私には中国共産党員の親友がいました。2004年に亡くなった周栄章さんという人でした。亡くなって16年たちましたが彼の温かい友情を思い出す度に胸が熱くなります。今日はこの周栄章さんの思い出を書かせて下さい。
彼と知り合いになったのは1979年のことでした。フランスのベルサイユ宮殿前の国際会議場で初めて会いました。彼は当時、北京鉄鋼学院の教授でした。そして共産党の有力な党員でした。
周栄章氏は共産軍ととも国民党軍と戦い、天津市を占領し、民生行政に参加した人でした。
この周氏との出会いのお陰で、その後に私は何度も中国へ行くことになったのです。
時々、周栄章教授の優しい話し方や笑顔を思い出して懐かしく思っています。
中国人は信義に篤いと言います。一旦親密になると生涯その関係を信じて良いのです。絶対に裏切らないのです。一生安心して付き合えます。周栄章さんはまさしくそんな人でした。
中国政府の幹部が周恩来や鄧小平だった時代から、江沢民の時代になってから日本と中国は激しい抗争の時代になりました。国家主席が胡錦濤、さらに習近平と交代しても抗争の厳しさは変わりません。
しかし周栄章さんは以前と全く変わらぬ信義をもって付き合ってくれました。そして個人的な付き合いの中では共産党員らしさが微塵も無いのです。一度も共産主義の話をしませんでした。
中国人は権力者には従いますが、心の中では個人的な信義を一番大切にしている民族なのです。
そんな周栄章さんとの付き合いの中で、楽しかったこと、感銘を受けたことをもう少し書いて置きたいと思います。
(1)周栄章さんに連れて行ってもらった北海公園~仿膳飯荘
あれは確か、1980年のある秋の夜でした。北京の北海公園の石の回廊を、夜風に吹かれながら、周さんと2人だけで歩いていました。その先にある仿膳飯荘で北京鋼鉄学院の学長が私の歓迎会をしてくれるというのです。

1番目の写真は北京の北海公園の石の回廊です。写真の出典:http://www.chinatrip.jp/beijing/album-57.htm です。
歓迎会で当時あった「茅台酒(マオタイシュ)」の乾杯の応酬で、私もいささか酔いました。
学長さんたちに感謝の言葉を述べました。すると学長は中国への旅の感想を聞きます。私はつぎのような話をしました。
「中国は良い国です。しかし共産主義は独裁政治を生むので好きではありません。しかし中国が欧米の植民地にならないためには共産主義を選ぶ他は無かったと思います。中国が欧米列強の植民地にならなくて本当に良かったです。私も嬉しいのです。」
このような内容のことを、一気にしゃべりました。英語で喋りました。
これを聞いて学長さんは深くうなずいて、「あなたは中国について何を喋っても良いです。自由にこの国を楽しんで下さい」と言ったのです。この一言で私は途端に楽しくなったのです。中国の全てが楽しくなったのです。

2番目の写真は仿膳飯荘の入り口です。写真の出典は、http://www.chinatrip.jp/beijing/album-655.htm です。
出された料理は女性権力者の西大后の好きそうな小さく綺麗に盛り付けた、いわゆる宮廷料理でした。
周栄章さんの招きで後に行った家内はその精妙さと美味しさに感激していました。

3番目の写真は仿膳飯荘の宮廷料理です。写真の出典は、http://www.chinatrip.jp/beijing/album-655.htm です。
(2)北京の一般の人々の食文化
周栄章さんは北京鴨の有名店でなく裏町の小さな北京鴨店へ何度も連れて行ってくれました。
冷蔵庫が無いのか、あまり冷えていない五星ビールが出ます。前菜でビールを飲んでいるとやがて見事に焼きあがった鴨が出てきます。

