後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

共産党独裁の中国の人との付き合いで注意すべき事

2018年11月13日 | 日記・エッセイ・コラム
中華人民共和国は1949年の建国以来、現在まで共産党の独裁国家です。怖い国です。
この怖い国へ私は1981年に初めて行きました。
下手なことを喋ると即逮捕され日本へ帰って来られないと言う人もいた時代でした。
私は緊張して北京空港に降りました。
この訪問にいたる経緯です。
1979年、ベルサイユ宮殿前の国際会議場で北京鉄鋼学院の周栄章教授に会った時、彼が私を北京へ招待してくれたのです。
周氏は共産軍とともに天津市を占領し、天津市の行政に参加した人でした。彼は正真正銘の共産党員でした。
親しくなって一緒にビールを飲んだ時こんな話をしてくれました。
周氏は日本軍が真珠湾で米太平洋艦隊を攻撃した時、ものすごくうれしかったそうです。日本は太平洋へ軍事作戦を拡大するので、中国本土の戦争は中国にとって楽になると考えたからです。実はこれだけではないようでした。西洋植民地主義で清朝以来痛めつけられた中国人にとって、兄弟分の日本が西洋人に痛撃を与えたからです。
海外在住の中国人も含め、全中国人が日本軍の真珠湾攻撃によって内心溜飲を下げなかったと言えば嘘になるというような事を言います。
私は酔った勢いで共産主義の間違いを鋭く批判しました。彼は笑いながら黙って聞いていました。そしてついでに西洋の植民地主義の残酷さも批判しました。彼は笑いながら黙って聞いていました。
周さんはたった一つだけ言います。貴方は外国人だから共産主義の悪口をいくら言っても良いです。発言は自由です。
そんな会話の数日後、彼は私を大学の地下室へ連れて行ったのです。
 暗夜に紛れて連れて行かれた所は、深い地下に埋め込んだ大學の地下室でした。明るい照明がついた大きな部屋の壁一面に、周恩来の写真、詩文、花束などが飾られていました。周氏は「中国人が一番好きな人は毛沢東ではなく周恩来ですよ。中央政府が何と言ったってやることはちゃんとやります。それが中国人の根性なのです」と言い切りました。
外国人の私が政府側へ密告しないとどうして信用できたのでしょうか。このような体験は、中国も日本も権力者と一般の人々との考えが違うことを教えてくれました。

ここで何が起きていたのでしょうか?
ちょっとだけ説明させて下さい。
1976年4月5日に第一次天安門事件が起きたのです。
北京市の天安門広場で、1月6日に死んだ周恩来追悼の為に大規模なデモがありました。
それを北京市当局が武力を使って鎮圧したのです。日本で有名なのは1989年の天安門事件ですが、それは中国では第二次天安門事件と呼ばれています。

さて第一次天安門事件はまだ存命中だった毛沢東一派によって鎮圧されましたが一般の人々はその後、何年間も周恩来追悼の為の行事を秘かに行っていたのです。
1981年に私が連れて行かれた大学の地下の部屋の壁一面に、周恩来の写真、詩文、花束などが飾られていたのは秘密の追悼行事だったのです。

私は確信しました。中国人は人情が篤く中央政府が何と命令しようと人間らしさを失わなない人々だと確信したのです。彼等が心の中で感謝している政治家は劉 少奇、周恩来、胡耀邦などです。大衆の生活を少しでも良くしようとして失脚した政治家です。
このような事が分かった私は共産党独裁の中国は怖くなくなりました。
さて表題の・・・中国の人との付き合いで注意すべき事についてです。
それは満州国の建国について弁護しないことです。
宴席などで満州国の建国は中國人にとっても良かったと演説する日本人がいます。
満州の工業が近代化して重工業が発達したのは満州のお陰だと言うのです。
宴席につらなる中国人はにこにこして聞いています。
宴会の後で周栄章教授が私に耳打ちしました。「満州のことは言うな。中国人は他国に支配されるより飢え死にした方が幸せなのです」

日本人が言わなくても中国人が言ってくれるのです。
中国東北部の瀋陽に行った時、東北工科大學の陸学長がニコニコして「私は日本人の作った旅順工大の卒業です」ときれいな日本語で言いました。そこで、東北大学金属工学科で電気冶金学を習った森岡先生が旅順工大にいたことを話しましたら、「悪い先生もいましたが、大変お世話になった素晴らしい日本の先生もいました。ご恩は忘れません」と懐かしそうでした。
さて大変親しく付き合ってくれた周栄章教授は2004年に亡くなりました。
共産党独裁の中国の人との付き合いで注意すべき事は満州建国だけでなく日本の中国侵略を正当化する意見は言わない方が良いのです。なにせ2000万人以上の中国人が犠牲になったのです。日本人には語る言葉が無い筈です。

今日も挿し絵代わりの写真は昨年の11月に甲府の昇仙峡で撮ってきた紅葉の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料================
四五天安門事件(第一次天安門事件)
https://blog.goo.ne.jp/admin/newentry/
1976年4月5日に中華人民共和国の北京市にある天安門広場において、同年1月に死去した周恩来追悼の為にささげられた花輪が北京市当局に撤去されたことに激昂した民衆がデモ隊工人と衝突、政府に暴力的に鎮圧された事件、あるいは、この鎮圧に先立ってなされた学生や知識人らの民主化を求めるデモ活動を包括していう。1989年6月4日に起きた六四天安門事件(第二次天安門事件)と区別するため、第一次天安門事件ともいう。

事件発生後、四人組のひとり姚文元は『人民日報』に「反革命政治事件」として民衆の反乱とごまかして報道したが、かえって国民の怒りを買い、4月12日には人民日報本社に、「ある現場労働者民兵」の名で、編集長を「ゲッベルス」と揶揄し「驚愕すべきことだ!党の機関紙は堕落した!ファシズムのメガホンになり下がった」と書いた抗議文が送りつけられてきた。一方、四人組の江青は事件の報告を受けたのち興奮して、ピーナツと焼き豚とで祝杯をあげ、「わたしはいつでも棍棒で、反対する奴ばらをぶちのめしてやるわ。」と高言し周囲の顰蹙を買った。
事件後、鄧小平が責任を問われ全ての党職務を解かれ失脚。四人組が事実を曲げて毛沢東に報告したために、毛沢東は本当に反革命が起こったと勘違いし、その後の弾圧に結びついた。だが、四人組を批判する北京の人々の動きは中国全土に広がり、毛がこの年9月に亡くなったこともあって四人組は失脚することとなる。