@学歴による差別は文化の貧困と思う
アメリカ大学の日本校の撤収後、カナダのある州の認可を受けた東京にある高等学校で働いた。文部省の法律の外にある高等学校である。これらの体験を経てはじめて理解出来たことがある。日本の文部省が認めた学校以外の在日の学校は、如何に立派な学校でも学歴として認められないという事である。それとは対照的に外国にある学校を卒業すれば学歴として認められる。
1990年頃は、日本国内にあるアメリカ大学の日本分校の卒業生は日本の大学の受験資格は原則的に無かった。
アメリカ大学の日本校の卒業生は大学受験者資格検定試験を受け、合格すると受験できる。しかしそれは高校卒業の学歴にはならない。現在、流石に改善されたようであるが。
日本の神戸や横浜、東京にはキリスト教の修道会の経営する小、中学校があった。また調布市にはアメリカンスクールも有るし、江東区にはフランスの9年制の学校もある。台湾の小、中学校もあり朝鮮学校もある。
これらの学校には日本人も多数入学している。両親が日本の学校より子供の教育には良いと確信しているからである。それが学歴にならないと知らない人も多いと聞いた。
これらの学校は文部省は日本の学校とはみなさない。従って日本の学歴にはならない。卒業生は一生不合理な差別に悩ませられるという。
アメリカ連邦政府には文部省がない。各州の教育委員会が州立学校の教育方針へアドバイスをする。外国の高校の卒業生を無試験で入学させるか否かはそれぞれの州立大学が独自に決めている。高卒でなくともある分野で優秀であれば入学を認める大学もあると聞く。連邦政府に文部省の無いアメリカと比較すると日本は文部省の権限が強すぎる。
日本の社会は学歴社会であった。現在もその傾向が強い。中学校しか卒業してない人々が後に通信教育で大学を卒業しても大学卒と認められないという。全く理由のない差別で就職、昇進、転勤、解雇の全ての場面で学歴が影響するという。
学校を出るには親の経済力と本人の暗記能力が有れば良い。それらが何故人間の価値を決定できるのであろうか?
人間は元来他人を差別し、自分を高みに置きたい衝動的本能を持つ。
問題はどのような基準で差別するかという尺度に問題がある。欧米の文化が優れているとすれば差別の仕方が複雑多岐にわたっている点にある。単純に学歴だけで人を軽蔑するという残酷さが無い。人間の価値を判断する視点や評価方法が多数あり、学歴が無いだけで日本のように一生酷い目に会うことが少ない。これこそが文化の豊かさの証左であろう。
最近、大学卒で就職した若者が5年以内に転職する割合は33%を越すという。また派遣社員やフリーターとして働く若者も増大しているという。これらの社会現象は心配すべき側面も有するが、一方では日本の学歴社会を緩和している。文化が成熟しつつあるのではないか?それにしてもまだまだ学歴重視が強すぎると思うのが筆者だけであろうか?
皆様はどの様にお思いでしょうか?(続く)