後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日の日記、馬の姿を見に行ってくつろぎました」

2020年09月13日 | 日記
午後からは馬の姿を見に行ってくつろぎました。
始めの2枚の写真は日の出乗馬倶楽部で後の2枚は再び訪ねた八王子乗馬倶楽部です。馬の姿を見ると何故かくつろいで幸せな気分になります。そんなこともあるのですね。







「年間第24主日のミサと菊地功大司教のお話」

2020年09月13日 | 日記・エッセイ・コラム
今日の日曜日は年間第24主日です。動画配信で主日のミサにあずかりました。
ミサの動画は、https://www.youtube.com/channel/UCc2LbUPcHohKUgO2dYhrCvw/videos にあります。

そして今日の菊地功神父さまのお話と説教は以下にあります。
https://bishopkikuchi.cocolog-nifty.com/?fbclid=IwAR2inAKWRhjhCKtwN0sKQY_8-LTkQCbwJ1UtJNE68qWLhVaQwQpYdEdpw1E
東京大司教は動画配信のミサで毎週お会いし説教を聞いています。揺るぎない信仰の持ち主です。その上非常に優しいご性格です。声も良くミサの司式も明瞭です。感動的なお方です。

今日の菊地功神父さまのお話を掲載いたします。

年間第24主日となりました。

9月8日に駐日教皇大使ジョゼフ・チェノットゥ大司教様が帰天されました。76歳でした。大使は、すでに昨年役職の定年を過ぎておられましたが、教皇訪日の準備にあたるために延長されておられ、2011年10月に来日されてからほぼ9年という、長い在任となりました。教皇訪日の準備には心身共に疲れられたことと思いますが、年明けには楽しみにしておられた休暇での故郷インド訪問も、新型コロナ感染症のために取りやめとなり、東京の大使館で自粛生活が続いておりました。そのなか、5月8日早朝に自室で倒れられ、駿河台日大病院で緊急手術を受けられました。・・・・

以下、本日の東京カテドラルにおける公開配信ミサの説教原稿です。

年間第24主日A
東京カテドラル聖マリア大聖堂(公開配信ミサ)
2020年9月13日
被造物を大切にする世界祈願日

「あわれみ豊かな神をイエス・キリストは父として現してくださいました」
教皇ヨハネパウロ二世の回勅「いつくしみ深い神」は、この言葉で始まります。

その上で教皇は、社会をさらに人間的にすることが教会の任務であるとして、こう指摘します。
「社会がもっと人間的になれるのは、多くの要素を持った人間関係、社会関係の中に、正義だけでなく、福音の救世的メッセージを構成しているいつくしみ深い神を持ち込むときです。(14)」

本日の第一朗読であるシラ書も、マタイ福音も、ゆるしと和解について記しています。

自分と他者とのかかわりの中で、どうしても起こってしまう対立。互いを理解することが出来ないときに裁きが起こり、裁きは怒りを生み、対立を導き出してしまいます。シラ書は、人間関係における無理解によって発生する怒りや対立は、自分と神との関係にも深く影響するのだと指摘します。他者に対して裁きと怒りの思いを抱いたままで、今度は自分自身が神との関係の中でゆるしをいただくことは出来ない。

当然わたしたちは、神の目においては足りない存在であり、神が望まれる道をしばしば外れ、繰り返し罪を犯してしまいます。そのたびごとに神に許しを請うのですが、神はまず、自分と他者との関係を正しくせよと求めます。ゆるしと和解を実現しなければ、どうして神にゆるしを求めることが出来るだろうかと、シラ書は指摘します。

以下は省略します。続きは、https://bishopkikuchi.cocolog-nifty.com/ をご覧下さい。

「キリスト教は何故『愛の宗教』というのでしょうか?」

2020年09月13日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なので宗教に関する文章を書きたいと思います。
日本の人々は意識していませんが仏教の影響を深く受けています。日本は正真正銘の仏教国です。
しかしその一方で、明治維新以来、日本は西洋に学び、富国強兵をしてきました。その結果、ヨーロッパの文化も日本に入って来ました。江戸時代は禁教だったキリスト教も入って来ました。
しかしキリスト教は仏教とあまりにも違います。仏教と非常に違うので理解出来ません。当然、信じることも不可能です。
こんなに欧米と交流のある現在でも日本のキリスト教徒は人口の3%以上になりません。増える傾向もありません。

キリスト教が理解出来ないのは、それが愛の宗教だからです。愛という言葉は明治維新以前には現在のように広く使われている言葉では無かったのです。
神が人間を愛しています。イエス様も人々を愛しています。人間は神やイエス様を愛します。
キリスト教では神やイエスや人間の絆は愛で結ばれているのです。このようなことを信じられますか?
このような考えは仏教にはまったく存在しません。仏教国の日本人に理解出来ないのは当然ではないでしょうか。

ここで愛という言葉の意味を考えてみましょう。愛とは相手を大切にする心です。相手の苦しみや悲しみに心を寄せ、その苦しみを担ってあげることです。相手が好ましいと思う心です。
キリスト教では神が人間を愛するのでイエス・キリストという人間を地上に送り、人々を救けようとしました。キリストはいろいろな教えを説いた後で、人間の罪を担って十字架についたのです。
死んで3日目にふたたび生き返り、弟子たちに会ったのです。そして天上に上がり全知全能の神の右の座についたのです。
そして天上から神とイエスは地上の人々を愛し続けているのです。

私はカトリック信者です。毎週、日曜日には教会のミサに行きます。
それでは私は神やイエス様が愛して下さっているという実感を何時も持っているのでしょうか?
答は、否!です。
しかしイエス様に愛されているという感じは時々持てます。例えばミサの中で、神父さんが「イエスの体」と言いながらパン片を私の手にくれる時に感じます。
その上、神父さんが私を信じ、大切にしてくれると、私は「イエス様が私を愛している」と感じます。
愛してくれれば、当然自分もイエス様を愛し、その教えに心を寄せます。

そして私の場合は洗礼を受けたカトリック立川教会の主任司祭をしていた塚本金明神父さまを忘れられません。そしてカトリック小金井教会の初代主任司祭だったムニ神父さまの愛を忘れられません。そしてその後、主任司祭になった山本量太郎神父さまの愛を忘れません。
現在の主任司祭の神父さまからも愛を感じます。
こうしてカトリックでは神父さんを通うしてイエス様の愛を実感するのです。神の愛を感じるのです。
愛されていると感じれば人間は相手を愛します。
これがキリスト教が「愛の宗教」と言われる理由なのです。

しかし元来、人間は疑い深い性格を持っています。イエス様や神の愛など信じられないのです。
しかし1日、24時間のうち数秒でもイエス様や神の愛を感じられば、それが決定的に重要になります。信者になれるのです。

まあ一般的に言えばイエス様や神の愛は荒唐無稽な話です。
多くの日本人がそれを信じないのも自然なことではないでしょうか?
宗教は無理に信じてはいけません。他人に無理強いしてはいけません。自然体で考え、信じられる人が信じれば良いことです。
私は絶対にキリスト教を他人へお薦めしません。
そして私は信じて初めて「キリスト教は愛の宗教だ」という意味が理解出来たような気がします。
世の中には信じないと理解出来ないものもあるのですね。

今日の挿し絵代わりの写真は神代植物公園の秋のバラの花です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)