ってさ うまかろさっさ

 注 〇 「あんたがた」を「あんたかた」と発音する地区もある。
   〇 「洗馬」を「船場」とも書く。
   〇「洗馬山には たのき(たぬき)がおってさ」とも。
   〇 「えみ」は「えび」のこと。
   〇 「それを漁師が 網さでとってさ」は
     「それを猟師が 鉄砲で撃ってさ」とも。


そのあとに、丁寧な解説がありましたので、そこも引用


「 この歌の発祥が熊本でないことは、
  『 さ 』方言が熊本にはないことと、
  『 あんたがたどこさ 』という問いかけに対し、
  『 肥後さ 』と、肥後人同士なら
  『 肥後 』から説明する要のないことでわかる。
  だが歌の舞台が『 肥後の熊本 』であることは、
  歌詞の通りである。

  洗馬川は熊本城の長堀の下を流れる坪井川のことで、
  藩政時代にこの川で馬を洗っていたことから、洗馬川の異名がある。

   ・・・・・・・
  戦後、県内で最も多く『 手まり歌 』として
  うたわれたのはこの歌であるが、うたう地区と人によって、
  最後の一節がかなり違っている。

  『 うまさが(の)さっさ 』
  『 菜の葉でちょい 』
  『 菜の葉でさっさ 』
  『 それを菜の葉で、ちょいとかぶせ 』
  『 骨を菜の葉で、ちょいとかぶせ 』
  『 菜の花、ちょい 』
  『 ひなたで、さっさ 』
  『 ああ(あら)、うまかったとさ 』
  『 それを木の葉で、ちょいとかぶせ 』――などである。

  なかでも県内で最も多く聞かれるのは、
  『 うまさがさっさ 』『 菜の葉でちょい 』である。

   ・・・・・
  なお、『 えび 』と『 たぬき 』の県内の優勢度については、
  故丸山学氏の採集資料によると、
  26篇中『 えび 』が8篇、『 たぬき 』が18篇で、
  断然たぬきが優勢であり、地域的には入り混っているという。 」
                        ( p80~82 )


おかげさまで、『手まり歌』つながりということで、
京のわらべ歌から、熊本のわらべ歌へすすめました。

詩は書かれるのではなく、歌われていた豊かな時代に
もどれたような気分に、おかげさまでなりました。

『えび』と『たぬき』と、最後の一節と、
さまざまバリエーションの豊かな世界への招待状が届いたような気分です。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わらべ歌と数え歌。

2024-10-25 | 詩歌
昨日、きさらさんからコメントを頂きました。
そのお風呂とわらべ歌の話しを取り上げます。

お風呂では、私などついついカラスの行水よろしく、
子供の頃は、すぐに出てきたものでした。
湯船につかって、肩まではいって、数を数えて、
それから出るように、よく言われたものでした。

その際に、数をかぞえる、という発想しかなかったのですが、
かず数えの代りに歌をうたう。という機転もありえますよね。

「 わたしたちは遊びの中で、速く数をよみたいとき、
『 ぼんさんがへをこいた 』と、早口で何回も唱えた。
『 ぼんさんがへをこいた においだらくさかった 』、
  こう言えば二十までを、あっというまに数えることができる。 」
     ( p14 高橋美智子著「うしろの正面」柳原書店・昭和61年 )

この本「うしろの正面」のはじまりのエッセイの題は「ひとめふため」。
そのはじまり

「 お正月ほど子供にとって待ち遠しいものはない。
     もういくつねると お正月
  年の暮れ近くなるとよくうたった。
  毎晩床の中で目をつむる前に、
  今夜寝るとあといくつと指折り数えて、
  一つずつ数の減っていくのが、
  ワクワクするほどうれしかった。・・・ 」 (p9)


うん。わらべ歌には、「あといくつと指折り数えて」というような、
数かぞえ、という歌のテーマが、重要な隠し味としてあるようです。

はい。あとはただ、この本から順番にわらべ歌を並べてみます。

「  ひとめ ふため みやこし よめご
   いつやの むさし ななやの やつし
   ここのや とおや
   ひいや ふ みいや よ
   いつや む なな や ここ とお    」(p11)