4番目の写真は北京ダックの写真です。写真の出典は、http://imagenavi.jp/search/#!/ です。
うす暗い北京鴨の店でいろいろな話をしました。お互いに英語で話し合いました。
北京鴨は自分で皮を切り取って、白い餅に乗せ、ネギと味噌を塗って、餅でくるりと巻いて食べるのです。
皮を全て食べ終わると料理人が出て来て、皮の無い鴨を下げます。調理場で肉を取って、2種類くらいの料理に仕上げて、又持ってきます。それを食べ終わる頃に鴨の骨でダシを取ったスープが出て来ます。これで終わりです。
(3)周栄章さんから教わった周恩来の魅力と人間的偉さ
裏町の北京鴨の店で周栄章さんは、文化大革命で農村へ下放された経験を話しました。毎日、毎日、豚の餌やりと豚小屋の掃除にあけくれたそうです。1976年の秋に、毛沢東が死に、四人組が逮捕されて、やっと自由の身になったそうです。
そして周恩来を絶賛するのです。中国人が一番好きな人は周恩来ですと断言します。何度も断言します。毛沢東の発動した文化大革命で内戦状態になった中国で人民は塗炭の苦しみの底にあったのです。それを少しでも救おうとしたのが周恩来首相だったのです。当然、毛沢東は周恩来を亡き者にしようとします。
これは周栄章さんから聞いた話です。
周恩来がチベット視察から帰るとき乗った旅客機を、毛沢東が空軍に命じて撃ち落とそうとしたのです。その命令に従って空軍のジェット戦闘機が2機、飛び立ったのです。周恩来の乗った旅客機を挟むように両側に並んだ戦闘機は発砲しません。翼を上下に揺らして歓迎しています。コックピットを覗き込むと、操縦士が周恩来へ敬礼をしていたそうです。
後で毛沢東へは霧で視界が悪く、周恩来機が発見出来なかったと報告したそうです。
1976年の2月に周恩来が病死し、4月の清明節のとき天安門広場で群衆が追悼の大集会をしました。それを毛沢東は軍隊をつかって解散させたのです。兵隊も周恩来が好きだったので群衆へ同情、手荒なことをしなかったそうです。
周栄章さんの話は何時までも尽きませんでした。
(4)周栄章さんは私を中国の観光地に案内してくれました。
北京原人の周口店、明の13陵、頤和園、天壇、大鐘の寺、長城、承徳、そして西安の秦の始皇帝の墓、兵馬俑、などなどへ案内してくれたのです。しかし話が長くなるので、ここでは北京郊外の離宮の頤和園の写真を3枚だけ示します。

5番目の写真は頤和園の前に堀って作った湖です。

6番目の写真は美しく伸びた長い回廊です。左手に湖の風景が広がっているのです。

7番目の写真は奥にある眺めの良い宮殿です。頤和園は私の好きな離宮なので3枚の写真を示しました。3枚の写真は「頤和園の写真」を検索してネット上にあるものからお借りしました。
その周栄章さんを私も日本に招びました。自宅にも泊まってもらい、いろいろな観光地へも案内しました。
周栄章さんは2004年に亡くなりました。亡くなって16年たちましたが彼の温かい友情を思い出す度に胸が熱くなります。今日はこの周栄章さんの思い出を書かせて頂きました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
彼と知り合いになったのは1979年のことでした。フランスのベルサイユ宮殿前の国際会議場で初めて会いました。彼は当時、北京鉄鋼学院の教授でした。そして共産党の有力な党員でした。
周栄章氏は共産軍ととも国民党軍と戦い、天津市を占領し、民生行政に参加した人でした。
この周氏との出会いのお陰で、その後に私は何度も中国へ行くことになったのです。
時々、周栄章教授の優しい話し方や笑顔を思い出して懐かしく思っています。
中国人は信義に篤いと言います。一旦親密になると生涯その関係を信じて良いのです。絶対に裏切らないのです。一生安心して付き合えます。周栄章さんはまさしくそんな人でした。
中国政府の幹部が周恩来や鄧小平だった時代から、江沢民の時代になってから日本と中国は激しい抗争の時代になりました。国家主席が胡錦濤、さらに習近平と交代しても抗争の厳しさは変わりません。
しかし周栄章さんは以前と全く変わらぬ信義をもって付き合ってくれました。そして個人的な付き合いの中では共産党員らしさが微塵も無いのです。一度も共産主義の話をしませんでした。
中国人は権力者には従いますが、心の中では個人的な信義を一番大切にしている民族なのです。
そんな周栄章さんとの付き合いの中で、楽しかったこと、感銘を受けたことをもう少し書いて置きたいと思います。
(1)周栄章さんに連れて行ってもらった北海公園~仿膳飯荘
あれは確か、1980年のある秋の夜でした。北京の北海公園の石の回廊を、夜風に吹かれながら、周さんと2人だけで歩いていました。その先にある仿膳飯荘で北京鋼鉄学院の学長が私の歓迎会をしてくれるというのです。

