和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

語り部、渡部昇一。

2017-04-30 | 道しるべ
新刊の書評を見ないようにして、
新刊は買わないようにしてるんですが、
ついつい、新刊に手が出ます(笑)。


「渡部昇一の少年日本史」(到知出版社)が届く。
そのあとがきの最後を引用。


「私もすでに86歳です。
体長はいつも必ずしもいいとは限りません。
その点で本書は、皆さんが生まれるよりも少し前に生まれて、
皆さんの知らない戦争も含めて日本の歩みを見てきた
渡部昇一という人間が、これからの日本を支える
若い人たちに向けて書いた一種の遺言とみなしていただいても
結構だと思います。本書を通じて、
私たちの世代が見てきた日本の輝かしい虹を
若い世代の人たちが受け継いでくれることを
願ってやみません。
  平成29年4月   渡部昇一      」

あとがきの最初の方には、こうあります。

「・・・私は本書を書くにあたって日本史の参考書を
積み上げて詳しく調べて書くというやり方をわざと避けました。
そして、日本史の中で私が重要だと考えている出来事を
参考文献に頼ることなく一気に語りました。
しかも、若い人が読者になるということなので、
極力わかりやすく語ったつもりです。」
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「森友学園」ならWⅰLL6月号。

2017-04-28 | 道しるべ
でました。
以後、森友学園問題は
この雑誌を読んだ人と、読まない人で
はっきりと二分されるでしょう。

ワイドショーを見てる場合じゃないなあ。
ワイドショーでの守備範囲を越えてゆく。
この雑誌を読むのは今。
森友学園問題がフェイド・アウトされる前に、
ぜひおすすめ。


雑誌WILL6月号の
高山正之・山口敬之対談。
そのp201~209

はい。おあとは、読んでのお楽しみ。
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勝味のない戦いでも。

2017-04-28 | 朝日新聞
WILL6月号に
日下公人氏が「緊急寄稿 渡部昇一氏を悼む」を載せておりました。

「・・・今日まで約四十年、先生の波瀾万丈の人生を
おそばで拝見させていただいたのは望外の幸せだった。
その頃、先生は文藝春秋社がだした『諸君!』で朝日新聞を相手に、
一歩もひかぬ言論戦を戦っておられた。
【勝味のない戦いでも戦い通す】人がいると知ったのは
大いに励みとなった。・・・」


ということで、
渡部昇一著「朝日新聞と私の40年戦争」(PHP研究所)を
本棚からとりだして、ひらいておりました。


正論6月号にも
「追悼渡部昇一」。

そこに田久保忠衛氏の文

「渡部先生といえば山形弁です。
『なまりがきついと、厳しいことを言っても
恨まれないんだよ】と笑う・・・」(p337)

うん。山形弁と渡部昇一。
というのは、意外でした(笑)。

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震災と本棚。

2017-04-25 | 三題噺
谷沢永一著「紙つぶて【完全版】」(PHP文庫・1999年)。
この解説を渡部昇一氏が書いておりまして、
久しぶりに読み直し、以前は何を読んでいたのだろうと
思いました。



「ノーサイド」1995年5月号は
特集「読書名人伝」表紙に小さく
「今月は、地震にも強い読書特集。」とあります。
谷沢永一の「阪神大震災わたしの書庫被災白書」が載っています。


「新潮45」2016年6月号に
高山文彦氏が「瓦礫の中から」を書いております。
題は「石牟礼さん、渡辺さん、ご無事でしたか」
題の脇には
「心配したのは、熊本市内に暮らす石牟礼道子さんと
渡辺京二さんのことだった。89歳の作家と
85歳の歴史思想家は、瓦礫の中で『文明と人間』を見ていた。」
ここに、渡辺京二さんの様子がリアル。


ここでは、渡部昇一氏の解説から引用。

「どんな鬱状態の時でも、谷沢は対談や口述になると、
光彩陸離たる話し手、いな噺家ともなるのだ。
ここに私は『光彩』という言葉を使った。
これは私には体験があるからである。」(p556)
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ガリ版刷り。

2017-04-24 | 道しるべ
ちょっと、気になって
どこかの本で、チラッと出てきたのですが、
どこか中国の草原でしょうか、あたりに木々はない。
子供たちが通学している。
突風から竜巻になることがよくある。
そうすると、子どもたちが手をつないで
まるくなって、その竜巻をやり過ごす。

そんな回想が、どこかにあったなあと
ほとんど、手がかりなく、その本の在りかを探す。
ほんの数行だったような気がするので、
こりゃ、さがせないなあ。と思いながら。

もちろん、出てきません(笑)。

かわりに、見つけたのが
この二冊。

一冊目は
「梅棹忠夫語る」(日経プレミアシリーズ新書)
そこに、

小山】 ぼくもアメリカとかイギリスへ行って、
アーカイブズの扱いの巧みさというものを見てきました。
パンフレットとか片々たるノートだとか、
そういうものもきちっと集めていくんですよね。