「  ひい ふう みい よ
   四方(よも)の景色を 春とながめて
   梅にうぐいす ホホンホケキョとさえずる
   あすは祇園の 二軒茶屋で
   琴に三味線 はやしテンテン 手まり歌
   歌の中山 チョ五(ごん) 五五(ごんごん)
   チョ六 六六  
   チョ七 七七(ひちひち)
   チョ八 八八
   チョ九が 九十(くじゅ)で
   チョと 百ついた
   ひい ふう みい よ  」

このあとの高橋美智子さんの解説も引用

「 『四方の景色』は、全国の手まり歌の中での秀歌といわれている。
  少し形を変えてうたわれている地方もあるようだが、
  『祇園の二軒茶屋』や『歌の中山』が出てくる京の歌が、
  やはりきれいで京情緒にあふれている。   」(~p20)

ええ~い。ここまで引用してきたのだから、
つぎにある『手まり歌』のはじまりも引用しておわります。


「   ひい ふう みい よ
    よろず吉原 かやや勝栗 ほんだわら
    十(とお)で遠里(とおり) 三上山から谷底見れば
    穂長やゆずり葉 ゆずりゆずり ゆずり葉
    大松小松 海老に橙(だいだい) 笙(しょう)の笛
    
    名古屋の城は高い城で
    一段上がれば 二段上がれば
    三段家には よいよいよい子が 三人ござる
    一でよいのは 糸屋の娘
    二でよいのは 人形屋の娘
    三でよいのは 酒屋の娘
    酒屋娘の きいりょうがようて
    京で一ばん 大阪で二ばん
    嵯峨で三ばん 吉野で四ばん
    五条で五ばんの あねさんみれば
    立てばしゃくやく 坐ればぼたん
    歩く姿は ゆりの花
    これでようよう 一貫貸しました   」

このあとの高橋さんの解説も、これで最後に引用しておきます。

「 手まり歌は、その数の多いこと、内容の豊富なことでは
  わらべ歌の横綱である。

 『 いやー、わたしが歌をうたうのどすか、どうしまひょ 』と、
  取材の席で尻込みされるおばあさんでも、
  なんでもよいから子供のころの歌をうたって、とおねがいすると、
  手まり歌だけは何か一つ思い出してくださった。

  手まり歌には曲の長いものが多いのに、
  その長い長い歌が、うたい手の口から苦もなくスラスラ流れ出す。

 『 六十年も昔のことやのに、うたい出すと次から次と
   文句が出てきて――、不思議なものどすなァ 』・・・」(~p28)

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

うしろの正面 どなた

2024-10-24 | 詩歌
わらべ歌を、いつか読んでみたいと思うのですが、
何だか漠然として捉えどころがない感じがします。

くらべて、京のわらべ歌には手応えが感じられる。
というので、京と、わらべうたとで関係しそうな
題名の、安い古本があるとまず題名買いをします。

今回もそうでした。白川淑著「京のほそみち」(編集工房ノア・2013年)。
副題に「 あるきまひょ うたいまひょ 」とあります。
著者名に覚えはありませんが、そこはそれ題名に惹かれました。

どうやら、この白川さんというのは、詩人のようです。
そのエッセイらしい。ご自身のことを語っております。

「父も夫も転勤族で、何度か住居を移らされた。
 結婚してからでも、はじめに大阪、ついで奈良、
 大阪、神戸、福岡、神戸といった具合に、いくつかの町を経験した。
 
 結局、わたしの60年の人生の中で、心から安心して
 抱かれた土地は、ふるさと京都しかないと言えるだろう。
 祖父母、両親ともに京都人であり、
 この地から教わった生き方の物差しを、
 京を去った後も、ずっとかたくなに変えることはできなかったのだから。」
                        ( p42 )

神戸にいたときに、震災を経験されております。

「 神戸市中央区、山裾のマンションで、わたしは震度7を体験した。
  幸いにも家族は無事、家屋も一部損壊ていどで済んでくれたが、
  父が用意してくれた嫁入道具など、日常の電気器具も含めて、
  ほとんどの家財は処分せざるを得なかった。・・・・ 」(p132)

パラリとひらくと曽祖父と祖父と父のことが載っております。
最後には、そこを引用しておしまいに。

「 わたしの祖父は、老境に入ってからこの(安養寺)弁天さんの堂守り
  をしていました。一人息子でちょっとした男前で上背もあり
  お小遣いにも恵まれ、気ずい気ままに大きくなった人でした。
  環境もあったのでしょうか、早くから祇園街で遊ぶことを覚え、
  そのうえ淋しがりやで賑やかなことが好き、遊ぶ度に沢山の
  人を呼び集めて振る舞うので、近所ではマルイチのアホボン
  と呼ばれていたそうです。

