後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

土方歳三と井上源三郎 の墓の写真を撮りに行く

2019年02月18日 | 日記・エッセイ・コラム
土方歳三の実姉の土方のぶは家内の曾祖母です。曾祖父の佐藤彦五郎に嫁いで来ました。
彦五郎は自分の屋敷内に天然理心流の日野の道場を作ります。その道場に通っていたのが新選組の近藤勇や土方歳三、沖田総司、井上源三郎たちだったのです。
そんな関係で現在の日野市には新選組ゆかりのものがいろいろあるのです。
先週の土曜日に日野市のあちこちを巡り新選組関連の写真を撮って来ました。
撮って来た写真に従ってご説明いたします。

1番目の写真は土方歳三の墓のある石田寺です。歳三は石だらけの田圃しかない石田の集落で生まれ1869年に34歳で亡くなりました。函館で銃弾を受けて即死でした。

2番目の写真は土方家の墓です。右の墓が歳三の墓です。親より早く死んだ親不孝者ですが立派な墓を建ててもらっています。なお歳三の墓は函館などにもあります。
この墓地の大部分は土方家の墓です。石田では皆が土方姓だったのです。

3番目の写真は土方歳三の墓から数百メートルの近くにある歳三の生家の跡地です。現在は歳三の親類が住み資料館を兼ねています。決まった曜日だけ公開しています。

4番目の写真は資料館の庭にある歳三の胸像です。

5番目の写真は家内の曾祖父の佐藤彦五郎の屋敷です。ここに天然理心流の道場を作っていたのです。近藤勇や土方歳三、沖田総司、井上源三郎たちが通っていました。彦五郎の屋敷は日野本陣として毎日公開されています。

6番目の写真は井上源三郎の墓がある宝泉寺の本堂です。井上姓の家の墓が沢山ある寺です。その中に源三郎の墓もあります。

7番目の写真は井上源三郎の慰霊碑です。人望があったそうです。鳥羽、伏見の戦いで40歳で戦死しました。40歳で死ぬとはやはり不孝者です。

8番目の写真は井上源三郎の墓です。源三郎は慶応元年(1865年)6月の組織再編成で、六番隊組長に任じられ、慶応3年(1867年)6月、新選組が幕府直参に取り立てられると、副長助勤として七十俵三人扶持を与えられました。

9番目の写真は近藤勇たちが天然理心流の奉納額をおさめた日野の八坂神社です。JR日野駅の南にあります。神社は甲州街道の面しています。

10番目の写真は近藤勇たちが納めた天然理心流の奉納額です。

さて鳥羽、伏見の戦いで敗れ江戸に帰った新選組は江戸で甲陽鎮撫隊を編成し、薩長土肥軍を甲府で迎え撃つために調布市の西光寺を出発したのです。しかし甲府の手前の勝沼でさんざん負けて敗走したのです。
この敗走から函館で戦死するまでの歳三の転戦ぶりを以下にかいつまんで整理しました。

(1)千葉、流山での敗北と近藤勇との別れ
甲州で敗北した新選組は流山で再起を図っていましたが、4月3日、新政府軍に包囲され、近藤が大久保大和と名を偽り投降します。この時、歳三が近藤の切腹を止めて投降を勧めたと言われています。歳三は江戸へ向かい、勝海舟らに直談判し近藤の助命を嘆願したが実現せず、慶応4年(1868年)4月25日、近藤は板橋刑場(現在のJR板橋駅前に墓所有り)にて斬首に処せられたのです。

(2)宇都宮城を陥落させる、しかし負傷して会津に護送
4月11日に江戸開城が成立すると江戸を脱出し、歳三は秋月登之助率いる先鋒軍の参謀を務めた。下館・下妻を経て宇都宮城の戦いに勝利、宇都宮城を陥落させる。
しかし壬生の戦いに敗れ、新政府軍と宇都宮で再戦した際に足を負傷し、本軍に先立って会津へ護送されることとなったのです。会津では約3ヶ月間の療養生活を送り、この間に近藤の墓を天寧寺に建てたと言われています。

(3)庄内藩で拒絶され仙台藩で榎本武揚と合流する
全快して戦線に復帰した後は会津の防戦に尽力するが、8月に母成峠の戦いの敗戦に伴い、歳三は援軍を求めて庄内藩に向かったのです。しかし既に新政府軍への恭順に転じていた庄内藩においては入城さえ許されません。
歳三は庄内藩から仙台藩へ向かうことを決めます。そして仙台で、榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流します。
しかし奥羽越列藩同盟が崩壊し、同盟藩が次々と新政府軍に降伏します。
そこで新選組生き残り隊士に桑名藩士らを加えて榎本武揚とともに太江丸に乗船し、10月12日仙台藩の折浜を出航します。折浜は石巻市折浜のことです。

