後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

人間到る処青山あり・・・外国に骨を埋める人々

2017年05月12日 | 日記・エッセイ・コラム
アメリカ生まれのSNSのFace Book に加入して毎日、国内は勿論、外国に方々と楽しく交流してます。
それで気が付いたことですが、いろいろな外国に住み着いていて、そこに骨を埋めるような日本人の方が沢山いるのです。外国はイギリス、スペイン、フランス、ドイツ、イタリア、などは勿論、南米のブラジルなどの諸国です。そしてインド、タイ、マレーシア、インドネシア,台湾、韓国、中国にも日本人が沢山住んでいます。
その上、日本に住みついているいろいろな外国の方々もいます。
こういう方々は何となく達観の境地にいるような雰囲気です。地球上の人間はみな同じと信じ、死んだらその国の土になるのです。
立派な人生だと思います。尊敬しています。
このような方々と交流していると、私は『人間(ジンカン)到る処青山あり』という句を思い出します。
その上、この句は Face Book で交流している時だけ思い出すのではありません。
私の長い人生の折々に必ず思い出す言葉でもあります。
仕事がうまく行かなくて屈折しているとき。残雪の連山を見ながら亡くなった親や恩人のことを思い出しているとき。海の上でヨットに乗っているとき。フッと思い出して残雪の連山や青い海原に眠る人々のことを思うこともあります。
この一節は幕末の長州の月性という僧侶が作った漢詩の最後の一節です。
言葉の響きが良い上に蒼く光る山々を連想されるので広く人々に使われる一節です。もっとも青山とは墳墓のことですが、蒼く光る山々を連想されるのです。

その七言絶句の漢詩と訳は以下の通りです。          

『將東遊題壁』

男兒立志出郷關,
學若無成不復還。
埋骨何期墳墓地,
人間到處有青山。

將(まさ)に 東遊せんとして 壁に 題す。

男児志を立て郷関を出ず
学若し成る無くんば復た還らず
骨を埋むる何ぞ墳墓の地を期せん
人間到る処青山あり

(「人間(じんかん)」は世の中を指し、「青山」は墳墓を表しています。)
その大意は、人はどこで死んでも青山(=墳墓の地)とする所はある。故郷を出て大いに活躍すべきであるとの意です。

幕末の長州で月性は尊皇攘夷の運動を活発にしていて吉田松陰とも交友があったそうです。
現在は日本人は多くの国々に行って住み着いています。そこで家族を持ち、活躍し、やがて没し、その国の土になるのです。
「人間到る処青山あり」という一句は何となく現在の様子に合致しているように感じられます。
私が戦後に入学した新制高校は旧制中学校のままの漢文の先生が教えていました。
勿論、この漢詩の重要な一節は、「学若し成る無くんば復た還らず」です。学問をきわめるために故郷を出るのです。しかし最後の一節だけが有名になり、広くいろいろな分野で活躍するために故郷を出ると拡大解釈されるようになりました。

最近、Face Book の上で交流している方々は日本の故郷を遠く離れて何年も異国に住んでいらっしゃいます。
そのような方々が故郷の日本のことを懐かしく思うのは大変有難いことです。そして現在住んでいるところを愛しお墓も作ろうと決心していることに感動します。私はそのような人を尊敬します。
外国に住む日本人はそれぞれの理由があるのでしょう。しかし住んでいる土地を愛し、その国の土になるという決心は崇高なものと思います。
勿論、その逆も場合もあります。日本に帰化して日本の土になった外国人も数人知っています。時々そのような方の墓参りに行きます。何故か感動します。理由は分かりません。
今日の挿絵の写真はフランスとインドとオランダの風景写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目のアルプス地方の風景写真の出典は、http://www.v3wall.com/ja/html/pic_down/1680_1050/pic_down_33070_1680_1050.html です。

2番目のインドの農村の風景写真の出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/samberasam51/23670410.html です。

3番目のオランダの風景写真の出典は、http://sayaka007.blog17.fc2.com/blog-entry-70.html です。
=====参考資料================
月性:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E6%80%A7
15歳のとき豊前国・肥前国・安芸国で漢詩文・仏教を学び、また京阪・江戸・北越を遊学し名士と交流した。長門国萩では益田親施・福原元・浦元襄などに認められ、吉田松陰、久坂玄瑞らとも親しかった。
安政3年(1856年)、西本願寺に招かれて上洛、梁川星厳・梅田雲浜などと交流し攘夷論を唱え、紀州藩へ赴き海防の説得にあたるなど、常に外寇を憂えて人心を鼓舞し、国防の急を叫んでいたので世人は海防僧と呼んでいた。長州の藩論を攘夷に向かわせるのに努めた熱血漢で、詩をよくした。「・・・人間[1]到る処青山有り・・・」という言葉で有名な漢詩「将東遊題壁」(男児立志出郷関 学若無成死不還 埋骨豈期墳墓地 人間到処有青山)の作者としても名高い。
安政5年(1858年)5月、42歳で病死した。
15歳のとき豊前国・肥前国・安芸国で漢詩文・仏教を学び、また京阪・江戸・北越を遊学し名士と交流した。長門国萩では益田親施・福原元・浦元襄などに認められ、吉田松陰、久坂玄瑞らとも親しかった。
安政3年(1856年)、西本願寺に招かれて上洛、梁川星厳・梅田雲浜などと交流し攘夷論を唱え、紀州藩へ赴き海防の説得にあたるなど、常に外寇を憂えて人心を鼓舞し、国防の急を叫んでいたので世人は海防僧と呼んでいた。長州の藩論を攘夷に向かわせるのに努めた熱血漢で、詩をよくした。「・・・人間[1]到る処青山有り・・・」という言葉で有名な漢詩「将東遊題壁」(男児立志出郷関 学若無成死不還 埋骨豈期墳墓地 人間到処有青山)の作者としても名高い。 安政5年(1858年)5月、42歳で病死した。