  ・・・京都市がまだ上京区と下京区の二区しかない時代に、
  下京を抑える事業(ハイヤー業)を営み、地域のお世話も
  していた曽祖父にとっては不肖の息子でした。二代目が事業に
  ふさわしくないうえに、昭和初期の大恐慌と円タクブームも手伝い、
  時勢に乗り換えられずに『マルイチ自動車』は倒産いたしました。

  その後、安養寺さんからのお誘いで、弁天さんの堂守りを
  させていただくことになりました。初めての就職といえるでしょうか。
  宵っぱりだった人ですが、早朝より起きて作務衣姿で
  境内をきれいに掃き清め、晩年はすがすがしい生き方でした。
  祖母と二人でひっそりと暮らしていましたが、ここで、
  ぎおんおとこは息をひきとりました。73歳、
  わたしの22歳のお誕生日(7月18日)でした。・・・・

  三代目の父は、事業に向かない文学青年でした。
  学生時代には、学内の文芸同人誌を出していたような人でしたが、
  事業が倒産してからは、志を捨てて一介のサラリーマンになったのです。

  ――むかいの≪玉喜≫さんのお女将さんが紹介してくれはった
  会社へ入ったんや—― なんと呑気な時代だったのでしょう。

  京都人は、もともと転宅を嫌います。
  ――宿替えは夜逃げのときだけ――と思っていたのに、
  大阪へ転勤命令が出たのです。
  今考えると笑いたくなるほどの大騒ぎでした。
  そのとき、高校二年生だったわたしは、転校を嫌って、
  とりあえず、円山の祖父母のもとでお世話になることにしました。

  暗いオレンジ色の電灯の下に、祖父母と小卓ひとつだけの夜。
  中京で家族6人賑やかに住んでいた頃でもあり、
  夜はぞっとするほど寂しいものでした。
  時折、しゃらんしゃらんとお参りの人が振る
  鈴の音が聞こえてきます。夜更けて一人、
  試験勉強などをしていると、ほうほうと梟の啼き声が
  追いかけてきます。仙人ならぬ尼さんになったような気分でした。」
                     ( ~p21 )


はい。京のわらべ歌を読みたいと思っていたら、あにはからんや
京の生活をたどることとなりました。これはこれで京の覚え書きの味わい。

さっそく、思い浮かぶ、京のわらべ歌はというと、

      坊さん 坊さん どこいくの
      あの山越えて お使いに
      わたしもいっしょに 連れてんか
      お前が来ると じゃまになる
      カンカン坊主 クソ坊主
      うしろの正面 どなた


コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

格別な歴史へ

2024-10-21 | 書評欄拝見
9月末に、古本購入した「桑田忠親著作集」全10巻(秋田書店・昭和53年)。
そろそろ一ヶ月になります。今まで私の興味というのは、
そのくらいのパターンで、他へと移ってしまうのでした。
とりあえずは、各巻末の解題だけでも読んでおくことに。

はい。そうして、興味の潮がひいても、また満ちてくる機会を待つことに。
最近は、そんなことを思うようになっております。
そんなことを思っていたら、浮かんできた書評がありました。
それは、書評家向井敏氏が、中野重治著「本とつきあう法」を
とりあげた箇所でした。

「 『本とつきあう法』は昨今しきりに刊行される読書論の
  はしりともなった本だが、・・なかに
  芳賀矢一・杉谷代水の共著になる
 『 作文講話及文範 』 『 書簡文講話及文範 』に触れた章がある。
  文章と手紙の書き方を説いたこの古い二冊の本のために、
  中野重治はその美質を簡潔的確に評したうえ、
  書評史上まれに見るすばらしい言葉を捧げた。・・・・

    ああ、学問と経験とのある人が、
    材料を豊富にあつめ、手間をかけて、
    実用ということで心から親切に書いてくれた
    通俗の本というものは何といいものだろう。     」

      ( p143 向井敏著「本のなかの本」毎日新聞社・1986年 )


