後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今日の日記、水郷、水元公園の花菖蒲を見に行く

2017年05月27日 | 日記・エッセイ・コラム
水元公園は東京の東端の葛飾区にあります。昔は水郷が広がっていました。
そのために水元公園には広い昔の運河があります。都立公園としては珍しく昔の運河を利用した広大な公園です。
自宅からは練馬区の大泉で東京外環道路に入り、終点の三郷南出口で下ります。そこからは10分ほどの場所にあります。
自宅から65Km,1時間10分で行きつきました。
運河の岸辺には樹林地帯が続き、芝生の広場もある広大な公園です。
今日は公園の東端にある花菖蒲を見に行きました。駐車場から1Kmほど歩きました。
花菖蒲はちらちら咲き出したばかりで満開になるのは1週間ほど後になるようです。
白い睡蓮も咲いていました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。













南米の山の斜面の貧民街の光景に胸が痛む

2017年05月27日 | 日記・エッセイ・コラム
ベネズエラは南米大陸の北の部分を占める国で、その南には広大なブラジルが広がっています。
あれは随分昔のことですが、私はこのベネズエラに1976年に、2週間ほど滞在しました。
その首都のカラカスで胸が痛む光景を見てしまったのです。近代的な中心街を外れた山の斜面に貧しい人々がビッシリと住んでいたのです。それは後で知ったことですが、南米特有の山の斜面にある貧民街だったのです。
私はベネズエラに行く前は、その国は豊かで幸せな国だと思っていました。熱帯特有の青空の下で人々は陽気で明るく生きていると想像をしていました。しかし、来てみるとあまりにも大きい貧富の差と貧民街のひどい光景に度肝を抜かれたのです。
好奇心の強い私はその実態を知りたくなって、カラカス市で開催された国際研究会で知り合った現地の研究者に案内をお願いしました。
偶然にも彼は山の貧民地帯の出身だと言います。
山の斜面の下の入り口に、蛇口の壊れた水道が一個あり、水が流れています。半身裸の男の子が水の入ったヤカンを2個持って坂道を登って行きます。レンガやシックイで固めた不揃いの小さな家々が重なるように斜面を埋めて、上へ、上へと続いているのです。
誰も居ません。ガランとした空虚な路地を乾いた風が吹いているだけです。悪臭もせず清潔な感じです。中腹まで登ったら家の前で老婆が編み物をしていました。我々をとがめるように険しい目つきで見ます。案内してくれた彼が何か現地語で挨拶すると途端に笑顔を見せたのです。彼と老婆が何か話し合っています。
後で彼に聞きました。ガランとして誰も居ないのは、日雇いの仕事で皆な出た後だからと。そして観光客が現地の案内人なしで来ると殺されるから私へ注意するようにと言ったという。

その数日後の土曜日に、ホテルの受付でキリスト教のミサに行きたいと相談しました。それなら裏にある競技場へ明日の朝7時に行きなさいと教えてくれました。
翌朝行ってみると、荒れて崩れかかった巨大な闘牛場の観客席を人々が埋め尽くしています。清潔そうですが、みんな貧しげな身なりです。闘牛場の真ん中の土の上に小さな赤い絨毯をしいて神父さんが2、3人と、白い服を着た20人くらいの侍者の姿が見えます。
普通のカトリックのミサですが、スペイン語です。でも雰囲気や式次第が日本のカトリックと同じです。
回りの人々は黒人が多く、混血のような人もいました。そんな現地の人々の中へ溶け込んでしまい、一緒に祈りました。賛美歌も一緒に歌ったのです。私は神に「この山の斜面の貧民街を何とか助けて下さい」とお祈りしました。
私の訪れた貧民街の人々と一緒にイエス様に祈ったのです。荒れた闘牛場での野外ミサでした。
金持ちの人々は中心街のポルトガル風の立派な教会のミサに行き、山の斜面の人々は荒れた闘牛場の野外ミサに来るのです。
それ以来、私は時々、カラカスの山の斜面の光景を思い出しては胸が痛みます。
何故、南米の貧民街は解消出来ないのだろうかと考えています。

