現在、我々が日常的に使っている武蔵野という地名が初めて記載されたのは万葉集です。第14巻「東歌」に出て来ます。
そして武蔵野から相模に行く道として「多摩の横山の道」が書かれています。現在の多摩市の南部の尾根筋を東西に走る古い道です。
それでは多摩の横山という名前が出て来る万葉集の歌をご紹介します。
「赤駒を山野(やまの)のはかしとりかにて 多摩の横山徒歩(かち)ゆか遣らむ」
万葉集 巻20 4417――― 宇遅部黒女
山野に放牧していた馬をどうしても捕まえることが出来なかったので、出征する夫を徒歩で出発させてしまった。
巻20には数多くの防人にちなんだ歌がありますが、上の歌は武蔵の国の防人(さきもり)の妻が作った歌です。
武蔵の防人は、まず現在の府中市にあった国府に集合し、多摩川を南岸へ渡り、相模の国の国府があった現在の平塚市へ向かったのです。その道筋は現在の多摩市の南部に連なる尾根の上の見晴らしの良い道です。
現在、この尾根道は遊歩道として10Kmも整備されています。この遊歩道を歩いて見ると、西には相模平野の向こうに丹沢の山並、その後ろに高く聳える富士山がよく見えます。その右方向に目を転ずると武蔵の国が広がり、遠方に奥多摩の山々が見渡せます。
この道は雑木林の中にあります。
「多摩の横山の道」に平行して現在は「多摩尾根幹線自動車道路」が東西に出来ています。
昨日はこの自動車道路から見える多摩の横山の黄葉の写真を撮って来ました。
「多摩尾根幹線自動車道路」は調布市の甲州街道から西にある町田市の町田街道をつなぐ約17Kmの立派な自動車道路ですが、多摩の横山道に平行している部分が稲城市の光陽台から八王子市の南大沢までの10Kmです。
昨日はこの10Kmを往復して多摩の横山の黄葉の風景写真を撮って来ました。
ここで疑問を感じます。1200年以上も前の武蔵野の雑木林の樹種は現在と同じだったのでしょうか?
いろいろ調べたら奈良時代から中世までの武蔵野の平野や丘陵には「クヌギ」「ナラ」「ソロ」「シデ」「アカマツ」などの混淆林が広がっていたそうです。
人の手が入る以前の武蔵野は照葉樹林でした。やがて焼畑農業が始まり、その跡地が草原や落葉広葉樹の二次林となり、“牧(まき)”と呼ばれる牧草地に転用されるなどして、平安期頃までには原野の景観が形成されたといわれています。
現在の武蔵野の雑木林にはクヌギ、コナラ、シデなどに加えてケヤキ、エゴノキ、サクラなどの樹種が加わり多様になりましたが広葉の照葉樹林であるという事では現在も昔も同じだったのです。
従って秋の黄葉の風景は同じです。
もしこの黄葉の綺麗な秋に防人達がこの多摩の横山を歩いて行ったとしたらどんな気持ちで眺めていたのでしょうか?
防人として出征すれば二度と故郷に帰れぬ人も多いのです。悲しい気持ちで黄葉の風景を眺めたに違いありません。それを見送る妻も悲しかったのです。
「多摩尾根幹線自動車道路」は景色が良いのでよくドライブに行くところです。行けば「赤駒を山野にはかし捕りかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らむ」の歌を思い出します。
兵士として出征する悲しみは古今東西変わらない深い悲しみなのです。
多摩の横山のルートマップは、https://www.ur-net.go.jp/syutoken/nt/yokoyama.html に御座います。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
そして武蔵野から相模に行く道として「多摩の横山の道」が書かれています。現在の多摩市の南部の尾根筋を東西に走る古い道です。
それでは多摩の横山という名前が出て来る万葉集の歌をご紹介します。
「赤駒を山野(やまの)のはかしとりかにて 多摩の横山徒歩(かち)ゆか遣らむ」
万葉集 巻20 4417――― 宇遅部黒女
山野に放牧していた馬をどうしても捕まえることが出来なかったので、出征する夫を徒歩で出発させてしまった。
巻20には数多くの防人にちなんだ歌がありますが、上の歌は武蔵の国の防人(さきもり)の妻が作った歌です。
武蔵の防人は、まず現在の府中市にあった国府に集合し、多摩川を南岸へ渡り、相模の国の国府があった現在の平塚市へ向かったのです。その道筋は現在の多摩市の南部に連なる尾根の上の見晴らしの良い道です。
現在、この尾根道は遊歩道として10Kmも整備されています。この遊歩道を歩いて見ると、西には相模平野の向こうに丹沢の山並、その後ろに高く聳える富士山がよく見えます。その右方向に目を転ずると武蔵の国が広がり、遠方に奥多摩の山々が見渡せます。
この道は雑木林の中にあります。
「多摩の横山の道」に平行して現在は「多摩尾根幹線自動車道路」が東西に出来ています。
昨日はこの自動車道路から見える多摩の横山の黄葉の写真を撮って来ました。
「多摩尾根幹線自動車道路」は調布市の甲州街道から西にある町田市の町田街道をつなぐ約17Kmの立派な自動車道路ですが、多摩の横山道に平行している部分が稲城市の光陽台から八王子市の南大沢までの10Kmです。
昨日はこの10Kmを往復して多摩の横山の黄葉の風景写真を撮って来ました。
ここで疑問を感じます。1200年以上も前の武蔵野の雑木林の樹種は現在と同じだったのでしょうか?
いろいろ調べたら奈良時代から中世までの武蔵野の平野や丘陵には「クヌギ」「ナラ」「ソロ」「シデ」「アカマツ」などの混淆林が広がっていたそうです。
人の手が入る以前の武蔵野は照葉樹林でした。やがて焼畑農業が始まり、その跡地が草原や落葉広葉樹の二次林となり、“牧(まき)”と呼ばれる牧草地に転用されるなどして、平安期頃までには原野の景観が形成されたといわれています。
現在の武蔵野の雑木林にはクヌギ、コナラ、シデなどに加えてケヤキ、エゴノキ、サクラなどの樹種が加わり多様になりましたが広葉の照葉樹林であるという事では現在も昔も同じだったのです。
従って秋の黄葉の風景は同じです。
もしこの黄葉の綺麗な秋に防人達がこの多摩の横山を歩いて行ったとしたらどんな気持ちで眺めていたのでしょうか?
防人として出征すれば二度と故郷に帰れぬ人も多いのです。悲しい気持ちで黄葉の風景を眺めたに違いありません。それを見送る妻も悲しかったのです。
「多摩尾根幹線自動車道路」は景色が良いのでよくドライブに行くところです。行けば「赤駒を山野にはかし捕りかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らむ」の歌を思い出します。
兵士として出征する悲しみは古今東西変わらない深い悲しみなのです。
多摩の横山のルートマップは、https://www.ur-net.go.jp/syutoken/nt/yokoyama.html に御座います。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)