ということで、桑田忠親著「戦国武将の手紙」のはしがきの
はじまりを最後に引用しておきたくなります。


「 学生時代から歴史の書物や歴史小説を耽読し、
  特に日本の歴史に深い興味を抱いていた私は、
  大学を卒業して、東京大学の史料編纂所に勤め、
 『大日本史料』や『豊太閤真蹟集』や『古文書時代鑑』の
  編纂に従事するにつれて、日本歴史に対する認識を
  新たにせざるを得なくなってきた。・・・・・・・・

  ・・歴史の材料には、さまざまな種類のものがあるが、
  その中で、古文書と古日記が一番確実な史料だということも理解できた。

  それ以来、学者の評論や作家の時代小説を読んだり、
  物語、伝記、記録などをひもとくよりも、
  古日記を読んだり、
  古文書をあさったりするほうが、
  ずっと楽しくなってきた。

  それによって、歴史の真相に、より以上触れられる
  可能性を見いだしたからだ。たとえば
  麗々しく巻物にして桐の箱に納めた系図よりも、
  襖の下張りにされた古い手紙のほうが、
  史料的価値が遥かに高い、ということを教えられたのである。

  ところで、・・・古文書は、数が多いし、新たに発見される
  可能性にも富んでいる。その点、古文書、即ち、
  歴史上の人物の書いた手紙を、読み解いたり、
  新しいものを発見したり、調査したりする楽しさは、格別である。
  体験した人でないと、その味はわからない。・・   」
     ( p187 桑田忠親著作集第三巻「戦国武将(二)」 )


はい。とりあえず各巻凾入りの古本の真新しいページをひらいて、
各巻の解題だけは読みました。私のはじまりは、ここまで(笑)。

ということで、この全集の第一巻の解題の最後を引用して
おわることに。

「 このようにして、桑田史学の世界は、
  古文書の研究を基盤とした史学研究であり、
  その研究成果を、わかり易い文章として、
  より多くの読者の心を動かそうとするものである。
  
  つまり底辺を広くし、全体の水準を高め、
  以て日本文化の発展に寄与しようと意図したものである。 」

     ( p349 著作集第一巻の解題・米原正義「桑田史学の世界」 )



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書道の教訓書

2024-10-20 | 古典
桑田忠親著作集第1巻「戦国の時代」(秋田書店・昭和54年)
本文最後に、「武人の書風」(p336~344)があります。
そこから、印象深い箇所を引用。

「・・・・ここに紹介するのは、
 桃山時代初期の天正13年(1585)の正月29日付で、
 建部賢文(たけべかたぶん)という戦国末期に活躍した
 書道の大家が、5人の息子のために書き残した書道の秘伝書である。
 ただし、外題は『入木道教訓書』となっている。・・・ 」

はい。ここには、前書きと後書きとを引用しておきます。
前書きには、 

  『 筆道の事、若年より訓説をうけず、古法にもたがひ、流布。
   世間の嘲りを喫するといへども、愚息に対し、
   思趣のかたはし書きつくる条々 』

後書きには、

 『 賢文、十歳の此(ころ)より在寺せしめ、
  此の道に執心候といへども、
  師跡を請けず、愚才およびがたきにより、
  つひに道を得ることあたはず、すでに老年に及ぶ。

  しかはあれど、在世中巧夫(くふう)せしめ候趣、
  おもひすてがたく、自然、
  子共の中に執心する事あらば、披見せしめ、
  稽古すべきものなり 』

このあとにつづく、桑田忠親氏の文もすこし引用しておきます。

「これによると、建部賢文は、この書道の教訓書を
 その息子たちのために書き残し、その中で

『 斯道(しどう)に志ふかい者がいたならば、
  これに従って学ぶがよい 』といっている。

 賢文の子供は、・・五男のほかに一女があったというが、
 このうち、賢文の遺志を継いで、伝内流の書道を世に伝えたのは、
 三男の伝内昌興であった。
 この遺訓を賢文がしたためた時、昌興はまだ8歳の幼児であった。
 しかし、昌興は年少14歳で、すでに手鑑(てかがみ)を書き残し、
 豊臣秀吉に仕えて右筆となり、秀吉の朱印状にその得意の能筆を
 振るっているほどだから、8歳当時はやくもその天分が現れていた
 と思われる。それを父の賢文が認知し、おそらく昌興に将来に対する
 嘱望を託したのであろう。・・・  」


はい。肝心の書法の極意秘訣の箇条からも、
適宜引用しておわりといたします。

〇 筆もとはや過ぎ候へば、手跡おちつかず、筆力いづべからざる事

〇 真、草、行、仮字(かじ)にいたるまで、
  ほそく、たはれすぎ、艶なるは、みな、よわみたるべく候。
  弘法大師・尊円親王・定家卿の筆躰(ひつてい)、いかにも、
  たしかに見え候事 

