箱根は東京の人が良く行く観光地です。新宿駅から小田急のロマンスカーで麓の湯本温泉へ行き、そこで登山電車に乗ります。終点の強羅で下りると目の前に大涌谷を経由して芦ノ湖の湖尻まで行くロープウェイがあります。湖尻からは芦ノ湖名物の海賊船に乗り湖を渡り箱根町で下船します。箱根町では「箱根駅伝マラソン・ミュージアム」や「箱根関所の建物群」を見た後、江戸時代そのままの杉並木を歩いて元箱根の船着場まで散策します。
レストランやお土産屋が沢山あります。
そこから少し足を伸ばし箱根神社を参拝し、その先の山のホテルのツツジの庭園を見ます。
帰りは元箱根から頻繁にバスが麓の湯本まで出ています。
仙石原の湿性花園や「ガラスの森」や「ルネ・ラリックミュージアム」へ行くには湯本からバスが便利です。
このように箱根は交通の便が良く整備されています。楽しい彫刻の森という美術館やポーラ美術館や成川美術館もあります。日帰りでも良く、一泊するとゆったりした気分になれます。
さてこのように風光明媚な箱根は何時頃出来たのでしょうか?
何度も噴火を繰り返していましたが現在の風景は大体16万年前に出来上がったのです。
隣の富士山は約2万年前に出来た新しいい山です。箱根火山の古い溶岩の上に富士山の新しい溶岩が重なっているそうです。
そして箱根の魅力になっている芦ノ湖はどのようにして出来たのでしょうか?
簡単に言えば現在の芦ノ湖と仙石原はつながった大きな仙石原湖だったのです。湿性花園の広大な湿原に立って駒ヶ岳山系を見上げると、嗚呼、ここは大きな湖の底だったと納得します。
それが小さくなって現在の芦ノ湖が出来たのです。
約3000年前、神山北西斜面で山体の多くを崩壊させる大きな水蒸気爆発が発生します。これにより大涌谷が生まれ、水蒸気噴火によって引き起こされた土石流により仙石原湖の半分以上が埋没して仙石原となったそうです。その時、早川の上流部の現在の湖尻付近がせき止められて芦ノ湖が誕生したそうです。
それでは今回撮って来た芦ノ湖の風景写真をお送りいたします。
1番目写真は元箱根の湖岸から見た芦ノ湖です。向こう側に雪を戴いた富士山が見えるのですがこの日は雲の中で見えませんでした。
2番目の写真は箱根町の湖岸から撮った湖と箱根最高峰の駒ヶ岳です。
3番目の写真は元箱根の湖岸の近くにある箱根神社の鳥居です。この神社は古いものです。奈良朝の初期、天平宝字元年(757年)に万巻上人により現在の地に建てられたと言います。箱根三所権現と称えられ仏教系の修験道と習合していました。
4番目の写真は箱根町の湖岸から撮った観光船です。観光船は湖尻と箱根町、元箱根町を往復しています。
5番目の写真は観光船の海賊船です。箱根観光船の運行は1950年に始まります。すぐに海賊船風の遊覧船を導入し、人気を博します。この箱根海賊船は乗ってみるとかなり昔の帆船の構造を真似していて楽しい遊覧船です。子供達や孫たちが幼かった頃よく乗ったものです。人気があるので1950年代から現在に至るまで芦ノ湖を巡航しています。
今日の記事はこれでお終いですが、参考資料として以下を補足してあります。、
(1)芦ノ湖の歴史
(2)箱根神社の歴史
(3)箱根町の歴史
おわせて、ご一読しお楽しみ下さい。
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料================
(1)芦ノ湖の歴史;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A6%E3%83%8E%E6%B9%96
