後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「日本人を深く愛したチマッティ神父とそのお墓」

2020年09月05日 | 日記・エッセイ・コラム
サレジオ修道会のチマッティ神父は日本人を深く愛していました。第二次大戦でサレジオ会の日本人が徴兵され、戦死する度に深く嘆き悲しんだのです。
今日はサレジオ会のチマッティ神父とそのお墓をご紹介いたします。
サレジオ修道会は19世紀にイタリアで創設されましたが、現在はイエズス会に次いで世界で2番目に大きな修道会です。
日本には1928年にチマッティ神父等が来てサレジオ修道会を創りました。そして宣教活動を活発に始め、数多くの学校を作りました。
東京都の調布市にはサレジオ神学校を作り、1965年にそこで帰天しました。享年86歳でした。
その墓はサレジオ神学校の裏手の地下室にあり遺骸も石棺の中に安置されています。3年前に思い立ってチマッティ神父のお墓詣りに行きました。撮ってきた写真をお送りします。

1番目の写真は地下にあるチマッティ神父のお墓へ下りて行く階段です。

2番目の写真はチマッティ神父の遺骸の入っている石棺です。お墓です。

3番目の写真はチマッティ神父の資料館です。

4番目の写真は戦死したサレジオ会の日本人です。

5番目の写真は同じ場所にあるカトリック調布教会です。

尚、ヴィンチェンツォ・チマッティ 神父(Vincenzo Cimatti、1879年7月15日-1965年10月6日)の略歴を書いておきます。
チマッティ 神父は1923年、ローマ教皇がサレジオ修道会に日本の宣教地の一部を担当するように願い出ました。サレジオ会の司祭6人と修道士3人とともに日本に派遣され1926年2月8日に門司港に到着します。46歳でした。
2月16日宮崎で日本語の勉強を開始します。
一年後1927年2月から宮崎教会の主任司祭に着任しました。1928年、宮崎教区の教区長となり田野、高鍋、都城、別府、延岡など、次々と新しい教会を設立しました。
1930年、大分に「ドン・ボスコ社」を創立し、同年、日本人司祭の育成を目的に中津で小神学校を設立し、1933年、宮崎へ移転させます。
一方で東京への進出も果たします。三河島教会を引き受けた後、1935年、東京都練馬区で修練院、神学校、サレジオ会独自の教育事業「育英工芸学校」(後の育英工業高等専門学校、現在のサレジオ工業高等専門学校)を開校します。そして「ドン・ボスコ社」の出版事業の本部もここに置いたのです。
また、1933年、見放された年寄りや孤児たちのために宮崎で「救護院」という事業も設立し、この事業を維持発展させるために、1937年に「宮崎カリタス修道女会」(現在のイエスのカリタス修道女会)の創立します。
戦時中には苦労します。キリスト教が外国の宗教として厳しく監視され不自由でした。
しかし勇気を出して、度々コンサートを開いたのです。音楽を通して教会に対する好感を培うように努めるためでした。
コンサートは奄美大島から札幌、占領下の満州、北朝鮮や韓国など各地で開催され約2,000回におよんだのです。
演目には宗教的な曲も交えその内容を説明しながら教義を伝えてたのです。
1940年、教会の外国人責任者に対して辞職命令が出され教区長を辞職します。旅行を制限され1943年末以降、空爆中でも練馬のサレジオ神学校で過ごします。戦後、破壊された事業を復帰させ、サレジオ会の新しい事業設立と発展に尽力しました。
70歳で管区長を退任し、2年間図書係となり手書きで図書の目録の完成に努めます。
1965年10月6日、86歳で死去しました。「日本の土になりたい」との遺言にしたがい遺体は府中カトリック墓地に土葬された後1967年10月4日、調布サレジオ神学院の新聖堂が完成に伴い、棺は府中カトリック墓地から地下聖堂に移されました。

3年前にチマッティ神父のお墓詣りに行きました。お墓は調布サレジオ神学院の地下聖堂に2番目の写真のようにありました。
このようにな日本人を深く愛したチマッティ 神父を日本人は絶対に忘れません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「緑の牧場にのどかに草を食む乳牛の写真を撮りに行く」

2020年09月05日 | 日記・エッセイ・コラム
まだまだ暑い日々ですが秋らしくなってきました。そこで秋空のもとの緑の牧場にのどかに草を食む乳牛の写真を撮りに行くことにしました。車で1時間30分くらい走った所に広い緑の牧場があり乳牛を90頭飼っているのです。八王子市の西はずれにある磯沼ミルクファームという牧場です。 東京都八王子市小比企町1625にあります。(https://www.its-mo.com/detail/DIDX_DKE-2016985/access/ )
磯沼牧場で草を食む乳牛の写真をお送りいたします。