〇 当座の消息は、手本書きに相違すべく候。
  すこし墨薄に、よく心を取り静め、
  字ごとに心を残し、一字一字に念をいれず、
  なだらかに、これをあるべきの事

〇 扁(へん)と作(つくり)と、気をかへず、
  おなじ心にかたらひ、字うつりへはやく心をつくべき事


注:毎日新聞社「書と人物」第3巻武人(昭和52年)のはじめに
  桑田忠親の『武人の書風』の文が載っており、
  そこには、小さいのですが「入木道教訓書」の
  巻頭と巻末の写真が載っております(p8~9)
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『戦国武将の手紙』その授業風景。

2024-10-19 | 前書・後書。
桑田忠親著作集第三巻「戦国武将(二)」の解題は米原正義氏。
米原氏は、桑原忠親の授業の回想を文に書いておりました。
それを読んでいると、この第三巻自体の奥行きを感じます。

『戦国武将の手紙』の授業風景を回想から引用。

「まず読みである。読めない箇所があってもそう簡単には教えてもらえない。
 ・・ややあって先生から教えられ、ほっとする。おかげであまり進まない。」

「重要語句・歴史的用語などの説明はことにくわしく、・・板書される。
『笑止』を文字通り、笑を止めるので『気の毒』と解釈する
 ことを知ったのも、この元就の教訓状を教わったときであったし、
 歓楽が病気の意味だと知った」

「それにしても先生の話で最も参考になったのは先輩の活躍の様子であった。
 ・・在学中に特に多く、すぐれた先輩の研究について、研究態度、
 その他の話を聞いた。・・・・

 つたない論文を発表したときでも、
『 あんな論文では駄目だ 』と言われたことは一度も聞いたことがない。
『 論文には良いところが必ずある 』といわれ、
 勇気と自信を持ったことであった。・・・・・

 何だか解題にならない解題を書いているようだが、
 そうではなく、要するに『戦国武将の手紙』は、
 一朝一夕にできたものではなく、こうした授業の中から、
 長い年月を経て生まれたものである、と言いたかったのである。」(~p355)

こうして、解題を読んでから、『戦国武将の手紙』の「はしがき」を見ると、
何だかこの授業を受けている学生へと語りかけているような箇所がある。

「・・・近頃は、若い人は、もちろん、おとなでも、
 墨でしたためた走り書きや、候文体に接触する機会に恵まれないから、
 自然と、そうした体験に欠けてくる。

 歴史評論家や社会科の教師で、古文書が読めなかったり、
 ほんものと偽ものとの区別が判定できない人も、ざらにいるし、
 専門の歴史家でも、自分の専攻する時代以外のものは、
 そんなにわかるものではない。

 わかったような振りをする学者ほど、
 なんにもわかっていない場合が多い。
 学問とは、元来、そんなものである。

 だから、素人の歴史趣味家でも、
 格別、悲観するに当たらない。
 要は、古文書に親しむ度数が物を言うのである。  」(p187~188)

ここでは、授業を受け専門の学問を究める人もあるだろうし、
卒業して、社会科の教師になる人もあるだろうけれども、
また、畑違いの職業につくかもしれないが、そんなのことは、
『 格別、悲観するに当たらない 』と語りかけているようでもあります。

米原正義氏の解題には、こんな箇所もありました。

 「 授業の途中、先生の武勇談が出る。今でもその殆どを覚えていて、
   なかなか面白い話があったが、内容を紹介する紙数がない。 」(p355)


第三巻をパラパラひらいていると、
『 初陣にみる戦国武将の生き方 』(p338~344)などは
そんな『 なかなか面白い話 』を聞けた気分になります。
勿論、全文を読んでいただきたいのですが、
ここには最後の箇所を引用しておくことに。

「 武将にとって、初陣というものは、
  元服式や婚礼よりも大切なものであるから、
  千軍万馬の間を往来した戦国の名将は、
  大抵、14か15、6で、これを体験した。
  信玄、謙信、信長など、みな、この線を行っている。