箱根火山のカルデラ内にある中央火口丘の一つで、成層火山である神山が、約3000年前に水蒸気爆発と火砕流を起こした際、山の一部が大崩壊を起こす山体崩壊が発生。カルデラ内にあった早川を堰き止めて芦ノ湖が生まれた。
天平宝字元年(757年)、万巻は箱根神社を建立した後、伝承によると、人々を苦しめていた芦ノ湖の九頭龍を調伏し、現在の九頭龍神社本宮を建立して、九頭龍を守護神として祀ったとされる。
江戸時代、駿河国駿東郡深良村(現裾野市)の名主・大庭源之丞は灌漑用に芦ノ湖から箱根山の外輪山(湖尻峠下)を貫通するトンネルを掘ることを考えた。芦ノ湖の水利権を持つ箱根権現社の許可を得て、江戸商人・友野与右衛門の資金協力を受けて、1670年(寛文10年)に用水路を完成させた。この用水は「深良用水」と呼ばれ、現在は狩野川水系黄瀬川支流の深良川となっている。また、日本を代表する用水のひとつとして、農林水産省の疏水百選に選定されている。
1911年、後に西武傘下になる芦ノ湖遊覧船の運行が始まった。
1925年、赤星鉄馬によってブラックバスが日本で初めて放流された。
1950年、箱根観光船の運行が始まった。箱根観光船は海賊船風の遊覧船を導入して人気を博し、箱根海賊船の愛称で営業されている。
魚貝類
ニジマス、ブラウントラウト、ヒメマス、オオクチバス、コイ、フナ、ウグイ、オイカワ、ワカサギ、ヤマメ、イワナ
(2)箱根神社の歴史:http://blog.goo.ne.jp/hakone-jinja
箱根神社は、古来、関東総鎮守箱根大権現と尊崇されてきた名社で、交通安全・心願成就・開運厄除に御神徳の高い運開きの神様として信仰されています。
当社は、人皇第五代孝昭天皇の御代(2400有余年前)聖占上人が箱根山の駒ケ岳より、同主峰の神山を神体山としてお祀りされて以来、関東における山岳信仰の一大霊場となりました。
奈良朝の初期、天平宝字元年(757)万巻上人は、箱根大神様の御神託により現在の地に里宮を建て、箱根三所権現と称え奉り、仏教とりわけ修験道と習合しました。
平安朝初期に箱根路が開通しますと、往来の旅人は当神社に道中安全を祈りました。
鎌倉期、源頼朝は深く当神社を信仰し、二所詣(当神社と伊豆山権現参詣)の風儀を生み執権北条氏や戦国武将の徳川家康等、武家による崇敬の篤いお社として栄えました。
近世、官道としての東海道が整備され箱根宿や関所が設けられますと、東西交通の要(交通安全祈願所)として当神社の崇敬は益々盛んになり、庶民信仰の聖地へと変貌しました。
こうして天下の険、箱根山を駕籠で往来する時代から、やがて自動車に変わる近代日本へと移行しますが、その明治の初年には神仏分離により、関東総鎮守箱根大権現は、箱根神社と改称されました。
爾来、明治6年明治天皇・昭憲皇太后両陛下の御参拝をはじめ、大正・昭和の現代に至るまで各皇族方の参拝は相次いで行われました。最近では、昭和55年、昭和天皇・皇后両陛下の御参拝につづいて翌56年、皇太子浩宮殿下も御参拝になりました。また、民間も政財界人の参拝や年間2千万人を越える内外の観光客を迎えて、御社頭は益々殷賑を加えているの箱根大神の御神威によるものであります。
(3)箱根町の歴史:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%B1%E6%A0%B9%E7%94%BA#.E5.9C.B0.E7.90.86
律令時代 - 東海道相模国足柄下郡に属す。
