戦後すぐに私が入った新制中学の社会科の男先生がクラシックが大好きでした。レコードを学校に持って来て生徒に何度も聞かせました。そして「クラシックの音楽を聴かないと立派な人間にならない」と繰り返し言うのです。私はクラシックを沢山聞きましたが、残念ながら立派な人間になりませんでした。
それはさておき、クラシックのレコードで一番退屈したのはチャイコフスキーの「悲愴」でした。男先生が教壇から見ているので生徒はみな姿勢を正し感動したような顔で我慢していたのです。
中年になってから「悲愴」を聞くと、なるほど名曲です。
そして暗い東洋的なメロディー感動しました。「悲愴」は叙情的で流れるような美しさがあります。哀愁も感じます。ロシアの大地にある白樺林の中をゆっくり流れる大河のようです。
一方家内は姉がバレエを習っていたので「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」「白鳥の湖」などの華麗な曲に親しんでいました。曲を聴くと華やかな舞台が甦るそうです。
今日から「芸術の秋」という連載で、音楽の分野を書こうと思います。
クラシックと言えばベートーベン、モーツァルト、から始めるべきと思いますが、私は迷わずチャイコスキーから始めることにしました。
まずチャイコフスキーの音楽をお聞きください。ここに選んだYouTubeは若い日本人の演奏です。しかしYouTubeには世界的な名演奏もたくさんあります。ご自分のお好みでお聞き下さい。
チャイコフスキーヴァイオリン協奏曲、https://www.youtube.com/watch?v=N3YKSVHWNpw
チャイコフスキー ピアノ協奏曲、https://www.youtube.com/watch?v=l4XPQtyQscU
チャイコフスキー 交響曲第6番「悲愴」、https://www.youtube.com/watch?v=mHlyntPmGnc
さて次に3枚の写真をご覧ください。

1番目の写真はチャイコフスキーの家の周りに広がっていたであろうと私が想像している白樺林です。写真の出典は、「写真素材 - ロシアのシベリアの川のほとりに美しい白樺林」です。

2番目の写真はヴォトキンスクにあるチャイコフスキーの生家です。現在ではチャイコフスキー博物館となっています。

3番目の写真はチャイコフスキーが晩年に住んで作曲をしたモスクワ近郊のクリンの邸宅です。現在は博物館となっているそうです。
チャイコフスキーは1840年5月7日に生まれ 1893年11月6日に亡くなりました。53歳の短い生涯だったのです。
以下は「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ピョートル・チャイコフスキー」からの抜粋です。
作品は多岐にわたります。とりわけ後期の交響曲・バレエ音楽・協奏曲などが愛好されているほか、管弦楽曲、オペラ、室内楽曲、独奏曲にも人気作があります。
チャイコフスキーの繊細な心はあらゆる弱いものに向けられました。孤児や可哀想な動植物、同性愛者などへも、彼らに理解を寄せてともに時間を過ごすこともあったそうです。
チャイコフスキーは1840年、ウラル地方ヴォトキンスクで、鉱山技師(工場長)イリヤ・ペトローヴィチ・チャコフスキーの次男として生まれました。
家にあったレコードで、モーツァルト、ロッシーニ、ベルリーニ、ドニゼッティの作品を聞いたそうです。
5歳から家庭教師の手ほどきによりピアノを習い始めて音楽的才能を示しますが、両親には息子を音楽家にする意志はなく、1850年10月(10歳)でサンクトペテルブルクの法律学校に寄宿生として入学させます。
1855年、R・キュンディンゲルからピアノを、A・キュンディンゲルから和声学を学び始める。1859年5月13日に法律学校を卒業し、6月3日に法務省に文官として就職しました。
チャイコフスキーの兄弟姉妹は後年にいたるまで仲がよく、チャイコフスキーを支え続けました。
チャイコフスキーは平凡な文官としての道を歩んでいましたが、1861年の秋に知人からの紹介で音楽教育を行っている帝室ロシア音楽協会を知り、1862年9月より和声学と対位法を学び、編曲と作曲を学び始めます。
これがチャイコフスキーに取って大きな転機となったのです。
本格的に音楽の道に進むことを決意したチャイコフスキーは、1863年に、23歳のときに法務省の職を辞して音楽に専念することになります。
これ以降、チャイコフスキーはモスクワを活動拠点とするようになりました。1866年に交響曲第1番『冬の日の幻想』(作品13)の初演があり、また初のオペラである『地方長官』を完成させます。
オペラ歌手デジレ・アルトーと恋に落ち、毎晩、彼女の元へ通うようになります。しかし婚約にまで至るが翌年破局します。
1866年以後、チャイコフスキーは1893年11月6日に53歳で亡くなるまで数多くの傑出した作曲をしたのです。
1893年10月28、交響曲第6番『悲愴』が作曲者自身による指揮で初演されました。それから9日後の11月6日に急死します。死因はコレラおよび肺水腫によるものと言われています。ロシア皇帝アレクサンドル3世によって国葬が決定され、サンクトペテルブルクのカザン大聖堂にて国葬が執り行われた。遺体はサンクトペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー大修道院の墓地に10月29日に埋葬されました。
作品はご承知の通り多数ですが、以下のものを書いておきます。
バレエ音楽
「白鳥の湖」作品20
「眠れる森の美女」作品66
「くるみ割り人形」作品71
そして、正教会聖歌の、
聖金口イオアン聖体礼儀 作品41
晩祷 作品52
9つの宗教音楽作品
それにしてもチャイコスキーは偉大でした。ここ数日、この記事を書くために彼が作曲したヴァイオリン協奏曲やピアノ協奏曲や「悲愴」を改めて聞きました。それは正しく「芸術の秋」にふさわしいものです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)