後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ヨーロッパ文化が生んだ共産主義という人類の壮大な悪夢

2017年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム
ヨーロッパ文化が共産主義という人類の壮大な悪夢を生んだのです。
キリスト教では労働者や貧しい農民は幸せになれないので武力革命を起こし彼等を幸福にする政府を樹立するという考えです。
この考えは一見素晴らしいもののように見えます。それまでの西洋文明の中でしいたげられ、蔑げすまれてきた下層階級の人々を平等に扱うというのです。フランス革命で謳われた自由と平等な社会が一向に実現しなかったので、共産革命が必要だと主張する人々が現れたのです。
しかしこの思想の欠陥に気が付か付かなかったのです。この思想を使って政治を行う場合の最大の欠陥に気がつかなかったのです。
この理想的な思想は人間の持っている利己心、権力欲、支配欲などの欠点を完全に無視した思想でした。
この大きな欠点が露呈し、大部分の人類が共産主義を放棄するまでには、いろいろな悪夢のような悲劇が起きたのです。

世界で初めて共産主義革命で政府を造られたのはロシアです。1917年のことです。その結果、ソビエト連邦共和国が生まれました。そのソ連は1991年に崩壊しますが、それまでの74年間にキリスト教の弾圧が続きました。従来のヨーロッパ文化の根幹をなしていたキリスト教を否定し、弾圧したのです。はかり知れない悲劇が起きました。
一つの例だけを示します。

1番目の写真は1931年にスターリンの命令で爆破され崩れゆく救世主ハリストス大聖堂の写真です。ハリストとはロシア語でキリストのことです。

2番目の写真は1991年のソ連崩壊後に再建された同じ大聖堂です。聖堂の前の参道を人々がのんびりと歩いている様子をご覧ください。嗚呼、平和って良いものだ とお感じになりませんか?

このソ連は全世界を共産化しようとしました。
例えば、ソ連は中国共産党と協力してベトナムを共産化しようとしました。彼等の支援で北ベトナムとアメリカが支援した南ベトナムの間に残酷なベトナム戦争が10年間ほど続きました。
その結果、共産勢力が勝利して、南北ベトナムは共産主義国家として統一されたのです。
ベトナム戦争は1964年のトンキン湾事件でアメリカの本格的介入が始まり1975年のパリ協定で終了しました。その間アメリカ軍の戦死者は5万人にのぼる熾烈な戦争だったのです。べトナム人の犠牲者は数百万人と推定されています。
共産党による南北ベトナム統一が終了すると宗教関係者や経済を握っている華僑が弾圧されます。彼等は弾圧を逃れるために船に乗って沖に逃げたのです。いわゆるボートピープルです。
アメリカをはじめ自由主義の国々がボートピープルを拾い上げる為に大型船を沖合に派遣しました。

このボートピープルの一人だった人が私どもが通っているカトリック教会の主任神父のヨゼフ・ディン神父さまなのです。主任司祭として着任してからもう8年もたっています。
とても優しく信者の面倒をみる素晴らしい神父様です。

3番目の写真は初聖体を貰う女の子と母親にミサの始める前に初聖体の受け方の手順を説明しいる場面です。

4番目の写真はミサの最中にこの女の子へ初めてパンの聖体を渡している場面です。

5番目の写真はミサでお祈りの言葉を唱えている場面です。

このディン神父様はベトナムで神学生でした。ベトナム戦争後の弾圧を逃れ日本に来ます。そして東京大司教区で日本の司祭になるための勉強を続け25年前に正式に叙階されたのです。
東京のあちこちのカトリック教会の主任司祭を務めてから私共の教会に来たのです。
ディン神父はベトナムで過酷な体験をした筈です。しかし一切話しません。沈黙しています。たまにベトナムから兄弟や親族が会いに来ます。神父様は日本の土になるのでしょう。
この神父さまの説教は分かりやすい説教です。難しい神学は出てきません。イエス様の愛を信じ、そのことをわかりやすく話します。素朴で信仰心の強い神父様です。
ミサの間、いつもは忘れていた共産党のキリスト教弾圧のことを時々思い出します。そしてディン神父の神学生時代のベトナムでの困難な生活を想像していました。
神学生と言えば1番目の写真にある教会の爆破を命じたスターリンも神学生だった時代があったのです。グルジアの神学校に通っていたのです。それなのに何千万人も粛清した残忍な独裁者になったのです。人間の恐ろしさに粛然とした思いになります。
平和が70年続く日本に住んでいる幸せに毎日感謝しています。今日もこれからディン神父の司式するミサに行きます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日の日記、昔の学生さんが栽培した野菜を送ってくれた

2017年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム
T君と知り合ったのは茫々45年以上の前のことです。その昔の学生さんが採れたてのソラマメやスナックエンドウや玉ねぎを沢山送ってくれたのです。T君は野菜の栽培が趣味なのです。毎年頂くたびに幸せな気分になります。

1番目の写真が今日頂いた野菜の写真です。
T君は私が研究指導をして工学博士になった大学院の学生さんでした。そのような大学院の学生さんは数人いましたが、T君は気性の良い優しい人柄だったので印象が特に深いのです。
私のもとに5、6年いましたのでよく一緒に遊んだものです。
冬は家内や子供達と奥多摩のスケート場に何度も行きました。
甲斐駒の麓の山小屋にも泊まりがけで遊びにいきました。その折、釜無川でハヤ釣りを教えて貰ったのも楽しい思い出です。
T君の家は多摩川沿いの立川市にあったのでハヤ釣りの名人でした。
そんなこともあって私の山小屋の薪ストーブも作ってくれました。