1180年8月 - 源頼朝が挙兵して序盤の戦いを石橋山で戦った。
「石橋山の戦い」を参照
江戸時代 - 徳川家康が江戸幕府を開くと、東海道を足柄峠経由から箱根峠経由に変更させ、現在の箱根町に当たる芦ノ湖畔に箱根関所を設置し、「入鉄砲に出女(武家の妻女)」を厳重に監視した。箱根宿三島町・芦川町は韮山代官所直轄の天領、箱根宿小田原町・新町・新谷町およびそれ以外の箱根町域のほとんどは、小田原藩領となる[1]。
1868年8月17日(慶応4年6月29日) - 箱根宿三島町・芦川町の民政一般が神奈川府の管轄となる。ただし一部事務などは韮山県が扱った。
明治初年 - 箱根宿が箱根駅に改称。
1869年7月25日(明治2年6月17日) - 版籍奉還により、明治政府の行政区画としての小田原藩が成立する。
1871年8月29日(明治4年7月14日) - 廃藩置県により、小田原藩が廃止され、小田原県となる。
1871年(明治4年9月) - 韮山県廃止により、箱根駅が全面的に神奈川県の管轄となる。
1871年12月25日(明治4年11月14日) - 小田原県は廃止され、神奈川県管轄地域を含めた足柄下郡の全域が足柄県に属す[2]。
1876年(明治9年)4月18日 - 足柄県を分割し、これ以降は神奈川県に属する[3]。
1884年(明治17年) - 箱根駅、元箱根村および芦之湯村が「箱根駅外二ケ村」連合戸長制を敷く。
1886年(明治19年)7月 - 函根離宮(現在の恩賜箱根公園)が竣工する。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行で箱根駅、湯本村、温泉村、宮城野村、仙石原村、元箱根村、芦之湯村の1駅6村が発足する。箱根駅、元箱根村および芦之湯村は、「箱根駅外二ヶ村組合」にて行政を行う。
1892年(明治25年)10月29日 - 県治局長による内翰により、箱根駅が箱根町に改称する[4]。箱根駅外二ヶ村組合は、箱根町外二ヶ村組合となる。
1904年(明治37年) - 七湯経由の人力車道が足ノ湖畔まで開通する。
1927年(昭和2年)10月1日 - 湯本村が町制施行し、湯本町となる。
このころ、箱根山戦争が起きる。
1954年(昭和29年)1月1日 - 箱根町外二ヶ村組合の箱根町、元箱根村および芦之湯村が合併して、新たに箱根町となる。
湯本町、温泉村、宮城野村、仙石原村および箱根町を廃し、箱根町を置く件の総務省告示文があります。
1956年(昭和31年)9月30日 - 湯本町、温泉村、宮城野村、仙石原村および箱根町が合併して、新たに箱根町となる。
レストランやお土産屋が沢山あります。
そこから少し足を伸ばし箱根神社を参拝し、その先の山のホテルのツツジの庭園を見ます。
帰りは元箱根から頻繁にバスが麓の湯本まで出ています。
仙石原の湿性花園や「ガラスの森」や「ルネ・ラリックミュージアム」へ行くには湯本からバスが便利です。
このように箱根は交通の便が良く整備されています。楽しい彫刻の森という美術館やポーラ美術館や成川美術館もあります。日帰りでも良く、一泊するとゆったりした気分になれます。
さてこのように風光明媚な箱根は何時頃出来たのでしょうか?
何度も噴火を繰り返していましたが現在の風景は大体16万年前に出来上がったのです。
隣の富士山は約2万年前に出来た新しいい山です。箱根火山の古い溶岩の上に富士山の新しい溶岩が重なっているそうです。
そして箱根の魅力になっている芦ノ湖はどのようにして出来たのでしょうか?