1番目の写真の出典は、https://feature.cozre.jp/66875 です。

2番目の写真の出典は、http://blog.ushi-camera.com/?eid=65 です。

3番目の写真の出典は、https://twitter.com/zoo_biker/status/1269569901636644865?lang=bg です。
磯沼ミルクファーム牧場へは8月30日と9月4日と2度行きました。ところが広い放牧場に牛がいません。のどかに草を食む乳牛の写真を撮りに行くという私の目論見はまったく失敗に終わったのです。2日とも車の冷房をかけギンギンに冷やすような暑い日だったのです。牛だって暑すぎて炎天下の牧場には出て行かないのです。そんなことを想像もしなかった私が馬鹿でした。
そこで昨日は何処に牛がいるか探しました。いました。牛舎の中に沢山いました。幾つもある牛舎には強烈な悪臭が立ち込めています。その牛舎の一つ一つへ首を入れて家内が撮ってくれた写真をお送りいたします。

4番目の写真は8月30日に撮った写真です。牧場の木陰に黒い牛が寝そべっています。牛も暑いのです。

5番目の写真も牛舎の中に寝そべっている牛です。動こうともしないで肩で息をしています。

6番目の写真は元気に立って我々に挨拶してくれた牛です。

7番目の写真はジャージー種の牛です。暑さに強いのか皆立っています。

それにしても牛舎の臭さは酷いものです。私は冷房した車の窓を閉め、写真を撮ってくれている家内に感謝していました。
牧場主の磯沼正徳さん達はこの悪臭の中で四六時中牛の世話をしているのです。頭が下がります。
事務所兼の売店で家内が買ってくれた冷えた牛乳を飲みましたが、甘い乳糖の味がふくよかとして流石に美味この上ないものでした。
この牧場は新宿からの京王高尾線の山田駅から歩いて行けます。広さおよそ6000坪です。
現在68歳の磯沼正徳さんが自宅の裏山を切り開いて作りました。放牧している乳牛はホルスタイン、ジャージー、ブラウンスイス、ガンジーなど6種類約90頭です。なお正徳さんは2代目です。彼が牧場を大きくしたのです。父親が1950年に牧場を始めました。
「八王子市にある磯沼ミルクファームで牛が草を食む動画です」
https://www.facebook.com/100000450424646/videos/pcb.3443745698983744/3443743038984010/

さて皆様も緑の牧場にのどかに草を食む乳牛の写真を撮りに行きたいと思うでしょうか?
でも本当に行く場合は牛が放牧場に出ている秋の涼しい日になさって下さい。そして牛舎の悪臭は覚悟して下さい。
なお末尾の参考資料に「磯沼ミルクファームのビジョンとチャレンジ」をつけてあります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

=====参考資料====================================
「牧畜を楽しみ人も牛も幸せに 磯沼ミルクファームのビジョンとチャレンジ」https://agri.mynavi.jp/2018_06_19_29428/
「牛乳は命を搾取することのない栄養源です」。磯沼ミルクファーム(磯沼牧場)の搾乳体験で必ず添えられるスタッフの説明は、オーナーである磯沼正徳(いそぬま・まさのり)さんの経営哲学がそのまま凝縮された言葉です。おいしいミルクが楽しめて、人と牛がともに幸せになれる“動物福祉”の牧場。そんな牧場の実現に磯沼さんは長年、努めてきました。けれどもそれは苦労ではなく、人と牛に対する自然な愛情と信念、そして牧場経営の常識にとらわれない遊び心があって成功したものです。

「オーストラリアで感じたこと」
牧場を引き継いだ磯沼さんは26歳の時、オーストラリアへ渡航。ある酪農農家に滞在しました。そこでインパクトを受けたのは、牧畜が単なる仕事・労働としてだけでなく、人生を豊かにする遊び・楽しみであり、牛などの家畜が友達的存在として見なされる「牧畜文化」になっているということでした。

日本の稲作文化と同様の、オーストラリアの牧畜文化
「社会の中にミルクを提供する牛がいて、それが人々の共有財産になっている。牛を飼育する牧場は生産の場であり、生命の息吹を感じ、生きる喜びを体験する場でもある。牧畜文化が根付いたオーストラリアにおける牧場は、稲作文化が根付いた日本における田んぼに匹敵する存在なのではないだろうか」
そう思った時、磯沼さんの胸にこれから自分がめざすべき牧場の姿が浮かび上がりました。
・・・・・以下省略します。