  ところで、・・・織田信長も、二代目になると、次男の信雄(のぶかつ)
  三男の信孝など、みな、秀吉に滅ぼされたり、追放されたりし、
  三代目の織田秀信(信長の嫡孫)は、
  豊臣家臣となって生きながらえたが、
  ・・関ケ原の戦いに、石田三成に味方したのはいいにしても、
  岐阜の居城を徳川勢に攻められたとき、19歳で初陣を強いられた。

  そのとき鎧かぶとを、どれにしようかと、
  カッコいいのを選びあぐねているうちに、
  戦機を逸し、城を攻め落され、降参している。

  また、稀世の英雄豊臣太閤秀吉も、二代目になると、
  ひどいものである。大坂夏の陣で、・・・
  譜代の家臣に励まされ、いでたちも美々しく、
  大坂城の桜門を出て、天王寺に向かって出陣しようとした。

  これが総大将秀頼にとって、まさに晴れの初陣であった。
  しかし、秀頼は、すでに23歳にもなっていたが、
  実戦の経験は皆無である。そのくせに、女色のほうにかけては、
  正妻の千姫のほかに、愛妾も貯え、子も2人ほど産ませて、一人前だが、

  母公淀殿の教育よろしからず暖衣飽食、遊堕に流れ、
  徒(いたず)らに肥満していた。10万の将兵を
  統率するどころのさわぎではない。
  教育ママと一緒に、親ゆずりの大坂城内で
  自害できただけでも、上々であった。   」(p344)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦陣の伽(とぎ)。

2024-10-18 | 道しるべ
桑田忠親著作集第三巻「戦国武将(二)」のはじまりは
『大名と御伽衆』。まず「御伽衆について」という4ページの文。

はい。私はこの箇所で、もう満腹。
すこし腹ごなしを兼ねて、引用してみます。

「 御伽(おとぎ)というのも、
  御咄(おはなし)というのも、
  すべて敬称である。

  しからば、伽(とぎ)とは何であろうか、
  伽とは、その語源に至っては詳らかでないが、
  字のごとく、人が加わることである。

  すなわち、人が大勢集まって眠らずに夜を過ごすことである。
  戦国時代以前には、単に通夜の意味にのみ用いられたらしい。

  通夜には種々な場合があって、
  一般にいえば、庚申待(こうしんまち)とか、
  武士でいえば、戦陣の夜警などである。

  そして、かかる際の通夜すなわち伽ということを
  妨げるのは睡眠であり、その睡眠を克服するには
  咄(はなし)によるほかない。
  咄によって伽を遂行するのである。

  従って、伽をするということは、咄をすることを意味し、
  この両語は遂に混用せられるに至ったのであろう。
  現在でも、山口県などでは、茶話(ちゃばなし)のことを
  茶伽(ちゃとぎ)と言っているようである。

  戦国時代には咄が大いに流行した。その起源は、
  なんといっても、戦陣の際の伽にあったと思われる。
    ・・・・    」  (p12)

  戦陣といえば、そういえば、衆議院選挙の最中ですね。
  ここでは、つい選挙と戦陣とを結びつけたくなります。
  ユーチューブで、さまざま御伽衆の語らいが聞けます。

桑田忠親氏は御伽衆の資格をこう指摘されておりました。

「 まず第一に、咄巧者、すなわち話術に巧みであること、
  第二に、その咄に適応する体験と技術の所有者たることを
  必要としたらしい。

  特殊な技術のあることは、それのみで御伽衆の資格となる場合が多いが、
  御咄衆としては、体験があっても肝心の咄そのものが下手では困るし、
  いくら咄巧者でも体験の伴わない、聞きかじりや、作り咄では、
  これまた値打ちが少ない。 」 (p14)


ユーチューブでは、高橋洋一氏の話を私はわりかし聞いている方です。
安倍晋三氏から電話がかかってきたとか、出向いたとか、
高市早苗さんから電話があったとか、現在の御伽衆のひとりに、
高橋洋一氏をあげてもよさそうな気がしております。
咄は訥々としておりますが、実務経験が豊富で、数理に明るい、
こういう御伽衆をそばに先陣をすごしている、
選挙という明暗を、御伽衆の語らいで聞いている気分になります。



  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「読み、書き」の一点張り。

2024-10-17 | 手紙
桑田忠親著作集第1巻「戦国の時代」の目次をひらくと、
最後に「武人の書風」という題の文が載っている。
本の最後をひらくと、初出再録一覧があって、昭和52年に
出版された「書と人物」3(毎日新聞社)に掲載された文でした。