簡単に言えば現在の芦ノ湖と仙石原はつながった大きな仙石原湖だったのです。湿性花園の広大な湿原に立って駒ヶ岳山系を見上げると、嗚呼、ここは大きな湖の底だったと納得します。
それが小さくなって現在の芦ノ湖が出来たのです。
約3000年前、神山北西斜面で山体の多くを崩壊させる大きな水蒸気爆発が発生します。これにより大涌谷が生まれ、水蒸気噴火によって引き起こされた土石流により仙石原湖の半分以上が埋没して仙石原となったそうです。その時、早川の上流部の現在の湖尻付近がせき止められて芦ノ湖が誕生したそうです。
それでは今回撮って来た芦ノ湖の風景写真をお送りいたします。
1番目写真は元箱根の湖岸から見た芦ノ湖です。向こう側に雪を戴いた富士山が見えるのですがこの日は雲の中で見えませんでした。
2番目の写真は箱根町の湖岸から撮った湖と箱根最高峰の駒ヶ岳です。
3番目の写真は元箱根の湖岸の近くにある箱根神社の鳥居です。この神社は古いものです。奈良朝の初期、天平宝字元年(757年)に万巻上人により現在の地に建てられたと言います。箱根三所権現と称えられ仏教系の修験道と習合していました。
4番目の写真は箱根町の湖岸から撮った観光船です。観光船は湖尻と箱根町、元箱根町を往復しています。
5番目の写真は観光船の海賊船です。箱根観光船の運行は1950年に始まります。すぐに海賊船風の遊覧船を導入し、人気を博します。この箱根海賊船は乗ってみるとかなり昔の帆船の構造を真似していて楽しい遊覧船です。子供達や孫たちが幼かった頃よく乗ったものです。人気があるので1950年代から現在に至るまで芦ノ湖を巡航しています。
今日の記事はこれでお終いですが、参考資料として以下を補足してあります。、
(1)芦ノ湖の歴史
(2)箱根神社の歴史
(3)箱根町の歴史
おわせて、ご一読しお楽しみ下さい。
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料================
(1)芦ノ湖の歴史;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A6%E3%83%8E%E6%B9%96
箱根火山のカルデラ内にある中央火口丘の一つで、成層火山である神山が、約3000年前に水蒸気爆発と火砕流を起こした際、山の一部が大崩壊を起こす山体崩壊が発生。カルデラ内にあった早川を堰き止めて芦ノ湖が生まれた。
天平宝字元年(757年)、万巻は箱根神社を建立した後、伝承によると、人々を苦しめていた芦ノ湖の九頭龍を調伏し、現在の九頭龍神社本宮を建立して、九頭龍を守護神として祀ったとされる。
江戸時代、駿河国駿東郡深良村(現裾野市)の名主・大庭源之丞は灌漑用に芦ノ湖から箱根山の外輪山(湖尻峠下)を貫通するトンネルを掘ることを考えた。芦ノ湖の水利権を持つ箱根権現社の許可を得て、江戸商人・友野与右衛門の資金協力を受けて、1670年(寛文10年)に用水路を完成させた。この用水は「深良用水」と呼ばれ、現在は狩野川水系黄瀬川支流の深良川となっている。また、日本を代表する用水のひとつとして、農林水産省の疏水百選に選定されている。
1911年、後に西武傘下になる芦ノ湖遊覧船の運行が始まった。
1925年、赤星鉄馬によってブラックバスが日本で初めて放流された。
1950年、箱根観光船の運行が始まった。箱根観光船は海賊船風の遊覧船を導入して人気を博し、箱根海賊船の愛称で営業されている。
魚貝類
ニジマス、ブラウントラウト、ヒメマス、オオクチバス、コイ、フナ、ウグイ、オイカワ、ワカサギ、ヤマメ、イワナ
(2)箱根神社の歴史:http://blog.goo.ne.jp/hakone-jinja
箱根神社は、古来、関東総鎮守箱根大権現と尊崇されてきた名社で、交通安全・心願成就・開運厄除に御神徳の高い運開きの神様として信仰されています。
当社は、人皇第五代孝昭天皇の御代(2400有余年前)聖占上人が箱根山の駒ケ岳より、同主峰の神山を神体山としてお祀りされて以来、関東における山岳信仰の一大霊場となりました。
