後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

こんなに多くの人々に愛されている人を見たことがありますか?

2019年02月07日 | 写真
いつも感心しますが、こんなに多くの人々に愛されている人を見たことがありません。私も彼を愛しています。
『ローマ法王がアブダビでミサ』、2019/2/5
【ドバイ=岐部秀光】ローマ法王フランシスコは5日、訪問先のアラブ首長国連邦(UAE)アブダビの競技場でミサを執り行った。法王は「だれも、どんな環境でもわれわれから神の愛を奪うことはできない」と語った。
競技場の外にもスクリーンが設置され、AP通信によるとおよそ18万人が参加した。イスラム教の指導者も出席した。
ローマ法王が、イスラム教が生まれた土地であるアラビア半島の国を訪れるのは初めて。3日にアブダビに到着したローマ法王は4日、UAEの事実上の最高権力者である、アブダビ首長国のムハンマド皇太子やエジプトにあるイスラム教スンニ派最高権威機関アズハルの指導者タイブ師と会談した。
UAEでは5日、ドバイなど各地の教会でも法王のミサが中継され、多数の信者が集まった。UAEの国民のほとんどはイスラム教徒だが、出稼ぎのフィリピン人や、国籍を持たない移民のインド人らにはキリスト教の信者が多い。





ベネズエラ危機は植民地主義とカトリックの負の遺産

2019年02月07日 | 日記・エッセイ・コラム
トランプ大統領がベネズエラへ軍隊を派遣する可能性を示唆しました。カナダなどの穏健な諸国がそれを止めようと躍起になっています。風雲急を告げるベネズエラ危機です。
私はこのベネズエラに1976年に、2週間ほど滞在しました。
そこで私が生涯で一番ショックを受けた光景を見てしまったのです。山の斜面にびっしり建っている貧民街の光景です。それは胸が痛む光景です。一生忘れられない光景です。

1番目の写真はその貧民街の光景です。写真の出典は「ベネズエラの貧困地区:バリオ」、http://globalnewsview.org/archives/6001 です。
このような貧民街は南米の各地にあるそうです。
今日、皆様に考えて頂きたい問題提起は、南米の貧困は植民地主義とカトリックの信仰に責任があるという問題提起です。
世界各地の貧民がいますが南米の混乱と貧民街は独特です。スペイン、ポルトガルの500年間にわたる影響とカトリックに責任があると考えざるを得ないのです。

議論を展開する前に私の体験記をご紹介します。
首都のカラカスは近代的な大都会です。しかし中心街を外れた山の斜面に貧しい人々がビッシリと住んでいたのです。南米特有の山の斜面にある貧民街だったのです。
私はベネズエラに行く前は、その国は豊かで幸せな国だと思っていました。熱帯特有の青空の下で人々は陽気で明るく生きていると想像をしていました。しかし、来てみるとあまりにも大きい貧富の差と貧民街のひどい光景に度肝を抜かれたのです。
好奇心の強い私はその実態を知りたくなって、カラカス市で開催された国際研究会で知り合った現地の研究者に案内をお願いしました。
偶然にも彼は山の貧民地帯の出身だと言います。
山の斜面の下の入り口に、蛇口の壊れた水道が一個あり、水が流れています。半身裸の男の子が水の入ったヤカンを2個持って坂道を登って行きます。レンガやシックイで固めた不揃いの小さな家々が重なるように斜面を埋めて、上へ、上へと続いているのです。
誰も居ません。ガランとした空虚な路地を乾いた風が吹いているだけです。悪臭もせず清潔な感じです。中腹まで登ったら家の前で老婆が編み物をしていました。我々をとがめるように険しい目つきで見ます。案内してくれた彼が何か現地語で挨拶すると途端に笑顔を見せたのです。彼と老婆が何か話し合っています。
後で彼に聞きました。ガランとして誰も居ないのは、日雇いの仕事で皆な出た後だからと。そして観光客が現地の案内人なしで来ると殺されるから私へ注意するようにと言ったという。