そうしたら最近、ブラジル在住の平峰盛敏さんから「ブラジル生活あれこれ(1)19歳で日本から移民して感じたこと」という連載記事のご寄稿があったのです。2017年04月22日 に掲載した記事です。
この記事の中に次のような記述があったのです。
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(3)ブラジルにおける貧困層の存在と問題点
アフリカから連れてこられた奴隷は1888年に解放されました。しかしその子孫は130年近く経った今でもその大部分が、最底辺生活から抜け出すことが出来ずにいます。この貧困層の存在は人種差別による貧困では無く、生活能力不足による貧困と考えられています。
この貧困層の問題は、教育不足、就職難、悪い道への下り坂などです。
貧困層が住むスラム地域には、アフリカの黒人系が多く、教育不足、就職難、悪い道の悪循環が何時までも回っているのです。
私がブラジルで高校、大学に学んだ際、ビックリしたのは、貧乏が食物不足を生み、その子弟達は、餓死寸前の環境に何年も過ごすことになることです。 餓死寸前の栄養状態では脳が発達出来ず、知能の発達を妨害しているのです。この事実は医学的にも認められているのです。この貧困層の問題を私が初めて知った時の驚きと暗い気持ちが忘れられません。
そこでブラジルの貧困層の歴史を調べました。
1888年の奴隷解放の当時は、解放された奴隷たちが、途方に暮れて、餓死を余儀なくされていたのです。この悲劇は短い期間ではなかったのです。生活能力が無い人々は、野垂れ死にするより手段が無かった時代が暫く続いていたらしいのです。
最底辺での生活者の間で真面目に話題にされる事の一つに、又 どろぼうでもして、暫く刑務所で過ごす事にしよう。あそこでは、飯の食い上げはないというのがあります。
肌の色では無く、人種ではなく、腹の空き具合で絶望的になっている群衆が、社会の底辺に多数いたのです。この貧困層は昔のブラジルの歴史の中で何度かあったわけです。昔あったし、現在もあるのです。
警察の一つの仕事に、奴隷的労働条件下の雇用の摘発があります。時々ニュースになります。街にも田舎にも、金儲けだけを目的にしている悪徳事業主がいるのです。背に腹は替えられないと餓死を恐れ、なんでもする気の人がいつも沢山いるのです。
従って現在のブラジルは、経済的、 政治的、道徳的、治安的に、凄く厳しい情勢です。
上は、大統領、宰相たちから、下は、町役所の公務員に至るまで、汚職が満延しています
有能で高潔な政治家や指導者が多くなり、その善政で、是非 秩序と繁栄を回復して欲しいと願うばかりです。
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この南米特有の貧民街は ファヴェーラと言いますが。それが生まれた歴史と何故解消出来ないかについては続編で考えて見たいと思います。
5枚の写真にブラジルのリオデジャネロの貧民街の写真を示します。写真の出典は、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A9 です。
ベネズエラの貧民街の写真も示すべきでしょうが、ブラジルの風景と同じと言われています。南米全体の都市の郊外には同じような貧民街が広がっているようです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真はリオデジャネイロ市のヴィディガル(ビジガル、Vidigal)の貧民街です。イパネマ海岸のシェラトンホテル(右)の裏に広がっています。

2番目の写真はリオデジャネイロ最大の貧民街(ファヴェーラ)のホシーニャ(Rocinha)という場所です。

3番目の写真もリオデジャネイロ最大の貧民街(ファヴェーラ)のホシーニャ(Rocinha)という場所です。

4番目の写真は貧民街(ファヴェーラ)で警戒する武装警官の様子です。
 
5番目の写真はリオデジャネイロ市のコンプレクソ・ド・アレマンの貧民街(ファヴェーラ)です。6万人以上が住むが、2007年には憲兵隊とギャングの市街戦も起きた場所です。