後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

美しい日本の教会の写真(6)東京のカトリック碑文谷教会

2019年02月08日 | 写真
カトリック碑文谷教会は、東京都目黒区碑文谷にある東京教区の教会です。
「江戸のサンタ・マリア聖堂」として1954年にサレジオ会によって建立され、その後運営を東京大司教区が受託しました。別の名前のサレジオ教会としても親しまれています。
36m余の鐘塔を備えたロマネスク様式の大聖堂で、1708年に来日し、小石川切支丹屋敷にて死去した宣教師ジョヴァンニ・シドッティを偲ぶカルロ・ドルチのマリア像「悲しみの聖母」(江戸のサンタ・マリア)の模写が内部に掲げられています。本物の聖画は日本の国宝で、国立博物館に所蔵されています。
鐘はミラノの信者から寄付されたもので、美しい音色を奏でています。










サレジオ修道会は19世紀にイタリアで創設されましたが、現在はイエズス会に次いで世界で2番目に大きな修道会です。
日本には1928年にチマッティ神父等が来て宣教活動を活発に始め、数多くの学校を作りました。
東京都の調布市にはサレジオ神学校を作り、1965年にそこで帰天しました。享年86歳でした。
日本人を愛し、サレジオ会の日本人が第二次大戦で徴兵され、戦死する度に深く嘆き悲しんだのです。
墓はサレジオ神学校の裏手の地下室にあり遺骸も石棺の中に安置されています。(続く)

茅茫々の武蔵野にあった小川村の地方史を調べに行く

2019年02月08日 | 日記・エッセイ・コラム
江戸時代になる前の武蔵野は茅茫々の荒れ地で、暗い森が散在していました。
遥か西には奥多摩の山並みが碧く輝いています。そんな武蔵野の雑木林に隠れるように数少ない村が散在しているだけだったのです。
しかし江戸幕府が出来ると幕府は武蔵野の開拓を勧めます。地方、地方にいる名主的な有力者や郷士が幕府の許可を得て新しい農地を広げていったのです。開拓した人の名前が現在の町名になっている所が幾つかあります。
例えば現在の小平市の小川町は小川 九郎兵衛が開拓した旧小川村の後身です。
この小平市の小川町の地方史を調べるために昨日は小川寺を訪問しました。撮って来た写真をお送りします。

1番目の写真は小川寺(しょうせんじ)の山門です。臨済宗円覚寺派の寺院です。 小川寺は、小川九郎兵衛が開基となり、碩林を開山として明暦2年(1656年)頃に創建したといいます。

2番目の写真は小川寺の鐘楼です。小川九郎兵衛の開発計画は成功します。貞享(1684-1688年)の頃には開拓者たちの懐も潤っていき、檀家はこぞって梵鐘の寄進に応じたのです。

3番目の写真は本堂です。小川九郎兵衛は自費を使って農民を住み着かせ、開拓に着手する一方で、江戸市ヶ谷の月桂寺住職・雪山碩林大禅師を勧請、薬師瑠璃光如来を本尊として開山したのが醫王山小川寺です。

4番目の写真は庫裏の前に紅梅が咲いていたので撮った写真です。檀家が多く裕福らしくて現在の小川寺はこの古い庫裏の隣に立派な新庫裏が出来ています。

5番目の写真は13佛の写真です。13佛への信仰は江戸時代に出来た日本独特の信仰です。
この13の佛像へ先祖の供養と家族の健康や豊作を祈っていたのです。
十三仏は、十王をもとにして、冥界の審理に関わる13の仏(仏陀と菩薩)です。
不動明王
釈迦如来
文殊菩薩
普賢菩薩
地蔵菩薩
弥勒菩薩
薬師如来
観音菩薩
勢至菩薩
阿弥陀如来
阿閦如来
大日如来
虚空蔵菩薩

6番目の写真は小川九郎兵衛の墓です。彼は寛文9年婿養子市兵衛に家督を譲り、岸村の旧宅に戻ってその年の12月17日に48歳の生涯を閉じました。
小川九郎兵衛安次の墓は昭和62年3月、小平市の史跡に指定されています。
墓はもともと武蔵村山市の禅昌寺にあったのですが小川寺へ分骨されたのです。

7番目の写真は1674年頃の小川村の地割図です、青梅街道の下側の真ん中に小川寺があります。

さて小川九郎兵衛の開拓事業を総括して置きます。
小川村のあった武蔵野台地でも水利に乏しい地域で、考古遺跡も旧石器時代の鈴木遺跡があるくらいで人の住んでいない荒れ野でした。
律令制下では武蔵国多摩郡に属し、官道である東山道武蔵路が来ていましたが人はいなかったのです。
中世には鎌倉街道上道の道筋が南北に通過していますが、農民の定住が困難であった土地でした。
1590年に徳川家康が江戸に幕府を作ったので、江戸城築城のための資材を運ぶ運搬路が整備され、青梅から江戸までを繋ぐ青梅街道も出来ます。
承応元年11月(1652年)老中の松平信綱によって玉川上水の開削が計画され、1654年に玉川上水が完成します。
このよう情勢を受けて、1656年に武蔵国多摩郡岸村(現武蔵村山市)の郷士、小川九郎兵衛が江戸幕府に開拓の許可を出願。1657年から小川村として開拓し、青梅街道に沿って小川用水を整備し小川新田として新田開発を行ったのです。その後小川村を中心に諸村が形成され、青梅街道沿いに小川宿が設置されたのです。
また、延宝6年(1678年)には尾張徳川家の鷹場も設置されます。鷹の街道や鷹の台などの地名が残っています。明治時代以降も都心郊外の純農村地帯であります。
小川寺には、小川九郎兵衛の作った小川分水が現在でも流れています。
小川九郎兵衛の事業は新田の開拓だけでなく、青梅や秩父の石灰や木材などの資材運搬の馬継場を作ったのです。その馬継場は繁盛し人々の生活が潤ったのです。彼は起業家でもあったのです。

こんな地方の歴史を調べるのが私の老境の趣味です。昨日行った小川寺にまつわる小史でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)