東京から軽井沢や小諸の懐古園を車で訪れる時は関越高速と信越高速を使うと便利です。
何度も行きましたが、帰路は八ヶ岳の東の国道141号線を走り清春を経て須玉から中央高速に乗ります。
雄大な八ヶ岳の山麓を走る国道141号線が佐久穂町にさしかかると、「日本一美しい白樺の群落・・・八千穂高原入口」という看板があります。
何故かシラカバ林は私の好きな風景です。若い時から憧れていた風景なのです。
その佐久穂町は長野県ですが、県境を越えた山梨県側は北杜市になります。その北杜市には清春白樺美術館があり、何度も行った所です。
西洋のロダンやセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンらの芸術を日本に紹介した白樺派の文学者や画家の作品が展示してあります。そのことも私の心をシラカバに向けたのかもしれません。
その八千穂高原に上がってみると見事な白樺林が広がっているのです。林の奥の奥まで白い幹が見通せるのです。奥深い森です。白樺林は北海道でも見ました。富士山の4合目でも沢山見ました。高原に行けばそんなに珍しいものではありません。
しかし八千穂高原の群落はその広さと樹木の数で感動します。案内書によるとに八千穂高原には、約200haの高原に50万本の白樺林が群生しているそうです。
数が多いだけでなく白い幹がなんとも優美な雰囲気をかもし出しているのです。
その上、駒出池や八千穂レイクがありその周囲にも白樺があるのです。
それは白樺が作り出す不思議な別世界です。
そんなことを思い出しました。紅葉の頃はさぞ美しいと思い白樺の紅葉の風景写真を検索して、いろいろ比較して一番美しいHPを選びました。それは「秋の白樺林」、http://widewallpapers.xii.jp/archives/1028 です。その中から5枚の写真をお借りしお送りします。
白樺林を見ると何となく白樺派の高村光太郎の「智恵子抄」にある二つ詩の冒頭の部分を思い出します。
結婚したばかりの頃に、妻がこの詩を私に教えてくれたのです。
「智恵子は東京に空が無いといふ。ほんとの空が見たいといふ。」と、もう一つの詩は「あれが阿多多羅山(あたたらやま) あの光るのが阿武隈川」です。
それはさておき、清春白樺美術館には智恵子の描いた油彩画が一枚だけ展示してあったことも思い出しました。「樟」を描いた青緑の絵です。彼女が精神を病んで、病院で作った花々の切り絵も数多く展示してありました。
白樺林を見ると高村光太郎と智恵子のことをあれこれ想います。
光太郎の晩年は戦争遂行に協力したことを恥じ岩手県の山間に身を引きます。そして、そして7年間もの懺悔の謹慎生活に入ったのです。1956年、智恵子と同じく肺結核でこの世を去ったのです。享年73歳。
白樺林を見ると私はそんなことを想うのです。
人の想いはそれぞれです。皆様は白樺林の風景がお好きでしょうか? 何を想いますか?
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料====
日本一美しい白樺群生地:http://yachiho-kogen.jp/sightseeing/shirakaba/index.php
八千穂高原は北八ヶ岳の東麓に広がる自然豊かな高原。この広大な八千穂高原には、約200haの敷地に50万本の白樺林が堂々と植生し、その群生は日本一にふさわしい優美さ。
清春白樺美術館:http://www.kiyoharu-art.com/museum/index.htm
1983年(昭和58年)に清春芸術村の施設として建設された清春白樺美術館は、武者小路実篤、志賀直哉など『白樺』の同人が建設しようとしてその夢を果 せなかった“幻の美術館”を、武者小路、志賀の両氏を敬愛し、個人的にも親交のあった吉井長三が実現したものです。
白樺派:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%A8%BA%E6%B4%BE
大正デモクラシーなど自由主義の空気を背景に人間の生命を高らかに謳い、理想主義・人道主義・個人主義的な作品を制作した。人間肯定を指向し、自然主義にかわって1910年代の文学の中心となった。特にロダンやセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンら西欧の芸術に対しても目を開き、その影響を受け入れた。
高村光太郎:http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/koutarou.html
愛妻の智恵子の死後、日本は太平洋戦争に突入。文学者や芸術家の大半が戦争に協力していくなか、人道的詩人であったはずの光太郎もまた、戦意高揚を目的とした戦争賛美の詩を作ってしまう。終戦後、彼は旗振り役となって戦争遂行に協力したことを恥じると共に、これをいっさい弁明せず、岩手県花巻郊外の山間に身を引いた。そして、62歳から69歳まで7年間もの懺悔の謹慎生活に入る。そこは周囲に人家のない孤立した山小屋で、三畳ほどの小さな土間と自分で切り開いた畑しかなかった。その地で、心の中に生きている智恵子と暮らした。1956年、智恵子と同じく肺結核でこの世を去る。享年73歳。
