オランダは大航海時代以来およそ300年にわたって「東インド」と名づけた島々を植民地支配してきました。インドネシアはオランダの植民地だったのです。
しかし1941年12月8日に大東亜戦争(太平洋戦争)が始まりました。そして日本軍は1942年2月末から3月にかけて、インドネシアのスマトラ島とジャワ島を占領します。
同様にミャンマー、マレーシア、シンガポールからイギリス軍を、ベトナムからフランス軍を、そしてフィリピンからはアメリカ軍を駆逐してアジア諸国を欧米の植民地から解放したのです。
日本は大東亞共栄圏を作ろうとしたのです。
インドネシアを占領した日本軍はオランダ植民地政府により軟禁されていたスカルノやハッタなどの民族主義運動の活動家を解放し、その後スカルノやハッタと協力体制を取ります。そして従来の公用語の英語やオランダ語ではなく「インドネシア語」を公用語にしたのです。
さらに1943年10月には日本軍の協力を得てインドネシア人指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織したのです。
しかしインドネシアの日本軍によう統治は1945年8月15日の終戦によって終わりました。
戦に敗れた日本軍は連合軍の命令により、東南アジアの各占領地域を現状維持のまま、上陸する連合軍部隊に引き渡すことになったのです。しかしながらインドネシアでは独立派の軍隊への武器引渡しが実行されたのです。
その結果、日本軍からは3万丁以上の三八式歩兵銃、数百の野砲・トラック、食料、弾薬、軍刀など多くの資材が独立派の手に渡ったのです。
そればかりではありませんでした。数千人の日本兵がスカルノ達が率いるインドネシア独立軍に身を投じたのです。
その数は通常3千人といわれインドネシア独立軍とともにオランダ軍との戦ったのです。そして千人の日本兵が戦死、千人がインドネシア独立後に日本へ帰国、千人がインドネシアに帰化したといわれています。
ある者はインドネシア人と結婚して家庭を築き、またある者はイスラームに改宗するなどして現地社会に溶け込み、インドネシア独立戦争の終了後も日本に帰還する者は少なかったと言います。
オランダとの戦争は1949年まで続きますが、12月のオランダ-インドネシア円卓会議(英語版)(ハーグ円卓会議)で、オランダから無条件で独立承認を得ることになったのです。
インドネシアの独立宣言は1945年8月17日にスカルノによってなされました。現在でも8月17日を独立記念日としており、ジャカルタを中心に街中に国旗を掲揚して様々なイベントを開催し、祝賀ムードに包まれることが恒例となっています。
こうのように日本は終始一貫してインドネシアの独立に貢献したのです。独立後、スカルノは初代大統領になりインドネシアは親日国になったのです。
スカルノ初代大統領はオランダからの独立後、憲法(1950年憲法)を制定し、議会制民主主義の導入しました。そし1955年に初の議会総選挙を実施しました。
インドネシアは現在でも信頼出来る親日国です。現在、数多くの日本企業がインドネシアにあります。私の友人もそんな企業の社長をしていました。彼はインドネシアの人は優しく、しかもよく働くと言ってました。
今日はインドネシアの独立戦争に協力してオランダと戦った数千人の日本兵のことなどをご紹介致しました。
今日の挿絵代わりの写真はインドネシアの風景写真です。写真の出典は、「インドネシアの風景写真」を検索して出ていた写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)