後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「花々が咲いて足早に季節がめぐる」

2021年05月04日 | 日記・エッセイ・コラム
時の流れは早いものですね。つい先ほど新年を迎えたと思ったら、もう5月5日、端午の節句です。
そんな季節の移り代わりを振り返るために折々の花の写真をお送りいたします。全て自分と家内が撮った写真です。

1番目の写真は府中市、郷土の森博物館公園のロウバイの花です。何と言ってもロウバイの花から新しい年が始まります。そしてクロッカスや水仙も咲きます。この写真を撮った時は野点に参加しました。

2番目の写真は近所の園芸農家の畑に毎年豪華に咲くモクレンです。今年も見事でした。モクレンの花は京王フローラル・ガーデンも有名です。毎年、3回くらい行きます。

3番目の写真は小金井公園の梅林で撮った写真です。自宅の庭にも紅白の梅が咲きますがやはり梅林の梅は100本以上咲いているので毎年数回行きます。

4番目の写真は桃の花です。山梨県韮崎市の桃畑で撮りました。背景に雪を頂いた鳳凰三山が見え美しい桃畑です。

5番目の写真は、小金井公園のサクラの写真です。国立市のサクラ大通りや国際キリスト教大学の桜並木も写真を撮りに行きます。小金井市の貫井弁天の近くの野川沿いの桜並木も楚々として風情があります。また奥多摩のヤマザクラの写真を撮りに行ったこともありました。

6番目の写真は梅雨入りの頃咲く庭のアジサイです。この頃になるとあちこちのアジサイ園を訪ねます。

7番目の写真は庭に毎年咲くタチアオイです。

8番目の写真は潮来のアヤメ園から10年ほど前に買って来たアヤメです。毎年5月の末に華やかに咲きます。見るたびに一面に咲いている潮来のアヤメ園の風景を思い出し楽しい気分になります。

こうして自分達で撮った写真を見ていると、写真を撮っていた時の楽しさがまたよみがえって来ます。
皆様にはどんな花々の思い出がございますでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の散歩道の風景写真です」

2021年05月04日 | 日記
今日は朝食後に、「ベトナム戦争にまつわる4つのエピソード」という記事を書いて投稿しました。その後、何時もの散歩道を写真を撮りながら回りました。帰宅後、チャーハン,棒々鶏と中華スープの昼食を摂りました。午後からは気晴らしに何処かへドライブに行く予定です。晴天のすがすがしい日です。今日の散歩道の風景写真をお送りいたします。

1番目の写真は裏の稲穂神社の北にある遊歩道です。江戸時代の小金井用水路に沿って作られた遊歩道です。散歩はここから玉川上水沿いの遊歩道を回って帰って来ます。

2番目の写真は小金井橋から伸びている玉川上水沿いの遊歩道です。すぐ右に五日市街道があり車の排気でかならずしも良い散歩道ではありません。

3番目の写真は玉川上水沿いの遊歩道を歩いて行くと右手に見える海岸禅寺です。春には梅が綺麗に咲くお寺です。

4番目の写真は玉川上水から南に離れた公務員住宅の真ん中の道です。

5番目の写真は公務員住宅の真ん中の道と直角に交差している仙川の風景写真です。仙川には雨が降った時だけ水が流れます。
この仙川を越すと私の家は近のです。
私の散歩道には緑の樹々が多い経路を選んでいます。皆様の散歩道は如何でしょうか?

「ベトナム戦争にまつわる4つのエピソード」

2021年05月04日 | 日記・エッセイ・コラム
今日はベトナム戦争にまつわるエピソードを4つ書きたいと思います。この4つのエピソードは敵味方双方から直接聞いた話です。みなベトナムやアメリカや北京で直接聞いたことです。
この4つのエピソードは朝日新聞などの大新聞のベトナム戦争はアメリカ帝国主義のせいで、社会主義国家は平和主義であるという単純すぎる見方に疑問を投げかけるものです。

