今日は日曜日なので何時ものようにミサに行きました。教会では晩年に妻と一緒にカトリックの洗礼を受けた藤田嗣二のことをいろいろ考えました。
戦争画を描き、率先して大東亜戦争に協力した彼は、戦後、フランスに逃れ、帰化します。そして洗礼を受け、「平和の聖母礼拝堂」を完成したのです。キリスト教は愛の宗教です。主の平和を大切にします。勿論、戦争はいけません。
藤田嗣二は日本の戦争に協力したことを後悔していたに相違ありません。平和こそ一番重要だと悟ったのです。ですから「平和の聖母礼拝堂」という名前を付けたのでしょう。
レオナール・フジタに主の平和がありますようにお祈りしました。
今日は彼の大作、『秋田の行事』をご紹介いたします。ニックネームさんという何事にも博識な方に教えて頂いた絵画の大作です。
1936(昭和11)年7月に平野政吉が建設構想を打ち出した美術館の壁を飾るため、翌年の1937(昭和12)年に制作された作品です。
藤田は「秋田の全貌」「歴史的秋田の意味」を描くことを意図し、約半年間、頻繁に秋田を訪れ取材を重ねました。
平野邸のあった外町に視座を据え、外町から眺望した「秋田」を描き出したのです。秋田の祭りと祈り、暮らし、産業、歴史が、祝祭と日常の対比のなかに、色彩豊かに展開する壮大な壁画です。
秋田県立美術館の新美術館の狭い部屋に展示してあるそうです。
戦争画を描き、率先して大東亜戦争に協力した彼は、戦後、フランスに逃れ、帰化します。そして洗礼を受け、「平和の聖母礼拝堂」を完成したのです。キリスト教は愛の宗教です。主の平和を大切にします。勿論、戦争はいけません。
藤田嗣二は日本の戦争に協力したことを後悔していたに相違ありません。平和こそ一番重要だと悟ったのです。ですから「平和の聖母礼拝堂」という名前を付けたのでしょう。
レオナール・フジタに主の平和がありますようにお祈りしました。
今日は彼の大作、『秋田の行事』をご紹介いたします。ニックネームさんという何事にも博識な方に教えて頂いた絵画の大作です。
1936(昭和11)年7月に平野政吉が建設構想を打ち出した美術館の壁を飾るため、翌年の1937(昭和12)年に制作された作品です。
藤田は「秋田の全貌」「歴史的秋田の意味」を描くことを意図し、約半年間、頻繁に秋田を訪れ取材を重ねました。
平野邸のあった外町に視座を据え、外町から眺望した「秋田」を描き出したのです。秋田の祭りと祈り、暮らし、産業、歴史が、祝祭と日常の対比のなかに、色彩豊かに展開する壮大な壁画です。
秋田県立美術館の新美術館の狭い部屋に展示してあるそうです。