後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

武田信玄の隠し湯は山梨、長野、東京に

2008年01月28日 | うんちく・小ネタ

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武川の山小屋に泊まると温泉へ行きたくなる。近くの増富鉱泉へ行く。珍しいラジューム温泉だ。聞くと「信玄公の隠し湯」と教えてくれた。戦国時代の壮大なロマンを連想しながら湯船につかる。山小屋へ通いながら武田信玄の隠し湯を全て訪ねてみようと思った。下部、河浦、湯村、積翠寺、西山、橋倉とまわり、これで全てと思っていた。信玄公の隠し湯は山梨県にのみ有ると思っていた。しかしある時、武田信玄の活躍の範囲を調べていたら、隠し湯は長野、神奈川、静岡、岐阜、東京の広範囲にわたっていることが分かった。

特に長野県に多く、松代、蓼科、渋、唐沢、小谷、毒沢、宝の湯などなど。

信玄公の隠し湯の特徴は、湯船が岩造りで、多くは雑木林の尾根に囲まれた谷にある。敵に見つからないような土地にある。しかし湯量は少ないものが多い。合戦の傷を癒したのだろう。温泉や鉱泉の風呂場には「成分は打ち身や傷に効く」と書いてある。

甲府市の西郊の釜無川へ行くと規模雄大な信玄堤が現存している。信玄堤の内側は広大な公園になっている。残雪輝く南アルプスの景色と一体になり当時の武田氏の隆盛がしのばれる。信玄は治山治水に尽力し領民の生活の安定に努力した。

しかしその後、江戸時代の甲斐の国は幕府の直轄領になり、武田一族の歴史的評価は意図的に小さくされた。現在の歴史の教科書もその流れにあり、武田信玄の広範、多岐にわたる功績があまりにも簡略に記述されている。

甲州の空の下で隠し湯につかりながら、学校の歴史教育は地方の歴史をあまり教えていないと思う。明治維新の富国強兵策では地方の歴史をゆっくり顧みる余裕がなかったのであろう。(この稿の終わり)


玉川上水冬木立の写真集(続き)

2008年01月28日 | 写真

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玉川上水への取水口の羽村の堰(写真の右方向)付近の多摩川本流と奥多摩の山並みです。以下に6枚の写真を示します。クリックすると大きくなります。

始めの4枚は、左から順に、「玉川兄弟の銅像」、「玉川上水の最上端」、「福生の 

 まぼろしの酒、嘉泉」の醸造所付近の風景を2枚です。

そして右下の2枚は、立川、砂川の見影橋の上流と下流の風景写真2枚です。上流側の左手に源五右衛門分水堰を開閉する鉄のハンドルが見えます。玉川上水は江戸の生活用水として重要でしたが、分水口が数多く設置され武蔵野の灌漑用水としても重要な役割を果たしてきました。

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