「 人間の生活と書とは密接な関係がある。
  今日、一般の人間の書が下手なのは、  」

と、はじまっております。この「今日」とは、昭和52年頃でした。
そのあとも、つづけて引用。

「 われわれの生活が近代化し、物質科学化したからである。
  人びとの社交は、電話・電報などで簡単にすまされる。
  年賀状もはがきに活字で刷るし、
  封書の手紙も万年筆かボールペンでしたためる。
  これでは、書が上達しないのも当然だ、
  学問の幅も非常に広くなって、書などを習っている暇もないし、
  字が下手でも学識者・教養人で通用する。
  しかし、昔はそうではない。・・・・   」(p336)

はい。習字はどうやっても下手な私ですが、それでも、小学生の頃は、
書き初めの時期に、講堂の床で皆して筆を持ってました。
そういえば、あれ以来、書き初めなんてしていないなあ。
桑田氏の文をつづけます。

「 ・・昔はそうではない。『読み、書き、そろばん』という言葉があるが、
  江戸時代以前は『読み、書き』の一点張りで、これと少々の
  古典芸能の嗜みがあれば、学識者・教養人とみなされた。

   ・・・・・・・
  武人は、武を表芸とするが、武事や戦いの余暇には、
  文事を嗜んだ。その文事というのが、具体的にいえば、
 『 読み、書き 』なのだ。つまり、読書と習字である。
  この両様の学習は、もちろん一生の課題でもあるが、
  中流の武士の家庭においては幼少時から近くの寺院の
  僧侶について、上流武家の場合は書家を家庭に招いて、
  強制的に学ばされた。 」

このあとに、語られる事例が列挙されておりますので、
この機会に、引用しておきたくなります。

「 古い時代のことは、関係文献史料が不足なため実情を
  明らかにしがたいけれど、源義経などは牛若と呼ばれた11歳の頃、
  鞍馬山の僧侶について書を習ったであろうし、
  楠木正成は8歳で河内の観心寺に入り、院主の滝覚房について
  学問を修めたというが、習字も学んだに相異ない。

  さらに戦国時代に実例を取ると、
  米沢市の上杉神社には、上杉謙信が7歳で越後春日山の林泉寺に入り、
  天室禅師について書を習った時の≪ 片仮名イロハ ≫の筆跡が
  保存されている。

  豊臣秀頼が、5歳から18歳まで、大坂城内で当代一流の書家について
  稽古した≪ 豊国大明神 ≫の神号筆跡は、10数通も現存する。
  秀頼の父秀吉も幼児、手習いのために尾張中村の光明寺に入った
  というし、徳川家康も幼時、駿府伝馬町の知源院で習字にはげんでいる。

  四国の覇者長曾我部元親も、習字は土佐の吸江庵の真蔵王(しんぞうす)
  について修めた。彼らが、そのほか、さまざまな武芸・学問・芸能などを
  その道の達人に学んだのは、

  今日の社長の坊ちゃんが、英語や数学やゴルフを、それぞれ専門の
  家庭教師について学ぶのと類似しているといえなくもない。
  要するに、少年時代、戦国式寺子屋で、または一流の家庭教師に
  ついて学び、生涯の文武両道の嗜みの基礎を固めさせられたのである。」
                              (~p337)


はい。こうして桑田氏の文ははじまっておりました。
ちなみに、著作集の「武人の書風」には書の写真がはぶかれてる。
ここは、ひとつ昭和52年発行の「書と人物」3(毎日新聞社)を
古本で買うことにしてみました。こちらは書の写真入りです。

注文は「日本の古本屋」。
福岡県宗像市の、すかぶら堂書店で
500円+送料500円=1000円で購入。
それが届きました。凾入り。30.5×21.5㎝。
まずひらくと、桑田氏の文があり、
文の上にありました。豊臣秀頼の歳書(8歳と11歳)
「 豊国大明神 」の習字が踊っておりました。

「武人の書風」の最後の方からも引用しておきます。

「 私が最も感動するのは、足利尊氏・大田道灌・北条早雲
  上杉謙信・真田幸村・宇喜田秀家などの筆蹟である。
  専門の書家から見れば、どう批判するかは知らないが・・・・