(1)爆弾に書かれた日本語ーアジア人の血を流したくない日本人より。
1986年、ベトナムがドイモイ開放政策を導入した後、同国は日本の多額の政府開発援助(ODA)で工場特区開発や高速道路建設を進めした。
1993年、ハノイ市郊外の高速道路予定地を訪れた際、ベトナム戦争時ハノイ防空隊長をしていたチュウ氏が案内してくれました。丘陵の頂に立ち、「ここから東の方向、10キロ先にハノイの中心街が見えますね。この間の畑に四車線の高速道路を建設します。測量が終わったところです」と説明してくれた。
「アメリカの戦闘機はハノイを低空で攻撃した後、真っ直ぐこの高速度道路予定地を飛んできました。ちょうどこの丘陵の上で上昇反転して、またハノイ市街攻撃に戻ります。その時速度が落ちますから、そこを機関砲で打ち上げるとよく当たったものです」。説明するチュウ氏の顔が生き生きする。機関砲を打つ仕草もする。
ベトナム戦争当時は日本でも反戦運動が盛んで、「ベ平連」などが米軍の脱走兵の手引きをし中立国へ送り込んでいた。その話をすると、チュウ氏は「ベ平連のことは知りませんが、そういう団体が世界の各国にあったという噂は聞いていました。しかし、ベトナム人にとって一番感動したことはアメリカ空軍機が投下した時限爆弾の胴体の文字でした。はじめはどこの国の文字か分かりませんでしたが、そのうち日本語と分かりました」
チュウ氏の目が遠いところを見ている。「日本語でこうありました。『これは不発弾ではない!!時限爆弾である!!専門処理兵以外近づかない事!!!――アジア人の血を流したくない日本人より』」。
さらに説明を続ける。「この文字は米空軍が日本の軍事飛行場で時限爆弾を搭載する直前に日本人作業員が白のマジックペンで書き込んだと考えられる。時限爆弾の全てに書いてあるのではない。ただ、筆跡から五人以上の違う人間が書いていた」
この事実は新聞には出なかったが、口コミでベトナム全土へ広まった。新聞に出せば、日本人作業員が米空軍に逮捕・処罰されるからである。チュウ氏はさらに「フランス軍相手の独立戦争のとき、多くの日本兵がベトナム側に参加してくれた。その精神が若い日本人へも繋がっているのに感動した」

(2)韓国兵がベトナムで勇敢に戦ったことにアメリカ人は感動している。

1978年にロサンゼルスで乗ったタクシーの運転手は黒人でベトナム帰りであった。よく喋る男で前線の戦いぶりを振り向いて熱心に話す。
「おれの小隊はいつも韓国兵の小隊と一緒に最前線でベトコンとやりあったよ。ところが韓国兵が素晴らしいのだ。勇気があるだけじゃなく、攻撃してくるベトコンの弱い一角を必ず突く。それでおれの小隊が何回も助けられたよ。戦争慣れしているのだ。夜襲してくるベトコンを必ず追い返す。こちらの小隊長は腰抜けの少尉で、韓国の小隊長の言うことを聞いて動いていたよ。指揮権はアメリカにあるはずだが、前線に出たらそんなこと関係なくなるのさ。負傷兵を背負って帰ってきた韓国兵を見れば、だれでも韓国兵の言うことに従うよ。前線とはそういうものだ」
タクシーを降りる時、「あなたは韓国人ですね。今日のタクシー代金はいりません」と運転手が言う。残念ながら日本人だったので代金を払った。韓国人を褒めてくれたのでチップを多めにして。

(3)ベトナムの難民を一般のアメリカ人が家庭に引き取り、就職先が決まるまで世話をした。
これはオハイオ州立大学のラップ教授の自宅でビールを飲みながら直接聞いた話です。
「ベトナム戦争が正しい戦争だったか否かを君とは議論しない。ただ自分がしたことだけ言うよ」、「ベトナム戦争へ何か関係したのですか?」、「戦争終了後しばらくして多数のボートピープルが出た。アメリカはそのすべてを移民として受け入れた。自分は7人をこの家に泊めてあげた。彼等は臨時の仕事場を見つけ、数ヵ月後には皆出て行った。アメリカの一般人はみなそうしたよ」、「そんな話は日本の新聞には出ていなかったですよ」、「日本は何もしないで経済的恩恵のみを取った」、「そんな一方的な判断は困りますね。出撃する米軍は皆日本の基地からでした」、「ボートピープルが多数出たとき、アメリカやドイツの民間団体が客船をチャーターしてベトナム沖に待機させ、波間に漂う小船の難民を拾い上げた。日本だけ客船を出さなかった」
アメリカやドイツは人道的だが日本人は人道的でないと非難したいらしい。礼儀上そう露骨には言わなかったが。

(4)中国人のベトナム懲罰戦争の奇怪さ。
1985年、北京。知り合いの周教授と五星ビールを飲みながら、こんな話をしたことがある。
「ベトナム戦争が終わった後に、中国軍が北ベトナムを攻撃して北部の三都市を占領した理由を知っていますか?」、「その軍事作戦のことは日本の新聞にも出ていましたが、その理由は全く出ていません」、「十年にわたるベトナム戦争の間、揚子江より南の諸省は食うものも食わずに、食料をホーチーミンルートでサイゴン付近まで送り続けたのです」
「ところが戦争に勝った途端、ベトナム政府は中国の反対を無視してカンボジアへ侵攻、またラオスを攻撃した。カンボジアとラオスを植民地にしようとしたのです。思い上がりもはなはだしいので、懲罰のため北ベトナムを攻撃、三都市を占領したのだ」、「懲罰とは穏やかでないですね?」、「もう一つの理由は、中国の反対にもかかわらずソ連海軍へダナンなどの港湾の使用を許可したからです」
周教授の説明はいつもの明快さがなくて歯切れが悪い。
ベトナム戦争を支援した中国は戦勝後、ベトナムを思い通りにしようとした。しかし独立心の強いホーチーミンはソ連の支援を使い中国から距離を置こうとした。中ソ関係は1959年以来悪化していた。中国はカンボジアを支援していた。ベトナム戦争には厳しい中ソ関係の影が見え隠れするのです。