その数日後の土曜日に、ホテルの受付でカトリックのミサに行きたいと相談しました。それなら裏にある闘牛場へ明日の朝7時に行きなさいと教えてくれました。
翌朝行ってみると、荒れて崩れかかった巨大な闘牛場の観客席を人々が埋め尽くしています。清潔そうですが、みんな貧しげな身なりです。皆が山の貧民街から下りて来た人々です。
闘牛場の真ん中の土の上に小さな赤い絨毯を敷いて神父さんが2、3人と、白い服を着た20人くらいの侍者の姿が見えます。
普通のカトリックのミサですが、スペイン語です。でも雰囲気や式次第が日本のカトリックと同じです。
回りの人々は黒人が多く、混血のような人もいました。そんな現地の人々の中へ溶け込んでしまい、一緒に祈りました。賛美歌も一緒に歌ったのです。私は神に「この山の斜面の貧民街を何とか助けて下さい」とお祈りしました。
私の訪れた貧民街の人々と一緒にイエス様に祈ったのです。荒れた闘牛場での野外ミサでした。
金持ちの人々は中心街のポルトガル風の立派な教会のミサに行き、山の斜面の人々は荒れた闘牛場の野外ミサに来るのです。
カラカスの山の斜面の人々もカトリックの信仰のお陰で此の世の現実を静かに言受け入れているのです。
山の貧民街の人々が熱心なカトリックの信者だったのです。
毎週ミサに行く度に時々、カラカスの闘牛場でのミサの光景を思い出します。思い出しては胸が痛みます。

2017年4月に、ブラジル在住の平峰盛敏さんから「ブラジル生活あれこれ」という連載記事を書いて頂きました。
その3回目の記事の抜粋です。
(3)ブラジルにおける貧困層の存在と問題点
アフリカから連れてこられた奴隷は1888年に解放されました。しかしその子孫は130年近く経った今でもその大部分が、最底辺生活から抜け出すことが出来ずにいます。この貧困層の存在は人種差別による貧困では無く、生活能力不足による貧困と考えられています。
この貧困層の特徴は、教育不足、就職難、悪い道への下り坂などです。
貧困層が住むスラム地域には、アフリカの黒人系が多く、教育不足、就職難、悪い道の悪循環が何時までも回っているのです。
私がブラジルで高校、大学に学んだ際、ビックリしたのは、貧乏が食物不足を生み、その子弟達は、餓死寸前の環境に何年も過ごすことになることです。 餓死寸前の栄養状態では脳が発達出来ず、知能の発達を妨害しているのです。この事実は医学的にも認められているのです。この貧困層の問題を私が初めて知った時の驚きと暗い気持ちが忘れられません。
そこでブラジルの貧困層の歴史を調べました。
1888年の奴隷解放の当時は、解放された奴隷たちが、途方に暮れて、餓死を余儀なくされていたのです。この悲劇は短い期間ではなかったのです。生活能力が無い人々は、野垂れ死にするより手段が無かった時代が暫く続いていたらしいのです。
最底辺での生活者の間で真面目に話題にされる事の一つに、又 どろぼうでもして、暫く刑務所で過ごす事にしよう。あそこでは、飯の食い上げはないというのがあります。
肌の色では無く、人種ではなく、腹の空き具合で絶望的になっている群衆が、社会の底辺に多数いたのです。この貧困層は昔のブラジルの歴史の中で何度かあったわけです。昔あったし、現在もあるのです。・・・以下省略。

そしてブラジルもカトリック国なのです。
同じような構図はフィリピンにも見られます。
オランダの植民地だったインドネシアやイギリスの植民地だったマーレシアには南米の山の斜面の貧民街はないそうです。ベトナムはフランスの植民地でしたが仏教国でした。
そんな事を考えると今回のベネズエラ危機は植民地主義とカトリックの負の遺産と考えざるを得ません。
大統領が交代しても情勢は急に変わる筈もありません。
世界の文明がどんなに進歩しても貧困は克服出来ないのでしょうか。人間の限界なのでしうか。
ベネズエラ危機のニュースを見る度に心が痛みます。
最後にベネズエラの美しい風景写真を2枚お送りします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)