何度も行きましたが、帰路は八ヶ岳の東の国道141号線を走り清春を経て須玉から中央高速に乗ります。
雄大な八ヶ岳の山麓を走る国道141号線が佐久穂町にさしかかると、「日本一美しい白樺の群落・・・八千穂高原入口」という看板があります。
何故かシラカバ林は私の好きな風景です。若い時から憧れていた風景なのです。
その佐久穂町は長野県ですが、県境を越えた山梨県側は北杜市になります。その北杜市には清春白樺美術館があり、何度も行った所です。
西洋のロダンやセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンらの芸術を日本に紹介した白樺派の文学者や画家の作品が展示してあります。そのことも私の心をシラカバに向けたのかもしれません。
その八千穂高原に上がってみると見事な白樺林が広がっているのです。林の奥の奥まで白い幹が見通せるのです。奥深い森です。白樺林は北海道でも見ました。富士山の4合目でも沢山見ました。高原に行けばそんなに珍しいものではありません。
しかし八千穂高原の群落はその広さと樹木の数で感動します。案内書によるとに八千穂高原には、約200haの高原に50万本の白樺林が群生しているそうです。
数が多いだけでなく白い幹がなんとも優美な雰囲気をかもし出しているのです。
その上、駒出池や八千穂レイクがありその周囲にも白樺があるのです。
それは白樺が作り出す不思議な別世界です。
そんなことを思い出しました。紅葉の頃はさぞ美しいと思い白樺の紅葉の風景写真を検索して、いろいろ比較して一番美しいHPを選びました。それは「秋の白樺林」、http://widewallpapers.xii.jp/archives/1028 です。その中から5枚の写真をお借りしお送りします。
白樺林を見ると何となく白樺派の高村光太郎の「智恵子抄」にある二つ詩の冒頭の部分を思い出します。
結婚したばかりの頃に、妻がこの詩を私に教えてくれたのです。
「智恵子は東京に空が無いといふ。ほんとの空が見たいといふ。」と、もう一つの詩は「あれが阿多多羅山(あたたらやま) あの光るのが阿武隈川」です。
それはさておき、清春白樺美術館には智恵子の描いた油彩画が一枚だけ展示してあったことも思い出しました。「樟」を描いた青緑の絵です。彼女が精神を病んで、病院で作った花々の切り絵も数多く展示してありました。
白樺林を見ると高村光太郎と智恵子のことをあれこれ想います。
光太郎の晩年は戦争遂行に協力したことを恥じ岩手県の山間に身を引きます。そして、そして7年間もの懺悔の謹慎生活に入ったのです。1956年、智恵子と同じく肺結核でこの世を去ったのです。享年73歳。
白樺林を見ると私はそんなことを想うのです。
人の想いはそれぞれです。皆様は白樺林の風景がお好きでしょうか? 何を想いますか?
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料====
日本一美しい白樺群生地:http://yachiho-kogen.jp/sightseeing/shirakaba/index.php
八千穂高原は北八ヶ岳の東麓に広がる自然豊かな高原。この広大な八千穂高原には、約200haの敷地に50万本の白樺林が堂々と植生し、その群生は日本一にふさわしい優美さ。
清春白樺美術館:http://www.kiyoharu-art.com/museum/index.htm
1983年(昭和58年)に清春芸術村の施設として建設された清春白樺美術館は、武者小路実篤、志賀直哉など『白樺』の同人が建設しようとしてその夢を果 せなかった“幻の美術館”を、武者小路、志賀の両氏を敬愛し、個人的にも親交のあった吉井長三が実現したものです。
白樺派:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%A8%BA%E6%B4%BE
大正デモクラシーなど自由主義の空気を背景に人間の生命を高らかに謳い、理想主義・人道主義・個人主義的な作品を制作した。人間肯定を指向し、自然主義にかわって1910年代の文学の中心となった。特にロダンやセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンら西欧の芸術に対しても目を開き、その影響を受け入れた。
高村光太郎:http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/koutarou.html
愛妻の智恵子の死後、日本は太平洋戦争に突入。文学者や芸術家の大半が戦争に協力していくなか、人道的詩人であったはずの光太郎もまた、戦意高揚を目的とした戦争賛美の詩を作ってしまう。終戦後、彼は旗振り役となって戦争遂行に協力したことを恥じると共に、これをいっさい弁明せず、岩手県花巻郊外の山間に身を引いた。そして、62歳から69歳まで7年間もの懺悔の謹慎生活に入る。そこは周囲に人家のない孤立した山小屋で、三畳ほどの小さな土間と自分で切り開いた畑しかなかった。その地で、心の中に生きている智恵子と暮らした。1956年、智恵子と同じく肺結核でこの世を去る。享年73歳。