2番目の写真の小川の手前の右側にある黒い鉄製の箱がその薪ストーブです。T君のお父さんが自分の経営していた工場で作ってくれたストーブです。
このストーブは毎冬やく30年間ほど使いました。その後、他の薪ストーブを買ったので不要になりました。
しかしT君との楽しい思い出を捨てることが出来ず、写真のように小屋の庭に安置したのです。この写真は今年の4月に撮ったものです。
それはさておき、T君は工学博士になって大きな製鉄会社に就職し、そこの研究所に勤務します。
結婚式にもよばれましたので可愛い美人の奥さんにもお会いしたことがあります。
T君の勤務していた研究所は千葉市と瀬戸内海の水島市にありました。水島市の研究所にいた間は毎年、イカナゴの笹漬けを送ってくれました。T君の研究所での評判は抜群でした。人柄が良く周囲の人と協調して大きな研究成果を上げていたのです。
T君は定年後には千葉の自宅に住み、大学で研究をして悠々と趣味の畑の仕事も楽しんでいます。奥さんもお子さんも孫達も皆健康だそうです。
私の一生は文字通り恥多い一生でしたが、T君やその他数人の工学博士になった学生君や多くの学生君と知り合ったことが実に楽しい思い出になりました。
あれから茫々40年余、T君も70歳前後になったはずです。
今日はT君が野菜を送ってくれたお陰で昔の楽しい思い出を次から次へと想い浮かべています。こうして老境の今日も感謝の念とともに流れ行きます。五月晴れの良い一日です。

天皇、皇后も訪れた日本一の長寿村・山梨県の棡原村に遊ぶ

2017年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム
皆様は山梨県の棡原村(ゆずりはらむら)という名前をご存じでしょうか?ここはかつて日本一の長寿村として名を馳せていました。
この村は1950年に上野原町に合併されてしまいますが、棡原地区には現在でも『ふるさと長寿館』があり観光客で賑わっています。
この『ふるさと長寿館』へは今上天皇と美智子皇后が平成8年4月25日にご訪問されました。
そのこともあって多くの人々が長寿を願って、『ふるさと長寿館』の健康的な山の農作物を中心にした食事をしに訪れています。
昨日は皐月晴れです。上野原町の中心地から山道を根気良く車で走り訪れました。

1番目の写真は平成8年4月25日に訪問なさった天皇さまと皇后さまのお写真です。
この『ふるさと長寿館』には山ウドやタラノ芽、セリや山菜を売っているので時々行きます。
山の斜面にわずかの畑があり主食にする小麦やジャガイモを栽培しています。山菜や野菜類も作っています。
水田が無いので昔は米を食べなかったのです。それでも長寿の老人が多かったので「長寿村」と言い出す学者や医者がいました。
菜食主義者が熱心にこの『ふるさと長寿館』を支援したようです。
私は特に菜食主義者でもありませんが棡原地区の自然が美しいので時々行きます。山梨県の上野原町から山道を登り、『ふるさと長寿館』で一休みします。その後は山道をさらに登って「甲武トンネル」をくぐって東京都の檜原村に抜けます。
このドライブコースは美しい緑の森が続き、その森には草花やアヤメが咲き、見上げると野生の桐の花や朴木の花が咲いています。

2番目の写真は休耕の畑に咲いていた花です。

3番目の写真は同じような休耕の畑に咲いていたアヤメです。

4番目の写真は山の中にあった桐の大木の花です。

5番目の写真はかなり登ったところに咲いていた朴(ホウ)の木に咲いていた花です。

さて何故、山梨県の棡原村(ゆずりはらむら)は日本一の長寿の村と言われたのでしょうか?
平成29年5月1日現在の棡原地区には65歳以上の高齢者が460人住んでいます。これは棡原地区の人口の46.4%にあたります。
従って棡原地区の平均年齢は60歳以上になります。ですから長寿村と言うのです。
しかし若者が皆都会に出ていった過疎村は全国に沢山あります。
過疎村の平均年齢は高いのは当然です。
それなのに何故、日本一の長寿村と言われたのでしょうか?
理由は過疎とか高齢者とか平均年齢などという概念がまだ普及してなかった時代に「日本一の長寿村」と言い出したからです。独創的な発想でした。
かつての日本一の長寿村・山梨県棡原村で医師をしていた古守豊甫先生が言い出したようです。
その言葉は、『 人の寿命は 食べた野菜の量に比例する! 』という情緒的なスロ-ガンでした。科学的根拠などありません。
棡原地区の人々は山の畑で採れるイモ類、主にジャガイモと里芋や 雑穀類、野菜類、豆腐、納豆、味噌などばかり食べ、 時々川魚を食べていました。
このような食生活で本当に長生き出来るのでしょうか?
まあ科学的な詮索は止めましょう。
兎に角、野菜をたくさん食べましょう。野菜は間違いなく健康に良いのです。その上野菜をたくさん食べると人は優しい気分になるようです。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)