後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

外国体験のいろいろ(27)の補足

2008年01月20日 | 旅行記

@学歴による差別は文化の貧困と思う

アメリカ大学の日本校の撤収後、カナダのある州の認可を受けた東京にある高等学校で働いた。文部省の法律の外にある高等学校である。これらの体験を経てはじめて理解出来たことがある。日本の文部省が認めた学校以外の在日の学校は、如何に立派な学校でも学歴として認められないという事である。それとは対照的に外国にある学校を卒業すれば学歴として認められる。

1990年頃は、日本国内にあるアメリカ大学の日本分校の卒業生は日本の大学の受験資格は原則的に無かった。

アメリカ大学の日本校の卒業生は大学受験者資格検定試験を受け、合格すると受験できる。しかしそれは高校卒業の学歴にはならない。現在、流石に改善されたようであるが。

日本の神戸や横浜、東京にはキリスト教の修道会の経営する小、中学校があった。また調布市にはアメリカンスクールも有るし、江東区にはフランスの9年制の学校もある。台湾の小、中学校もあり朝鮮学校もある。

これらの学校には日本人も多数入学している。両親が日本の学校より子供の教育には良いと確信しているからである。それが学歴にならないと知らない人も多いと聞いた。

これらの学校は文部省は日本の学校とはみなさない。従って日本の学歴にはならない。卒業生は一生不合理な差別に悩ませられるという。

アメリカ連邦政府には文部省がない。各州の教育委員会が州立学校の教育方針へアドバイスをする。外国の高校の卒業生を無試験で入学させるか否かはそれぞれの州立大学が独自に決めている。高卒でなくともある分野で優秀であれば入学を認める大学もあると聞く。連邦政府に文部省の無いアメリカと比較すると日本は文部省の権限が強すぎる。

日本の社会は学歴社会であった。現在もその傾向が強い。中学校しか卒業してない人々が後に通信教育で大学を卒業しても大学卒と認められないという。全く理由のない差別で就職、昇進、転勤、解雇の全ての場面で学歴が影響するという。

学校を出るには親の経済力と本人の暗記能力が有れば良い。それらが何故人間の価値を決定できるのであろうか?

人間は元来他人を差別し、自分を高みに置きたい衝動的本能を持つ。

問題はどのような基準で差別するかという尺度に問題がある。欧米の文化が優れているとすれば差別の仕方が複雑多岐にわたっている点にある。単純に学歴だけで人を軽蔑するという残酷さが無い。人間の価値を判断する視点や評価方法が多数あり、学歴が無いだけで日本のように一生酷い目に会うことが少ない。これこそが文化の豊かさの証左であろう。

最近、大学卒で就職した若者が5年以内に転職する割合は33%を越すという。また派遣社員やフリーターとして働く若者も増大しているという。これらの社会現象は心配すべき側面も有するが、一方では日本の学歴社会を緩和している。文化が成熟しつつあるのではないか?それにしてもまだまだ学歴重視が強すぎると思うのが筆者だけであろうか?

皆様はどの様にお思いでしょうか?(続く)

Dscn0976


外国体験のいろいろ(27)

2008年01月20日 | 旅行記

◎アメリカ大学の日本校騒動

1980年代、対米貿易黒字が膨大になり、アメリカ政府は日本へ経済分野での完全自由化を迫った。その結果、アメリカの大学が日本国内に自由に分校を作り、収入はアメリカへ送金してもよいことになった。

それまで、国内の大学新設には文部省が厳重な設置基準を設け、簡単に大学はつくれない。その規制を無視し、文部省とは何の関係もなく、アメリカの大学が分校をつくってもよいという日米合意ができた。

アメリカ側は、日本に分校をつくれば大勢の学生が集まり、その月謝収入で大きな利潤が上がると信じていた。つまり、教育プログラムの対日輸出によって儲けようという計画であった。

1988年ごろから、全国に30校以上のアメリカ大学の日本校が展開。アメリカの大学教育が優れていると信じていた筆者は、新しい教育制度に感動し、関西に開校した日本校の副学長として働き始めた。1990年春のことであった。本校から派遣された約四十名のアメリカ人教員が本校と同じ科目を英語で教える。素晴らしい試みに興奮した。

しかし、悲劇はバブルの崩壊によって始まる。日本側経営者の多くは土地の転売で利潤を上げた人々である。本校へアメリカ人教員の給料と月謝収入の一部を毎月送金する契約になっていたが、そのお金がない。来月こそは送金するという契約は何度も破棄された。日本側の契約不履行にたいして本校の学長、理事会メンバーは怒る。

 @平然として行われていた卒業式

日本人学生は閉校の恐れで騒然となる。日本側副学長は在校生が日本の他大学へ転校できるか否か、文部省へ相談に行く、「お困りの事情はよく分かります。でも日本の教育に関する法律の外にあるアメリカの大学のことはどうにもできないのです」、もっともな論理である。

副学長の仕事は、在学生の本校への転学や、経営が安定している他のアメリカ大学日本分校への転校の面倒を見ることがすべてになった。また、在校生の親になぜ文部省が支援できないのか、日本の大学へ転校できないのか、条理を尽くして説明しなければならない。

そんな仕事をしていたら、北海道にあるあるアメリカ大学が閉校するので学生と両親の対応を手伝ってくれと頼まれた。現地へ行ったのは1992年3月。春浅い太陽の光に大雪山連峰が遠方にかすかに輝いていた。

その日本校は豪華な建物に入っていた。3名の日本人事務担当者も、20名ほどのアメリカ人教員も平静に仕事をしている。40名ぐらいの学生相手に授業が行われている。聞くと、日本人もアメリカ人も4ケ月前から給料を貰っていないそうである。

「いろいろ困っているということで、閉校のお手伝いにきたのですが」、この申し出に教員も学生も微笑むだけである。私のする事はただ一つ、学生の親に事情を正直に説明するだけである。最後に行ったとき一人の事務員が「私は留守番ですが、他の全員は今講堂で卒業式をしています」と言う。

講堂の後ろから静かに入ると、アメリカ流の卒業式が全員黒い角帽とガウン姿で行われていた。アメリカ人は給料が無くても働くのだ!これが師弟愛というものなのか?本当の教育者は洋の東西を問わず同じなのだ。見守る筆者の目が涙でうるむ。

こんなに感動的な卒業式は見たことが無い。卒業生は一生忘れないと思う。

それから程なくして、約30校もあったアメリカ大学のほとんどが日本から撤収して行った。日米の政治家が軽々しく教育商品の売買を考えた結果の騒動であった。アメリカ人の教官と日本人学生は現在どんな思いでいるのであろうか?

(終わり)