1番目の写真は北京の北海公園の石の回廊です。写真の出典:http://www.chinatrip.jp/beijing/album-57.htm です。
歓迎会で当時あった「茅台酒(マオタイシュ)」の乾杯の応酬で、私もいささか酔いました。
学長さんたちに感謝の言葉を述べました。すると学長は中国への旅の感想を聞きます。私はつぎのような話をしました。
「中国は良い国です。しかし共産主義は独裁政治を生むので好きではありません。しかし中国が欧米の植民地にならないためには共産主義を選ぶ他は無かったと思います。中国が欧米列強の植民地にならなくて本当に良かったです。私も嬉しいのです。」
このような内容のことを、一気にしゃべりました。英語で喋りました。
これを聞いて学長さんは深くうなずいて、「あなたは中国について何を喋っても良いです。自由にこの国を楽しんで下さい」と言ったのです。この一言で私は途端に楽しくなったのです。中国の全てが楽しくなったのです。

2番目の写真は仿膳飯荘の入り口です。写真の出典は、http://www.chinatrip.jp/beijing/album-655.htm です。
出された料理は女性権力者の西大后の好きそうな小さく綺麗に盛り付けた、いわゆる宮廷料理でした。
周栄章さんの招きで後に行った家内はその精妙さと美味しさに感激していました。

3番目の写真は仿膳飯荘の宮廷料理です。写真の出典は、http://www.chinatrip.jp/beijing/album-655.htm です。
(2)北京の一般の人々の食文化
周栄章さんは北京鴨の有名店でなく裏町の小さな北京鴨店へ何度も連れて行ってくれました。
冷蔵庫が無いのか、あまり冷えていない五星ビールが出ます。前菜でビールを飲んでいるとやがて見事に焼きあがった鴨が出てきます。

4番目の写真は北京ダックの写真です。写真の出典は、http://imagenavi.jp/search/#!/ です。
うす暗い北京鴨の店でいろいろな話をしました。お互いに英語で話し合いました。
北京鴨は自分で皮を切り取って、白い餅に乗せ、ネギと味噌を塗って、餅でくるりと巻いて食べるのです。
皮を全て食べ終わると料理人が出て来て、皮の無い鴨を下げます。調理場で肉を取って、2種類くらいの料理に仕上げて、又持ってきます。それを食べ終わる頃に鴨の骨でダシを取ったスープが出て来ます。これで終わりです。
(3)周栄章さんから教わった周恩来の魅力と人間的偉さ
裏町の北京鴨の店で周栄章さんは、文化大革命で農村へ下放された経験を話しました。毎日、毎日、豚の餌やりと豚小屋の掃除にあけくれたそうです。1976年の秋に、毛沢東が死に、四人組が逮捕されて、やっと自由の身になったそうです。
そして周恩来を絶賛するのです。中国人が一番好きな人は周恩来ですと断言します。何度も断言します。毛沢東の発動した文化大革命で内戦状態になった中国で人民は塗炭の苦しみの底にあったのです。それを少しでも救おうとしたのが周恩来首相だったのです。当然、毛沢東は周恩来を亡き者にしようとします。
これは周栄章さんから聞いた話です。
周恩来がチベット視察から帰るとき乗った旅客機を、毛沢東が空軍に命じて撃ち落とそうとしたのです。その命令に従って空軍のジェット戦闘機が2機、飛び立ったのです。周恩来の乗った旅客機を挟むように両側に並んだ戦闘機は発砲しません。翼を上下に揺らして歓迎しています。コックピットを覗き込むと、操縦士が周恩来へ敬礼をしていたそうです。
後で毛沢東へは霧で視界が悪く、周恩来機が発見出来なかったと報告したそうです。
1976年の2月に周恩来が病死し、4月の清明節のとき天安門広場で群衆が追悼の大集会をしました。それを毛沢東は軍隊をつかって解散させたのです。兵隊も周恩来が好きだったので群衆へ同情、手荒なことをしなかったそうです。
周栄章さんの話は何時までも尽きませんでした。
(4)周栄章さんは私を中国の観光地に案内してくれました。
北京原人の周口店、明の13陵、頤和園、天壇、大鐘の寺、長城、承徳、そして西安の秦の始皇帝の墓、兵馬俑、などなどへ案内してくれたのです。しかし話が長くなるので、ここでは北京郊外の離宮の頤和園の写真を3枚だけ示します。

5番目の写真は頤和園の前に堀って作った湖です。

6番目の写真は美しく伸びた長い回廊です。左手に湖の風景が広がっているのです。

7番目の写真は奥にある眺めの良い宮殿です。頤和園は私の好きな離宮なので3枚の写真を示しました。3枚の写真は「頤和園の写真」を検索してネット上にあるものからお借りしました。
その周栄章さんを私も日本に招びました。自宅にも泊まってもらい、いろいろな観光地へも案内しました。
周栄章さんは2004年に亡くなりました。亡くなって16年たちましたが彼の温かい友情を思い出す度に胸が熱くなります。今日はこの周栄章さんの思い出を書かせて頂きました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)