奈良朝の初期、天平宝字元年(757)万巻上人は、箱根大神様の御神託により現在の地に里宮を建て、箱根三所権現と称え奉り、仏教とりわけ修験道と習合しました。
平安朝初期に箱根路が開通しますと、往来の旅人は当神社に道中安全を祈りました。
鎌倉期、源頼朝は深く当神社を信仰し、二所詣(当神社と伊豆山権現参詣)の風儀を生み執権北条氏や戦国武将の徳川家康等、武家による崇敬の篤いお社として栄えました。
近世、官道としての東海道が整備され箱根宿や関所が設けられますと、東西交通の要(交通安全祈願所)として当神社の崇敬は益々盛んになり、庶民信仰の聖地へと変貌しました。
こうして天下の険、箱根山を駕籠で往来する時代から、やがて自動車に変わる近代日本へと移行しますが、その明治の初年には神仏分離により、関東総鎮守箱根大権現は、箱根神社と改称されました。
爾来、明治6年明治天皇・昭憲皇太后両陛下の御参拝をはじめ、大正・昭和の現代に至るまで各皇族方の参拝は相次いで行われました。最近では、昭和55年、昭和天皇・皇后両陛下の御参拝につづいて翌56年、皇太子浩宮殿下も御参拝になりました。また、民間も政財界人の参拝や年間2千万人を越える内外の観光客を迎えて、御社頭は益々殷賑を加えているの箱根大神の御神威によるものであります。
(3)箱根町の歴史:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%B1%E6%A0%B9%E7%94%BA#.E5.9C.B0.E7.90.86
律令時代 - 東海道相模国足柄下郡に属す。
1180年8月 - 源頼朝が挙兵して序盤の戦いを石橋山で戦った。
「石橋山の戦い」を参照
江戸時代 - 徳川家康が江戸幕府を開くと、東海道を足柄峠経由から箱根峠経由に変更させ、現在の箱根町に当たる芦ノ湖畔に箱根関所を設置し、「入鉄砲に出女(武家の妻女)」を厳重に監視した。箱根宿三島町・芦川町は韮山代官所直轄の天領、箱根宿小田原町・新町・新谷町およびそれ以外の箱根町域のほとんどは、小田原藩領となる[1]。
1868年8月17日(慶応4年6月29日) - 箱根宿三島町・芦川町の民政一般が神奈川府の管轄となる。ただし一部事務などは韮山県が扱った。
明治初年 - 箱根宿が箱根駅に改称。
1869年7月25日(明治2年6月17日) - 版籍奉還により、明治政府の行政区画としての小田原藩が成立する。
1871年8月29日(明治4年7月14日) - 廃藩置県により、小田原藩が廃止され、小田原県となる。
1871年(明治4年9月) - 韮山県廃止により、箱根駅が全面的に神奈川県の管轄となる。
1871年12月25日(明治4年11月14日) - 小田原県は廃止され、神奈川県管轄地域を含めた足柄下郡の全域が足柄県に属す[2]。
1876年(明治9年)4月18日 - 足柄県を分割し、これ以降は神奈川県に属する[3]。
1884年(明治17年) - 箱根駅、元箱根村および芦之湯村が「箱根駅外二ケ村」連合戸長制を敷く。
1886年(明治19年)7月 - 函根離宮(現在の恩賜箱根公園)が竣工する。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行で箱根駅、湯本村、温泉村、宮城野村、仙石原村、元箱根村、芦之湯村の1駅6村が発足する。箱根駅、元箱根村および芦之湯村は、「箱根駅外二ヶ村組合」にて行政を行う。
1892年(明治25年)10月29日 - 県治局長による内翰により、箱根駅が箱根町に改称する[4]。箱根駅外二ヶ村組合は、箱根町外二ヶ村組合となる。
1904年(明治37年) - 七湯経由の人力車道が足ノ湖畔まで開通する。
1927年(昭和2年)10月1日 - 湯本村が町制施行し、湯本町となる。
このころ、箱根山戦争が起きる。
1954年(昭和29年)1月1日 - 箱根町外二ヶ村組合の箱根町、元箱根村および芦之湯村が合併して、新たに箱根町となる。
湯本町、温泉村、宮城野村、仙石原村および箱根町を廃し、箱根町を置く件の総務省告示文があります。
1956年(昭和31年)9月30日 - 湯本町、温泉村、宮城野村、仙石原村および箱根町が合併して、新たに箱根町となる。