鴨長明の「発心集」(角川ソフィア文庫・上下巻)。
その第一の現代語訳は、こうはじまっておりました。
「昔、玄敏僧都という人がいた。奈良の興福寺の
大変立派な学僧だったが、俗世を忌み嫌う心は非常に深く、
寺中の付き合いを心から嫌っていた。そんなわけで三輪川の
ほとりに、小さな庵を結び、仏道修行のことをいつも
心に思いながら日を暮らしていた。」
「・・・平城天皇の御時に、大僧都の職をお与えになろうと
されたところ、御辞退申し上げるということで、こんな歌を詠んだ。
三輪川の清き流れにすすぎてし衣の袖をまたはけがさじ
・・・そうこうしているうちに、弟子にも、また下仕えの者にも
知られないで、どこへともなく姿を消してしまった。・・・ 」
はい。このように、姿をくらますエピソードが、いろいろと出てきます。
あらためて『序』の現代語訳をみますと、こんな箇所がありました。
「・・ただ自分の身の程を理解するのみで、
迷愚のともがらを教え導く方策などは持っていない。
教えの言葉は立派であるのだけれども、
それを理解して得る利益(りやく)は少ないのである。
それゆえ浅はかな心を考えて、とりわけ深い教理を求めることはしなかった。
わずかに見たり、聞いたりしたことを記しあつめて、
そっと座のかたわらに置くことにした。
すなわちそれは
賢い例を見ては、たとえ及び難くとも一心に願う機縁とし、
愚かな例を見ては、自らを改めるきっかけにしようと思うからである。
・・・ただ我が国の身近な分かり易い話を優先して、
耳にした話に限って記すことにした。それゆえ
きっと誤りも多く、真実も少ないかもしれない。・・・
ただ道端のたわいない話の中に、
自らのわずかな一念の発心を楽しむばかりというだけである。 」
( p249~250 )
発心集の最初の方には、高僧がどこかへ消えてしまう話がつづきます。
それを弟子たちが探し出しては・・・。という感じで話がつづきます。
ちょうど、富士正晴著「狸の電話帳」を身近に置いてあるので、
それを開き、連想がひろがりました。こうあります。
「わたしは幼少のころからずっと、教えられることを習うことが
全く下手であった。・・何とか辛抱しつつ旧制高校までは入ったが、
ついに二年生にもなれず中退した。・・・・
この世に生きて行くことに役立つような事柄を、
従ってわたしは、学校で受けとったような気がしない。
小学校で教えてくれた修身や、小学校の教師であった父親の
教訓などに大抵反撥していたのだろう。一向にそのようなもの
から影響を受けとっているような気がしない。 」
このあとに、ひとつのエピソードが語られておりました。
「 小学校の四年位の時、小川にかかっている鉄橋を
中程まで渡って来たところ、向こうから電車がやってきて足がすくんだ。
あたりはずっと見とおしのきいた平地だったから、
向こうから電車のくるのは見えていたと思う。・・・・
足がすくんだまま小川を見下ろしてみたが飛び下りる勇気が出ない。
といって走り戻ることにしても間に合いそうにない。
電車は近づきつつジャンジャン警報をならす。
後をふりかえった時、人が岸のレールのそばにやって来たのが判った。
そのころは着ているもので職業が判った。その土方風の人は
わたしをみるとすぐにヒョイヒョイと鉄橋の枕木を
地下足袋でわたって来て、わたしを後ろ抱きに抱いて
岸まで運び、レールの外へ出して別にものもいわずに
さっさと立ち去っていった。わたしは礼もいわなかった。
こういうことの方がわたしの生き方に影響を与えているような気がする。
後になって、火がついてあわてている小学生の着物を、
素手ですぐさまもみ消したことがあったが、
( 熱があろうなどということは全然思いもしなかった )
これはあの土方のおっさんの行動の影響であったなとすぐ気がついた。」
( p9~10 )
私の場合はどうだったのか。助けられたことはかず知れず。
助けられたことを片っ端から忘れ去っていたと気づきます。
そしてちっとも、『一念の発心』へつながりませんでした。
うん。今からでもおそくはないか。