以上の脈略の無い4つのエピソードの真偽の程は確かめようもありません。しかし全てベトナム人、アメリカ人、中国人から現地で個人的に聞いた事実です。
新聞の一つの役目はこのように戦争に関係する事柄の真偽の程を客観的に調査し独自のニュースとして報告することと思います。単純にアメリカ政府や日本政府の一方的な発表をそのまま報道するのは間違っています。
またアメリカ帝国主義が悪の根源で社会主義国家は平和勢力であるという教条主義的な視点でしか記事を書くのも間違っています。
戦争の善悪を議論するのは空しいことです。しかし戦争に関連して敵味方双方の人間の本音を調査し記事にすることは人々の心を豊かにする大切なことと信じています。

今日の挿絵代わりの写真の説明をいたします。

1番目の写真はベトナム戦争の光景です。(左上より時計回りで、テト攻勢で防御にあたる海兵隊員と南ベトナム軍(1968年)、第14歩兵連隊第2大隊の兵士を運ぶヘリコプタ―UH-1D(1966年)、ベトコンが潜伏したと見做され焼却される村落を焼く、べトナムの犠牲者です。)写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E6%88%A6%E4%BA%89 です。

2番目の写真は越南阮朝の都と宮廷の門です。
ベトナム中部の都市フエには、19世紀に越南阮朝の都と宮廷が置かていました。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に「フエの建造物群」として登録されています。

3番目の写真は世界遺産に登録されたハロン湾の風景です。

4番目の写真はベトナム北部の徳天瀑布です。
2,3,4番目の写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0 です。

ハロン湾の夕日の風景を眺めていると戦争のむなしさがしみじみと身に沁みます。平和こそが一番大切なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料====================================================
1940年9月22日に日本陸軍が仏領インドシナ(ベトナムなど)へ侵攻します。フランス軍と日本軍は衝突しましたが、日本軍は9月26日に北部インドシナを占領します。ベトナム人は日本軍を、過酷な植民地支配をしたフランス人を追い出した「救国の神兵」として歓迎したのです。
しかし1945年に日本は敗戦しました。1945年の後にベトナム地域には大きな戦争が2度起きます。1946年から1954年のベトナムとフランスの間のベトナム独立戦争と1964年から1973年の主にアメリカ軍と戦ったベトナム戦争です。
1949年、フランスはサイゴンにバオダイを復位させ、ベトナム国として独立を認めます。しかし1954年5月のディエンビエンフーの戦いで敗北したフランスは7月にジュネーヴ協定を結んでベトナムから撤退し、独立戦争は終結しました。
この1954年に、北緯17度線で国土がベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム国(南ベトナム)に分断されたのです。南ベトナムではアメリカ合衆国を後ろ盾にゴ・ディン・ジェムが大統領に就任、国名をベトナム共和国にします。ベトナムは南北に分断されたのです。

ベトナム戦争の始まり
1962年2月、アメリカ合衆国はサイゴンに援助軍司令部を作り、軍事介入によるベトナム戦争が始まる原因になったのです。1964年8月2日と4日のトンキン湾事件以降、米軍は戦争に直接介入するようになります。
1965年2月、アメリカが北ベトナムの爆撃(北爆)を開始し、本格的な戦争に突入しました。これがベトナム戦争の始まりです。
1968年1月、南ベトナム全土で解放戦線・北ベトナムのテト攻勢により、アメリカは大打撃を受けます。その結果、5月には、パリ和平会談を開始します。たが会議は何度も中断してしまうのです。同年10月、ジョンソン政権が北爆を中止して会議が再開されます。1969年1月20日、ニクソン政権が誕生し、南北ベトナム、解放戦線、アメリカの4者によるパリ和平会談が再び始まります。1973年1月、南北ベトナム政府および臨時革命政府ならびにアメリカの4者が、パリ和平協定に調印すます。
ベトナム戦争の終結と南北ベトナムの統一
1975年4月30日、北ベトナムと解放戦線が春の大攻勢を行うと、南ベトナムのズオン・バン・ミン大統領は全面降伏します。そしてサイゴンは陥落し、南ベトナム国は崩壊したのです。南ベトナムを北ベトナムが実権を掌握し、ベトナム戦争は終結しました。ベトナム戦争で南北ベトナムは統一され共産党独裁の国家になったのです。
この戦争で58000人のアメリカ兵が戦死し数百万人のベトナム人が犠牲になったのです。
当時、日本では「ベ平連」などの反戦運動が盛んで、朝日新聞などの大新聞の戦争の取り上げ方はアメリカ帝国主義のせいで戦争が起き、社会主義国家は平和主義であるという恐ろしく単純すぎる記事を盛んに掲載していました。