サレジオ修道会のチマッティ神父は日本人を深く愛していました。第二次大戦でサレジオ会の日本人が徴兵され、戦死する度に深く嘆き悲しんだのです。
今日はサレジオ会のチマッティ神父とそのお墓をご紹介いたします。
サレジオ修道会は19世紀にイタリアで創設されましたが、現在はイエズス会に次いで世界で2番目に大きな修道会です。
日本には1928年にチマッティ神父等が来てサレジオ修道会を創りました。そして宣教活動を活発に始め、数多くの学校を作りました。
東京都の調布市にはサレジオ神学校を作り、1965年にそこで帰天しました。享年86歳でした。
その墓はサレジオ神学校の裏手の地下室にあり遺骸も石棺の中に安置されています。3年前に思い立ってチマッティ神父のお墓詣りに行きました。撮ってきた写真をお送りします。

1番目の写真は地下にあるチマッティ神父のお墓へ下りて行く階段です。

2番目の写真はチマッティ神父の遺骸の入っている石棺です。お墓です。

3番目の写真はチマッティ神父の資料館です。

4番目の写真は戦死したサレジオ会の日本人です。

5番目の写真は同じ場所にあるカトリック調布教会です。
尚、ヴィンチェンツォ・チマッティ 神父(Vincenzo Cimatti、1879年7月15日-1965年10月6日)の略歴を書いておきます。
チマッティ 神父は1923年、ローマ教皇がサレジオ修道会に日本の宣教地の一部を担当するように願い出ました。サレジオ会の司祭6人と修道士3人とともに日本に派遣され1926年2月8日に門司港に到着します。46歳でした。
2月16日宮崎で日本語の勉強を開始します。
一年後1927年2月から宮崎教会の主任司祭に着任しました。1928年、宮崎教区の教区長となり田野、高鍋、都城、別府、延岡など、次々と新しい教会を設立しました。
1930年、大分に「ドン・ボスコ社」を創立し、同年、日本人司祭の育成を目的に中津で小神学校を設立し、1933年、宮崎へ移転させます。
一方で東京への進出も果たします。三河島教会を引き受けた後、1935年、東京都練馬区で修練院、神学校、サレジオ会独自の教育事業「育英工芸学校」(後の育英工業高等専門学校、現在のサレジオ工業高等専門学校)を開校します。そして「ドン・ボスコ社」の出版事業の本部もここに置いたのです。
また、1933年、見放された年寄りや孤児たちのために宮崎で「救護院」という事業も設立し、この事業を維持発展させるために、1937年に「宮崎カリタス修道女会」(現在のイエスのカリタス修道女会)の創立します。
戦時中には苦労します。キリスト教が外国の宗教として厳しく監視され不自由でした。
しかし勇気を出して、度々コンサートを開いたのです。音楽を通して教会に対する好感を培うように努めるためでした。
コンサートは奄美大島から札幌、占領下の満州、北朝鮮や韓国など各地で開催され約2,000回におよんだのです。
演目には宗教的な曲も交えその内容を説明しながら教義を伝えてたのです。
1940年、教会の外国人責任者に対して辞職命令が出され教区長を辞職します。旅行を制限され1943年末以降、空爆中でも練馬のサレジオ神学校で過ごします。戦後、破壊された事業を復帰させ、サレジオ会の新しい事業設立と発展に尽力しました。
70歳で管区長を退任し、2年間図書係となり手書きで図書の目録の完成に努めます。
1965年10月6日、86歳で死去しました。「日本の土になりたい」との遺言にしたがい遺体は府中カトリック墓地に土葬された後1967年10月4日、調布サレジオ神学院の新聖堂が完成に伴い、棺は府中カトリック墓地から地下聖堂に移されました。
3年前にチマッティ神父のお墓詣りに行きました。お墓は調布サレジオ神学院の地下聖堂に2番目の写真のようにありました。
このようにな日本人を深く愛したチマッティ 神父を日本人は絶対に忘れません。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
今日はサレジオ会のチマッティ神父とそのお墓をご紹介いたします。
サレジオ修道会は19世紀にイタリアで創設されましたが、現在はイエズス会に次いで世界で2番目に大きな修道会です。
日本には1928年にチマッティ神父等が来てサレジオ修道会を創りました。そして宣教活動を活発に始め、数多くの学校を作りました。
東京都の調布市にはサレジオ神学校を作り、1965年にそこで帰天しました。享年86歳でした。
その墓はサレジオ神学校の裏手の地下室にあり遺骸も石棺の中に安置されています。3年前に思い立ってチマッティ神父のお墓詣りに行きました。撮ってきた写真をお送りします。

1番目の写真は地下にあるチマッティ神父のお墓へ下りて行く階段です。

2番目の写真はチマッティ神父の遺骸の入っている石棺です。お墓です。

3番目の写真はチマッティ神父の資料館です。

4番目の写真は戦死したサレジオ会の日本人です。

5番目の写真は同じ場所にあるカトリック調布教会です。
尚、ヴィンチェンツォ・チマッティ 神父(Vincenzo Cimatti、1879年7月15日-1965年10月6日)の略歴を書いておきます。
チマッティ 神父は1923年、ローマ教皇がサレジオ修道会に日本の宣教地の一部を担当するように願い出ました。サレジオ会の司祭6人と修道士3人とともに日本に派遣され1926年2月8日に門司港に到着します。46歳でした。
2月16日宮崎で日本語の勉強を開始します。
一年後1927年2月から宮崎教会の主任司祭に着任しました。1928年、宮崎教区の教区長となり田野、高鍋、都城、別府、延岡など、次々と新しい教会を設立しました。
1930年、大分に「ドン・ボスコ社」を創立し、同年、日本人司祭の育成を目的に中津で小神学校を設立し、1933年、宮崎へ移転させます。
一方で東京への進出も果たします。三河島教会を引き受けた後、1935年、東京都練馬区で修練院、神学校、サレジオ会独自の教育事業「育英工芸学校」(後の育英工業高等専門学校、現在のサレジオ工業高等専門学校)を開校します。そして「ドン・ボスコ社」の出版事業の本部もここに置いたのです。
また、1933年、見放された年寄りや孤児たちのために宮崎で「救護院」という事業も設立し、この事業を維持発展させるために、1937年に「宮崎カリタス修道女会」(現在のイエスのカリタス修道女会)の創立します。
戦時中には苦労します。キリスト教が外国の宗教として厳しく監視され不自由でした。
しかし勇気を出して、度々コンサートを開いたのです。音楽を通して教会に対する好感を培うように努めるためでした。
コンサートは奄美大島から札幌、占領下の満州、北朝鮮や韓国など各地で開催され約2,000回におよんだのです。
演目には宗教的な曲も交えその内容を説明しながら教義を伝えてたのです。
1940年、教会の外国人責任者に対して辞職命令が出され教区長を辞職します。旅行を制限され1943年末以降、空爆中でも練馬のサレジオ神学校で過ごします。戦後、破壊された事業を復帰させ、サレジオ会の新しい事業設立と発展に尽力しました。
70歳で管区長を退任し、2年間図書係となり手書きで図書の目録の完成に努めます。
1965年10月6日、86歳で死去しました。「日本の土になりたい」との遺言にしたがい遺体は府中カトリック墓地に土葬された後1967年10月4日、調布サレジオ神学院の新聖堂が完成に伴い、棺は府中カトリック墓地から地下聖堂に移されました。
3年前にチマッティ神父のお墓詣りに行きました。お墓は調布サレジオ神学院の地下聖堂に2番目の写真のようにありました。
このようにな日本人を深く愛したチマッティ 神父を日本人は絶対に忘れません。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)