  ともかく、みごとな書の一語に尽きる。
  堂々として、かつ悠揚迫らぬものがあり、
  気品もあり、格調も高く、その人らしい味わいがにじみ出ている。
  どうして、このようなみごとな字が書けるのか。
  私は改めて、いろいろと考えてみたが、やはり、
  武将としての彼らのつねに躍動した生活、
  身についた文芸の嗜み、生死の境を超克して、
  その日その日を力強く、たくましく生き抜いていった
  武人としての根性、悟りの心境、そういったものが、
  ・・・これらの書のうちに脈々として生きているからだと思う。
  そうでも思う他に正しい回答は得られないのである。・・・・ 」(p344)

 
さてっと、『書と人物』第三巻(武人)をゆっくりとひらき、
そこから、桑田氏が感動するという書を味わうことにします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大名と御伽衆。

2024-10-15 | 前書・後書。
桑田忠親著作集の第三巻「戦国武将(二)」の目次には、

〇 大名と御伽衆
〇 戦国武将の手紙
〇 史論史話

とあります。「大名と御伽衆」の序にはこうあります。

「 初めは・・官位部の御伽衆の項を補うくらいな軽い気持で
  集めていたが、次第に面白くて罷められなくなってきた。
  恩師や学友の御声援もあって、極く身内の専門雑誌に
  その成果を発表したのも、随分前のことである。
  それから、この御伽衆又は御伽の問題が意外に
  広い社会史的背景をもっていることにも段々と気がつき・・・ 」

とあるのでした。さすがに著作集だけあって、そのあとに
『 増補新版の序 』を加えてあります。そのはじまりは、

「 日本歴史と国文学との両方面にまたがる特殊な研究の
  成果といささか自負する『大名と御伽衆』を公刊して・・・ 」

うん。興味深いので第1章のはじまりを引用。

「戦国時代の大名の間に設けられた官職にはさまざまなものがあるが、
 それらは、総じて、きわめて単純な制度から出来あがったすこぶる
 実用本位な職業であって、実に江戸時代に於ける諸職業の淵源を
 なすものであった。ここに述べようとする
  
 御伽衆(おとぎしゅう)なども、それらに類する御伽という職業に
 あった人々の総称であって、しかも、その語ることろは、
 よく主君たる大名並びに将軍の見聞を拡めしめ、かたわら、
 区々たる史実をも伝播するに与って力があった。
 そこに特に留意すべき価値が認められるのである。・・・」(p11)


はい。私などは、ついつい子供に話して聞かせるところの、おとぎ話
しか思いつかなかったのですが、それについても、語られておりました。

「御伽噺を古典的な童話ときめてしまうのは間違いだ。
 すなわち、御伽噺とは、御伽の際になされた咄であり、
 それには、種々様々なものがあった。

 大人向きのものもあれば、子供向きのものもあった。
 大人の御伽の席で語られたのは大人向きの咄であり、
 子供の御伽の席で行なわれた咄は子供向きの咄であった。
 
 ただ、若殿相手の御伽ということが盛んになってくるに従って、
 子供向きの咄、すなわち、童話というものが創作されてきた。
 昔咄の中から子供向きのものを取ってきて、
 童話風に創作するようになってくる。

 しかし、御伽噺すなわち童話ということになったのは
 もちろん、明治時代になってからのことで・・・・   」(p175~176)

ちなみに、この「大名と御伽衆」の最後には
『 物読み法師と源氏物語 』と題する8ページほどの文がありました。
はい。最後にここから、すこし引用。

「 ・・禁裏御用の餅屋として知られる川端道喜や
  堺の納屋衆出身の茶匠千利休の身辺にも、
  物読み法師がいたことが知られるが、ともかく、
 『 源氏読みの法師 』というのは、珍しい。 」


うん。そのあとに、源氏物語の朝顔の巻からの引用もありました。
その引用にでてくる歌を終わりに引用しておきます。

    秋はてて露のまがきにむすぼゝれ
           あるかきかにうつるあさがほ



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山車引き回し。

2024-10-14 | 地域
ここのところよい天気続き。
13日が山車引回し。今日の14日午前中がその後片づけ。
よい天気に恵まれ、たのしく過ごせました。
隣り地区との合同引回しが、6年ぶりなのだそうで、
祭りの時にしか会わない方々と、目礼したり声をかけたり。
輪になって踊る婦人部の方々をまえに、飲むビールも格別。
さてっと、秋祭りは終りました。練習日から引き続き、
休めず気を張っていた役員さん方ご苦労様でした。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする