◎何故アメリカに骨を埋める日本人がいるのか?
日本人が外国に生活し、その地に骨を埋める決心をする。これにはいろいろ個人的な事情があり一般的な議論は意味が無い。そこである特殊な例として、敗戦後のアメリカのフルブライト留学制度が関係したケースを紹介したいと思う。
オハイオ州コロンバス郊外には、ホンダの工場に納入する部品を製造している会社がいくつもある。その中に、ウエルナーカンパニーという会社があった。社長は佐伯さん。よく遊びに行った工場である。労働者は黒人、アジア系、白人と雑多な人種構成であった。
「なぜいろいろな人種が混じっているのですか?」との質問に、「人種によって得意な分野が違いますね。それで仕事の種類を分けて人種ごとに分担して頼んでいます」と佐伯さん。
「でも、こんなに混じっていたら管理が大変でしょう?」「すべてうまくいくのです。工場の生産目標さえ明快にしておけば、お互いに気を使い合って、結構生産性が上がるのですよ」
佐伯さんには自宅へも招待してもらった。アジア系の奥さんがいるだけで、子供はいない。
「会社の名前がなぜウエルナーなのですか?」「私は1960年代にアメリカに来ました。敗戦諸国の学生をアメリカへ留学させるフルブライト制度のおかげです。苦しい生活のとき、親のように世話をしてくださったのがウエルナー夫妻でした。亡くなったあと、工場と全財産を下さいました。子供がいなかったからです」
「日本には帰らないのですか?」「ウエルナー夫妻は私へ人種の壁を感じさせないで面倒をみてくれました」佐伯さんが続ける、「ウエルナー夫妻は人種差別を超越する生き方を教えてくれました。その恩義を思うと、帰れません」「それで工場では種々の人種構成にしているのですね?」「そうです。そして人種差別を絶対にしないと決めてから、工場の管理が楽になりました」
いろいろな人種で成立しているアメリカの会社の生産性を上げるのは社長の考えかた次第である。「人種差別を絶対にしないという信念とその実行力」が社長にあれば成功する。
アメリカには高給な就職口がある。そんな理由で定住した日本人は大勢いる。しかし、人種差別の処し方を身をもって教えてくれた人への恩義のために、アメリカに骨を埋める決心をした日本人はそう多くはないと思う。
@中国残留した技術者
1980年代末、北京でのこと。日本の新聞には戦争残留孤児が続々と帰って来たというニュースが溢れていた。
筆者を北京へ招待した周教授が庶民向けの北京ダック専門店へ招待してくれた。「ここは観光客が来ないので北京ダックが安くて美味しいですよ」、周教授が観光客の来ない所に案内する時には決まって本音の話が出る。
「日本の新聞には残留孤児帰国の記事が多いそうだが、どう思う?」「大変結構なことではないですか」「それが中国では困るのです。中国人に大切に育てられた日本人の子供は帰る決心がつかないのです。生みの親より育ての親というでしょう。日本に帰れば経済的に助かる。それが分かっていても、名乗らない孤児の方が多いと思いますよ。私の知り合いにも名乗らない人がいます。帰らないで中国に骨を埋める決心をしている残留孤児を中国人は尊敬しています」
日本の新聞はニセの残留孤児も名乗り出たと報ずる。しかし、名乗り出ない残留孤児も多くいることを、なぜ報道しないのだろう。報道のバランスとは両方の事実を報じることではないか。
自分の残留事情を日本の本屋から出版した人もいる。岩波新書の「北京生活三十年」を書いた市川氏である。満州にいた市川氏が残留技術者として北京市へ移り、三十年間、同市重工業部で機械技術の仕事をしてきた体験記である。
市川氏は東北大学の同じ研究室の先輩であったため、M教授から中国で消息不明になった市川さんの安否を調べてくれと頼まれた。1981年のことである。北京へ行った折に中国政府の金属工業省に調査を頼んだ。4、5日して開催された人民大会堂での歓迎会の折、市川氏が現れた。小生は市川氏へM教授が心配していることを伝えた。
「恩師のご恩は忘れたことがありません。しかし、中国に骨を埋めることにしたとお伝えください」と言って、並んでご馳走を食べた。あまり話さず、ニコニコして食べるだけである。
彼は帰ろうと思えばいつでも帰れる立場にあったはずである。そうしなかったのは余人にうかがい知れない事情があったに違いない。これも日本の敗戦が関係して外国に骨を埋めることになった日本人の例である。
(この稿の終わり)