梅棹】 アメリカの図書館はペロッとした一枚の紙切れが残っている。

小山】 その一枚の紙が、ある機関を創設しようとかっていう
重要な情報だったりするんですな。それがきちっと揃っている。(p80)


もう一冊は
岡崎ひでたか著「鬼が瀬物語 魔の海に炎たつ」(くもん出版)
そのあとがきでした。

「わたしは千葉県立館山図書館の郷土資料コーナーで、
富崎村役場の記録を発見しました。
富崎村は、現在の館山市布良(めら)相(あい)の浜に当たります。
明治時代の貴重な記録を、おそらく大正時代に
がり版刷りにしたものでしょう。
紙は茶色くがさがさになって、
ガリ刷りは薄らぎ、文字の線が消えかかっていました。
しかし、それを丹念に読みとるほどに、
この村で起きた壮大なドラマがわたしの脳裏に浮かんできました。
その綴りは、かんたんな事務的な文書であったのに、
それを物語化したい思いが、三年、五年と
年月を経てもはならませんでした。」(p246~247)


さてっと、子どもたちが手をつないで
竜巻をやりすごす箇所はでてきません。

どなたか知りませんか(笑)。
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ずーっと生き続ける。

2017-04-20 | 道しるべ
自分が60歳を過ぎると、
若い人の方を見るより、
先輩方はどうしてるんだろうと、
そんな方向に気持ちがむきます。

さてっと、
渡部昇一氏と日垣隆氏との対談に、
77歳から借金をして書庫を建てたことについて、

渡部】 いや、死ぬことも考えているのですが、
死ぬつもりで計画を立てて死ぬのと、
ずーっと生き続けるつもりでいて
死ぬのとどちらがいいかというと
私は後者を選びますね。

日垣】 渡部先生はいったい何歳まで
生きるおつもりですか。あっ、すみません。

渡部】 九十五歳までは生きたいですね。
九十歳を越えると、肉体的にも精神的にも安らかで、
苦しまない死に方ができると思います。
『死ぬ』というよりは、『あちらの方に静かに移動する』
という感じだと思うのです。

(p42「WILL」2008年2月号)


こんな箇所もありました。

渡部】 ・・・
一度、読み込んだ本は、線を引いたり書き込みをしたりしておけば、
次に見た時に主だったことは全部そこを見ればわかるようになりますからね。

(p44)


はい。この雑誌の、この箇所に線引きをしておいたので、
すぐに眼がいきました(笑)。
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あと10年。

2017-04-19 | 産経新聞
昨日の産経新聞一面左上に
渡部昇一氏の死亡記事。

今日「産経抄」には

「77歳のとき、2億円を超える借金をして
家を新築し、友人を驚かせた。
巨大な書庫には、なんと和洋漢の本15万冊が
収蔵されている。」

とあり、コラムの最後は

「昨年刊行したばかりの『実践・快老生活』には、
こんな記述がある。
『95歳くらいまで歳を重ねれば死ぬことさえ怖くなくなる』。
86歳の渡部さんにとって、あと10年近くは
『知的生活』が続くはずだった。」


2008年2月号「WILL」を本棚から取り出してくる。
そこには渡部昇一氏と日垣隆氏との対談が載っていて、
巨大な書庫の写真もあったのでした。
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曽野さんの生活感。

2017-04-16 | 道しるべ
週刊誌の購読はしてない。
新聞の定期購読は一紙のみ。
ということで、
月刊誌については、財布を緩めぎみ(笑)。

Voice5月号の曽野綾子さんの連載「私日記」は
「忘れるための月日」と題されております。
そのはじまりは
「2017年2月1日~28日
この月、私の意識の中から、社会が霞んでいる。
2月3日早朝、夫の三浦朱門が病院で息を引き取った。
恵まれた死、というのはおかしいという人がいるだろう。
しかし私にはそう見える。朱門は、取り立てて心配する
こともなく、亡くなったからである。」

こうはじまる8頁。
読ませていただきました。

「朱門と私は、生涯よく話をした。
朱門は、ゲームも嫌い、昔、同人雑誌の仲間が
我が家で麻雀をしていても、自分だけは傍に
寝ころがって本を読んでいた。
だから我が家の娯楽はお喋りだけだった。
昼間私が一人で行動をした日には、
誰が何をした、どんな光景だった、
ということを私は逐一喋った。」

「最後の晩も、私は病人のベッドから
3メートルも離れていない所にあるソファで寝ていた。
そんなところで疲れたでしょう、という人もいたが、
私は人生の半ばからアフリカへ行くようになって
未開の土地へよく行ったので、こんな上等なソファがあれば、
眠れないという人がいるのが不思議なくらいだった。
三日早朝・・・・ここのところずっと不規則な生活を
していた私は、せめて朝のシャワーを浴びようと思った。
ほんの数分である。浴室を出て来ると
既に朱門は呼吸していなかった。」