(4)松前藩の占領と江差までの遠征
10月20日、蝦夷地鷲ノ木に上陸後、歳三は間道軍総督となり五稜郭へ入ります。
五稜郭を占領後、歳三は松前へ進軍して松前城を陥落させ、江差まで追撃したのです。
この時、榎本武揚は土方軍を海から援護するため、軍艦「開陽丸」で江差沖へ向かったが、暴風雨に遭い座礁します。
江差に上陸して開陽丸の沈没していく姿を見守っていた榎本と歳三は、そばにあった松の木を叩いて嘆き合ったと言われ、今でもその「嘆きの松」が残っているそうです。
江差を無事占領した歳三は、松前城へ一度戻り、12月15日に榎本が各国領事を招待して催した蝦夷地平定祝賀会に合わせて五稜郭へ凱旋しました。
その後、榎本を総裁とする「蝦夷共和国」(五稜郭が本陣)が成立し、歳三は陸軍奉行並となります。

(5)歳三が馬上にて銃弾を浴び戦死
しかし明治2年(1869年)4月9日、新政府軍が蝦夷地乙部に上陸を開始。歳三は、二股口の戦いで新政府軍の進撃に対し徹底防戦します。
そして5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、島田魁らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立したため、歳三は救出の為僅かな兵を率いて出陣さいます。
歳三は一本木関門を守備し、七重浜より攻め来る新政府軍に応戦。馬上で指揮を執った。その乱戦の中、銃弾が腹部に命中し落馬、大野が急いで駆けつけた時にはもう絶命していたのです。
歳三の遺体は小芝長之助らに引き取られて、他の戦死者と共に五稜郭に埋葬されたとも、別の場所に安置されたとも言われ、未だに場所は特定されていないようです。
榎本軍が降伏したのはその6日後のことだったのです。蝦夷共和国の閣僚8人で戦死したのは歳三だけでした。
辞世の句は「よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ」でした。

歳三の評判はいろいろです。農家の三男が故郷にとどまっていられず、京に上って暴れただけだったとか故郷では親不孝者と言う人もいます。
しかし私はただ冥福を祈るだけです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

高尾、旧甲州街道沿いの木下沢梅林の写真

2019年02月18日 | 写真
行ってみたら木下沢(こげさわ)梅林はまだまだでした。高尾の山地にあるので寒いのです。
それでも数百本ある梅の木のうち20本くらいは咲き出していました。
そう言えば、今年の「高尾梅郷梅まつり」は3月9日(土)・10日(日)ですから今日は早過ぎました。
高尾梅郷梅まつりとは旧甲州街道沿い約4.5キロメートル区間に点在する、関所梅林、天神梅林、湯の花梅林、するさし梅林、木下沢梅林、そして小仏川沿いの遊歩道梅林で開催されます。約10000本の紅白の梅が咲く予定です。
詳しくは、https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/001/p003240.html をご覧下さい。
今日撮って来た写真をお送りいたします。










菜の花が咲き子供たちが遊んでいる風景

2019年02月18日 | 日記・エッセイ・コラム
菜の花が沢山咲いています。菜の花に囲まれた芝生の上で子供たちが走り回って遊んでいます。春が来たと喜んでいるようです。
そんな風景を写真に撮って来ました。
昨日の三鷹市の「花と緑の広場」の写真をお送り致します。










風 景 、純銀もざいく    山 村 暮 鳥
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしやべり
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな。
上記の詩は、「風景」は、詩集『聖三稜玻璃』(にんぎょ詩社、大正4年12月10日発行)に収められている詩です。
山村暮鳥(1884-1924)は詩人で群馬県生まれです。本名は小暮八九十でした。
大正初期、詩集「三人の処女」「聖三稜玻璃」を刊行します。
さまざまな詩型の試みた特異な感覚の詩人として詩壇に登場しました。

一つだけ「聖三稜玻璃」から山村暮鳥の詩をお送りします。

青空に

青空に
魚ら泳げり。

わがためいきを
しみじみと
魚ら泳げり。

魚の鰭
ひかりを放ち

ここかしこ
さだめなく
あまた泳げり。

青空に
魚ら泳げり。

その魚ら
心をもてり。

なお「聖三稜玻璃」は山村暮鳥の第2詩集で、大正4年(1915)に出版されました。その斬新な内容や詩形で詩壇に論争を巻き起こしたそうです。現在読んでも新しい感じがします。
美しい詩が多いのですが、思い込みと自己陶酔が気になります。それは当時の流行だったのでしょうか?
菜の花の写真を撮りに行ったおかげで山村暮鳥を思い出しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)