「四日夕方、ちょうどボリビアから帰国されていた
倉橋神父さまが来てくださって、我が家で秘密葬式をした。
・・倉橋神父の葬儀は、出席した人が、驚くほど明るい
幸せなものだった。家族と数少ない知人と親戚だけで、
神父は、今日は朱門の魂の誕生日だと言われ、
その場で祭服の下からハモニカを取り出して、
『ハッピイ・バースデー』を吹いてくださったので、
私たちは皆合唱した。
朱門の死の周辺には、ほんとうに暗い要素がなかった。
葬儀のミサが終わると、私たちは朱門がよく行っていた
近くの中華料理さんに歩いて移動し・・会食をした。
秘書は目的を知らさずに二十人分の席を予約したので、
ご主人は当然今日も朱門がいると思っていたらしい・・
『今日、三浦先生は来ないのかね』
すると私が無表情で答えたと友達の一人は言うのである。
『昨日、死んじゃったんです』
その時の中華料理屋さんのご主人の凍りついたような
表情が気の毒だったと、彼女は言うのだが、
私にすれば何と言えばよかったのだろう。
私は最近、ともすれば、情緒欠損症だと周囲に思われて
いるらしいのだが、それが私の自己防禦本能の結果
だったと思えなくもない。
私はともかく、朱門の育った家庭は、
古い日本の生活の形式に、完全に無頓着であった。」


うん。命日が誕生日なら。
昔の人が命日を大切にしたのが、わかるような気がする。
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大岡信の古典の保証人。

2017-04-07 | 古典
窪田空穂論を大岡信が書いており、そのはじまりに

「私は空穂先生に旧制高校入学時の保証人になっていただいていたこともあって、
その意味ではある種の親しみをこの大先達に抱いていた。
空穂の歌についても、父親が主宰誌『菩提樹』に
戦中から戦後にかけ書き続けていた『窪田空穂全歌集の鑑賞』と
いう厖大な文章によって、私は同年輩の少年たちの中では、
あえて威張って言えば、日本中で一番よく空穂の歌に通じていたはずである。」

「旧制高校入学時に保証人になっていただいたのをはじめとして、
大学へ入る時も、新聞社に入社する時も、雑司ヶ谷へ出かけては
ハンコをついていただいたし、もっと重要な一身上の問題についても、
困ると最後には雑司ヶ谷のお宅への坂を登った。
・・・・ふしぎなことに私にとってはいわばお祖父さんのように
さえ思われるようなところさえある存在だった。
けれども、この人の前で甘ったれたことを言うことは
一切できなかった。峻厳な批評精神の塊りが、
いつも微笑を浮かべながら、聞き上手のていをして
ゆったり目の前に坐っていたからである。・・・」


あとがきには

「私は旧制高校のころ以来、
少なくとも日本の詩歌文芸の読み方に関する限り、
ほとんど決定的な影響を空穂の著作から得たのである。」

「最も確実で強力な信頼すべき鍵は、私の場合、
つねに窪田空穂の著作にあった。」

「私が書くことのできたいくつかの日本詩歌に関する
少著類は、空穂の本から得た測り知れない恩恵を除いては
存在しえなかったと言っても過言ではないと思っている。」


ということで、大岡信の古典の保証人
という言葉が浮びました。
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中学生の活躍。

2017-04-06 | 道しるべ
録画して、そのままだった
「英雄たちの選択 『大津波から村を守れ!~三陸海岸の村長の・・・」
2016年12月1日(木)PM8:00を昨日見る。

その最後に、こんな箇所がありました。

・・】いきなり全員が助かるというのは無理でも、
助かる人を、助ける。この気持というのを実現していかなければいけない。

磯田】僕、子ども教育で反実仮想という教育がいると思うんですよ。
もしこうなったらというのを、ひたすら考えさせる。
もし地震になったら、もし津波がきたら、もし交差点に立って
ひじょうに危ない事故にあってしまたら、次にどうするかを
ひたすら子どもに答えさせて、正解を探させる授業をつくるべきで、
やっぱり、何回も考えさせる授業を立ち上げて、制度化して、
子供の頃からやらせるべきだと思うんです、僕は。

・・】とくにね。東日本大震災では、中学生たちがとても活躍してくれた。
もう、各地でね。中学生がほんとに活躍してくれているわけ。
ですから、高齢者社会のなかで、どんどん子供がいなくなっているけれども、
僕たち、もうちょっとね。子供の大切さというか、そういうものをね
この防災のところにもってこないと、大人だけではね、無理ですよ。


磯田】子供がすごく助けたんですよ、大人を。
中学生は避難の足手まといではなく、むしろ防災の先導者だった
避難の先導者だったのが、いくつもある。

女性】それは、すごい示唆的ですね。
大人は成功体験があるから、バイヤスにやられやすいんです。
自分は助かるに違いない、
自分だけは大丈夫と思いやすいんです。大人の方が。



うん(笑)。そして、ここから、磯田道史さんの結論となるのでした。
録画しておいて、それを見れてよかった(笑)。
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